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「オトダマ」
2012-9-12
先ごろ度直木賞を受賞された作家、辻村深月さんの随想に心を動かされた(毎日新聞7月23日夕刊)。
2010年から2011年にかけて(もちろんまだ彼女が直木賞作家ではない頃)、毎日新聞社から彼女に“興味のある新しいカルチャーを取材に行き、それをルポエッセイとして纏めてほしい”という依頼が入った。二つ返事で引き受けた彼女は第一回目の訪問先として、大好きな漫画『ドラえもん』の作者、藤子・F・不二雄さんのプロダクションを選んだ。それを皮切りに彼女の興味の赴く人やものを訪ねていったそうであるが、彼女にとってその連載は、「新(ネオ)カルチャー」を紹介する記事であったと同時に、彼女自身が影響を受け、それを血肉に変え小説を生み出してきたものへの“お礼を言うための旅でもあった”とのことである。そのことについて彼女は
「尊敬している人たちと、時間を共有することができるかどうかは、個人の力ではどうにもならない運やタイミングを要する。束の間、その機会を得る奇跡が叶ったことは、信じられないほどの幸運だ」と記した。
この一文に私は共感した。私の場合は横山勝也先生との出会いがまさしくそれであった。最初は尺八を始めたクラブの部室にあったレコードやカセットテープでその名前を知った。その後、大阪の大きなホールで催された邦楽の大家が集まる演奏会や、学生が企画した邦楽コンサートにおける演奏でその生音を聴いた。その頃はまだ、レコードに録音されたり、大きな会に出演される“すごい先生”で、雲の上の存在でしかなかった。私が26歳の時、その雲の上の横山先生と直にお会いする機会が訪れた。そして、その音と人間の大きさに感銘を受けすぐに師事させていただいた。それからお別れするまでの23年という歳月は私にとって奇跡以外の何ものでもない。私が現在、尺八の音として、音楽として表しているものの大部分は横山勝也という存在無しにはありえない。横山先生との出会い、それはほんとうに信じられないほどの幸運であった。
さて、辻村さんのほうに話を戻すと、この随想をさらに感動的なものにしているエピソードが書かれている。直木賞受賞の発表の日、記者会見を終えたばかりの彼女のもとへお祝いの花が贈られた。それは当日の受け取りが叶わず花屋さんが一度持ち帰ったのであるが、発表当日に一つだけ、真っ先に届けられたその祝い花の贈り主が、なんと藤子・F・不二雄プロダクションであった。これまた奇跡である。花屋さんの留守電メッセージから依頼主の名を聞いて“息ができなくなった”彼女は、その名前を聞いた途端、受賞の喜びが何重にもなって胸に迫り、感謝の意と共に“少しだけ泣いた”。その記事を読んだ私も図らずも“少しだけ泣いた”。私はこれは決して偶然ではないと思う。こういう魂のつながりもあるのだと思う。
5月の終わりから6月にかけて京都で尺八キャンプと国際尺八フェスティバルが催されたことは前に少し記した。
その中で気づいたことがある。
世界中に存在する尺八愛好家にとって横山勝也は今なお不動の人気を誇っている。それは横山勝也という人物が実存するしないの問題ではない。先生が存命時から直に接する機会の叶わなかった多くの外国人達はCDの音源やビデオなどで横山勝也の尺八に魅了され、それに憧れたのである。ということはその人にとっては、横山勝也がこの世にいようがいまいが関係ない。生命力溢れる横山先生の尺八の音は、音のたましい~オトダマ~となってこの世に厳然として存在しているのである。
さすれば、我々に与えられた務めは生きて生きてその痕跡をどこかに遺す(残す)ことではないか。私の場合は私自身のオトダマ(音魂、音霊)を刻み、遺すことである。オトダマがあり続けさえすれば肉体は無くとも私は滅びないのだ。
私はこの気づきを得てから心が軽くなった。死を想うことが少しだけ怖くなくなった。
しかし、遺すからにはそこそこに恰好のついたオトダマでなくてはならない。横山先生の“すごい”尺八とまでいかなくとも、“これもなかなかいいやん”と思っていただける尺八はめざさねばならないのである。
おかげを持ち身体のほうは何とか良好である。生きて生きて、吹いて吹いて石川利光のオトダマを遺したい。やはり一管懸命、一生修行である。
「リトアニア万歳」
2012-8-15
私にはたまらない二週間だった。
6月18日から6月30日まで、リトアニアを旅してきた。「地唄舞普及協会」という法人組織を立ち上げられ、地唄舞の啓蒙・普及に心血を注いでおられる花崎杜季女師からお声掛けを頂戴し随行メンバーに加えていただいた。
最初お話をうかがった時にまず思ったことは“リトアニアってどこにあるの?”ということだった。名前は聞いたことはあるが、地理的、歴史的なことはさっぱりわからなかった。おそらくこの駄文に目を通してくださっている多くの方々も私に近いと思われるので、少々リトアニアについて紹介することから始めたい。
“リトアニア”という国はヨーロッパ北東部のバルト海に面した三つの国の一つである。そういえば“バルト三国(大阪の人、“みくに”ではありまへんよ)”と歴史の教科書に出てきた記憶がある。“バルト三国”とは、北から“エストニア”“ラトビア”“リトアニア”の国々である(ちなみに大相撲の把瑠都〈ばると〉関はエストニアの出身でいらっしゃる)。
私が今回訪れることになったリトアニアは13世紀から18世紀頃までは大公国として認知され、広大な国土を有する強国であったらしい。そして歴史の流れの中でポーランド王国と合同したり、ロシアやドイツ、ソ連邦に侵略されたり、と変遷を経て、1990年に独立しリトアニア共和国となってこんにちを迎えている。2004年にはEUにも加盟した。
国の面積は65,303平方kmで日本の四国4県と九州8県を合わせた面積より少し広い。人口は約350万人で四国4県の人口よりすこし少ない。教会が多く、緑豊かで静かな美しい国である。
リトアニアと日本の関係を語る上で外すことの出来ない史実が「日本のシンドラー」と呼ばれる杉原千畝副領事の発行した“命のビザ”である。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの迫害によりポーランドからリトアニアに流れてきたユダヤ人に対して、杉原副領事は自らの判断で日本通過ビザを発給し、6,000人にも上る人たちの命を救った。その史実から70年以上経過した現在でも杉原副領事のことは称えられており、こういう歴史的背景もあってか、リトアニアの人はとても親日的である。日本・リトアニア友好協会とリトアニア・日本友好協会がそれぞれ存在し、今回のツアーにおいても協力パートナーとして名を連ねられていた。
さて、前置きが長くなってしまったが、今回は「地唄舞」がメインの公演旅行なので、私の普段の演奏旅行とはスタッフ、内容ともにずいぶん異なっていた。
まずスタッフは、団長で主催者の花崎杜季女師のほか、舞台監督のカミヤさん、衣装のサトーさん、かつらのハタナカさん、化粧(“顔師さん”と呼ばれるそうである)のカンダさん、団長師のご門人で黒子役のコユキさん、そして地方(地唄舞では演奏者を“じかたorぢかた”と呼ぶ。“ちほう”ではない、念のため)として三絃のオハラさんと尺八の私、の総勢8名であった。メインの舞い手お一人に裏方が7人である。それぞれに重要な役割があり誰が外れても公演が成立し得ない。強いてあげれば、居なくともとりあえず何とかなるのは私であった。
ツアー中に5回の公演を行った。所要時間や公演形態、会場(大学や演劇祭など)で微妙に内容が異なったが、およそ共通していたのは、第一部が地唄舞、三絃、尺八の鑑賞舞台、第二部が三絃および尺八の紹介、地唄舞の解説、現地の人をモデルとした着付け・かつら・化粧の総合ワークショップ、美しいしぐさ教室等々、という盛りだくさんの内容であった。
第一部の地唄舞は地唄の名曲『雪』と、ドラマチックでストーリー性の高い『珠取り』を、会場により両方または1曲を鑑賞いただいた。開演時刻が到来すると、ほぼ真っ暗な舞台に静々と黒子が登場。舞台四方に据えられた燭台の蝋燭に火を灯し結界を作るところから公演が幕を開ける。
黒子が下がるのと入れ替わりに地方が入りスタンバイ。続いて舞い手が舞台中央につくと絶妙のタイミングでオハラさんの唄が始まる。だんだん照明が上がり舞い手の世界に導かれると、もはやそこが北欧であることを忘れてしまう。オハラさんの唄と三味線の音色が舞台を包みそれに尺八が色を添え、その中で舞い手が情念の世界を醸し出す。オハラさんは地唄界では中堅といった世代であるが、高い実力と豊富な経験を持ち不安は微塵も感じられない。私が地方はほとんど初めてなのにもかかわらず、何とか務められたのはオハラさんの力以外にありえない。
地方をしている間は楽譜を追っているため舞を鑑賞することは全く出来ない。が、それでも観客が息を殺して舞台に集中する気配は客席からよく伝わってくる。そして舞いが終わった後、感歎のため息の中から拍手が湧き起こり、それが徐々に大きくなり、やがて割れんばかりのそれに変わっていく。この瞬間を目の当たりにし、また舞台上で地方として共有することが出来、無常の喜びを感じた。
第一部はこの他に楽器の紹介も兼ねて、三絃(『芦刈』)と尺八(『(奥州伝)鶴の巣籠』)それぞれの独奏が1曲ずつ演奏された。面白い音のする、ギターに似た楽器を携え、自分達とはまったく違う発声法で歌われる歌の『芦刈』は、珍しいものを見るような目で、だがしかし、とても興味を持って聴き入る姿が印象的であった。続く『鶴の巣籠』は会場袖から吹き始め、歩いて舞台中央へ、そして終わりは別の袖へ去っていく、というスタイルで演奏した。こちらもいろんな音のする妙な笛といった感じでお聴きいただいたが、どの会場でもたくさんのあたたかい拍手を頂戴することが出来、何とか役目は果たしたかと安堵した。
続く第二部は全体として観客参加型のワークショップ構成であった。
こちらは第一部の厳かな雰囲気と異なり、最初からフレンドリーな空気である。まずオハラさんが三味線を抱え、“ラーバディアナ(リトアニア語で“こんにちは”)“と登場する。三味線や地唄のレクチャーを終えるとそこに客席から尺八が乱入する。尺八の音色や、歩きながら登場するスタイルには観客ももう驚かない。そこで退出しようとするオハラさんを引きとめ、三絃と尺八でリトアニアに伝わる『私は馬を飼っていた』という曲を演奏する。意表を突かれた観客は大喜びである。このプランは舞台監督のカミヤさんのアイデアであった。それまでの少々堅い会場の空気が一気に和む。そのまま尺八の紹介に入る。尺八の簡単な歴史を述べ、いろいろな奏法や音色をお聴きいただく。合唱で名高いリトアニアの人々は高い音楽性を有され、とてもスムーズにレクチャーをすることが出来た。
そしてこの後の、着付け、かつら、化粧のコーナーが第二部のハイライトであった。
事前に現地の人からモデルを選出し、あらかじめある程度まで舞台裏でしつらえておく。そのモデルを舞台上で説明を交えながら着付け、かつら、化粧を完成させるという構成である。リトアニアの女性が数十分間で日本の舞妓になる工程はとてもエキサイティングで感動的であった。
