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「竹」(ホームへ) 随筆「石と竹」



「一年ひと昔」
2010-12-30



あと少しで2010年が終わろうとしている。

今年は元日のショッピングモールでの初春演奏からスタートした。その数日後、松の内に訪れた(伊勢)神宮では、当時の鳩山首相に遭遇(ご本人が“宇宙人”を標榜されているので“遭遇”である)した。同じく1月のうちには、第1回のコンサートから関わらせていただいている邦楽普及団体「えん」の20周年記念演奏会が賑々しくとりおこなわれた。また、3月にはNHKホールに於いて、NHK邦楽技能者育成会のファイナルとなる大演奏会と、メモリアルな出来事が続いた。そして、忘れることができない4月21日、恩師横山勝也先生が旅立たれ、大きな悲しみの中、お見送りをさせていただいた。

いずれの出来事もまだ一年も経っていないことなのであるが、はるか昔のことのように感ずる。“十年ひと昔”はとうに“五年ひと昔”に感じるようになっていたが、今年などは“一年ひと昔”である。
そのくせ、今月のレッスンなどでは“今年もあとわずかになりましたねぇ、一年なんて早いものですねぇ”などと言っている。時間の進み方が早いのか遅いのかさっぱりわからない。これは49歳という自分の年齢と関係しているものなのであろうか。

私の40代最後の年は、厳しくもあったがまた、とても面白い一年であった。
手にしてから何と30年も続いてしまっている尺八は、形になるにはまだまだ時間がかかるということが、身に沁みてわかった。その反面、立ち上げてから来年で20年になる、関西の尺八家6名による本曲会はいよいよ充実の時期を迎えようとしている。
私自身の成果を経過報告するリサイタルにあっては、2001年の第5回より何とか無事に10年連続で開催することが出来た。そして長年の悲願であった三曲の同人会も「三ツ星会」という名称で今年産声をあげた。

多少の疲労はあるものの、ほぼ健康な身体で50代を迎えられるということは感謝以外の何ものでもない。


今年読んだある経営者の手記に次の一文があった。
『十年偉大なり、二十年畏(おそ)るべし、三十年にして歴史なる』

ということは、私の尺八の歴史は始まったばかりである。
私にとってどのような出来事が待ち受けているか全く予測できない50代であるが、自分を叱咤し、自分に期待して一歩ずつ前進したい。

今年の締めくくりに横山先生の至言を記し、新たなスタートとしたい(なおこれは、横山先生のお言葉を正しく憶えておられた、同門の尺八家でピアニストの岡田裕子さんのブログからの転載である。岡田さんに感謝)。

「工夫と努力、それしか無いよ。工夫だけでもダメ、努力だけでもダメ。両方必要。
そのうちいつしか、あぁ、こんなところまで来れたか、というふうになるんだよ。」


今年も一年ありがとうございました。




「人心を共にし竹心を究めんと欲す」
2010-12-16

秋麗好日霜月二日、私の第十四回尺八リサイタルが終了したのでここに報告させていただくことにする(ってアンタもう12月やがな)。

今回はメインプログラムとして〈弦楽四重奏と尺八〉の2曲を選曲した。この珍しい編成の曲に興味を持っていいただいた方が多かったせいもあったのか、早くから予約状況は上々で、“これはいけるかもしれない”と手ごたえを感じていた。

いよいよ当日、開場時刻前にご来場者が列をなすという、私にとってはあまり経験がないことを受付担当者から報告を受け、“もったいない、もったいない”と心の中でつぶやいた。この調子でたくさんお越しいただけるといいなぁ、と考えていたら、開演時刻の19時には見た目にはほぼ満席状態になり、おすもうさんの会場みたいに天井から四方に〔満員御礼〕と垂れ幕(?)を吊るしたい気分であった。

ところで、私のリサイタルには毎回副題をつけることにしているのであるが、今回は横山勝也先生への追悼リサイタルということで「竹心」とさせていただいた。これは横山先生の主宰された「竹心会」から大胆不敵にも拝借したものである(同門の皆さん勝手をお許しください)。

プログラムは全5曲。
第1曲目に先生が辞世の曲として言い遺された古典本曲『山谷(さんや)』を二尺七寸管で献曲。その次に、尺八音楽の中でも代表的な一曲、琴古流尺八本曲『鹿の遠音』を盟友の米村鈴笙君と吹き合わせた。そして前半のラストは趣向を変えて、近年惚れ込んだ西村朗先生の『耿−長管尺八のための−』を吹かせていただいた。
わずか3曲であるが、その中には尺八の厳しさ、あたたかさ、精神性、優しさ、可能性(希望)など、ありとあらゆるものが含まれていた。どの曲もとても難しかった。しかし、またとても楽しかった。あらためて尺八とは凄い楽器だと実感させられた。

休憩の後は一転して、尺八と弦楽四重奏との「対峙と融合の世界」をお聴きいただいた。
後半1曲目には、東京藝術大学と国立パリ音楽院(コンセルヴァトワール!)で作曲を勉強された日置あゆみさんの『宵闇の丹花』。10年前の初演以来初めての再演ということで、心配された(?)日置さんが長野県からやって来てくださった。弦楽カルテットの作り上げる西洋の世界に日本のサムライが斬り込んで行くような印象の作品で、全く違う映像がだんだんと合わさっていって遂には一つの画になる、という流れが面白かった。あまり長くない曲で、演奏後にお辞儀をしたら“えっ、もう終わったん”という空気が会場に漂ったところも少々痛快だった。
終曲のマーティン・リーガン作曲『Voyage』は2年前にオーストラリア国際尺八フェスティバルで初演を聴き、“いつかはやってみたい”とあたためていた曲である。こちらの曲は『宵闇の丹花』とは対照的に、5人の奏者が一つの世界を造り上げていくという作品で、「いかに洋と和の楽器の垣根を取り払うか」「尺八の音を尺八としてではなく、いかに自分の歌として発することが出来るか」ということを自分なりのテーマとして取り組んだ。非常にわかりやすいメロディと構成で、カルテットの皆さんの好演にも支えられて華やかにラストを飾ることが出来た。それぞれにお忙しい中、早くより練習を重ねて下さったカルテットの皆様にはいくら感謝してもしきれない。
そして全プログラム終了後には、お客様から圧倒されるような賞讃の拍手を頂戴することが出来た。私から発信する「竹の心」が何とか皆様の心に届いたか、と安堵した。

終了後の受付部長からの報告には何と、席数200に対し188のチケット半券と、まさにパンパンの入場者数だったことが明らかになり、天国の横山先生へもようやっと顔向けが出来る結果となった。ご多忙の中、来聴下さいました皆様にはこの場を使い改めて御礼を申し上げる次第である。


閑話休題、私の職業を問われると「尺八演奏・教授」ということにしているが、演奏ともう一方の「教授」について私は“サービス業”だと思っている。もっとも、技術の切り売りではなく、心を通い合わせた上での技能や曲の伝授ということに他ならないのであるが。以前、首都圏において演奏・教授の両面において大活躍しているZ君にこのことを話したところずいぶん驚かれたことがある。Z君はとても真面目な人なので「正しい伝承」ということを第一義に考えられているのかもしれない。また、関東と関西の気風の違いもあるのかもしれない。大阪人の私は、“お金を頂戴している分、元は取っていただかないと”と考えてしまうのである。

このようなことを思いながら過ごしていたら、ある日の新聞に俳優の財津一郎さんへのインタビュー記事を見つけた。タイムリーな内容なので一部を紹介させていただくことにする(産経新聞夕刊「話の肖像画」より)。

元々は進駐軍あいてのジャズ歌手であった財津さんが演劇の分野にシフトしたが、なかなか食えずに大阪の吉本新喜劇に参加された頃のエピソード。
“そのころの話ですが、ホテルマンをしていた先輩におごってもらったとき、「お前、自分の仕事のことをどない思うてんねん」と聞かれたことがあるんです。「役者もサービス業ですから誠心誠意尽くすだけです」と答えたら「それだけか」と3回も4回も聞き直してくる。そして「サービス業には歓喜に満ちあふれた世界があるんやで。おれはコーヒー一杯運ぶのに“うれしくてしゃーない”という思いで出す。すると心あるお客さんの琴線に触れる。お前も頑張らんかい」と。今でも私の大切な金言です。”

まったくもって同感である。私も頑張りまっす!






