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ホームへ 邦楽曲解説 〜リサイタルのプログラムノートより〜


 リサイタルなどで取り上げた曲目の解説です。(文:石川利光)

鹿の遠音 (琴古流本曲) 第1回リサイタル

 「鹿の遠音」は、琴古流本曲のみならず、尺八古典本曲の中でも最もよく知られた曲の一つですが、古典本曲では例外的な、二管吹き会わせ形式の曲です。秋の深山に鳴き交わす二頭の鹿の様子をあたりの情景とあわせ描写したものと言われています。

闌曲弐 (肥後一郎 作曲) 第1回リサイタル

 石垣征山氏が昭和62年の尺八独奏会の折りに委嘱し、作曲された作品で、そのプログラムに寄せられた作曲者のことばを引用させていただきます。

「闌曲」とは能楽の用語です。こんにち能楽界でこの用語が使われる場合は、能の名曲中、最も見どころ、聞きどころの部分を演奏曲目として独立させた謡曲のことを意味しています。従って、演奏技巧を凝らした曲ばかりで、この独立した部分のみが伝えられ、曲全体としては残存していません。
 しかし、本来この言葉は、世阿弥が彼の能楽理論書の中で説明しているように、闌曲とは、人の心に現れる喜怒哀楽、自然の美しさ、優しさ、厳しさ、世の無常、もののあはれなどの全ての事柄に通じ、しかもそれらの全てを超越し自由自在な趣を自然体で謡わなければならないという曲想です。
 私は、この作品の表題を「闌曲」としましたが、創作者の内面だけに捕らわれて主題の表出のみに終わることなく、徒に技巧の羅列に走ることなく、竹と私との間におおらかな会話の場を成立させることができればという、いわば自己解放を目的として書いた曲です。
 歳月が流れ、人の心が雅び閑に実り、熟視、闌けていく態を竹の息吹に託してできるだけ自然に歌いたいと思ったことがこの曲を書く動機となりました。(肥後一郎)

残月 (峰崎勾当 作曲) 第1回リサイタル

 天命、寛政年間大阪で活躍した峰崎勾当の代表作の一つです。勾当門下の松尾某の息女の追善に因み作曲されたもので、前唄の重厚味ある節廻しや歌詞の妙などがこの曲の圧巻とされています。
 古曲を演奏する尺八吹きなら誰でも一度は合奏してみたい曲といわれる曲です。

<歌詞>
♪ 磯部の松に葉がくれて 沖の方へと入る月の
  光や夢の世を早う 覚めて真如の明きらけき 月の都に住むやらん
  今はつてだに朧夜の 月日ばかりは巡り来て

複協奏曲 (船川利夫 作曲) 第1回リサイタル 第10回リサイタル

 不完全な自己から脱皮しようとする祈りの心を歌ったものです。したがって複協奏曲という楽器構成上のあるいは楽器編成上の設定に伴う器楽的な処理よりも、自分の心の祈りを野放図にうたい上げるという態度で作ってあります。(船川利夫)

◆産安 (尺八古典本曲) 第3回リサイタル第8回リサイタル

 本曲とはその楽器のために作られた曲のことを指し、古くから伝わる尺八の曲であることから「尺八古典本曲」と呼ばれます。
 新潟地方の伝承曲で、幕末の名手神保政之助が伝えた「神保三谷」がそのルーツとされており「奥州薩慈」も異名同曲といわれています。「産安」には虚無僧が得た布施米を尺八の中を通してから炊き、産婦に与えて曲を吹いて聴かせると安産まちがいなしとか、産夜つまりお産の夜に安産祈願のために吹く曲だという言い伝えがあります。(第3回リサイタルプログラムより)

 本曲とはその楽器のために作られた曲という意味を持ち、今日「古典本曲」と呼ばれるものは主として江戸時代に虚無僧が吹いたとされている曲をさします。
”産安”は古典本曲の中に多数あるサンヤの一種で、原曲は新潟地方に伝わったといわれていますが、海童道(わだつみどう)でサンアンと呼ばれるようになり今日に至っています。
古典本曲の中でも最も旋律的で技巧的な曲の一つであり、現在使われる尺八奏法の多くが既にこの曲において用いられています。(第8回リサイタルプログラムより)