その頃にはもう舞台と客席の垣根は取り払われ、一体感が会場を包み込んでいた。続く団長先生とコユキさんによる地唄舞としぐさのワークショップでは皆客席から立ち上がり、日本風の振る舞いを堪能しておられた。
ラスト前のQ&Aコーナーではするどい質問が飛び交った。詳しくは書けないが様式的なことから精神的なことまでとても高い関心を示す内容であった。
そして大団円の手打ちである。団長先生が謝辞を述べ、日本式の三三七拍子で締めた。団長先生による“一年以上前からこの公演を準備してきました。公演は終わりましたが、日本とリトアニアの友好関係はこれからますます高まっていくものだと信じています”とのお言葉にはじーんときた。こうしてリトアニア各地で行われた5回の公演はすべて成功を収めた。
個人的にであるが、日本を発つ前には、非常に静的な舞踊である“地唄舞”および三絃と尺八による地唄、日本風の着付けやメイクなどが、日本から遠く離れたリトアニアの人たちにどれだけ受け入れられるだろうか、という一抹の不安を抱いていた。しかしそれは全くの杞憂に過ぎなかった。最初の公演から、会場を溢れんばかりのお客様にお越しいただき、我々は熱狂的な歓待と共に受け入れられた。そして行く先々で日本の文化、藝術が、高い関心を持って鑑賞された。
実は最初の公演が始まったあたりで団長先生の心労がピークを迎え、体調をひどく崩されるというアクシデントが起こっていた。周囲の人間には、とても舞が出来るような状態ではないように見えた。しかし、一年以上前から計画を立て、何度も打ち合わせのためにリトアニア入りされてきた団長先生の“地唄舞公演を成功させたい”という熱い想いがそれに打ち克った。公演はすべて予定通り開催され、団長先生は想いのこもった美しい日本の舞を舞われた。そして、このアクシデントが逆に、それぞれがそれぞれの役割を果たさねば、という、より強固な意志と意識を生み出し公演を成功へと導く力となったように思う。ほんとうに皆すばらしいメンバーであった。そして同行スタッフ以外にも、現地のあうぐすてさん、ミユキさん、シオヤさんほか多くの人々にひとかたならぬお世話を頂戴した。ずいぶん時間が経ってしまったがこの場を使い心より御礼申し上げたい。
そして何よりも忘れてはならないのが団長花崎杜季女先生への感謝の念である。その広い志と熱い想いは私に大いなる気づきと勇気を与えてくださった。これからも地唄舞の普及に、日本とリトアニアの橋渡し役として、ご活躍を祈念する次第である。
海外公演は大変なことも少なくないが、それを上回る成果と充実感を私に残してくれる。今回も尺八を吹いていてほんとうに良かったと実感させられた二週間であった。
“アチュウ(リトアニア語で“ありがとう”)”そして“リトアニア万歳!”(なお、これは“リトアニアバンザイ!”であって決して“リトアニアまんざい”ではない、念のため。)
「祭りのあと」
2012-7-6
愛好者にはたまらない一週間だったに違いない。
5月28日から6月4日まで、尺八吹きには一つの聖地である京都において「ロッキー尺八キャンプin京都」「第一回国際尺八コンクール」「2012国際尺八フェスティバル」の三つのイベントが盛大に開催された。
4年前にシドニーで行われた国際尺八フェスティバル2008に於いて「次回は京都でやります」との宣言がなされ、いよいよその時を迎えた。特に海外の尺八愛好者には待ちわびた4年間だったことであろう。そして“わずか4日間のために日本を訪れるのはMOTTAINAI”という声に応え、毎年アメリカで行われている「ロッキー尺八キャンプ(なんと今年で15回目!)がフェスティバルに隣接するスケジュールで組まれ、さらに、それらとはまったく無関係に進行していた新しい尺八コンクールがちょうどその両イベントに挟まれる形での開催となった。盆と正月とゴールデンウィークとクリスマスがいっぺんにやってきたような感じである。
私はそのうちの「尺八キャンプ」において講師陣の一人として参加、「フェスティバル」には“名流コンサート”の中の『横山勝也メモリアル』と『マスターズ尺八コンサート』に出演させていただいた。また「コンクール」は以前の生徒がエントリーしていたこともあり“完聴(声に出して読まないでね)”した。
キャンプは当初、参加者の申し込みがなかなか伸びず、縮小した規模での開催が検討されていたが、蓋を開けてみれば80名ほどの参加者となり、盛会となった(しっかし、尺八吹きの人はどこでもギリギリ参加が多い!)。
受講者と講師陣、スタッフを合わせた約100名のうち、日本人は4割弱といったところか。10カ国を超える国から尺八を携えて京都に結集した人たちを見て、尺八がまさしくインターナショナルな楽器であることを再認識した。そして、わざわざ時間と大金を費やして参加する外国人達の熱意とパワーは半端ではなかった。朝5時半からの本願寺での「ロ」吹きに始まり、午前の特別講義、午後の個人レッスンや虚無僧行脚体験、夜のコンサート、などなど、早朝から夜遅くまで、文字通り“尺八三昧”のスケジュールをエンジョイしていた。日本人だとどうしても“眉間に皺を寄せての尺八修行”となってしまいがちになるのであるが、こういう“楽しみながら向上しようとする”姿勢は見習うべき点が多い。
また、私自身も講師の端くれとして参加しながら、普段叶わない川瀬順輔師や三代星田一山師、クリストファー遥盟師、小湊昭尚師などのレクチャーを聴く機会にも恵まれ、“こんなに勉強させてもらっていいのかしらん、ありがたや、ありがたや”と良い機会を与えていただいたことに感謝した。中身の濃いー3日と半日であった。
4日めの午後は邦楽ジャーナル主催の「第1回国際尺八コンクール」が賑々しく開催された。大急ぎでキャンプの後片付けを済ませ、開始ギリギリに会場へすべり込んだ。このコンクールは近年の邦楽系では珍しく、合奏の課題曲と自由曲の二部構成からなっていた。音源による予選を通過し、当日の本選に出場された方が24名であったので、一人2曲ずつの計48曲ということになる。会場で配布されたプログラムを見てその曲数の多さに、終わりまで耐えられるか(いろいろな要素で)と危惧したが、熱演、好演の連続で終曲まで興味が尽きることなく拝聴した。
結果はおよそ納得のいくものであった(「邦楽ジャーナル」誌2012年7月号に詳報)。また、採点とは別に“奨励賞”が設けられていた点が良かった。
出演者の大部分を占めた20~30代の若手は皆よく鳴らすし、何よりも舞台度胸が素晴らしい。年代が上の人ほど緊張が伝わってくるようであった。演奏スタイルや使用する楽器の嗜好、傾向は好みの分かれるところであるが、一緒に聴いていた盟友・岡田道明君が指摘した“藤原道山以前、以後という世代分けが出来るように思う”という説には共感できるものがあった。特に道山以後の世代は流麗にそつなく吹く人が多く、それはそれで素晴らしいことなのであるが、尺八でしか出来ない表現からは離れていってしまうように感じた。個人的にはもっと古典本曲を吹いていただきたく思った。
その翌日6月1日から4日間に亘り「国際尺八フェスティバル2012」が更に盛大に催された。今回のフェスティバルはコンサートが中心で、各流派が集う『名流コンサート』や国別に舞台を持つ『国際尺八コンサート』、30名を超えるプロ演奏家がその技を競う『マスターズ尺八コンサート』ほか、7時間にも及ぶプログラムが連日設けられ、いずれも多くの聴衆を集め熱気に溢れていた。
私が出演した『名流コンサート』の中の『横山勝也メモリアルコンサート』は、一昨年逝去された恩師横山先生の追悼演奏会で、有志の参加者が日を追うごとに増え続け、最終的には70名以上が集まった。プログラムは先生の遺された曲、特に愛好された曲など7曲で構成された。いずれの曲も私が普段よりレッスンやコンサートなどで吹いている曲であったが、あらためてその素晴らしさを確認出来た。感動的なひとときであった。
翌日の『マスターズ尺八コンサート』は、今後こういうメンバーでコンサートを組むことが想像出来ないほど豪華な顔ぶれで濃いプログラムとなった。当初はソロでの参加を予定していたが、主催者側の意向で〈風童〉でのトリオ演奏となり、「わだつみのいろこの宮」で臨んだ。演奏はノーミスという訳にはいかず少々やらかしたが、全体の雰囲気はとても良く、終わった瞬間に大きな拍手とブラボーの声を頂戴することができた。風童としてはもう数えられないくらい演奏しているこの曲の中でも、格別に印象に残る1回となった。
翌日のフェスティバル最終日には古管の展示スペースや販売ブース、ネプチューンさんの講義などを鑑賞した。依頼されていた『古管コンサート』が事情により出演出来なかったことが残念であったが、展示、コンサート、講演会と、期間を通して取り上げられていた「古管」や「地なし尺八」は大いに注目を集めていたようである。私も最近は古典本曲を吹くならそれらの尺八で吹きたいと常々思っている。
プログラムが多すぎて自分がかかわったごくわずかしか内容をお伝えすることが出来ないが、フェスティバルは大成功のうちに閉幕した。終了後に主催者から頂戴したお手紙には、“のべ3,000人を超える参加者があった”と記されていた。主催者、スタッフの皆様にはこの場を用い謝意を申し上げる次第である。
残念だったことは二つ、一つ目は若手の参加者が極端に少なかったことである。コンクールに出場していた若手もフェスティバル内で姿を見かけることはなかった。このような催し、内容には若者は興味を示さないのであろうか。
もう一つは、これだけのイベントがマスコミなどに全くといっていいほど取り上げられなかったことである。京都の人でもそのイベント開催をご存知ない方がほとんどだったようである。これもマスコミの方々が日本の伝統的なものに関心を示さなくなっている証左なのであろう。
これから日本の尺八は、そして尺八吹きはどこへ向かうんだろう。楽しい一週間であったが、また同時にいろいろなことを考えさせられた一週間でもあった。
「まだまだいろいろ足りない」
2012-5-30
5月某日、盗難に遭った。
とある店で買い物をし、他のものを買い足すために別の店の駐輪場に自転車を停めた。"わずかの時間だからまあいいか"と、前の店で買ったものを袋ごと自転車の前かごにくくりつけて店に入った。
目当てのものを探すのに少々手間取り、それでも10分はかかっていなかったと思うが、自転車に戻ったところ、そのくくりつけてあった袋ごときれいに無くなっていた。
軽いショックを覚えた。油断していなかったといえば嘘になるが、"まさかそんなことはありえへんやろう"と考えていたことも事実である。
やはり警戒心、配慮が足りなかったというよりほかはない。
気を取り直して、5月のこれまでの報告をさせていただくことにする。
2日は3回目となった京都・法然院での東日本大震災復興支援「悲願会」でソロライブを行なった。1時間の持ち時間で一般のお客様を対象に硬軟取り混ぜてお聴きいただいた。全くのソロは自分のペースで進行できるのでやりやすい。ゴールデンウィークの谷間の日の昼間だったので、しいて言えば客席に比してお客様が足りなかった。