「竹心〜11月2日〜」
2010-10-18 


私は地球人であるが、もったいない星人でもある。

気がつくと“もったいない、もったいない”と口にしている私である。しかし、一口に“もったいない”といってもいくつかの意味を持つようである。そこで辞書を引いてみた。


もったい−な・い【×勿体無い】

1有用なのにそのままにしておいたり、むだにしてしまったりするのが惜しい。「捨てるのは_・い」
2身に過ぎておそれ多い。かたじけない。「_・いおほめのお言葉」
3不都合である。ふとどきである。もってのほかである。

〈もったいないの語源・由来〉
もったいないは、和製漢語「勿体(もったい)」を「無し」で否定した語。
勿体の「重々しさ」「威厳さ」などの意味から、もったいないは「妥当でない」「不届きだ」といった意味で用いられていた。
転じて、「自分には不相応である」「ありがたい」「粗末に扱われて惜しい」など、もったいないの持つ意味は広がっていった。

とのことである。
近年では、ノーベル平和賞受賞者でいらっしゃるワンガリ・マータイという環境保護活動家が、「もったいない」の自然や物に対する敬意、愛などの意思が込められた概念に感銘を受け、そのまま『MOTTAINAI』を世界共通の言葉として広めようという運動を起こされているらしい。


この夏から秋にかけて、私はたくさんの「もったいない」体験をした。

1の「もったいない」から書くと、8月22日に門人会の夏の甲子園、「石の会・夏の演奏会2010」が開催され、熱演、好演の連続で、それはそれは充実した会になった。しかし、そのあとの打ち上げが「もったいな」かった。
打ち上げは会場近隣の居酒屋チェーン店で行なわれた。元来私はコース料理を好む方ではないが、30人からの宴会では、お店側の事情を考えるとそうもいかず、コース料理を予約していた。
まず出されたのは〈枝豆〉で、これは順当である。その次に出てきたのは、たくさんの草(野菜)の上にお情け程度のサーモンが載った〈サーモンのカルパッチョ〉、サーモンの量はさておきこれも悪くない。それからけっこう間が開き、ようやく登場したのは一人一本ずつの〈焼き鳥つくね〉である。演奏会を終え、そうとうに腹を減らしている我々(私?)は「もっとどっかんと腹の足しになるやつは来ないんかい」と少々機嫌が悪くなってきていた。そのあとにようやく〈豚キムチ鍋〉がサーブされ、「これこれ、こんなのを待っていたんですがな」と勢いよく箸を進めた。それをいただく頃には料理が出てくるのに時間がかかったこともあって、お酒もかなーり進み、おじさんが中心の我々はけっこうお腹も膨れてしまっていた。
驚いたのはそれからである。その鍋のあとに大量の〈揚げものの盛り合わせ〉が出され、「えっ、今からこれを食べるの」と思う間もなく〈そばめし〉が登場し、我々は完全にとどめを刺された(〈そばめし〉とは、短めにカットされた焼きそばと、ごはんを合わせてソースで味付けした、神戸発祥のガツンフードでやんす)。
もうその揚げものとそばめしにお箸を向ける勢いは我々には無く、お開きの時にはその二種類の料理がほぼ出された時の姿で残されていた。
私が憤慨したのは、そのコース内容でも、出される順番が違うともっと残さず綺麗に食べられた、ということにある。作る側もほとんど手を付けられずに戻ってきたお皿を見て何も感じないのであろうか。私は酔っぱらいながらも“大量の残飯はどこへ行くのだろうか、豚さんのえさにでもなればまだ救われるが、あぁ、もったいない、もったいない”と一人ごちた。もうこのチェーン店には行かないつもりである。

くやしいことにそれから間もなく、もう一回、1の「もったいない」思いをすることとなった。
9月某日、大阪市内のピカピカのホテルに於いて、石の会の優秀な若手K君の結婚式が賑々しく執り行われた。出席者が100名を超え、新郎、新婦の交友関係の広さ、深さがうかがえるそれはそれは立派で盛大な挙式であった。しかし、そのあとの披露宴が「もったいな」かった。
こちらの料理は和洋ミックスのコースになっていて、料理の内容からサーブの順序、量、タイミングなどは流石に計算しつくされ、ご機嫌のうちに完食させていただいた。
憤慨したのはお酒である。その日の私は披露宴終了後にリハーサルが入っていたことからノンアルコールであった。すべての席には食事用のフォーク・ナイフ・スプーンなどと共にドリンク用のグラスがたくさん置かれていた。私は給仕をしてくださるかたに「今日私はアルコールをいただきませんのでずっとウーロン茶でお願いします」とお伝えし、給仕のかたも「わかりました」と返答された。
それが、一旦披露宴が始まると、私のシャンパングラスにはシャンパンが注がれ、ビアグラスにはビールが並々と注がれ、二つあるワイングラスには赤と白のワインが注がれた。給仕のかたが注ぎに来られる度に「私はけっこうです」と言い続けているにもかかわらず、である。果ては樽酒の鏡開きが行なわれると、厨房のほうから枡に入った日本酒が運ばれ、私の前にドンと置かれた。
“いややわもう、こんなにお酒を並べられると飲みたくなりますがな・・・”という話ではない!
その客が飲まないのを承知で酒を注ぎまくるとは一体どういうことだ。もちろんこの処分される運命の酒代はホテルのサービスなどではなく、新郎、新婦あるいはご両家のみなさんに請求が行くことは明らかである。何という無駄、何という「もったいない」行為であろうか。披露宴のスピーチや出し物などは感動的な内容であったにもかかわらず、なんともやりきれない気持ちで“もったいない、ぷん、ぷん”と会場を後にした。今後個人的にはこのホテルは利用しないつもりであるが、宴席に呼ばれるとまた行っちゃうかもしれない。


ようやく2の「“ありがた”もったいない」報告を書くことができる。

8月29日には岡山県矢掛町に於いて、地元の箏曲家でいらっしゃる中塚千栄寿師の演奏会に出演させていただいた。昨年のこの項にも書いたことがあるが、中塚師は80歳を超えてもなをお元気、というよりもエネルギッシュで“やりたいことはまだまだいっぱいあるのよ”とおっしゃられる凄いかたである(当日のプログラムによると昭和2年のお生まれらしい!)。出演者がまたいっぱいで、中塚師とご門下の箏曲千鳥会の皆様方、日頃おつきあいのある地元の尺八諸師、および指揮、テノール、混成合唱団、打物、胡弓のかたがたに加え、ゲストとして、矢掛町に縁のある尺八奏者・水川寿也さんとそのパートナー大畠菜穂子さん、そのお母様大畠博子師、国際尺八研修館の古屋、眞玉、柿堺3師に不肖私、と、数えていないが総勢100名くらいはおられ、楽屋から舞台裏から人であふれかえっていた。内容はというと、開幕の「千鳥の曲」から童曲、現代曲、宮城曲、水川さんのコーナー、尺八本曲、と多彩なプログラムが続き、圧巻の「日蓮(宮城道雄作曲)」で見事に締めくくられた。その中で私は「春の海」「日蓮(いずれも宮城道雄)」ほかに出演させていただいた。「春の海」は、日舞のお師匠さんの立方(舞踊)のバックで演奏するという珍しい舞台であった。「日蓮」はその規模の大きさから近年では滅多に演奏されることがない曲で、演奏の機会がいただけただけでもありがたいことであった。客席も満員のお客様で、私は“もったいない、もったいない”と感謝の念を胸に吹き終えた。

9月12日には兵庫県明石市に於いて、茨木春重師の「師籍50周年(!)記念演奏会」に出演の機会をいただいた。茨木師には箏曲家として活躍されているお嬢様がおられ、NHKのオーディションをそのお嬢様と私が同じ日に合格したというよしみもあってか、日頃から気にかけていただいている、私にとってはありがたーいおっしょさんである。この日の舞台では春重会の皆さんと「樹冠(長澤勝俊作曲)」そして、春重師の姉妹弟子であられる新絃社幹部の皆様方と古曲「石橋(“しゃっきょう”と読みます)」を共演させていただいた。どちらの曲も練習時よりも一段ピンと張りつめた空気が漂う、スリリングで充実した舞台になった。客席も記念演奏会に相応しく華やかな雰囲気が漂い大盛会であった。打ち上げの宴席もまた楽しく、私は“あぁ、おもしろかった、もったいない、もったいない”とつぶやきながら帰路についた。