◆莞(←本当は竹かんむり)絃秘抄(1977年、肥後一郎 作曲) 第3回リサイタル

この曲が収録されているレコードの解説によると「≪莞絃秘抄≫の莞は管の異体字である。管絃とは雅楽で舞のない器楽合奏曲を指す語だが、ここではより広義で、純粋器楽の意味であろう。秘抄とは『梁塵秘抄』の例に見るごとく大切なことを書き写した写本のことである。この難しい曲名は実は、作曲者肥後一郎の独特の強い伝統尊重の姿勢から生まれたものである。(中略)この曲は、すなわち、祖先の「管絃」の心を伝える碑文からその神髄を取り出して書き付けた『秘抄』なのである。」とあります。肥後一郎氏は寡作な作曲家ですが、生み出された作品はいずれも比類なき深さと強さを湛えています。


◆秋の曲 (1980年、三木 稔ホームページ作曲) 第3回リサイタル

曲は<序章>と<秋のファンタジー>の二つの章から成っています。作曲者の三木稔は「秋を想いながらではあったが、音楽の領域を踏み外すことのない様、心がけて書いた。つまり哀しくも美しいこの第三の季節に触発されて生まれる音を整理し、秩序立てることが私の仕事であった。」と記しています。尺八と箏の二重奏曲という枠を越え、いわゆる”現代邦楽”史上でも後世に残る名曲の一つではないかと今回改めて感じました。


◆真美夜 (1996年、沢井比河流 作曲) 第3回リサイタル

この曲は十七絃箏との二重奏曲を探していた時に、委嘱者の永廣考山氏に教えていただいたものですが、一度聴いて”何とカッコイイ曲なんだろう”と即座に決めてしまいました。とはいうもののいざ取り組んでみると400mを全力で疾走するようなもので、心技体すべて充実していないと完走もままならない激しい曲です。沢井比河流氏はヘヴィ・メタルのバンドでも活躍されていた人で、邦楽のイメージを打ち破る曲を次々と世に送り出しています。個人的にはこういった新しい感覚を持った人がたくさん登場してくれることを望んでいます。


◆双魚譜 〜尺八と二十絃のための四つの寓話抄〜 (吉松隆 作曲) 第3回リサイタル

曲は<序の魚><破の魚><緩の魚><急の魚>と名付けられた四つの部分から成っています。作曲者の吉松隆は慶應義塾大学中退後、ロックやジャズのグループに参加しながら独学で作曲を学び、いわゆる「現代音楽」の日音楽的な傾向に反発した「世紀末叙情主義」を主唱した多くの作品を発表しています。『朱鷺による哀歌』、ギター協奏曲『天馬効果』などの作品が有名ですが、この『双魚譜』も美しいメロディーやハーモニーが特徴の独特の「吉松ワールド」が展開されます。

◆虚空 (尺八古典本曲) 第4回リサイタル

本曲とはその楽器のために作られた曲のことを指し、古くから伝わる尺八の曲であることから「尺八古典本曲」と呼ばれています。「虚空」は尺八最古の曲としてもっとも尊重されている「古伝三曲」のうちの一曲で、「「この曲を吹徹すれば、一切の妄想が自ずから消滅し、太虚(虚空)に融合立命するとされる」ともいわれています。

◆俳曲 (1978年、ジョン・海山・ネプチューン 作曲) 第4回リサイタル

日本の四季それぞれの俳句を取り上げ、その情景を描写した四つの小品からなる曲です。尺八を始めたばかりの学生時代にこの曲をレコードで聴き、いつかは自分も演奏してみたいと漠然と考えていました。今や尺八界のトップランナーの感すらあるジョン・海山・ネプチューンですが、20年以上前に作られたこの曲にも非凡な才能がうかがえます。

◆阿吽十文字 (1974年、藤井凡大 作曲) 第4回リサイタル

尺八と意外性のある楽器との二重奏曲を探していた時に、この曲に巡り会いました。作曲の藤井凡大先生は私が大きな影響を受けた方で、先生の教えを乞うために育成会に通いました。先生の豊かな音楽性とそれにも勝る気迫はよく知られるところですが、その先生が「この組み合わせはこの曲一曲だけと決めて、安易さを一切拒否するという決心をかためて作曲にかかった」と記されているだけあり、気合十分な曲に仕上がっています。

◆詩曲一番 (1969年、松村禎三 作曲) 第4回リサイタル

尺八と箏の二重奏は現在最も一般的な組合せですが、コンサートを企画する時最も頭を悩ませるのもこの組合せです。今回助演をお願いした池上眞吾氏は情報量・アイデアの豊富さと演奏技術の確かさから作曲、演奏の両面で広く活躍されていますが、本日は敢えて現代邦楽の嚆矢といわれる作品に取り組んでいただきました。1970年大阪万博の松下館のために作曲されました。