5日のこどもの日には箏曲の若手、宮井友梨香さんのデビューリサイタルに賛助出演させていただいた。関西箏曲界の大御所たかだ香里先生の、言うなれば秘蔵っ子の奏者である。
プログラムは『春の海』『秋の言の葉』『組曲出雲路』『綺羅』『百花譜』と、近頃ではめずらしい硬派な曲が並んだ。
私の出演は『春の海』と『組曲出雲路』の2曲。リサイタルの助演は自分のそれよりも緊張するものである。私なりに、横山先生の教えであるところの"上手い下手を超えたところで吹きなさい"を想い、精一杯吹かせていただいたつもりであったが、お客様のアンケートの1枚に「尺八はダイナミックレンジ不足」「甲チ、ピ(ドレミのラとレ)が不可」と厳しいご指摘が書かれていた。さらには最後に「横山先生に申し訳が立たないのでは」とも記されていた。
"貴方様にそのようなことを言っては欲しくありません(実際にはこれの河内弁・・・ちょっと書けません)"と少々憤ったのであるが、やはりその方にはそのように聴こえているのは事実なのだから、その足りない部分は改善していかねば、と思いを改めた。
その一週間後の12日には親しくさせていただいている奈良県の竹村雅歌弥・雅萌姉妹(仲の良い親子に見えるのであるが、「ホントのところは姉妹です(キッパリ)」、とはお母さん、ならぬお姉さんの弁)の「二人会」に呼んでいただいた。ちょっと脱線するが、彼女らの所属されている正派邦楽会の名取りの読み方は非常に難しい。娘さん、ならぬ妹さんは雅萌で、何とか"がほう"と読むことは出来る。お母さん、ならぬお姉さん(しつこーい!)は雅歌弥と書いて"まさかや"でなく"まさかね"である。ちょっとそれは読めませんわね、マサカね(バゴーン!)。
それはさておき、二人会の曲目は『四段砧』『火の島(火の鳥ではない、唯是先生作曲)』『上弦の曲』『四つの前奏曲』『高橋久美子先生への委嘱新作』『松竹梅(日本酒ではなく古曲)』という内容バラバラ、かつ難曲ぞろいの見事なプログラムであった。私は『火の島』『上弦の曲』『松竹梅』の3曲を吹かせていただいたのであるが、これだけでヘロヘロのクタクタに疲れてしまった。特に終曲の『松竹梅』では、25分ほどの長丁場の真ん中へんで右手の指がつる、という本番初めての経験をし、何とか(自分の指を)だましだまし吹き終えた。こちらは上手い下手を超えて吹いた部分が評価され、姉妹、お客様に喜んでいただくことが出来た。この本番では長い曲を吹く持久力が足りない、ということを実感した。
その翌週は毎年呼んでいただいている和歌山三曲協会の定演「市民邦楽のつどい」があった。和歌山三曲協会は尺八の方が激減してしまったために、尺八の入る曲は全て私の担当である。例年は全プログラムのうち2~3曲は休みがある。ところが今年は全11曲中10曲に尺八があり、休みは1曲のみであった。吹いて吹いて休んで吹いて吹いて終わりまで吹いて、てな感じである。
まだ本番当日は1回ずつ吹くだけでよいのであるが、前日リハでは1曲につき2回~2回半くらいずつ吹くことになり、なかなかハードである。
当日は3分の2くらいまではほぼ順調に進んでいたが、8曲目の『ZERO ゼロ(吉崎先生作曲)』という、尺八がほぼ吹きっぱなしの曲で、吹けども吹けども音が出ない、という怖い経験を味わった。実際には少々スカスカしているぐらいに聴こえたと思われるが、自分自身には「暖簾に腕押し」状態で"えっ、何でこんなに鳴れへんの"と焦りまくった。自己採点ゼロ点である。ここでもまだまだ鍛え方が足りないことを痛感した。
考えると足りないことばかりである。これらの怖い経験をよく肝に銘じ改善を重ねていこうと心に誓った。まあしかし、多くの人に気づきの機会を与えていただきありがたいかぎりである。
5月28日からはいよいよ「ロッキー尺八キャンプin京都」から「京都国際尺八フェスティバル」が始まる(実はこの駄文はキャンプから一時帰宅して書いとります)。大いに大いに刺激を受けて更なる前進につなげたい。
さて、冒頭の盗難被害の中身はカレー用のじゃがいも、たまねぎ、マッシュルーム(あっ人参は家にあったのね)、そしてサラダ用のカット野菜(あっ肉とルーも家にある・・・バゴーン!)で、被害総額合計685円であった。
よくこれだけの被害で済んだものである。しっかし、これを盗った人はカレーでも作って食べはったんやろか。それが気になって仕方がありましぇん。
ご用心ご用心。
「ギリギリ」
2012-4-30
近頃はほとんど"日記"ならぬ"月記"となっているこの駄文であるが、今回も4月の活動報告を中心に記すことにする。
この4月も瞬く間に過ぎ去ろうとしている(いぬ(る)、にげる、さる、に続く"し"から始まる適当な呼称を1時間ぐらい考えたが思い浮かばず結局断念、うーん)。
最近演奏の少ない私には珍しく3月31日と4月1日に連続して本番があった。
3月31日は浅草公会堂にて、同人である「胡弓の会『韻』」の20周年記念演奏会に出演、大好きな宮城道雄作品を大勢で演奏する楽しい舞台であった。打ち上げもそこそこにその日の内に関西へ戻り、翌4月1日は滋賀県の米原と長浜で昼夜のダブルヘッダー公演に参加した。元々箏の演奏家でいらっしゃる会主の内藤方干さんとはもう20年近いお付き合いになる。10年ほど前に"ドレミ・ポップコーン"というドレミ調弦のコンパクトな箏を開発し、現在はご自身の演奏も"ドレミ・ポップコーン"に専念され、その普及に心血を注がれている。初めてお会いした時とまったく変わらぬ雰囲気とエネルギーで、ひたすら前進しようとするそのお姿には感動すら覚える。今回のコンサートは、教室の生徒さんと関係者、そして一般の皆様を対象にしたプログラムで、ドレミ・ポップコーン、ウッドベース、和洋パーカッションに私の尺八の4人編成で『情熱大陸』『また君に恋してる』『春が、来た(ユーミン)』『マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン』ほかをお聴きいただいた。『情熱大陸』などは久しぶりに白目をむきそうな忙しい曲であったが、こういう曲もたまにやるととても面白い。連ちゃんのダブルヘッダーでくたくたに疲れたけれども無事好評をいただくことができ安堵した。
4月16日には私が呼び掛けて開始した、関西在住の尺八家6名による本曲会「長閑けき春の尺八本曲」が行われた。偶々であるがこちらも20年の節目であり、またこの会は秋と春(秋から始まった)の年2回開催していることから回数としてはちょうど40回目になった。自賛を省みず、よく同じメンバーで誰一人として欠けたり休んだりすることなくここまで来れたと思う。あらためてメンバーの岡田道明さん、倉橋容堂さん、志村禅保さん、永廣孝山さん、米村鈴笙さん(五十音順)に感謝したい。私は初心に帰る意味もあり、第一回目に取り上げた『松巌軒鈴慕』を初回のA管からG管に持ち替えて吹かせていただいた。出来は合格点ギリギリの60点といったところか。第一回を始めた頃は、20年も経とうものならどんな曲でも、どんな尺八でもサーラサラのバーリバリに吹きまくれる私を想像していた自分がいたが、尺八は、本曲はそんなに甘いものではなかった。良き竹友を得て、あと20年はがんばりたいと決意を新たにした。
これらの本番に加え、私主催の今年度の本曲講習会がスタートしたほか、5月に行われるコンサートのリハーサルや6月に予定されているリトアニア公演の下合わせなどもあり、4月はほとんど空き日がなかった。ほんとうにありがたいことである。
そんな中、4月21日の横山勝也先生のご命日(早いもので三回忌)には運よく都合が合い、清水市の菩提寺にお参りすることが出来た。現地の門人に案内してもらい、さっと行ってさっと吹かせていただいてさっと失礼しようと思っていたら、到着した時にはまだ法要の途中で、突然お邪魔したにもかかわらず、奥様、お嬢様、ご親族の皆様があたたかく迎え入れてくださり、図らずも皆さん勢揃いの前での献笛となってしまった。先生作のA管で『山谷』を吹奏したが、こちらは30点にも満たない出来で"来てくれたのは嬉しいんだけどねぇ、ぼかぁそんな風には吹かないよ"という声が聞こえてきた気がした。6月2日に予定されている「国際尺八フェスティバル in 京都」の中の「横山メモリアル」ではもう少しマシな演奏が出来るようになっておきたい。
閑話休題、私は芝居を観ることも好きである。関西の小劇団には知己が十数名ほどは存在し、それらの人の出演する舞台には都合がつくかぎり足を運んでいる。それとはまったく関係ないが、4月中旬には、娘が俳優養成所に通っている劇団の大阪劇団員公演があり、娘も端役("アンサンブルキャスト"というらしい)で出演させていただけることになったので観に行った。
個人技が中心の我々とは異なり、個人技を持ち寄っての団体戦である演劇は、音楽とはまったく違った面白さがある。そう意図して演出されたのであろうが、舞台上を右から左に、また、上に下に大勢のキャストが動き回るダイナミックな展開は小気味よく、痛快であった。大人から子供まで、膨大な労力と時間をかけて一つの作品を作り上げていくそのエネルギーに感嘆した。
ちょうど同じ時期に、日本の演劇界のトップランナーのお一人でいらっしゃる野田秀樹さんのインタビュー記事が新聞に載っており、大いに共鳴するところがあったので紹介させていただく(このところ新聞記事の借用が続いておりますがよろしくどうぞ・・・「何がよろしくや!」というツッコミは無しよ)。
単身でロンドンへ乗り込み、英国の俳優さんたちと芝居を作り上げた野田さんについての問いかけに対しこう答えている。
野田「若い人がもっと先へ行けるための、僕らの年代がやれることのギリギリはやろうと思います。自分のためにやってはいるのだけれど、僕の上の世代だって、蜷川(幸雄)さんは日本のカンパニーを持っていくギリギリを見せてくれた。僕は一人飛び込んでいくギリギリをやって、僕なりの限界を見せて、次がどうするか。
できるだけ地平を広げておかないと、面白いやつが出てこないんですよ。僕なんか、上の世代の恩恵を受けているわけで、〈中略〉先行世代にすごい才能があって、あの時期に切り開いてくれたので、ある部分に関しては自分が苦労しないでやれています。そのしなかった苦労の分を別のところへ向けて。同じことをやってもしょうがないし。〈後略〉」(毎日新聞「時代を駆ける」欄より)
深い思索と行動力、ここにも凄い人はおられた。
翻って「私はギリギリまでやっているか、やろうとしているか」と自問してみる。
・・・そう言い切れるだけの自信はまったくない・・・・あっ、一つだけ私のギリギリがあった。私の稼ぎである。私の収入は一家4人を養うのに充分ギリギリであった。そんなことは公表することでも自慢することでも何でもなく、その状況からは一日も早く脱出したいものである・・いやいや、せねばならない。
自分の収入とは関係なしに、私達に続く世代に道を示していくことは我々の使命でもある。思い立って若手尺八奏者の本曲会をプロデュースすることにした。頭の中でおよそのプランは決まっていて今秋ぐらいには開催したいと思う。他にも、妄想に近いようなことまで描いている青写真はいくつかあり、自分自身が発展途上なのではあるが、身体の動くうちに一つづつ形にしていきたい。
精神的なだけでなく、経済的にも豊かな明日を目指し5月もガンバロー!!!!!