今回私がもったいない機会を頂戴したおっしょはんは、お二方ともに半世紀を越えて現役を通されていらっしゃる。それにも増して凄いのは、まわりの人々にエネルギーを与え続けている存在だということである。自分の気と周りの人々の気をうまく循環させてエネルギーを増幅させていらっしゃる、と言ってもいいだろうか。おそるべし、というより他はない。私もたくさんの元気と勇気をいただいた。この場を使いあらためて両師に感謝したい。


“リサイタルをやるなら満席にしなきゃダメだよ”とは横山師のお言葉である。“人が入らないということは自分を悪宣伝していることに他ならないんだよ。何としてでも満席になるよう努力しなさい”先生は口を酸っぱくしてこおっしゃられた。
不肖私は悪宣伝を積み重ねてここまで来てしまった。気がつくと今度のリサイタルまであと半月、今回のプログラムは私の中では横山先生への追悼プログラムである。残された日々で出来うる限りの準備をして臨む覚悟である。


11月2日(火)19時、新大阪ムラマツリサイタルホール。ご都合のつくご覧のあなた様にはぜひともご来場くださいますようお願い申し上げます。チケットが売れ残っても、席が空いていても“もったいない”であります。


「寡黙なる小人〜それは私〜」
2010-9-5

今夏は記録的な猛暑だった、ではなく記録的な猛暑である(まだ進行形)。私のビール消費量も新記録を達成しそうな勢いである(こちらもまだ進行形)。

だいたい私は“夏痩せ”、ならぬ”夏太り”をするタイプである。暑いからといって食欲が衰えることは決してなく、逆にビールの心地よい刺激が食欲促進剤となり摂取カロリーが大幅にアップしてしてしまう。さらに8月は門人の演奏会や合宿講習会などのイベントがあり、そのような場所では“食べ放題、飲み放題”の食事が続くため、私の胴囲は広がる一方なのである。

中年を過ぎてから太るのは肉体的にもかなりヤバイことと認識はしており、一日のどこかで摂取カロリーを抑えて“太りっぱなし”にはならないように厳重注意している。それがまたなかなかむずかしい。


私はビールだけでなく水もまたよく飲む。この理由は第一に“ドロドロ血液”をおそれるが故である。心筋梗塞や脳梗塞などの虚血性疾患には“高血圧”“肥満”“高コレステロール”“ストレス”といった様々なリスクファクターがあるが、発症に際しては“ドロドロ血液”が引きがねになりやすい。私は相当の汗っかきでもあるので、“金欠”ならぬ“水欠”にならぬよう水分補給には気を配っている(“金欠”にはずいぶん耐性がついたように思う)。


“梗塞”が恐いことは恩師、横山勝也先生の闘病生活を間近で見させていただいてそれなりに実感しているつもりであった。

それがある時、行きつけの書店で偶然見つけた文庫本を読んで、その病との闘いが想像を絶することであることを知った。その文庫本のタイトルは『寡黙なる巨人』(多田富雄著、集英社文庫 2010年〜オリジナルは2007年に集英社より発刊)である。

著者である多田富雄という医学者は以前から知ってはいた。呼吸法を習っていた西野流の西野皓三先生のお話の中に多田先生の『免疫の意味論』の紹介があり、西野先生の薦める本ならば、と即座に購入して通読した。“「自己」と「非自己」を認識するのは『免疫』である”という(大まかな)内容は私には難解であった。しかし、よくわからないながらも“こういう本をたまに読んで頭に刺激を与えるのもいいことだ”との頼りない読後感を持ったことはよく憶えている。調べてみると『免疫の意味論』が出版されたのは1993年、ということは私がちょうど脱サラをして尺八専門家になった年である。当時は結構ヒマだった。そういった時代に読んだタイミングもあり、多田先生のお名前はずっと心の片隅に残っていたのかも知れない。

まさかそのような内容だとは思わずに手にした『寡黙なる巨人』は、脳梗塞に倒れた一人の人間の、壮絶極まりない“臨死体験”が微細に綴られた畏るべき一冊であった。予断を許さない状況のなかで、よくもこれだけの詳細なことが記憶され、文字に表されたと驚嘆を禁じ得なかった。

そして何よりもかによりも私が驚いたのは、多田先生と横山先生は一年違いくらいのほぼ同時期に発病され、同じような年月の闘病生活ののち2010年4月21日、同じ日に亡くなられていたことであった。何という符合であろうか。年齢も一つ違いである。“これは一体どういうことや”と私は頭を抱え込んでしまった。



横山先生は脳梗塞で倒れられたあと、予後不良のうちに人工透析治療、発ガンと苦難の連続であられた。それでもなお、尺八界の行く末を案じ、後進を育成すべく亡くなられる1ヶ月前までレッスンをされていた。


「いつもいつもいいコンディションで吹けるとは限りませんよ。常に最悪の事態を想定するんです。その中で出された音が本当の自分の音なんです」
「箱根へ向かう山の路上で吹いたこともありましたよ。気温がマイナスになるようなところで試し吹きも出来ずにいきなり本番でね、手がかじかんじゃってねえ」

こういうお話をお聞きしてからは大阪から上京してレッスンに臨む際に、まったく準備なしで先生の前で曲を吹くように心がけた。その気合いだけは通じたのか、私の貧弱な音にも関わらず、ある時「長い時間かけてここまで来て試し吹きも無しでその演奏は立派でしたよ」と言ってくださった。

自分の情けない音、拙い表現は自分自身が一番心得ているつもりである。先生の愛情に溢れたこの一言は一生の宝物であり、今も私の勇気の源となっている。

少々話は横道に逸れるが、横山先生は門人に対して“褒めて伸ばすタイプ”と”叱咤して伸ばすタイプ”を的確に見極めておられ、私は前者のほうだったように思う。後者のタイプには“君は人間が面白くないから演奏もつまんないんだよ”や“ここで何でもいいから歌を歌ってみなさい”“プロになるのはいい加減あきらめてアマチュアで楽しく吹きなさい”などと、厳しいコメントをされた門人もいた。“君は腹筋が足りないんじゃあないか、ここで腹筋をやってみなさい”と皆の面前で腹筋運動を強いられた先輩もいらした。もしも私がそのようなコメントを頂戴していたら今頃はグレていた(?)かもしれない。


横山先生はまた、“『清濁併せのむ』という言葉が好きでねえ”と口にされた。病魔と闘う厳しく苦しい日々もまた『濁』として併せのんでおられたのであろうか。先生の大きさはすべてを受け入れる力の大きさでもあり、私にとって先生は『饒舌なる巨人』であられた(多田先生は病後あらたに目覚めた力を『巨人』と表され、その意味合いとは異なる用い方であることをご容赦願います)。


さて、私事になるが今年の秋もリサイタルをやらせていただく。多くの方々の協力の上で、健康な身体だから出来ることである。ありがたいという他はない。今回は、『尺八今昔』と題した、尺八の素の音色を味わっていただく3曲と、『弦楽四重奏と尺八』という少々珍しい編成の2曲のニ部構成でお楽しみいただくプログラムである。特に後半の弦楽四重奏とのコラボレーションは私自身もどういった音になるかまだわかっておらず、とても楽しみにしている。

毎日ウダウダとビールのグラスを重ねているうちに、気がつくと本番までもう二ヶ月を切ってしまっていた。記録的な猛暑も少しづつ次の季節へ向けて動きつつある。ちょっぴりビールを控えてしっかり準備して臨む所存である。

皆様のご来場を心よりお待ち申し上げております(って、ビールを飲みながら書いているのは一体どういうことや!)。






「我以外、皆師匠」

2010-7-30

今月は“念願”、というよりも私にとっては“悲願”とでもいうべき、三曲(三絃・箏・尺八)の同人会を立ち上げることができた記念すべき月となった。


思い返せばこのプランを考えついたのはもう20年も前であった。古典尺八にとっては重要な位置を占める三曲合奏において、関西の若手がじっくりと研鑽する場を作りたい、と思うに至った私は、舞台などで優秀な若手奏者を見つけると、つてを頼りにスカウトに歩いた。

私の下手な尺八なぞ相手にしたくない、と思われたのか、何か下心があるのでは、と敬遠されたのか、そのスカウトは悉く不発に終わり何度も頓挫した。
ちなみに、同じ頃に考えついたもう一つのプランである、尺八本曲を切磋琢磨する同人会はうまく形にすることが出来(『秋の夜長の尺八本曲』『長閑けき春の尺八本曲』)、今年で19年目になった。