◆明暗対山流鹿之遠音 (尺八古典本曲) 第4回リサイタル

尺八から連想される曲で最も有名な曲が「鹿之遠音」だと思われますが、「本日吹奏されるものは、一般によく聴かれる琴古流伝承のものではなく、京都明暗寺に今も伝わる明暗対山流のものが竹保流に伝承されたものです。琴古流のものとの相違点は、前吹きがあり楽曲構成にまとまりがあること、演奏の表現がよりダイナミックであること、そして何よりも息の吹き込み方や音色に対する感覚が異なることです。(以上志村哲の解説による)」
 素朴な竹管で森羅万象を鮮やかに表出した先達の叡智には尊敬を超え、畏怖の念すら禁じ得ません。

◆末の契 (地歌京風手事物) 第4回リサイタル

三絃、箏、尺八のいわゆる”三曲合奏”という形式で演奏されることが一般的ですが、本日は三絃と尺八の”一挺一管”での演奏をお聴きいただきます。
 松浦検校は江戸時代中後期のヒットメーカーの一人ですが、なかでもこの曲は唄にも手(楽器)にもこまやかな思慕の情がもりこまれてあり、現在でも演奏される頻度の高い曲です。

◆息観・古伝巣籠 (尺八古典本曲) 第5回リサイタル

本曲とはその楽器のために作られた曲のことを指し、古くから伝わる尺八の曲であるというところから「尺八古典本曲」と呼ばれています。各曲については横山勝也師の解説を一部引用させていただきます。

【息観】

 低音の一息一息に自己を没入させ、心眼に映して本質をみつめることをめざしている。禅には"静観"という言葉があり、また、尺八本曲は"吹禅"と呼ばれる。この曲との関係は定かではないが、大変精神性の強い曲調である。

【古伝巣籠】

 古来、鶴という鳥は我が国では霊鳥とされてきた。ひな鳥を守る親鳥の情愛の深さが強いことから、転じて大滋大悲の佛力に帰依する心で作られ伝承されて来たと考えられる。"古伝"とあえて附記されていることからも、この調べが各地に伝承されている「鶴の巣籠」の原形に近いものではないかと推察される。

◆惜春 (横山勝也 作曲) 第5回リサイタル

宮城道雄の名曲「春の海」にあやかって、箏の調絃も尺八の使用管(一尺六寸管)もまったく同じで親しみやすい曲を、との意図で作られた曲です。哀愁を感じさせる旋律は、行く春とともに過ぎ去りし青春を惜しむかのようです。尺八吹きのみならず、箏奏者にも人気の高い曲です。1981年作曲。

◆月草の夢・月光弄笛・夕暮幻想曲 (福田蘭童 作曲) 第5回リサイタル

【月草の夢】

 春も逝き、海もさみしかり、その昔、若き人幼き日の思い出に、今日も去りし君の、窓近く広がる海辺をさすらえば、露草に混じりて小さき花は群り匂う、旅人となりて、失いしその昔の我が悲しさを、なげきつつ今日もまたほのぼのと咲く花を摘み取りて、おくらんすべなくなげきを、そっと忍びて口づけは、また、つくろうかたもなく散りゆきぬうき旅の路はつきて、青ざめし胸のうち、げにげに懐かしかりし友を恋い慕う。

【月光弄笛】

 明月の夜には、ひとりで山にのぼり、月を眺めながら、即興で笛を吹きならすのが、若い時分からならわしであった。澄んだ空気の中で、思う存分、哀愁を笛の音にのせることは、こよなくたのしいものである。この月光弄笛は、即興の一瞬を楽譜として書きとめていたものである。

【夕暮幻想曲】

 黄昏どきというものは、物がなしいものである。果てしなき満州の原野に立ち、地平の彼方に沈みゆく、真紅の太陽を眺めるとき、郷愁と哀愁が、とけあって、ひしひしと胸に迫ってくる。

........................................................................解説:福田蘭童

◆八重衣 (石川勾当 作曲・八重崎検校 箏手付) 第5回リサイタル

江戸時代以降、盲人音楽家を中心として行われてきた「地歌」の中でも名曲中の名曲といわれています。百人一首の歌五首を歌詞に用いており、歌詞の親しみやすさに加え、虫の声や「砧」を打つ音などの描写、合奏の面白さなどがふんだんに盛り込まれています。本日は、三絃、箏、尺八の"三曲合奏"という形式で演奏いたします。