「竹は人なり 竹は一鳴り 竹は火となり 竹は灯となり」
2012-3-31
週に2,3回通っているスイミングスクールは私の家より自転車で10分くらいのところにある。そこへ行くルートは5通りぐらいあり、その日の気分と信号の引っかかり具合で変えている。
その1つのルートの途中に去年秋、黒くて迫力のある建物が出来た。その建物には波打った文字で「凱風館」と書かれた看板が取り付けられている。"これは何の建物だろう""どんな人が住んでいるのだろう"としばらくの間思っていたのであるが、ある時インターネットでそれが判明した。
そこは元神戸女学院大学教授で、思想家にして合気道道場主でいらっしゃる内田樹先生の新居兼道場であった。間口はさほど広くはないが奥行きがかなりあり、1フロアに賃貸マンションならゆうに4軒ぐらいは入りそうな敷地である。
偶々見つけた先日の新聞に内田先生へのインタビュー記事が載っており、その中で「凱風館」のことも紹介されていた。
拝察したとおり1階のスペースは75畳もあって、その道場で約150人の門弟の人々が汗を流されているとのこと。内田先生は教育者だけあられ、その道場を「武道と教育研究の拠点にしたい」と考えていらっしゃると記されていた。まったくもって素晴らしいことである。
その記事にはこうも書かれていた。「見えてきたことがあった。合気道の極意は相手に勝つことではなく、敵を作らないこと。会得するには一人一人が心身の動きを探求し、それを粘り強く支援するしかない」
そして文末には道場主の信念としてこう書かれて記事が閉じられてあった。
「才能がいつ開花するなんて分からない。それを楽しみにいつまでも待ち続ける」(毎日新聞「ひと」欄より)
私が今、尺八に対して、また、門人に対して向き合おうとしている姿勢もまさにこれである。ウチのほんのご近所にこのような、私と志を同じうする大先生がいらっしゃることに大いなる勇気をいただいた。心の師として、これからも何日かに1回は「凱風館」の前を通らせていただくことにしよう。
閑話休題、この3月はハードな本番が多く、殆どほかのことが出来なかったのであるが、最後の日曜日で一段落ついたので、家人の借りていた映画「おくりびと」をDVD鑑賞した(ついこの間の映画だと思っていたがもう4年も前の作品だった。私は「おくりびと」ならぬ「おくれびと」であった)。
評判に違わぬ良いシネマだった。モックンは期待どおりの好い演技であった。山崎務さんもいつもながら素晴らしい。主役から端役まで隙のない実力者が見事に揃っていた。
その中で最も私の心に響いたのは笹野高史さんであった。決して目立ち過ぎない芝居でありセリフ回しであるが、一つ一つの仕草、言葉がジーンと私の心に響いてくる。まさに名優というほかはない。私もそんな、人の心に届く音を出したいと強く思った。
“3月は去る”のとおり、バタバタとしている間に去ってしまおうとしているが、3月31日、4月1日と続けて演奏の仕事が入っている。私なりに、人の心に届く音を出す試行をさせていただける機会である。横山先生の言われた「その人は生涯に一度しか尺八の音を聴くことがないかもしれない。それが君の尺八かもしれない。その人を思って吹きなさい」という教えを実践する場でもある。
ありがたいことこの上ない。
「一生修行もまた楽し」
2012-2-29
一月はいぬ(いぬる)、二月は逃げる、とはよく言ったもので早くも二月が逃げようとしている。
しかしありがたいことに私の二○一二年二月はスリリングかつエキサイティングなひと月であった。
前半は、レッスンの他に、月末や来月以降に予定されているイベントの準備・練習をしながら、竹友岡田道明君のリサイタルの手伝いなどをして過ごした(岡田君は今回も一段の進境を示す演奏でうれしくなった)。
その間に先月の検診の結果が来た。私の身体を気にかけてくださるありがたい方がいらっしゃるのでご報告させていただく。肝機能・・・OK、尿酸値・・・OK、コレステロール・・・OK、昨年引っかかった検査値はほとんど改善されていた。ただ血圧だけが減量の効果なくグレーゾーンのままであった。コメントには「減塩しましょう」と書かれてあった。くやしいがこの一年は大好きなラーメンやうどんなどを“全汁”しないように心がけることにした。
閑話休題、話を本題に戻すと、2月19日には「石の会独奏会」を開催した。これは門人の“冬の甲子園”である。
およそ20年前、門人会を開きたいと考えた私は、私のヒマな8月に「石川利光尺八教室・夏の演奏会」を開催した。これが門人達に刺激を与え“夏の甲子園”として年中行事になった。それから10年ほどするとさらに熱心な門人が増えて“一年に一回の発表会では物足りない”との声が高まったため、もう一回研鑽披露の場を作ることにした。時期は8月のちょうど半年スパンである2月に全員独奏で勝負することに決めた。ついこの間始めたような気がしていたが今年でもう9回目になっていた。ほんとうに月日の経つのは早いものである。
今年の第9回は一つの到達点に達したように実感した。全24曲がすべて本曲(古典本曲、琴古流本曲)で、熱演、好演の連続であった。若手プロ、およびそれに準ずる奏者が6~7名おり、演奏会としてもそこそこのレベルにあると自負するが、今回、私と若手プロが驚嘆、賞賛したのはアマチュアの、趣味で尺八を愛好されている人たちのレベルの高さである。ある部分だけを切り取ると、私やプロを凌ぐような音、演奏をされた方が一人や二人でなかった。
打ち上げにおける私のコメント(聴きながら書いた私の感想)も、プロには辛く、おっちゃんたちへは絶賛が相次いだ。ここからまたレベルを維持、向上させるのは並大抵のことではないが、それぞれにはぜひ継続していただきたく思う。
私は、縁あって私のところへ習いに来る人には皆、ひとかどの吹き手になっていただきたいと願っているのであるが、今回の演奏会はそれが見事に具現化されていてまさに至福のひと時であった。
その四日後、私は大阪の中央部、南船場にある「船場サザンシアター」の舞台に立っていた。
古くからの知人で、小学校の教諭をしながら劇団を主宰されていた当麻英始さんが昨年職を辞し、一念発起して劇場を作り上げた。それが「船場サザンシアター」で、定員25名というミニシアターなのであるが、お客様本位にとてもデラックスで観やすい作りになっていて、まさに当麻さんの思いがいっぱい詰まった空間である。そのシアターのこけら落としの芝居に招かれた時に“劇場の企画で石川さんの公演をやりたい”との相談を受け、激励の意味を込め、謹んで喜んでお引き受けすることにした。
当麻さんから打診を受けた興行日程は木曜から日曜までの4日間、土曜日は昼夜の2回公演で計5公演であった。私のスケジュールを優先していただき、仕事の少ない2月下旬に日程を設定した。
公演は「石川利光 尺八の世界」とタイトルがまず決まった。今回は完全にソロで、また、普段尺八にご縁のない人のご来場が予想されることから、何とか尺八に興味を持っていただける内容にしようと知恵を絞った。久しぶりに熟考した。
まず、私の中での大きな柱である古典本曲と福田蘭童曲を中心に据え、そこに日本および世界の名歌を添えて聴いていただきやすい構成を考えた。全曲無伴奏だとお客様がちょっとしんどいと思い、CD「尺八浪漫」に収めていたピアノカラオケ音源を使うことにした。他に使えるようなカラオケ音源は無いかとネットで探したところ、泉州尺八工房の三塚さんが名曲を集めた「エッセンスアゲイン」というマイナスワン(伴奏が録音されていて尺八の部分だけが除かれてある)音源のCDを作られていたので、その中から『ジュピター』と『大きな古時計』を拝借した。また、休憩(とは名ばかりの)時間に、各座席に備えつけた水道管尺八で実際に尺八を体験していただくことにした。
こうして「石川利光 尺八の世界」の中身が固まった。正味70分ぐらいの公演時間で短いメロディも数えると16曲ほどになった。
いよいよ初日、木曜日の20時30分という、良い子はもうおやすみの準備をする時刻の開演で動員を心配したが、11名の奇特な人々にお越しいただき無事幕を開くことが出来た。用意したカラオケ演奏と尺八体験コーナーは予想以上に喜ばれた。一度流れが出来るともう大丈夫である。選曲とトークに修正を加えながら5回の公演を何とか乗り切ることが出来た。
肉体的にきつくなかったといえば嘘になるが、今回の連続公演は私のソロコンサートの一つのモデルケースが確立出来た、という意味においてもとても収穫があった。何よりもまず足を運んでくださったお客様、そしてシアターの当麻さん、素敵なチラシを制作してくださった新谷さん、受付などのスタッフの皆様に心より御礼申し上げる次第である。
その二日目にあたる日の新聞に桂三枝さんのインタビューが載っていた。
―重鎮になっても芸を磨く熱意は衰えませんね。
三枝 今年69歳になりますが、60歳の時、桂米朝師匠に「落語家としてはこれからやなあ」と言われました。言われてみればその通りで、40代は戸惑いの年代やったし、「努力する意味」が分かったのは50代でした。よく知っている落語を稽古するのはしんどいんです。しんどいけど繰り返し稽古すると、落語が体の中に入ってくる。「落語を操れる」と感じたのは50代でした。それまでは落語に操られていたんですね。米朝師匠の言葉にハッとして、60代は「挑戦の60代」にしました。70代は「快楽の70代」にしたいです。世間体とか気にせず、肩の力を抜いて楽しく高座を務めたいです。(毎日新聞 2012年2月24日夕刊)
私から見ると三枝師匠ほどの大御所でもこの心意気である。何と素晴らしく勇気づけられるお言葉であろうか。不肖私も同じ曲を繰り返し繰り返し吹き続けていると、少しづつ体の中に入ってくる感覚を得られるようになってきた気がする。「尺八を操れる」にはほど遠いが、自分の道をまっすぐに見据え一歩ずつ進んでいきたい。
「天命を知り、足ることを知る」
2012-1-31
1月27日、一年に一回の定期健診を受診した。
まず初めに身長、体重、腹囲を測定する。
受診表には前年のデータが記録されており、その横に今回の数値を記入する様式となっている。
体重8Kg減、身長0,1Cm減(ざんねーん)、腹囲10Cm減という結果で、体重と腹囲を測てくださったおばさん(失礼・・・職員のかた)にぎょっとされた。どちらのコーナーでも“すごく減ってますけど・・・?”と少々訝られ、 私は“あぁ、そうですねぇ。特にがんばった訳でもないですけど、水泳と節制で結果ダイエットとなりました”と答えた。この時の私はちょっぴり「どや顔」になっていたかもしれない。
前年までの数値で肝機能と尿酸値が黄信号、血圧がグレーゾーンだったので、私は受診日の4日前から禁酒を敢行して備えた。血液検査を含む総合的な結果は1~2週間で届くとのことである。ビールもどきのノンアルコール飲料で過ごした4日間はなかなかつらかったが、減量と運動の効果がどのように現れるか、とても楽しみである。
しかしまあ、50年生きてきたということは身体もそれだけ使ってきたということで、あちこちに変化が訪れてきている。左肩は軽い五十肩になり、真上に伸ばすと少々ひきつれのような痛みが起こる。左目は水泳のゴーグルが擦れることによる、かぶれがいつまで経っても治らない。肉体を酷使したあとの疲れはきっちり二日後に来るようになった。
それでも私は幸せである。
敬愛する曽野綾子さんは“私は自分が生きたのではなく、社会に生かされて来た。日本に生まれたというだけで、私は幸福になった。ばかな奴だ、と思う人もいるだろうが、そう思えることは私の一つの才能だ(「ないものを数えず、あるものを数えて生きていく」まえがきより)”と記されたが全くもって同感である。
幸いなことに物欲が無くなってきたということも自分なりの幸福度を高めている一因であろう。住むところは雨露がしのげればいいと思えるし、車は走ればそれでいい。着る物は小汚くなりすぎずに寒さが防げれば充分である。
こう書いてしまうと、もの凄いおじいちゃんになったかのようであるが、一つだけは強い欲求がある。