それでもなお夢を諦めきれずにいた私に、今年になってようやく三曲の神さんからお許しが出た。昨年の私の門人会にお招きした二人の奏者がそれぞれに気のよい人で、「この人達ならやっていけるのでは」と閃き、打診をしたところ、色よいお返事をいただくことが出来た。そして目出度く『三ツ星会』の結成と相成った。どんなことにもタイミングというものがあるが、決まる時は早いものである。

何度かミーティングを持ち、記念すべき第一回の会を7月に行なうこととした。一舞台で済ませるのが惜しい私は同内容で二箇所で行なう我が儘を聞いてもらった。

“古典をじっくりと勉強する会”ということで、第一回の演目には比較的地味な曲が並んだ。しかし、気の合うメンバーに恵まれ、和やかな中にも緊張感の漂うシャッキリとした演奏会となった。こういう会は厳しい批評はあまり聞こえてこないため、五割引くらいで受け止める必要はあると思うが、概ね好評で“早く次の回を聴きたい”というありがたいお声をたくさんいただくことができた。

個人的には古曲の2曲、「末の契」と「新娘道成寺」の暗記に想定外の時間がかかり、否応もなく記憶力の低下を思い知らされることとなった。しかしながら、地唄を、譜面から離れて曲の中に入り込む醍醐味を堪能することができ、本番は怖いながらも至福のひとときであった。

次回は来年5月頃に行なう予定である。本番終了後の反省会で合奏曲は決まった。轍を踏まないためにも今から暗記を始めなければならない。
悲願達成の『三ツ星会』は、曲の暗記という大変さはあるがとても面白く、私自身の次の10年への励みともなった。あらためて同人の細見由枝師、竹山順子師に感謝したい。


その『三ツ星会』が終わった翌日、自分への褒美も兼ねて、友人や知人が多数出演する『名曲鑑賞会』を鑑賞に行った。この会はいわば“旬”の邦楽人がずらりと並ぶところが売りの会で、今回も藤原道山さん、坂田梁山さん、田辺頌山さんや江戸信吾さん、坂田美子さん、大御所深海さとみさんなどなど、売れっ子演奏家が次々と登場した。プログラムの中で特に興味があったのは11月に自分のリサイタルで演奏することになっている『Voyage(マーティ・リーガン作曲)』と、親しくさせていただいている川崎絵都夫さん作曲の尺八協奏曲『風の歌を聴け』であった。

プログラムの中で会主の尾崎さんが「今回の出演者は前回にも増して世代交代が進んだ」と書かれていたとおり、私には“名前は見聞したことはあるが演奏は聴いたことがない”というプレイヤーがたくさん出演していて興味深く聴かせていただいた。

“邦楽の演奏を客席で聴くのは久しぶりだなぁ”と思いながら、若い人から中堅、ヴェテランの方々まで4時間40分にも及ぶたくさんの演奏を堪能した。その中でとりわけ印象に残ったのが、自作曲を演奏した箏の増田厚司さんとそのパートナー本間貴士さんであった。久しぶりに邦楽の演奏で胸を熱くさせられた。尺八の川崎敦久さんもちょっと近年聴いたことがない、骨のある尺八の音で素晴らしかった。


先日のNHK邦楽技能者育成会記念演奏会において横山勝也先生がビデオ出演されていて、その中で「若い奏者に伝えたいこと」という問いかけにこう答えられていた。“プロになるつもりならば当然哲学を持ってやっている訳です。俺の音楽はこういう哲学、痛切に伝えたい、これをあなたに伝えたいという必死な願いが起きて、届いてくるだろうと思います。”横山先生のまさに辞世のメッセージである。

私は3人の若手奏者の音に、演奏に、その哲学や必死な願いを感じた。この3人の演奏を聴くことができたことは幸運であり収穫であった(中堅から上の世代はそれぞれに皆達者なのであるが、上手さに寄っかかった演奏という印象が拭えず、少なからず不満が残った・・・ここだけのナイショ話)。


また、横山先生は“舞台は跳躍の場だ”ともおっしゃられた。“大きな舞台になるほど緊張でガタガタ震えることが続いていたんだけれど、マイナスに考えることがくやしくて、ある時から舞台は自分を跳躍させてくれる場だと考えるようにしたんだよ。それからは失敗も多かったけれど上手くいくようになったと思いますよ。”このお言葉も現在の私の大きな心の支えとなっている。

“楽に出した音はしょせん楽にしか聞こえない”
私はどんな舞台でも、自分の音を痛切に伝える、跳躍する、ということを忘れずに吹いて行きたい。私の挑戦は、さあ、これからだ。






「五十にして四十九年の非を知る」

2010-6-30 

中学校の同窓会があった。

卒業以来、実に35年目にして初めてのことである。15で中学校を卒業した人間が等しく50歳を迎える年である(アタリマエ)。

今なお年賀状を交わす程度の付き合いの竹馬の友が数人おり、その中の一人からある日突然「今度中学の同窓会をやるが出られないか」と電話がかかってきた。
ちょうどその日は自分が大阪で企画している本曲講習会の日であったが、訊けば同窓会は夜とのことで参加することにした。数日後、幹事の一人からまた電話があり「来れるならぜひ尺八を吹いてくれないか」とのこと。尺八を知ってもらう良い機会でもあるので二つ返事で引き受けた。

会場へは開始時刻の1分前に滑り込みで到着。そそくさと受付を済ませパーティルームに入ると程なく当時のリーダーが開会を宣言し、恩師の乾杯によって東大阪市立意岐部(“おきべ”と読みます。ちょっと読めないですわね)中学校・昭和50年度卒業生の同窓会が始まった。

気の利いたことに、幹事が当時の名簿に加え、卒業アルバムの写真と名前を載せた名札を作ってくれており、名札と本人とを見比べていると徐々に昔の記憶がよみがえってきた。当時の面影そのままの人もいるし、写真を見ても名前を見てもまったく思い出せない人もいた。
私がこの場に参加するにあたっての興味の一つに、世間の50歳の男性女性はどのような雰囲気なんだろう、ということがあった。
果たしてその同級生たち(もちろん自分を含め)は見事にオッサン、おばちゃんに変貌を遂げていた。私が子供時代を過ごした東大阪市は大阪でもダウンタウン(カワチですわ)ということもあり、街ですれちがったとしたら、同級生でもなければ避けてとおってしまうような恰好をした人が少なくなく、痛快ですらあった。


開会から一時間半ほどして演奏の時間がやってきた。
横山先生の会者定離の教えもあり、せっかくの機会なので尺八らしい曲を聴いてもらいたいと考えたが、いきなり本曲では皆が引いてしまうであろうし、つかみとして「川の流れのように」から入った。メロディの良さに助けられ、つかみはまあまあOK。尺八の紹介などをしながら次に「鶴の巣籠(奥州伝)」を吹いた。この曲はコロコロ、玉音など尺八の特殊奏法がふんだんに盛り込まれていて、外国でも受ける曲の一つである。おかげを持ちカワチの50歳のオッサンおばちゃんにもたいそう喜ばれた。そして最後に、感謝の気持ちを込めて「桔梗幻想曲(福田蘭童)」を吹かせていただいた。私が登場した初めのうちはそこここで思い出話に興じているグループがあり、それはそれで構わないと思いながら吹奏を続けていたが、途中からは歓談も止み、しんとなって聴いてくれた。ありがたいことであった。

そのあとに恩師のお言葉、幹事さんへの感謝のコーナーなどがあり、同窓会は無事にお開きとなった。二次会の会場へ移る際、当時親しかった女性徒が横にいたので「いやあ、久しぶりやねえ」と声を掛けたら「尺八良かったよ、がんばったんやねえ」と答えてくれた。この一言は殊のほか感慨深く私の胸に残った。
ラウンジでの二次会も思い出話で盛り上がった。その場では恩師の先生がたとお話をさせていただく時間を多く持つことができた。私の尺八演奏を最も喜んでくださったのが九州出身の体育の先生で「いやー卒業生がこんな風になるとは嬉しいねえ。良かった良かった」と少々酔っぱらいながら褒めてくださった。この先生の口癖は“やるときゃやれっ”で、「それを今もよく憶えています」とお伝えするとうれしそうな表情をされておられた。この楽しいひとときも“お話は尽きませんが時間には限りがあり”散会となった。これからこの同窓会は5年ごとに行なうとのこと。私はどれだけ出席できるかわからないが、会のますますの発展と皆のご多幸を祈念する次第である。



閑話休題、今回も横山勝也先生の思い出について書かせていただくことにする。
入門してからは先生が演奏で関西に来られた際に、志願して“かばん持ち”のようなことをさせていただいた。そのおかげで凄い経験を味わったことがしばしばあった。