〔歌詞〕
 君が為、春の野に出でて若葉摘む、我が衣手に雪は降りつつ。
 春過ぎて夏来にけらし白妙の、衣干すてふ天の香具山。
 みよし野の山の秋風小夜更けて、古郷寒く衣打つなり。
 (手事)
 秋の田のかりほの庵の苫を粗み、わが衣手は露に濡れつつ。
 きりぎりす鳴くや霜夜の狭莚に、(手事)
 衣片敷き独りかも寝ん、衣片敷き独りかも寝ん

◆霊慕 れいぼ (尺八古典本曲) →第6回リサイタル

本曲とはその楽器のために作られた曲のことを指し、古くから伝わる尺八の曲であるというところから「尺八古典本曲」と呼ばれています。
全国各地に伝わる“れいぼ”は、普化宗の祖と仰ぐ普化禅師が鈴を振って托鉢したことにならい“鈴慕”の字があてられることが多いですが、本日演奏する“れいぼ”は、海童道祖(わたづみどうそ)が奥州系、布袋軒伝の「鈴慕」を原曲として海童道道曲に組み入れ「霊慕」としたものと考えられます。

◆狐会 こんくゎい (岸野次郎三 作曲) →第6回リサイタル

元禄時代に作られた地歌の芝居歌物の大曲です。「病気の母を祈祷してもらうが、実はその法師は母を恋した狐の化身であり、それを息子が見破ったため、仕方なく逃げ帰る」といった内容です。本日は三絃と尺八の“一挺一管”で演奏いたします。

◆渡津海鱗宮 わだつみのいろこのみや (福田蘭童 作曲 糀場富美子 編曲) →第6回リサイタル

「日本神話を題材として作曲した、深海の宮の物語である。このプレリュードは父青木繁作『わだつみのいろこの宮』の画より受けたる感多く、ここに小著して筑紫の地にねむる父の墓前に貧しき児のはなむけとして謹んで捧ぐ。昭和三年八月一日作曲 福田幸彦(蘭童)」
長い間演奏されることのない幻の作品とされていました。昭和五十六年に横山勝也師がリサイタルに取り上げて以来、福田蘭童作品の代表曲の一つとなりました。


◆春の海 (宮城道雄 作曲) →第6回リサイタル

筝と尺八の二重奏曲の代表曲であるだけでなく、日本音楽の代表曲の一つであるといっても過言ではない有名な曲です。私自身年間を通して最も演奏回数の多い曲ですが、演奏すればするほど難しさが強く感じられます。もう一度正面からこの曲に取り組もうと思い、敢えて今回のプログラムに取り上げました。1929年(昭和4年)作曲。

◆十三夜 じゅうさんや (神坂真理子 作曲)  〜新作初演〜 →第6回リサイタル
    第1章:十三夜  第2章:すすき野  第3章:宴(うたげ)

今回のリサイタルのために独奏曲を書いていただきました。作曲を思い立った夜が十三夜だったことから、この曲名が付きました。2002年11月1日作曲。

神坂真理子(かみさか まりこ) 1981年東京藝術大学音楽学部作曲科卒業。在学中に安宅賞受賞。作曲、編曲、演劇の音楽製作、レコーディングアレンジなどのかたわら、合唱及び声楽の伴奏ピアニストとしても活躍。1987年第7回新・波の会日本歌曲コンクール作曲部門入選。1993年第2回オリジナル歌謡祭グランプリ受賞。潟rクターエンタテインメントより多くの子供向けオリジナルCDを発表。現在、洗足学園大学非常勤講師。

◆九州民謡による組曲  (牧野由多可 作曲) →第6回リサイタル

民謡は民衆の心の声であり、宝である。その痛切な叫びにも似た旋律は、様々な歴史のうねりや、自然のきびしい試練の中に、時として悲しく、時として諧謔的に、垣間見る事ができるのである。(中略)曲は、第一楽章が哀切な「島原の子守唄」、第二楽章が明るく開放的な「おてもやん」、第三楽章は一転して秋の草原を吹きぬけてゆく風のような「刈干切唄」。この三つの素材がさまざまに変奏され発展してゆく。(牧野由多可)1975年作曲。 