それはもう少しだけましな尺八を吹きたい、目指す音を出したい、ということである。30数年尺八を吹いて来て、自分に出来ること、出来ないことがおよそ見えてきた感が無きにしも非ずであるが、これだけは何とか抵抗したい、打破したいと願う。
昨年南アジアの小国、ブータン王国の国王夫妻が来日された。前国王が提唱した、国民総幸福度が世界でも飛び抜けて高い国だと紹介され大きな話題になった。国王さんが幸福なのはあたりまえっちゃあたりまえである。私が驚嘆し、うらやましく思ったのはその国民の笑顔である。パソコンで検索するとブータンの人々の写真をたくさん見ることが出来る。そのどれもが、誰もが心から幸福を感じていることが伝わってくるのである。人々も素晴らしいが、やはりその環境を作っておられる国王一族も素晴らしいのであろう。
畢竟幸福とは自分の中にあるものである。感謝の心を忘れずに、愛する家族や私に関わってくださる人々に幸福を届けられるようがんばって生きて行きたい。
なんだか中学生の作文のようになってしまったが構わないのである。
今年も残り11ヶ月、よろしくお願いいたします(これって開き直り?)。
「感謝感激雨霰」
2011-12-29
“はい、OKです。お疲れさまでしたー”
“ありがとうございましたー”
12月某日、本年最後の緊張する本番が終わった。
気がつくと今年も残すところあとわずかである。そこで私にとっての2011年を総括してみたい。
まず演奏について記すと、今年はここ10年ぐらいの間で最も本番の回数が少なかった。このことを人に話すと“や
はり大震災が影響しているんでしょうか”という反応が返ってくるがそういう訳でもない。関西を中心に演奏活動
を行なっている私にはその影響は殆ど感じられなかった。むしろ、長引く不景気の影響で依頼演奏の数が減ってい
ると思われる。
自主企画の方はおよそ予定どおり門人独奏会、夏の演奏会、本曲講習会、リサイタル、三ツ星会、春秋の本曲会な
どなど、充実した形で達成することが出来た。年2回の門人会は回を重ねるほどに向上が見られ嬉しいかぎりであ
る。15回目という節目を迎えたリサイタルは今回も支援してくださる人のありがたさが身に沁みた。
春と秋に行なっている関西在住の専門家6名による本曲会は初回からの顔ぶれで感激の20年目を迎えた。自賛であ
るが素晴らしいというほかはない。また、昨年より始めた三曲の三ツ星会は2年目の公演を大震災の復興支援とい
う形で行ない5万円ほどの義援金を送ることができた。どちらの同人会もあと20年続けたいと願う。
すべての行事においてお世話になった方々に心より御礼を申し上げる次第である。
海外へはここしばらく行く機会がなかったが、今年はドイツへ行くことが出来、その本番の舞台で貴重でありがた
い経験をした。プライベートではハワイを訪れ、そこでも一度演奏の機会を得た。来年は6月にリトアニア(それ
って何処にあるの?)への公演旅行が決まっており、今から楽しみにしている。
習いに来る人の数は、今年の新入会員が8名いたにも関わらず、それを上回る休会者がおり、実質減となった。私
は基本的に「去る者は追わず、来る者は拒まず」というモットーなので、本人に来る意志がなくなれば私の力不足
と感じてそれ以上追いかけることはしない。しかし、連絡も予告も無しに来なくなる人がいることには疑問を感じ
てしまう。習い事とはそんなものではないだろう。追いかけて半ば強制的にでも続けていただく方が、結果的にご
本人のためになるのであろうか。自問するが答えは出てこない。ただ、とんでもなく面白いが、面白くなるまでが
とんでもなくしんどい楽器である尺八の、初学者への導入方法について、いよいよ真剣に考えなくてはならない時
期に来ていることは確かである。
つい最近まで自分がまさか50歳になるとは想像も出来なかった。しかし、齢を重ねるとはそんなものだろう。私の
50歳の1年は収支的にはかなり厳しかったが、とても満足の行く1年であった。肉体的には週2、3回の水泳教室と少
々の節制(でもお酒はやめられまへん)で8Kgほど減量し、快調そのものである。やはり健康あっての物種であ
る。
さて、冒頭の本年最後の本番とはNHK-FM「邦楽のひととき」の収録であった。放送用の録音が1年の締めと
は、まさに今年の舞台の少なさを象徴するかのようである。14分以内で古典本曲を、という依頼に応じ今回は『瀧
落』と『古伝巣籠』の2曲を選んだ。何という偶然か、2回放送されるその2回目(再放送)が、1月17日の午前5時
35分頃~49分と、阪神淡路大震災の発生時刻であった。『瀧落』は追善曲として吹かれることは記憶にないが、私
は霊鎮めの気持ちを込め、普段よりも極めてゆっくり吹かせていただいた。『古伝巣籠』は親子の情愛を謳ったも
ので、今回は私の恩師であり、また父のように慕っていた横山勝也先生のことを想いながら吹いた。『瀧落』はテ
ストのあと1テイクでOKだったが、『古伝巣籠』は細かな手が決まらず3回吹き直してやっとOKとなった。勝也
銘でない1尺7寸管を吹いたからであろうか。“僕が作った尺八を使わないからだよ”という横山先生の声が聞こえ
たような気がした。
それはさておき、NHK-FMは現在インターネット配信も行なっていて、日本時間の同時刻なら世界中で聴くこ
とが出来るそうである。あいかわらず拙い演奏であるが、私なりの今の姿をお聴きくだされば幸いである。
嬉しいことに、来年はすでに今年の総回数に近い演奏依頼が入ってきている。私を必要としてくださっている人々
がいることに感謝し、さらに飛躍したい。今年も1年ありがとうございました。
「私はバッチリ持っている 」
2011-11-23
秋の爽やかな晴天に恵まれた10月23日、私にとって記念すべき第15回リサイタルを開催することができた。タイト
ルの『知命』は、10年前の『不惑』リサイタルを行なった時から決めていた。
15回と50歳という二つの節目にあたることからパーっとやりたいと考えていた私は、現在一緒に活動している人達
に出ていただこうと考え、人選と選曲を行なった。その結果、曲目は5曲であるが、私を含めた出演者は13名にな
った。
まず、盟友である米村鈴笙君と岡田道明君、そして私との尺八三本会「風童」による『第四風動』(杵屋正邦作曲
)で幕を開けた。
CD『風動』に収められている曲で、三人で活動するきっかけとなったナンバーである。その後もライブなどで幾度
となく演奏しており、スリリングなところも楽しみながら無事にオープニングを飾ることが出来た。
米村鈴笙君とは学生時代からの付き合いでもう30年になる。音、技術共に益々充実し現在はたいへんなモテキであ
る。岡田道明君は学校のクラブの後輩であるが、こちらももう25年くらいの付き合いになる。彼も京都の邦楽界に
は欠かせない人材になっており、存在感を増している。どちらもめでたいことである。
しかしまあ、米村君は私より一学年上、岡田君は私より二学年下なので、それほど年の差はないのに、見てくれは
私がとびぬけてオッサンになってしまったのは甚だ理不尽で不本意である。ともあれ、「風」の「童」ではなくな
ってしまったが、三本会は若い心を持ち続けてこれからも続けていきたく思う。
第2曲目は必ずプログラムに入れることにしている古典本曲から、今回は海童道祖(わたづみどうそ)の吹かれた
『鶴の巣籠』を選んだ。大阪では何故かこの曲を吹奏したことがなかったことから、挑戦の一曲として加えること
にした。本当に至難の曲で、綱渡りをしているようなピリピリした緊張感を持ちながら吹き終えた。出来は自分の
今の力量からすると75点といったところか。
後日門人から「あの曲は音が上から降ってくるようだったので、顔を上げて聴いていました」という感想をもらい
、私の目指す音と合致していたのでとても嬉しくなった。やはり古典本曲は一生修行である。
第3曲目は門人達と一緒にやりたいと考え、あたためていた尺八六重奏曲『組曲 美星』(川村裕司作曲)をとり
あげた。ジャズテイストに溢れる素敵な一曲である。
出演の門人5人のうち2人が東京在住ということもあり、全員での練習回数が充分に取れないことを予想した私は、
メンバー6人が揃った8月の門人会において試演を行なった。これが奏功し、本番もまずまず納得のいく出来栄えに
なった。特に尺八をなさらない一般の方の間で評判が良く、尺八の新たな一面を知っていただくことが出来たこと
も嬉しかった。
第1尺八は松本太郎君。豪快な音を持つが、これまでは音の扱い、演奏スタイルのオリジナリティが強く、得手、
不得手がはっきりし過ぎていた。本人の努力、人生経験、周りの人の導きなどにより近年ようやく不得手が少なく
なってきたようである。今回のリサイタルの直前に行なわれたスウェーデンの笛の名人、ヨーラン・モンソンさん
とのジョイントリサイタルは、彼ならではの世界を作り上げることに成功していて見事の一語であった。
第2尺八は岩本みち子さん。ガーガー吹く共演者の中で「埋もれてしまいました」と反省の弁を述べていたが、受
け持ちの第2パートがそのような役割であったことも確かである。過日行なわれた某合奏メンバーのオーディショ
ンにおいて受験者6名の中で断トツ合格を果たしたことは自分のことより嬉しかった。また、合奏団「みやこ風韻
」の旗揚げ公演の尺八四重奏曲で長管パートをを立派に吹いていたことも特筆すべきことである。これからも尺八
のイメージを打ち破る活動を期待する。
第3尺八は安田知博君。音のツヤ、ピッチ、歌心、あらゆる面で、私を含めた石の会において随一である。今回も
私の第4パートと並ぶ、ダブルのソロパートの一つを受け持ってもらったが、これがまた絶品の演奏であった。リ
サイタルのあった日の夜に、感動さめやらぬお客様から「安田さんのソロを聴いて落涙しました」とのメールを頂
戴した。これからもさらにその技量に磨きをかけて、人の心に沁みわたる音を届けて欲しい。
第5尺八は松本宏平君。厳しい東京で奮闘している成果が着実に出てきている。『組曲 美星』の本番は最初の『
石の会VS菅原組』から数えると3回目になるが、ソロ部分は回を重ねるほどに良い歌に変わってきた。古典本曲を
自分の中心に据えているところも頼もしいかぎりである。今はいろんな面で厳しいことのほうが多いと思うが何と
かやり遂げて欲しいと願う。
長管の第6尺八は小濱明人君。現在のところ石の会の若手ではエース格である。多くの先輩ミュージシャンから声
がかかるところが素晴らしい。また、新しいもの、古いもの、両方に勉強熱心なところも立派である。パンフレッ
ト用のプロフィールをもらって海外公演に26カ国も行っていることには驚いた。今度はぜひ私も一緒に連れていっ
て欲しい。
『組曲 美星』は、私はこれまでに国際尺八研修館のメンバーとして2回、2009年の『石の会VS菅原組尺八抗争』
のコンサートにおいて一パート2名ずつで1回という演奏経験を持つが、今回石の会のメンバーだけでこの曲をやれ
たことは大きな喜びであった。
休憩を挟んで第4曲目は、昨年より「三ツ星会」として活動を共にしている箏の細見由枝さんと三絃・歌の竹山順
子さんをお招きし、“やらやらめでたい(歌詞より)”『尾上の松』(作者不詳、宮城道雄箏手付)を気合充分で
吹かせていただいた。
古曲の暗譜演奏はほんとうに怖いのであるが、譜を見ていると踏み込めない世界に入ることが出来て面白いことこ
の上ない。23分という長丁場の演奏にお休みになられた人もおられたようであったが、そこはノープロブレム、私
自身がお休み(暗譜ミス)することなくゴールまでたどり着くことが出来、まさに“やらやらめでたや”であった
。
細見由枝さんとは邦楽普及団体“えん”の第1回目のコンサートで初めてお目にかかって以来なので、もう20年を
超えてお付き合いさせていただいている。宮城道雄曲と福田蘭童曲を中心としたライブ「管絃浪漫」などもご一緒
した、音同士で会話の出来る数少ない奏者である。私にとってはお姉さんのような存在である。
竹山順子さんと知り合ったのはまだここ数年なのであるが、その美声に私は惚れ込んでしまった。彼女の声を聴き
ながら吹く地歌はとても心地よい。近年は関西を中心に地歌の三絃と歌で名を馳せていらっしゃるが、箏の音色も