現在でも行なわれている『名曲鑑賞会』というコンサートに先生が出演され、古典本曲『手向』を吹かれた時のこと。先生は体調が万全ではなく(と言っても、結構いつもあっちが痛い、こっちが調子悪い、と仰られていた・・・先生ごめんなさい)、舞台袖でも不安そうな表情をされていらした。
その表情を押し隠して舞台に着座された先生は、大きな呼吸のあと『手向』の第一音を吹かれた。長管の乙のロ(ろ)音が会場中に鳴り響いた。その一音は1000席のホールを包み込み、すべての聴衆の心を捉えた。まさに神がかったような一音であった。会場内で同じ空気を吸えた自分が何と幸せなことかと思った。
演奏を終えられ汗だくで舞台袖まで帰ってこられた先生はいつもの優しい表情に戻られていた。
楽屋に戻り「凄い音を聴かせていただきありがとうございました」と謝辞を述べると、「聴いてくださっている人の気が全部こちらに向く瞬間はあるんだよ。でもそれを続けるのは難しいね」と仰られた。

先生はレッスンの時、よく門人に乙のロの一音を吹かせた。「神様がうんと言ってくださる乙のロを出しなさい、徹底的に練りなさい」と口酸っぱく言われたが、あの日の乙ロはまさしく神様もお認めになる一音であったと思う。そしてその日を機に私は言い訳をすることを止めた。人様以上のことを出来ないかぎり、言い訳はみっともなさ以外の何物でもないことを知ったからである。

先生が『世界の横山』になられてから入門した私には信じられないことであるが、先生は「僕は若い頃鳴らすのが下手でねえ」としばしば仰られた。何年かかっても勝也銘尺八をうまく鳴らせない私に「尺八を鳴らすのは物理なんです。真っ直ぐな息を出して、それをどういう角度で尺八に当てればうまく鳴るかを工夫するんです」と言われた。


そういえば私は中学の頃から物理を含む理科が大の苦手であった。それがいつまでたっても尺八をうまく鳴らせない原因だったのかも知れない。ひょっとすると私は尺八を情緒で吹こうとしていたのか。師の言葉を思い出し、物理学的に尺八を鳴らすことにもう一度チャレンジしてみることにする。“もう中学生”ではなく“もう50歳”であるが、“やるときゃやる”のである。決して言い訳もいたしませんっ。





「逢うは別れの始め〜会者定離」
2010-5-31 

今月最終のレッスンにIさんがやって来られた。いつものように訥々と話されるが表情は少々硬い。
「今日で定年を迎えました。明日からは年金生活です。しばらくは北や南の友人のところを訪ねてみようと思ってます」
私はこういう時には「わかりました」とだけ答え、出来るだけその場の空気は変えないようにしている。

真面目に通って来られた人ほど休会の申告は辛いものである。こちらも身を斬られるような傷みを感じるが、本人のためにもそれは表に出してはいけない。
中には、ある時より勝手に来なくなる人や、メールで「レッスンを休みます」とだけ送ってくる人もおられるが、師弟関係とはそんなものではないと思う。

その後の会話でIさんは続けられた。「ちょうど5年経ちました。こんなに長く続けられた習い事は他にありませんでした」徐々に表情に柔らかさを取り戻されているのが見えて私も安堵する。「いえ、こちらこそ私の会にご協力いただき、また、若い門人にも応援いただきほんとうにありがとうございました」私も謝辞を述べるが、Iさんからいただいた様々なご厚志に対する感謝の意は一言二言で済まされるものではない。

“気配りの人”とはこういう人のことを指すのであろう。Iさんは決して目立つ振舞いをされる人ではないが、常に周りに気を遣われる人であった。稽古場で新しい人がいればいつも優しい言葉を掛けてくださった。若手のプロには自分の知り合いのお店を紹介してライブの機会を作ってくださった。私が稽古場を移転した時には防音工事を請け負ってくださり、私がいくら謝礼を渡そうとしても「こっちから言い出したことだから」と固辞された。
また、Iさんはその優しいお人柄とは似つかわしくないほどに強い尺八を吹かれ、それがまた魅力であった。ご自身の過去を話されることは多くなかったが、苦労もされたであろうことは想像に難くない。まさに“人に優しく、自分に厳しく”を体現されたような人で、尊敬に値するお方である。

この日のレッスンは、古典本曲のなかで一番初めにお伝えする『本調』をご一緒して終了した。一方的ながら心が通い合ったと思った。帰り際に「8月の門人会には都合がつけば出ます」と言い残され「それではまた」とお見送りした。


話は変わるが、私が横山先生の生の演奏を聴いたのは、尺八を始めた1979年、大学1回生の冬であった。京都学生三曲連盟(京学三)主催の招待演奏会で、共演が野坂惠子(現:操壽)師、坂井敏子師ほかという今から思えば豪華な顔ぶれであった。『組曲 出雲路』がプログラムにあったのは次のエピソードにより憶えている。曲が始まってしばらくすると演奏が止まり、何事かと思っていると横山先生が舞台から“楽屋と舞台の温度が違っていてピッチが合いませんので調弦をやり直します”と大きな声で話された。肝心の演奏の中身についてはあまり憶えておらず、こういうどうでもいいことだけは忘れないようになっているらしい。

当時の大学のクラブでは音源のソフトというとカセットテープが主流であった。そして部内にある『組曲 出雲路』などのテープも聴いたことがあったので、“あぁ、テープと同じ音や”ということは感じた。おそらく尺八本曲も吹かれたと思う。しかし、当時は興味があまりなかったのと、席がかなり後ろのほうでよく聴こえなかったためにまったく記憶には残っていない。

いま思えばなんとも勿体ない話であるが、まだ尺八を始めて数か月の人間にはそんなものであろう。

その頃はクラブの音源に入っているような演奏家はいわば雲の上の存在であり、自分が直接習うなどということは露ほども考えられなかった。1回生、2回生と先輩に教えていただいて、3回生になる時に後輩を指導するためにも師匠につかねばならないと思い、現代邦楽に魅かれていた私は大阪で教えられていた日本音楽集団団員(当時)田嶋直士先生の教室に入門した。これは入門後に知ったことであるが、この田嶋師匠もまた横山門下であり、そののち私が横山先生へ入門することに繋がるのだから、人の縁というものは面白いものである。

その次に横山先生にお会いすることになるのはそれから約10年後、国際尺八研修館の伊豆合宿講習会であった。サラリーマンをしながら田嶋師匠のところへも通い、アマチュアの若手ということで結構演奏の機会をいただいている時代で、さすがにその頃には横山先生の偉大さもよく知るところとなっていた。横山先生の本曲の録音をいろいろ聴くうちに、その“人の心をとらえて離さない”不思議な音の正体をどうしても知りたくなり、後輩の岡田道明君と共に伊豆へ向かった。

生で聴く横山先生の音はそれはそれは凄いものであった。竹がヒイヒイと悦楽の叫びをあげているようだった。尺八が“鳴って”かつ“響いて”いる音を初めて聴いた。「今まで自分が吹いたり、聴いたりしてきた尺八は何だったんだろう」と思えるくらい衝撃的だった。

その講習会へは田嶋師匠から薦められて購入した尺八を持参した。講習会も終盤に差し掛かった頃に横山先生とお話をさせていただく機会があり、「私の吹いている曲を君も吹いてくれるなら是非私の竹を吹いてもらいたいね!」と熱くおっしゃられた。岡田君を通じ、勝也銘尺八は(当時の相場からすると)安くない、ということを聞いていた私は「私も将来的には先生の尺八を吹いてみたく思います」とだけお答えして伊豆をあとにした。

それでその一件は完全に忘れていたのであるが、それから3ヶ月もたたない頃、既に直門となっていた岡田君から「横山先生から先輩の楽器を預かってきましたよ」と突然に勝也銘尺八を手渡され絶句した。聞けば「いやー、いいのが出来たんだよ。石川君も行く行くはプロになる人だろうしぜひこれを吹いてもらいたいね」と先生から言われてことづかってきたとのことであった。
大先生からそうまで言われては持つより他はなく、買わせていただくことに決めたのではあるが、肝心の代金を支払う蓄えがない。そこでその時乗っていた愛車ホンダプレリュードを手放して尺八代に充てることにした。運良く友人の同僚という人にほぼ尺八代くらいの価格で買ってもらうことが出来、私の吹料、平成元年作勝也銘尺八『プレリュード』が誕生した。以来21年間、何度かは浮気をしたこともあるが気がつくとまたそれを手にしている私の分身である。