また絶品で素晴らしい。竹山さんも只今モテキ到来である。「風童」に加えて「三ツ星会」を結成出来たことは私
にとって大きな喜びである。この会も20年は続けたいと思う。
そして、リサイタルを華やかに締めくくりたいと考えた私は『日本民謡組曲第一番』(福島雄次郎作曲)を終曲に
選んだ。日本各地の民謡を上手くブレンドし、アレンジを施された名曲である。この曲の助演は兄・石川憲弘と、
そのグループ「アンサンブル昴」のメンバー横山裕子さんと杉浦 充さんにお願いした。「アンサンブル昴」の学
校公演においてよくやらせてもらう一曲で、いつも半分ぐらいのカット版なので“いつかは全曲演奏してみたい”
と思っていた曲である。出演者がそれぞれに忙しく、当日を除くと1回しかリハーサルが出来なかったのであるが
、さすがに達者な人ばかりで本番も不安なく終えることが出来た。お客様の反応も良く、記念すべきリサイタルの
終曲にふさわしい曲になった。
兄・石川憲弘は「石川ブロス」で年に数回共演の機会を持っているが、兄弟でもよくこれだけ違うと思うぐらいき
っちりした性格であり、シュアーな演奏である。これだけ音の粒立ちがはっきりした箏弾きはなかなか見当たらな
い。横山裕子さんはその爪音が大好きな箏奏者である。それに元ロック少女ゆえ醸し出されるのであろうか、演奏
のグル―ヴ感が素晴らしい。お客様からも「十七絃箏の人がとても楽しそうに弾いていたのが印象的でした」とい
う声を頂戴した。杉浦 充さんはパワフルでダイナミックな演奏が持ち味の箏奏者である。男性ならではの音量が
魅力であるが、今回の会場では鳴り過ぎるため少々控えていただいた。二十絃箏の独奏などは近年いよいよ充実し
てきたようである。同じメンバーでこの曲をまた演奏してみたいと思った。
そして“私は嫌いです”といいながら、関わってくださった皆様への感謝の意を込めて、殆ど毎回吹いてしまって
いるアンコールである。今年はあえて『手向』を選んだ。気負うことなく静かに吹かせていただいた。ごく最近に
なって、ようやっと力が入りすぎずに本曲を吹くことが出来るようになってきたように実感する。
こうして私の『知命』リサイタルが幕を閉じた。今回も東京、神奈川、三重、広島など遠方からも多数駆け付けて
くださりありがたいかぎりであった。
現在北海道日本ハムファイターズの斎藤佑樹投手が学生野球を卒業する時、「いろんな人から斎藤は何か持ってる
と言われ続けてきました。今日、何を持っているのか確信しました。それは、仲間です。」というコメントをし、
話題になったことは記憶に新しい。
私は何か持っていると言われたことはないが、今回のリサイタルで持っていることを確信した。仲間、門人、スタ
ッフ、そして会場に足を運んで下さったたくさんのお客様を確かに私は持っている。竹のご縁で持たせていただい
ている多くの人にあらためて感謝したい。
このありがたいリサイタルの数日後に友人の箏演奏家、福原左和子さんとご一緒する機会があった。顔を合わすな
り「石川クンごめんね、リサイタル行けなかった。どうだった」と訊かれた。少々癪に障ったので「バッチリやっ
たで」と答えたところ「そんな小学生みたいな受け答えしないの」とたしなめられた。
でも構わないのである。リサイタルは皆のおかげを持ちバッチリ成功したのである。
私はバッチリ持っているのである。
「 独逸に行って尺八を吹いていたのはドイツだい・・・・アタシだよっ 」
2011-9-29
尺八を吹くことを生業としていての大きな楽しみの一つは旅である。
日本国内の旅ももちろん楽しいが、海外はなおさら楽しい。
半月ほどの間に島根県とドイツへ行く機会を得た。
島根へは熊野大社という由緒正しい神社で毎年開催されている「八雲国際音楽祭~庭火祭~」への出演のお声が掛
かり訪れた。同道したのはトルコ音楽楽団様ご一行である。いただいた予定では9月1日に島根へ入り、2日が学校
公演2校、3日が庭火祭、4日に神戸へ移動して夜にコンサート、というなかなかの過密スケジュールであった。
最初にトルコの音楽家とご一緒すると聞いた時、“トルコ音楽”とはどのような音楽か、まったく想像がつかなか
った。ずっと昔にNHKでやっていたドラマ「阿修羅のごとく」でバックにかかっていた音楽が確か“トルコ軍楽”
だったなあ、と思い出し、少々調べてみたがそれとは違うようである。そうこうしているうちに神戸のコンサート
のチラシが届き、そのコンサートのプレイベントとして“トルコ音楽を学習する”というマニアックなイベントが
あったので参加した。
今でこそ“トルコ”という国(トルコ共和国)はさほど大きくないが、その前身の“オスマン帝国”は、現在の、
東はアゼルバイジャンから西はモロッコまで、北はウクライナから南はイエメンまで支配した広大な大帝国であっ
た。そのため、それらの広大な地域で演奏された音楽は非常に多岐にわたり、様々な民族によって受け継がれてき
た、とのこと。現在の“トルコ”で演奏される曲は主に「宮廷音楽」の流れを汲むものと、「民族音楽」の二つに
大別され、今回の楽団ご一行様もその二種の音楽が主体となるということがわかった。
ご一緒したトルコ人の音楽家は4名で、うち2人は大阪在住、もう2人はイスタンブールとハンブルグからこの公演
のためにやって来られた。その4名の楽器はというと、「カヌーン」と呼ばれる膝置きハープのような弦楽器、「
サズー」などと呼ばれる日本の三味線に近い弦楽器、「ネイ」と呼ばれる斜めに構えて吹く管楽器(これがまた難
しくて私はまったく音が出なかった)、そしてたくさんの種類の打楽器、などなどで、私はどれも初めて目にする
ものであった。おまけに全員打楽器も見事に叩き、歌も歌う。トルコの音楽家にはそれが普通なことのようで、私
のように、専門とする尺八一つ満足に吹けない人間とはえらい違いであった。
少々専門的、かつ乱暴な話になるが、トルコ音楽は半音を非常に微細に分けて並べた音階“マカーム”を組み合わ
せて、半ば即興的に作っていく音楽で、常に色合いが変化していくような印象を受ける。特に、その“マカーム”
を自在に操り、他のメンバーをインスパイアする「カヌーン」のトゥランさんは“これぞ名人芸”というより他は
ない圧巻の演奏であり音楽であった。実際のところ、世界でも有数の奏者であるらしい。
島根、神戸と都合4回の演奏の機会があった。どの公演も私がまず古典本曲を何曲か吹き、そのあとトルコの皆さ
んの演奏、そしてラストに私と今回のコーディネイターであるバンスリーのHIROSさんが加わってセッションで終
わる、という内容であった。セッションはトルコ音楽の『鶴のマセッフ』という曲で、それならば、と尺八本曲の
『鶴の巣籠』を織り交ぜて乱入した。まったく自信はなかったが、必死のパッチでやったところは喜んでいただけ
たようで安堵した。久しぶりに痺れるような緊張感を味わった。あらためてトルコの音楽家、カヌーンのトゥラン
さん、サズーのセファーさん、ネイのトルガさん、打楽器のアポさん、そしてコーディネイターのHIROSさんに御
礼を述べたい。
島根から帰って数日後、私はドイツ行きの機上にいた。ボーフムという地方都市で行なわれている芸術祭の中の「
日本の仏教音楽を紹介する」というコンサートの出演者として、声明のグループ「七聲会」とのツアーであった。
途中、経由地ドバイでの機体不良などもあり、関空からほぼ一日半かかってボーフムに着いた。ボーフムというと
ころは昔炭鉱で栄えた街であり、現在はとても地味な田舎町といったたたずまいであった。
こちらでのプログラムは90分の公演のうち、前半を私の尺八古典本曲、後半を声明、という構成であった。700席
ほどのチケットは数か月前にソールドアウトとのことである。
尺八だけでおよそ40分持たせなければならないため変化をつけるべく、一尺三寸管、一尺八寸管、二尺二寸管、二
尺五寸管の4本を用意した。行きの飛行機の中でプログラムを何通りか考え、頭の中でシミュレーションした。殆
どが初めて尺八の音、古典本曲に接するであろうドイツの聴衆を飽きさせない番組が必須である。この時ばかりは
自分が尺八界の代表選手として失敗は許されない、と身が引き締まる思いであった。
まずつかみとして、日本の公演でもよくやるように客席最後部より『鹿の遠音』を吹きながら登場しステージに上
がった。そのあとは『本調(二尺五寸)』、『雲井獅子(一尺三寸)』、『鶴の巣籠(一尺八寸)』、『手向(二
尺五寸)』、『産安(二尺二寸)』の計6曲を連続して吹奏した。
近年はありがたいことに国内においても尺八本曲だけでお声がかかることがあり、このプログラムは特別変わった
内容という訳ではないのであるが、私はドイツの地にて生まれて初めての経験を得た。
1曲目の『鹿の遠音』を吹き終えたあと、尺八を離し感謝とご挨拶のお辞儀をした。想定ではここでいささかなり
とも拍手をいただくはずであった。ところが、お辞儀をしても、演奏中のシーンとした空気のままで咳声ひとつす
ら起こらない。私は完全に意表を突かれ、“これは一体どういうことや”と少しドキドキしながら2曲目の『本調
に移った。2曲目が終わっても空気は変わらなかった。上述したように曲ごとに尺八を持ち替える構成にしたので
あるが、その持ち替える間もずっと水を打ったような静寂を保っている。結局最後の『産安』に入るまでこのピン
と張りつめた静寂が損なわれることはなかった。終曲を吹き終わり“ありがとうございました”の長いお辞儀をし
たあと、少々困惑気味に舞台を降りようとする私の背中に、最初は静かに、そして間もなく会場を包み込むような
大きな拍手が沸き起こった。その拍手は私が完全に舞台から消えたあともしばらく鳴りやむことはなかった。
私は身が震えるほど感動した。このような経験は尺八を手にして以来初めてだった。私の演奏よりも、日本の“尺
八”というシンプル極まりない楽器と、虚無僧から連綿と受け継がれてきた“本曲”がドイツの地に於いても評価
されたのだと思った。
その感動と興奮醒めやらぬ中、私は急いで客席に回り第二部の声明を鑑賞した。
浄土宗知恩院系の高僧6名による声明の舞台は、それはそれは美しいものであった。お香が焚かれ、幻想的なライ
ティングが施された舞台を、儀礼用の装束を纏った僧侶達がある時は横に並び、又ある時は舞台上を廻りながら
得も言われぬ美声を発し歩いて行く。こちらは第一部の尺八とはうって変わって、視覚、嗅覚、聴覚などいろいろ
な感覚に訴える綜合的な儀式でありパフォーマンスであった。
この“声明”もドイツの聴衆は固唾をのんで聴き入り、終わりの余韻を嵐のような拍手が包みこんだ。
“成熟している聴衆”と言ったら良いか。「ドイツ人おそるべし」との思いを胸に会場を後にした。
一日半かけて現地へ赴き、本番の日、翌日のオフ日(この日はケルンの大聖堂とドイツの地ビール、ドイツ料理を
堪能した)、そしてまた一日半かけて日本へ戻ってくる、という準弾丸ツアーであったが、とても楽しく、良い経
験をさせていただいた。この場を使い声明の「七聲会」のお坊さん達、お世話になったスタッフの皆様に感謝の意
を表す次第である。
つくづく私は恵まれているなあ、と思う。好きなことを生業に出来、いろいろな経験をさせていただける。ありが
たいことこの上ない。
『人の生を享くるは難く やがて死すべきもの 今いのちあるは 有り難し』(法句経)
これからも尚一層感謝の心を忘れずに吹いていきたい。
「文月に母を想う」
2011-8-15
私にとって7月は母の月である。
私には二人の母がいたのであるが、ともに7月に旅立った。
私を産み、育ててくれた母が亡くなったのは私が10歳、母が37歳の時であった。持病の喘息をこじらせ、朝方に救
急車で病院へ運ばれた。
私があとから病院へ駆けつけた時には、母は鼻から管(くだ)を通され、その管からの酸素で生かされていた。数
十分の後、母は息を引きとった。よく晴れた、とても蒸し暑い7月2日の朝だった。
その後、父は再婚した。13歳の私の前に二人目の母が現れた。この母には多感な中学生の頃から、高校、大学、そ
して社会人になるまで育ててもらった。
原因不明の微熱が長い間続き、ある時検査のために入院したところ、膵臓ガンであることがわかり、それから1ヶ
月半位であれよあれよという間に亡くなった。日曜日に、当時師事していた師匠の門人会があり、打ち上げを済ま
せたあと病院へ見舞いに行ったのであるが、母がいるはずのベッドに母はおらず、きれいにかたづけられていた。
通りがかった看護婦さんにおそるおそる訊いたところ「今日帰られました」と告げられた。それからどのようにし
て帰ったかは記憶にない。慌しくなっていた玄関から中に入ると、母はすでに遺体となって床の間に眠っていた。
まだ日中の暑さが残る7月10日の早い夜、私が34歳、母62歳の別れであった。
私は毎年7月が来るとこの二人の母を想い出し、親孝行らしいことは何一つ出来なかったなあ、と自分を恥じ、無
念に思う。
さて、今年7月も半ばを過ぎたある日、自宅に一本の電話が入った。幼稚園の理事長をされている門人からの電話
で「家内が急に亡くなりました」という報せであった。一瞬私は絶句し受話器を持ったまま唖然としていると「家
内が好きやった、先生の『桔梗幻想曲』を葬式で吹いてもらえませんやろか」と、いつもと変わらぬ優しい口調で
話された。「わかりました。何をさておいても参ります」と取りあえずお答えした。手帳を拡げるとその日はレッ
スン日であったが、その時間帯だけぽっかりと空いていた。
お葬式の日も蒸し暑い日だった。数人の弔辞のあと、私の名前が呼ばれた。私は慈愛に満ちたそのご婦人の笑顔を
思いだしながら心を込めて吹かせていただいた。時折遺影を拝見しながら吹いていると何故かしら母の前で吹いて
いるような錯覚に陥った。
お葬式のあとでうかがったところ、そのご婦人は私のニ人目の母と同じ生年であられた。なんという奇遇、あたか
も母がそこにいるような感覚を覚えたのはそのせいでもあったのだろうか。
実は二人目の母は私が尺八のプロになったことを知らずに亡くなった。学校を卒業し、サラリーマン生活を始めて
からは配属地や勤務時間の関係もあり、私は家を出て自活していた。その間に尺八が高じてしまい、リサイタルを
やるために私は会社を辞めた。さすがにリサイタルへは両親を招待したのであるが、会社を辞めたとは言えず、親
の前では勤めをしながらのリサイタル開催と偽った。私が舞台で吹く尺八を両親に聴かせたのはこれが初めての機
会であった。母は「ボク(私のこと)、尺八うまくなったなあ」と喜んでくれた。その一年後に母は旅立った。最
後まで会社を辞めたとは言えなかった。
長い間私はこのことに引け目を感じていた。どこか後ろめたい思いを持ち続けていた。
お葬式で吹かせていただいている間に母の姿を感じたことは、母も聴いていてくれたということなのだろうか。母
がボクを赦してくれたということなのだろうか。
これから7月が来ると、このご婦人のことも思いだすに違いない。今年の7月もまたよく晴れた、蒸し暑い日が多か
った。
「竹の幸」
2011-7-3
良い音楽を聴いた後には、その感動の余韻がしばらく離れないものであるが、優れた絵画によっても同様の感覚を覚えるものだということを初めて知った。
青木繁展を鑑賞した。
私からすると、青木繁という画家は福田蘭童先生の父君という位置づけで、今回作品展を鑑るまではそれ以上でも以下でもなかった。蘭童曲のなかでもとりわけ好きな一曲の「わだつみのいろこの宮」は父君の同名の絵画作品が題材となっていたことから知っていたのは当然のこととして、それ以外には美術の教科書に載っていた「海の幸」という奇妙な作品くらいしか記憶になかった。結局はこの二つが二大代表作だったのであるが、今回の展覧会は“そして青木は伝説となった―。最初で最後の大回顧展。”との宣伝コピーに偽りはなく、油絵約60点、水彩画・素描など約170点、更に多数の関連資料など、28歳で没したとは考えられないくらいたくさんの業績が紹介されていた。
まず会場内の受付でもぎりを済ませ歩を進めると、いきなり真正面に「わだつみのいろこの宮」が現れた。不意にカウンターパンチをくらわされたようで驚嘆してしまった。しかしまあやはり実物は凄まじい。作者の念というか氣というか、あたり一帯にオーラが満ち満ちていた。そのシンボリックな作品を離れ展示順路に従うと、14歳の時の習作から年を追って、膨大な数の作品やスケッチが飾られてあった。特に学校を出た22歳の年の仕事量などは“ハンパない”くらいである。教科書で見覚えのあった「海の幸」も22歳の時のものであった。この作品もまた凄い妖気を放っていた。写真では絶対につたわらないナマの迫力である。実際にカンバスに向かうまでに、テーマを決め、構想を練り、下書きをする、時間なども必要なはずである。次から次から動機が湧きだしてしかたがない、というエネルギーの放埓ぶりに圧倒された。早熟の天才とはこういう人のことを言うのであろう。
美術センスの無い私はこの手の展覧会に行っても結構スイスイと見流していくのであるが、今回の作品群はそれを許さなかった。行きつ戻りつ行きつ戻りつして時の経つことも忘れてしまっていた。
旧約聖書をモチーフにした作品がいくつか続いた後、私は一枚の小さな画に釘付けになった。福田蘭童先生一歳半の頃の表情を描いた「幸彦像」であった。まん丸の顔にくりっとした眼、鼻筋はどっしりとして成人のそれのようであるが吸い口を含んだ口元は赤子そのものである。愛らしいことこの上ないが眼はどこか悲しげに見える。
お父さんはどのような想いでこの息子の画を描いたのだろうか。そしてこの息子を放り出し美術を選択した人生に悔いはなかったのだろうか。死の淵にある時、息子のことは頭をかすめたのだろうか。また、親に捨てられた息子は後年この画と出会った時に何を思っただろうか。様々な想念が次々と湧き起こり、しばらくその場を離れることが出来なかった。
青木繁の作品の多くは茶がかった独特のトーンをしている(あくまで素人の感想)。評価の分かれるらしい遺作「朝日」にあっては別人のような明るさを持っていて私はなぜか安堵したのであるが、その多くの作品は“どどめ色”である(あくまで素人の感想)。私は、この青木作品の底に流れる共通のトーンが福田蘭童曲を包むトーンと非常に近似していると感じた。青木繁の画を音で表すとすると福田蘭童曲以上のものはあり得ないのではないかと思った。
父と殆ど一緒に暮らしたことのない子の表現が、父のそれに通じるということはやはり血のなせる技なのだろうか。私は生命の不思議さ、奥深さをあらためて感じた。そして俄かファンとなった青木繁の絵画と共に、福田蘭童作品にもより一層愛着と敬慕の念を覚えた。これからも一生のテーマとして大切に吹いていこうと思う。私自身の「竹の幸」を追い続けて。
「INK48(Ishi No Kai48)」
2011-6-3
私には岡山に3人、神戸に4人、大阪に6人、東京に2人の女がいる。
もとい、
私には岡山に3人、神戸に4人、大阪に6人、東京に2人の女性の門人がいる。
世間でも女子の尺八吹きが増えてきているのであるが、私のところへもこの数カ月で4名の入門者があり、男子のそ
れを上回る勢いである。誠に喜ばしい状況である。先日の大阪教室では同じ時間帯に4人の女子が来室したため、そ
のあとに来た若手男子が女性の靴の多さに怖れをなし、レッスン室に入って来れないという珍事が起こった。おそ
るおそる部屋に入ってきた男子に私は“あれっ、今日は女子会の日ですけど”といってからかった。
それはさておき、私はずい分以前のどこかの雑文に書いたのであるが、「他の管楽器、例えばフルートやサックス
、ファゴットなどにあっては、普通に女性が取り組んでおり、中高のブラスバンドなどは実際のところ女子だらけ
である。それならばそれらの楽器に負けない魅力を有する尺八にも、もっともっと女性奏者が増えても不思議では
ない。そして、愛好者減少の一途をたどりつつある尺八界にあっては、いかに女性の入門者を増やすか、取り込む
か、が将来の浮沈を大きく左右する鍵である」と記した。この考えはまったくもって今も変わらない。
“女性が尺八なんて”と思われるかたも少なくないかもしれない。しかし、私のところに限ったことではなく結構
な勢いで女性尺八奏者、愛好者は増えているのである。国立の藝術大学で唯一尺八専攻を有する東京藝術大学に於
いては、年度によっては学部の四学年を合わすと女性が男性の数を上回る年度もあり、女性のみの学年という年も
あるそうである。また、NHK邦楽技能者育成会に於いては第45期に初めて女性が在籍し、終了する55期までに7名の
女性尺八奏者が入会、卒業している。
これらの教育機関の卒業生は現在、女性尺八専門家としてそれぞれのフィールドで活発な演奏活動を行なっている
。
また、衰退傾向の日本とは対照的に、年々増加している海外の尺八愛好者にも女性は多数存在する。中にはフルー
トやクラリネットなどの専門教育を受けた人が尺八の魅力に取りつかれ、元の楽器と尺八との「二刀流」ならぬ「
二管流」で目覚ましい活躍をされている女性奏者もいらっしゃる。
尺八に普段縁の少ない人々にとっては信じがたい話かもしれないが、これは事実である。
そんな流れに水を差すような残念な話を最近耳にした。
先日、某所で行なわれた「邦楽コンクール」に於いて、予選を通過して本選へ出場している女性尺八奏者に向かっ
て、審査員が“やっぱり女性には尺八は向かない”“きれいに吹くのは荒々しい吹き方が出来てからだ”などとい
う言葉(の暴力)を浴びせかけたというのである。私はそれを聞き憤慨した。音源審査の予選を経てわざわざ本選
へ呼んでおいて(もちろん自費である)そんな言い方はないだろう。それならば予選の段階でお断りするか、募集
要項に「尺八部門は男性のみ」などと明記すべきであろう。暴言を浴びせられた彼女が不憫でならない。何とか立
ち直って、演奏活動を再開していただくことを切に願う次第である。
ところで、冒頭の15名を数える“石の会女子会”のうち、筆頭格は当HPの「門人紹介」でも紹介している岩本みち
子さんである。学生時代に私のところへ来てから、少々のブランクはあったもののもう15年以上の師弟関係になる
。ある時勤めを辞めてNHK育成会に入り、京都から毎週東京へ通い卒業した努力家である。私よりも前から“女性の
尺八吹きを増やしたい”と頼もしいことを言ってがんばってくれている。近年はいろいろなところから演奏依頼の
声が掛かるようになってきて私も嬉しいことこの上ない。これからも“石の会女子会”の核として大いに期待する
存在である。
そして、冒頭の15名には入っていないがもう1人、辻本好美さんのことも記しておきたい。辻本さんは去年東京藝
術大学尺八専攻を卒業したバリバリの若手演奏家である。彼女が藝大を受験する際に少々お手伝いをさせていただ
いたことで私とご縁がある。藝大に入学した時点で私の手を離れてしまったが、将来的には一緒に演奏する機会も
持ちたいと考えている。現在は東京を中心に演奏家として奮闘している。どちらかというと堅物やオタクっぽい人
が多い尺八吹きにあって、彼女は「外向きで聴く人を元気にする尺八」を吹く。貴重かつ将来有望な新人である。
さて、今号のタイトルの、AKB48ならぬINK48は私の夢の一つである。同じ持つなら夢は大きいほうがよい。50名近
くの女子が尺八を吹く場面を想像するだけでも楽しい。
冒頭の15名に辻本さんも加わっていただくとすると16名、ちょうど3分の1まできている。たくさんの女子が楽し
そうに尺八を奏でている。その女子たちに群がるにいちゃん、おっちゃん、じっちゃんたちにもうまいこと言って
尺八を手にしてもらう。そうするとまた尺八人口が広がる。
これは夢見事であろうか。いや私はそうは思わない。またそうしていかねばならないとも思う。やはり「いかに女
性の入門者を増やすか、取り込むか、が尺八界の将来の浮沈を大きく左右する鍵である」。
私はもっともっと女性の尺八吹きが増えて欲しいと願う。こんなに面白い楽器はそうそうない。
“尺八ってちょっといいわね”“やってみたいわね”とお考えの女子達、ぜひぜひこの楽しい世界へ“いらっしゃ
ーい!”