「逢う(会う)は別れの始め」「一期一会」など、人の無常を説く言葉はいくつかあるが、横山先生は「会者定離」という言葉をよく口にされた。
レッスンに伺った際に私が「今度こういう場で、こういう人たちの前で演奏することになりました」と報告すると、先生は「一生に一度しか本物の尺八の音を聴くことがない人もいるかもしれない。それが君の尺八かもしれない。そういう人のことを想って精一杯吹きなさい。最後は上手い下手を超えたところで吹きなさい」とおっしゃられた。
こういう深いことをさらっと口にされるところが先生の凄いところである。私はこの教えを常に肝に銘じて演奏やレッスンに臨んでいる。


出逢いがあれば別れも必ずやってくるということは半世紀近く生きてきて随分わかってきた。しかしまた遠くない将来にその人たちとも再会の機会が訪れるのであろう。

一つ一つの出逢いを大切にし、一層の心を込めて吹いて行きたいと思う今日この頃である。




「図太くやれや!」
2010-4-28 

とうとうこの日が来てしまった。
2010年4月21日、私にとって最大の恩師である横山勝也先生が旅立たれた。

実はその翌日、4月22日が今月のレッスン予定日であった。
昨年より、何カ月かの間隔をおいて稽古にうかがうごとに徐々に体調が悪化されているご様子であったため、“あと何度レッスンをうけられるだろう”と感じてはいた。
4月のレッスン日は何とか段取りがついたため、最難曲の一つである『霊慕』を聴いていただこうと時間をかけて準備し、4月19日の本曲会で舞台にかけて、何というか“最終調整”をしていた矢先のことであった。その本曲会の帰りに「今月のレッスンはお休みになりました」とのメールが入り、落胆と拍子抜けが合い交じったまま二日間を過ごした。21日は“明日は聴いていただくことは叶わなかったけれども、次回のために練っておこう”と何度か吹き、その日の予定が終了した午後7時頃から晩酌をして9時前には眠りこけてしまった(“何と早い時間から”と感じられる人もいらっしゃると思うが、私は〈やるときゃやる、寝るときゃ寝る〉のである)。

少々軽い胸騒ぎを覚え、翌22日の午前2時過ぎに目を覚ました私はパソコンの画面を見て愕然とした。そこには「横山先生が亡くなられました」とのタイトルがあった。
古屋先生からのメールには、“突然でしたが、横山先生が亡くなられました。今朝、眞弥さん(石川注・先生のご長女)から「苦しそうなので救急車で入院しました」とメールを受け取り、
半分以上お見舞いのつもりで病院へ参りましたが、本当にあれよあれよとのうちに逝ってしまわれました。唯一つの救いは痛みから解放されて穏やかなお顔でした。〜以下略〜”という文字が並んでいた。完全に意表を突かれた私はにわかにはその事実を受け入れ難く、「寝耳に水」ならぬ「寝耳にビール」で缶缶を三つ重ねたが全く酔いもせず、気がつくと朝を迎えていた。

この日がやって来ることは随分前から覚悟していた。ただあまりにも唐突すぎた。具体的な葬儀の連絡が入ってくる中を、ふわふわした気分のまま三日間過ごした。

葬儀の朝に新幹線で東京へ向かった。25日の通夜、26日の告別式は共にしめやかに執り行われた。前日までの季節はずれの寒さがうそのように暖かく、晴れわたった中でのお見送りであった。我々門人は生前の先生から「私がいなくなったら『山谷』を皆で吹くように。暗譜でない者とメリが高い者のところには化けて出るから」と言い渡されていた『山谷』と、『手向』を献奏させていただいた。元々故人を偲んで、や、霊鎮めといった意味合いで吹かれたと思われるこれらの曲は一つ一つの音が会場に沁み渡るようであった。
告別式ではもう一つ献奏があった。先生の孫娘さんの高校生のかたが、先生からプレゼントされたというサックスで『君をのせて』を吹かれたのであるが、深い哀しみを湛えながらも優しさと強さに溢れ、まさしく“心洗われる”ような音であり演奏であった。まさしく横山先生のDNAがそこに宿っていることを感じずにはおれなかった。


早いもので、先生がこの世を去ってしまわれて一週間が過ぎた。漠然とした悲しみはあるけれども残念という感情は起こらない。それは“先生が長年の痛み、苦しみからようやっと解放された”ということと“自分なりに最大の師匠孝行は出来た”という安堵にも似た気持ちからである。


私は、人間が社会で生きていくにあたって大事なものは「信用」だと思って疑わない。そして今、私が何とか尺八の道で生かされているのは、『横山勝也』という大きな「信用」の下(もと)に位置するからと言って過言ではない。先生なき後、これまではそうでなかったということでは決してないが、これからは『石川利光』という「信用」を積み重ねていかねばならない。もちろん『横山勝也』先生への尊敬と感謝の念を忘れずに。


今回のタイトルは1996年、自分のリサイタルに横山先生をお招きした日の演奏終了後、帰りの車に乗られる際に私にかけてくださったお言葉である。プロ尺八家になりたての私を見られてよほど心もとなく思われたのであったろう。以来14年の月日が経ち、少しはふてぶてしくなった私ではあるが、先生にご心配をお掛けしないよう自分なりに「図太く」生きていきたい。

先生、ありがとうございました。

まっさらみたいに思えても
今日には昨日のしみがある
すんだことさの一言を
漂白剤には使えない
涙をシャワーで流すだけ

からだの傷さえ消えぬのに
心の傷ならなお疼く
ごめんなさいの一言を
覚醒剤には使えない
痛みをお酒で癒すだけ

思い出したくなくっても
忘れられない日々がある
明日があるよの一言を
ビタミン剤には使えない
希望は自分で探すだけ

(「昨日のしみ」谷川俊太郎)


今回はとりとめのない文章になりすみません(「いつもやないか」って言わないでね)。次号以降、ぼちぼちと先生の想い出を綴っていこうと考えております。





「四十、五十は洟たれ小僧」
2010-3-31 

もう来年は五十路を迎えようとする私であるが、それでもなお“私を鍛えてやろう”という場を与えていただけることは、ありがたいかぎりというほかはない。


3月12日には、奈良県で行なわれている『三絃茶屋塾』という公開講座に呼んでいただいた。
『三絃茶屋塾』とは、日頃からお世話になっている箏曲の細見由枝師の肝いりで始められた三絃(三味線)の勉強会で、3か月に一度、公開で演奏をするという場だそうである。
“ちょっと曲数が多いけれど手伝ってくれない”という細見師のお声掛けに“はい、はいっ、やらせていただきますっ”と即諾した私は、後日送られてきたファクスを見て仰天した。
そこには“石川さんが来るというので合奏の希望者が普段より多くなってしまいました”という喜ぶべき添え書きとともに、「残月」「根引の松」「四季の眺め」「明鏡」など20分ほどかかる曲や名曲、難曲を含む曲名が8つずらりと書かれてあり、おまけに2つの曲には(2回)と記されていた。
会全部で16曲だそうなのでその中の10曲ということは、〈吹いて〉〈吹いて〉〈休んで〉〈吹いて〉〈休んで〉〈また吹いて〉〈吹いて〉てな感じである。私は10曲の中の1曲であるが、絃方のみなさんは3ヶ月かけて練習されてきた“この1曲”なので、私もそれに見合うだけの演奏が要求される。おまけに下合せ無しの一発勝負であるから、ある意味演奏会以上の緊張感が演奏するスペース(和室大広間の毛せんの上)に漂っていた。正午に始まりラストの「残月」の終演が5時前という長丁場の会で、その半分以上の時間を吹かせていただいたため、くたくたになってしまったが同時にとても面白かった。心地よく疲れた身体を電車のシートに預け“こんなにたくさん勉強させていただいてありがたや〜、面白や〜”と唱えながら帰路についた。

近頃私は“古典本曲の石川”というイメージが定着しているようであるが、古曲も上手くないだけで実は好きなのである。月に1回は三曲系尺八の巨匠のレッスンを受けてもいる。今年から私がとても好きな優秀な絃方お2人と私との3人で、古曲を中心とした同人会を定期的に開催することにした。18年続いている尺八家6名による尺八本曲の同人会と共々、切磋琢磨できる息の長い会を目指す所存である。私的には“今年は古曲元年でんねん”てな感じである。