「虎は死して皮を留め人は死して名を残す」
2011-4-30
のっけから話を落としてしまって恐縮であるが、駅のトイレなどで用を足していると他人のナニを覗く人が必ずい
る。こちらが3人用の端で足しているともう片方の端から首を伸ばすようにして覗く人もいる。それで見えるとはな
かなかの視力である。また、3人用の真ん中に立ち、両側の人のものを交互に覗いている人もいる。
私は自分のもののサイズとは関係なしに、こういう行為にはまったく気にならない。が、この人は他人のものを覗
いて何が楽しいのだろうと不思議に思う。安心したいのだろうか、はたまた自分に自信がない人なのだろうか。本
質的には、何かと比べないと自分に自信を持てないのであろう。自信があればわざわざ覗く必要もない。自信があ
れば自分のものを人に見せてもいいが、これは軽犯罪でしょっぴかれることになる。
それはさておき、B型という血液型と関係があるのかないのか、私は他人のことを殆ど気にしないし気にならない。
常にマイペースである。これは得なことだと思うし、欠点の一つであるかもしれない。
生きて行くにあたって、先人の知恵、智慧に学ぶべきことがたくさんあるということは自明のことである。しかし
、“わかっちゃいるけどやめられない”ではないが、“わかっちゃいるけど気が向かない”、それで損をしたとし
ても、それは自分の責任だからまあいいか、と思ってしまうのである。これは性分であり、ひいては自分の生き方
に繋がることだから変えることは難しい。
しかし、ようやくこの歳になって“過去を勉強しなければいけない”と思うようになってきた。生業としている尺
八に関して、門人や一般の人達に紹介する際にその成り立ちを正しく伝える義務が生じてきたこともその理由の一
つである。
尺八を専門としている身分で「尺八という楽器はどうしてできたのですか」「知りません」、「虚無僧とは何なの
ですか」「よくわかりませんので調べておきます・・・」ではいよいよ済まされなくなってきた。
書物やパソコンに向かっているより、尺八を手にしているほうが断然楽しいので、なかなかそれをする時間を作れ
ないが、自分が専門とする分野については人様に間違いの無いことをお伝え出来るよう勉強していきたく思う。50
歳にしてやっとこさの決意である。
生き方について言えば、自分は出来るだけ人の手を煩わせないで生きたい、人に迷惑を掛けないで生きていきたい
。また、人のためには出来うる限りのことをしたい。その気持ちを常に持ち続けている。
この駄文の続きを書きあぐねていた4月21日、“スーちゃん”が旅立たれた。“女優の田中好子さん”というよりや
はり私にとっては“キャンディーズのスーちゃん”である。キャンディーズがデビューして解散するまでの間は私
が中学、高校時代で、ちょっと年上の気になるお姉さんといった感じだった。爽やかな歌声と、バラエティ番組で
のおもしろ真面目な3人のリアクションが好きだった。3人の中ではぽっちゃり系のスーちゃんが私のお気に入りで
あったが、当時私の周りではランちゃんが一番人気だったため、ずっと“隠れスーちゃんファン”を通していた。
近年はそうめんのCMで、相変わらず愛らしく、それでいてしっとりとした女性になられた姿を見せてくださってい
た。
訃報とともに、長年ガンと闘いながら女優業をつとめられていたこと知らされ、驚きを隠せなかった。しかし、そ
れよりも何よりも、死の何日も前に自分の葬式のためのメッセージを録音していたことが衝撃的であった。
そのメッセージは私の胸に突き刺さった。自分の死期が近づいていることを明晰に受け止め、キャンディーズの二
人をはじめ、生前に関わりのあった人々を慮り感謝の意を伝えるのみならず、この度の震災についても言及し「天
国で被災された方のお役に立ちたい」、そして「それが私の務め」とまで話されていた。
何という尊厳ある精神、高邁なたましいであろうか。自分が死の淵に立ちながらこれほどまでに他者に優しくなれ
ることに感嘆と落涙を禁じ得なかった。これからは“隠れ”ではなく堂々と“田中好子ファン”として遺された作
品を味わってみたい。
自分の生命がいつまであるのかは全くわからないが、やはり毎日が勉強である。それは“どれだけ人に優しくなれ
るか”という問いかけの答えを探すための勉強なのかもしれない。
「元気があれば何でもできる」
2011-3-17
『元気が一番、元気があれば何でもできる』
これは敬愛するアントニオ猪木師の名言である。
40代を何とか大過なく、充実した10年で終えることが出来た私は、ちょうど50歳になったこともあり、次の10年を
元気で生きていくにはどうすればよいかを考えた。1分ぐらい考えた後、やはりそのためには体力が必要だという結
論に至った。とにかく身体を鍛えて体力を増強せねばならない。尺八を“あぁでもない、こうでもない”と考えな
がら吹き続ける気力は、何はなくとも体力あってのことである。
そこで、現在進行形で通っている水泳教室の回数を増やすことにした。幸いなことに、前に通っていたプールが昨
年9月閉鎖になったことからその後に変わったスイミングスクールは、月謝制の自由出席制である。つまり、月曜か
ら土曜までやっている今度のスクールは、週に何回受講してもよいというシステムで、実際に毎日通っているおば
ちゃんもかなりいらっしゃるということを入会時に教えてもらった。
「2月も仕事が少ない」ということを月初に確認した私は、これまでの週1~2回のプール通いから、思い切って週3
~4回に増やした。プール内で見かけるおばちゃんの半分くらいは私がどの曜日に行ってもおられ、本当に毎日通っ
ていらっしゃった。そのおばちゃん達はレッスン前後のおしゃべりも旺盛で“元気の塊り”といった感じである。
“あぁ、あやかりたい、あやかりたい”と、プールへ向かう自転車をこぐ私の足にも力が入った。
果たして、平均週4回の水泳教室を続けたら何と1ヵ月足らずで効果が出てきた。AECによる入眠後、3~4時間経った
ところでパチッと覚めていた睡眠が深くなり、朝方まで一気に眠れるようになった。また、2月末に受診した定期健
診では体重が2キロ減っており、コレステロールや肝機能の値もかなり改善されていた。何とまあすごい効果である
。こうなるとしめたもので、ストレスを暴飲暴食で解消しようとも思わなくなってきた。
いつまでこのペースで続けられるかはわからない。しかし、これからはアルコールの入っている水と入っていない
水の両方を友として心身の健康を図ってゆきたい。何とアンタは単純な、と一笑に付されるかもしれないが、そこ
はそこ、10年頑張れる元気が湧いてきた私である。
『元気が一番、元気があれば胆石もできる』
こちらは胆石手術後の猪木師の迷言である。しかし、もはや1レスラーにとどまらず実業家で元国会議員であった
にせよ、こんなふざけたコメントが一般紙の社会面の小見出しになる(本年1月)のだから凄い影響力である。以前
には『世界一元気な糖尿病になりました』とリング上で挨拶したこともある。病気を病気とも思わない猪木師の強
い心はやはり私にとって永遠の憧れである。
と、ここまでのろのろと書き進んだところで確定申告の時期が来てしまった。
頭の片隅でこの駄文の続きを考えながら申告書を3月10日に何とか完成し提出。さあ再開だ、と思った矢先に大震災
のニュースが飛び込んできた。
日々流されてくる惨状に言葉も出ない。胸が張り裂けそうになる。助かった人とそうでなかった人との差はどこに
あったのか。家族を引き裂かれてしまった人はそうなる宿命であったのだろうか。すべてを流され失った人にはこ
れから生き地獄が待ち受けていることだろう。
私には何が出来るだろうか。私には何が出来るだろうか。
小さなことしか出来ないが、それでもコツコツと、この問いかけを忘れずにこの10年を生きていこう。
被災された皆様には心よりお見舞い申し上げます。
「寝正月」
2011-2-3
あっという間に二月になってしまった。
今年初めの月を生きてわかったことは「一月は仕事が少ない」ということであった。
普通“寝正月”というと三が日の休みくらいをだらだらと寝て過ごすことを指すことが多いが、今年の私は“正月
=一月”という捉え方が誠に相応しい状態で、一月をほとんど寝て過ごした。
もちろん仕事をしていなかった訳ではない。通常のレッスンは予定通り行なったし、一度、クローズの会合に寄せ
ていただいて「春の海」などを演奏したりもした。また、事務仕事は相変わらず山のようにあるので、それを締切
りが迫っている案件からのろのろと作業をした。それらの仕事が終わるとお疲れさんのビールを飲み、飲みだすと私の高性
能のAEC(Auto Eye Closer)が働いて瞬時のうちに眠くなり、気がつくと布団の中、という日々であった。一月
の平均睡眠時間は8時間を超えていたと実感する。
その間に私は五十歳になった。
昔ならば“人間僅か五十年”といわれたように、人生も終焉を迎える年齢である。天命を知る年齢である。
しかし、私はまだまだ若造の若輩者である。人間としても尺八吹きとしても、さらに成長していかねばならないこ
とを充分に自覚している(これをご覧の貴兄には“そんな人間が寝倒してどないするんや”というツッコミはご寛
恕ください)。
さて、今年もありがたいことに多くの年賀状を頂戴した。
その中には勇気づけられるものがたくさんあった。私だけで楽しむのもモッタイナイので少々紹介させていただく
ことにする。いずれも印刷文ではなく、手書きでそえられた一筆である。
まずは竹兄(尺八の先輩)の賀状より。(カッコ内は石川のコメント)
「リサイタルすてきでした」(ありがとうございます。男の人からそう言われるとドキッとします)
「貴君が関西に残っていてくれて嬉しい」(ありがとうございます。私は関西を離れましぇん)
「一管懸命3、すごく感動です」(私もこの一文に感動です。もっと言ってください)
門人、講習会受講者より。
「素晴らしい音色に酔いしれます。今年も酔わせてください」(私の音を聴いて気分を悪くなさらないでください
ね)
「昨年から尺八をはじめて、一つ自分の好きなものが増えました」(それはよかったです。今年は更に好きになっ
てください))
「“さえた音”をめざしたいと思います」(それそれ、それですよ。もちろん私もめざします)
「息子は尺八好きになりました。私が練習していると尺八を奪ってくわえています」(お母さん、それは将来有望
ですね。経歴には“1歳にて尺八を始める”と書けますね)
「申し訳ございません!」(何と真面目なお方。引っ越されてしばらくお会いしていませんが、再会を楽しみにし
ております)
知人より。
「また昨年も独身のままでした・・・今年こそは!!(笑)」(笑ってる場合じゃありませんぜ、姐さん)
中学校時代の恩師より。
「元気が出るよ。また行きます」(こちらこそ先生にそう言っていただいて元気と涙が出ました)
今年は私の五十歳、そしてリサイタルは第15回という節目にあたる年なので、早くもリサイタルの日程を決めてし
まった。10月23日(日)14時開演予定、会場は私のホーム“ムラマツリサイタルホール新大阪”。共に切磋琢磨している仲間や
ブロス、門人などに多数出演いただいて賑やかに開催する予定である。これをご覧の皆様方にはご予定を開けてお
いてくださいますようお願いする次第である。
さすがに一ヶ月も寝ていると、世間やご先祖様やお天道様に対して申し訳ない気がしてきた。少々くたびれていた
身体も元気を取り戻してきたようである。
身体と精神をリセットできた一ヶ月に感謝して、今年を、そして五十代の十年を邁進していくことを決意した。四
十代の十年は自分がやりたいことを優先させてきたが、次の十年はまず人のお役に立つことが出来るよう“工夫と
努力”していく所存である。
今年も、そしてこれからもよろしくお願いいたします。
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