3月25日には、この項の前号で記した『NHK邦楽技能者育成会・記念演奏会』がNHKホールで賑々しく開催された。
卒業演奏となる第55期生は鳥養潮講師と西村朗氏に委嘱した作品2曲(どっちもムズカシソ―!)を初演。それに加えてOB、OGが5曲を演奏した。幕あいには邦楽番組でお馴染みの葛西聖司アナウンサーと、ご自身も様々な音楽の演奏者でもあり研究家でもいらっしゃる森重行敏さんがナビゲーターになり、これまでの育成会の軌跡を辿るようなインタビューやトピックスの紹介などをされていた。さすがにこのお2人はトークのプロで、少しでも隙間があくと何なと口から出てくるといった感じでそれはそれはお見事であった(5月8日14:00〜16:00NHK教育TVにおいて当日の模様が放映されるので演奏と共にお楽しみください)。
OB、OGの5曲は、中島靖子師と正派合奏団が1曲(協奏的三章)、尺八の曲が1曲(竹の群像)、日本音楽集団+3名が1曲(日本楽器による幻想曲)、三絃の曲が1曲(三絃四重奏曲第二番)、そして終曲として有志240名による大合奏曲(合唱と合奏による閑吟集)であった。
演奏での出演者がすべて育成会卒業生ということに改めて“育成会がすごい教育機関であり組織であった”ことを思い知らされた。私が学生時代に憧れた奏者などがすぐそこにいらっしゃるのである。特に尺八は東京藝大尺八専攻(設置されたのは1977年、第1期生には横田鈴琥さんや徳山隆さん・・・豆知識だよっ)よりも歴史があるため、大合奏前の舞台袖には大御所、ヴェテランから若手まで、著名な奏者がズラリとスタンバイしていて壮観であった(それでも今回出演している人のほうが一部である)。
私が出演したのは2曲であった。尺八による「竹の群像(山本邦山作曲)」はソリストに大御所・宮田耕八朗師、指揮に日本音楽集団の田村拓男先生、バックの尺八群は邦山会と竹心会が中心となって構成された混成メンバーであった。ピリッとした空気の中、これはとても楽しく吹かせていただいた。
大合奏曲「合唱と合奏による閑吟集(藤井凡大作曲)」は、2月の第1回練習の時はいろんなパートで結構ずれまくっていて、“こんなんで大丈夫かしらん”と思ってしまったが、前日カメラリハーサル、当日ランスル―と、本番が近づくにつれ回を重ねるほどに整ってきた。指揮をされた鳥養潮先生(このかたも箏曲の卒業生)の独特の魔女のようなムードと、“絶対に合います。それは皆さんが育成会卒業生だからです”との催眠術師のようなお言葉による指導力で、本番はほんとうに皆の氣が結集した最高の演奏になった。個人的には、たいへんお世話になった凡大先生の辞世の曲ということもあり、凡大先生のことを想い出しながら感謝の意を込めて吹き終えた。

偉そうなことを書いてしまうと、240名もの人が出演する邦楽の演奏会にあっては、近年稀にみる出色の出来栄えだったのではないかと思う(あれっ、またまたどこかで読んだような・・・)。

この240名の大合奏は聴かれた方々よりも演奏した我々のほうが得をしたと言って過言ではないだろう。ここでも私を鍛えていただく場を頂戴した。そして、育成会を懐かしむことはこれで終わりにして前を見て歩こうと決意を新たにした。



消えることのない無限の愛が
百万の太陽のように
ぼくのまわりで輝いている
それがぼくを呼ぶ
宇宙をこえて

笑い声や地球の影が
開かれたぼくの視界のなかに
鳴りひびいている
ぼくを励まし誘っている

JAI GURU DEVA OM

なにごともぼくの世界を
かえることはできない

なにごともぼくの世界を
かえたりはしない

なにものもぼくの世界を
かえはしない

JAI GURU DEVA OM...

(「Across the Universe」Lennon-McCartneyより 片岡義男・訳)



ぼくの世界をかえるのはぼくしかいないんだ!









「“鈍”すれば“貧”す?」
2010-2-26 

尺八はこの上なく面白く深いモノであるが、また同時に罪作りなモノである。


今月は常よりも増して他の尺八吹きの姿や演奏を見たり聴いたりした。その中で特に若手の尺八吹きについて考えさせられることがいろいろとあり、それに対する私見を記したい。

世間一般では「尺八」というと“絶滅危惧種”寸前の楽器だと認知されているふしが無きにしも非ずであるが、尺八で身を立てたいと日々頑張っている若者は存外多いのである。特に人口や情報、そして教育機関が集中している首都圏にあっては、若手のプロ奏者、またその予備軍を合わせると100人を下らないであろう。

しかしながら、その若手プロが必要とされる需要はその数に比べて圧倒的に少なく、強固な繋がりを持つ東京藝大邦楽科の卒業生や、現在第一線の地位を確立された方の子弟にしか仕事がほとんど回らない、というのが実状である。


さて、2月17日、NHK放送センターにおいて、3月25日に開催されるNHK邦楽技能者育成会記念演奏会のリハーサルがあった。私は、尺八だけによる独奏協奏曲『竹の群像(山本邦山作曲)』と、尺八・篠笛・三絃・箏・十七絃箏・合唱による大合奏曲『閑吟集(藤井凡大作曲)』に出演させていただくことになっており、午前の『竹の群像』のリハから練習会場のスタジオに入った。

11時の開始時刻まではまだ30分以上あったため、スタジオ入りしている出演者は半分弱くらいであった。自分の席を確認し、楽器を取り出して準備をしていると、スタジオ内前方の広いスペースで午後からの大合奏のセッティングが始まった。
よくよく見ると、職員の若い女性が200脚ほどもあるパイプ椅子を一つずつ収納カートから取り出してフロアに置く作業をしておられた。そこで私は何も考えることなくその手伝いに行った。女性職員は「私がやりますから大丈夫ですよ」とおっしゃられたが、その大量の重いパイプ椅子を一人で並べようとされていたのは自明のことなので「こんなの皆でやればいいことですよ」と私も並べはじめた。
『竹の群像』の到着メンバーはその時半分を超えていたように思えたが、ベテラン・中堅からこの数年のうちに卒業した若手まで、自分たちの椅子に座って仲間内でくっちゃべっていた。私はその時大いに違和感を覚えた。言うなれば自分達が出た学校の行事に参加して、職員が大変な労働をしている時である。手伝うのが当然ではないか。すでに地位を確立されておられるベテランの方や身体の動かない方(失礼)はそのかぎりではない。特に最近卒業した若手はもっとその空気を察知して動くべきではないのか。
“だからダメなんだよ(実際はこれの大阪弁)”と一人ごちながら作業を続けていると、私がそこにいるのに気がついた、門人の岩本嬢と古屋先輩門下の今井君が加わってくれた。私は少し安心して、同じ応援するならこういう人を応援したい、と思った。

若手の中にはまだ、“尺八さえ上手ければプロでやっていける”と勘違いしている人がいるのではなかろうか。プロと名乗る以上最低限の演奏レベルは持たなければならないが、その要素はあくまでプロとして備えておかなければならない項目の一つ(もちろんこれが一番大きいのであるが)だと認識すべきである。舞台で聴衆を前にして演奏をする、他の奏者に頼まれて合奏のパートナーを務める、学校などでレクチャーをする、弟子をとる、などいろいろと仕事はあるが、いずれの場合にせよ“自分がどう動けばその場がスムーズに行くか”という判断ができないと、言いかえれば“空気が読めない”と、どの仕事も務まるはずもない。
プロとして食っていけない理由は、1・腕がわるい、2・やりかたがわるい、3・腕もやりかたもどちらもわるい、のいずれかであろう。私は腕はわるいがやりかたで何とかなっている。
やりかたを見つけるためには、とにかく頭と身体の両方を動かすことである。すなわち知恵を持ち、自分で行動することである。自分で行動を起こさないで待っていただけでは仕事は飛び込んでこない。失敗を恐れずにいろいろやってみてその中から得たものを糧に前進すべきである。
“落ちたらカッコ悪いから受けない”とはNHKオーディションや教育機関への入試において、実際に私の耳に入ってきた若者からの発言である。私からすれば“そんな理由で逃げてしまうほうがよほどカッコ悪い”。これは私自身常々そう思っていて、若い人に言っていることでもあるが、“なくすものなど何も無い”のである。
まあ、やらないことや逃げてしまうことはその人の性質でもあるのでそれ以上は言わないが、たちが悪いのはそういう食えない期間が長くなってしまうと、“食えないのは世間が悪い”と思ってしまうことである。被害妄想的な状態になり、食えない原因も責任も100%自分の中にあるということがわからなくなってしまうのである。また、副業やアルバイトで一旦生活が出来てしまうと今度は音や演奏に厳しさがなくなってしまう。尺八は特にそういうメンタルなところが如実に表れてしまう楽器である。自分に甘い取り組み方をしている人からは甘っちょろい音しか出てこず、それが吹いている本人よりも聴いている人にはっきり伝わることになる。

自分が一旦“プロ”を名乗ったからには、人間国宝のセンセイや有名な奏者と同じ土俵に立っている、という矜持を持たなければならない。誰それの弟子、や、どこそこ所属、何とか会卒業というのはその次である。そして、現在プロとしての地位を築かれている人たちも初めからそのポジションにおられたのではない、ということも認識すればよい。実際に食っている人は、人の何倍もの工夫と努力をしてこられたからこそ、その地位にいらっしゃるのである。


「たかが一回のリハーサルでそこまで言ってしまうアンタのほうがよっぽど妄想的じゃん」と思われる人がいらっしゃるかもしれない。しかしこれは、プロ尺八家を目指す若者達に日頃から私が感じていることであって、たまたまリハーサルを事例にあげたまでである。厳しい目を向けるのは期待している故である。勇気を持ってその道に飛び込んだ人にはぜひとも夢を叶えて欲しいと熱望している。


そのリハーサルから4日後、門人会の「石の会独奏会」があった。今回は私を除く21名の出演者中、50歳代以上の方が10名、30代半ばから下の人が11名(40代は何と私だけ!)と、ほぼ半々の年齢構成であったので、年配の方を前半に、若手を一気に後半に、という趣向でプログラムを組んだ。前半の方々も聴きごたえがあったことは言うまでもないが、特に後半は「意識するな」といっても意識してしまうぐらい皆の気合いが入りまくり、本当に面白く、感動的な演奏会になった。今回も自前(?)のメンバーに加え、小林静純さん、平山泉心さん、ジョシュ・スミスさんの三名の会友に色を添えていただき、充実した内容で終えることができた。
偉そうなことを書いてしまうと、大勢の人が出演する尺八の演奏会にあっては、近年稀にみる出色の出来栄えだったのではないかと思う(あれっ、どこかで読んだような・・・)。

私の門人会ではプロ・アマに関係なく、若い人には舞台係や弁当係などの下働きをしてもらっている。これは目上の人を敬う精神を持ち、その場の空気を読んで自発的に動くという習慣をつけてもらうためである。私自身も未だそうであるように、尺八で生きていくことはなかなか容易ではないが、こちらの若者たちにも何とか一家を成してほしいと願っている。


今月もこのような将来のある人たちの姿を応援しながら詩集を読んだりしていた。


おかねでかえないものを わたしにください
てでさわれないものを わたしにください
めにみえないものを わたしにください
かみさま もしもあなたがいらっしゃるなら
ほんとのきもちを わたしにください

どんなにそれが くるしくても
わたしがみんなと いきていけるように


(「かぼちゃごよみ〜十二月〜」谷川俊太郎)


みんながみんなと いきていけるように がんばろう! 





「“えん”は異なもの味なもの」
2010-1-30 


しかしまあ、どこの世界にもモーレツなお人というものはいらっしゃるものである。

2010年1月17日、邦楽普及団体「えん」の20周年記念コンサートが賑々しく開催された。
当団体は元々、箏曲のおっしょはんでいらっしゃった伊藤和子さんが、“一人でも多くの一般の人々に邦楽の良さを知って欲しい”と創められた団体である。私はそれこそご「えん」で、20年前の第一回の演奏会に出演させていただいて以来、おかげを持ち不仲になることもなく、目出度く今回の記念コンサートのメンバーに加えていただくことができた。

伊藤さんは学生時代より“ダンプカー”というニックネームがあったということからもうかがい知れるように、猪突猛進、直情径行(失礼!)というタイプの人である。最も有名で大きなイベントには、邦楽界の夏のイベントとして完全に定着した『全国学生邦楽フェスティバル』(昨夏で15回を数える息の長〜い企画)があり、その他、『保育園でのお箏指導』や『伝統文化お箏こども教室』『復元コンサート』『邦楽喫茶』など様々なプログラムを企画・運営されている。今回の記念コンサートのプログラムで初めて知ったことであるが、20年間で行なった企画は300を越えているそうである。単純に割っても一年に15以上のイベントというのはものすごい数である。

その20年間の集大成の一つとして開催された記念コンサートは本当に素晴らしく、感動的であった。関西を中心としたバリバリのプロ奏者から、お箏初体験からそれほど時間が経っていない人、舞台に登場するだけで聴衆を和ませる保育所児童まで、プロ・アマ入り混じったメンバーには“ダンプカー”伊藤さんの気合いがそれぞれの弾き手に伝わり、どの曲もベストの演奏であった。
偉そうなことを書いてしまうと、大勢の人が出演する邦楽の演奏会にあっては、近年稀にみる出色の出来栄えだったのではないかと思う。

一つのコンサートやイベントを企画・運営するだけでも結構な労力がかかることである。それを20年に亘り継続し、大きな成果を挙げてこられた伊藤和子さんのモーレツなエネルギーにはただただ驚嘆するばかりである。今年からは“ダンプカー”を返上され“小型自動車”として地道に行動されるとのことであるが、これからもお身体に気をつけられ頑張っていただきたいと切に願う。


話は変わるが、昨年末、出身高校の先生から「生徒に配布する機関紙に寄稿してもらえませんか」という内容の電話があった。よくよく話を聞いてみると、PTAが主体となった生徒向けの配布物で、その中の『活躍する卒業生』という欄に後輩へのエールとなる文章を書いて欲しい、ということである。私にとっては面映ゆいタイトルで「そないに活躍しているわけではありませんけどねぇ」と受け答えをしながらも断る理由もないのでお引き受けすることにした。
私の出身高校は「浪速高等学校」という、大阪にある神社神道系の私立学校で、卒業生には藤本義一さんや、じゃりんこチエの作者はるき悦巳さん、笑福亭鶴瓶さん、林家ペーさん、赤井英和さん、和泉修さんなどなど、そちら方面(どちらや)で活躍されている方が少なくない高校である。はっきり言って私の通っていた30年ほど前はあまりぱっとしない男子校であった(もちろんそこに通っている私もぱっとしなかったことは言うまでもない)。

その原稿依頼があって“今はどんな風になっているんやろう”と学校のホームページを訪ねてみて驚いた。いつの間にか共学になり、中学校まで出来て(実際には再開)いたのもそうであるが、それにも増してホームページからビシビシと伝わってくる勢い、というか熱気が凄かったのである。
その熱気の発信源は現在の理事長・校長先生であった。数年前に学校法人より依頼を受けて着任された民間人(民間企業)ご出身の校長先生で、この方が凄まじい勢いで学校改革を進められていた。

この内容や経緯についてご興味を持たれた方は、ぜひ私と同じように校長先生のブログをご覧いただきたい(“浪速高等学校”“校長日記”で検索できます)。一人の人間の力で一つの学校がこうも変わるのか、と感嘆と感動を禁じ得なかった。学内外の施設の充実は言うに及ばず、大学との連携など受験生増加へのイメージ戦略、教職員の方々の意識改革まで、率先垂範の行動力は超人的ですらある。公立校と違って転勤や異動が少なく、ましてや有名進学校でない私立学校は、教職員の方々にも一種独特ののんびりしたムードがあるが(これはあくまで私見である)、ゆくゆくは少子化の影響をもろに被りかねない危機的状況に陥る手前で強烈なカンフル剤を注入してくださった感がある。ここにもまたモーレツな方がおられた。
この時期に機関紙に寄稿の依頼をいただいたこと、これもまたご「えん」と言わずして何といおうか。


今月はこのようなモーレツな人の後ろ姿を味わいながら詩集を読んだりしていた。
どうもどうも
やあどうも
いつぞや
いろいろ
このたびはまた
まあまあひとつ
まあひとつ
そんなわけで
なにぶんよろしく
なにのほうは
いずれなにして
そのせつゆっくり
いやどうも


(「ごあいさつ」谷川俊太郎)

私はモーレツな人間になれるはずもなく、こんなゆるーい感じ、でもその裡に秘めた鋭さに憧れるのである。

という訳で本年もどうもどうもよろしくお願いいたします(って、あんたもう2月やがな!)。 






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