◆エクリプス《蝕》  (武満徹 作曲) →第8回リサイタル

初演者であり私の師でもある横山勝也の演奏を聴き、その音空間をぜひ自分でも作ってみたいと熱望していた曲です。1966年作曲。
伝統的な邦楽は、この地上に存在する、または存在するであろう総ての音楽と等価値であり、それ故に私には重要なのである。
邦楽器を使って音楽を書くことは、ひとつの素晴らしい訓練だ。奏者の吹く行為、弾ずる行為から、私はいつでも音楽に対しての新しい目覚めを体験する。それは、あるいは、書くという表現行為を超越したものであるかもしれない。
武満徹
◆飛天 〜尺八独奏のための〜  (川崎絵都夫 作曲・委嘱初演) →第8回リサイタル
今回のリサイタルのために委嘱した作品です。抒情的なものが多い川崎氏の邦楽作品のなかではすこし異なる作風に仕上がっています。2004年作曲。
人の息より生ずる音は、地上を離れ遙か天の彼方まで達すると言う。しかし、煩悩にまみれた俗世の、どろどろとした淀みの中から立ちのぼった音が、己の強さと純粋さを頼りに、それらを背負ったまま天に達するには、大変なエネルギーが必要に違いない。それとも、軽やかさを武器に、飄々と風に漂いながら高みへ昇るものなのか・・・その両方の試み・・・
音に何かを託す事で、音の持つエネルギーが何倍にも増幅する。そのことでのみ可能なのか?果たして尺八の音は天に舞い上がるのか?
川崎絵都夫

尺八と二十絃箏のための 赤光  (西村朗 作曲) →第8回リサイタル

尺八を使った現代作品を探していた時この曲に出逢いました。超絶的な技巧が要求される曲ですが、個人的には古典本曲における情念や悲しみの表現と通ずるものを感じています。1992年作曲。
曲は続けて演奏される五つの部分より成る。第一と第三の部分は尺八の独奏、第二と第四の部分は二十絃箏の独奏。最後のもっとも長い第五の部分で両者の合奏となる。第一と第二の部分は準有拍。第三と第四の部分は無拍。第五の部分は有拍で、その第五部分の合奏は緊密なアンサンブルを求めるものとなっている。尺八、二十絃箏ともにきわめて高度な演奏技巧と集中力が求められ、ことに尺八パートには重音や倍音による特殊な奏法や呼吸法などの指示が織り込まれている。初演当時からいささか例外的な難曲との評を受けた。なお、タイトルの「赤光」は、原光景的なイメージにおける夕暮れの光、西方に沈みゆく赤い陽の光を意味している。
西村朗

◆鶴の巣籠   尺八古典本曲      

                          
本曲とはその楽器のために作られた曲という意味を持ち、今日「古典本曲」と呼ばれるものは主として江戸時代に虚無僧が吹いたとされている曲をさします。“鶴の巣籠”は全国各地に同名異曲が多数あり、本日は奥州に伝わった曲をお聴きいただきます。親子の情愛が強い鶴の描写を様々な技法を用いて表し、親子の愛、父母の恩など、大慈大悲の境地をうたったものとされています。→第10回リサイタル

本曲とはその楽器のために作られた曲という意味を持ち、今日「古典本曲」と呼ばれるものは主として江戸時代に虚無僧が吹いたとされている曲をさします。“鶴の巣籠”は各地に伝承され同名異曲が多いのですが、本日お聴きいただくのは海童道(わたづみどう)の流れをくむもので、鶴の遊歩、飛行、交声、集散の有様が七段に分かれ表されています。コロコロ、玉音(フラッター)などが多用された「古典本曲」の中でも最も技巧的な曲の一つです。→第9回リサイタル

◆詩曲二番   (松村禎三作曲) →第10回リサイタル

                                  
ずいぶん前に演奏する機会があり、印象的な旋律がずっと心に残っていた曲です。
「笛の原型というところまで尺八をひきもどして、一本の笛で音の移りゆくしなやかさ、たわみをただよって・・・・・・あるときに音楽が生じるっていうような機微を自分で確かめたかったのです。だから、どっちかというと日本の古典の世界から少し自由になっていると思います。」(作曲者) 1972年作曲。

◆尾上の松   作者不詳・宮城道雄筝手付 →第10回リサイタル

九州系「地歌」の中でも代表的な名曲といわれ、大正八年に宮城道雄により箏の手が付けられてから一層有名になった曲です。

◆アキ ―二つの尺八のための― (廣瀬量平作曲) 第9回リサイタル   

1970年前後の尺八大ブームの頃、日本の洋楽系作曲家は競うように尺八の入った曲を作りましたが、それらの中で現在も演奏されている数少ない一曲です。綿密な構成に基づいた“印象的な旋律”と“スパークする2管の咆哮”のコントラストは「現代音楽の古典」ともいうべき風格を備えています。1969年作曲。

◆タマフリ(東枝達郎作曲・新作初演) →第9回リサイタル

今回のリサイタルのために私が信頼を寄せる京都在住の作曲家・東枝達郎氏に委嘱しました。2005年作曲。

◆酒(牧野由多可作曲) →第9回リサイタル

兄・石川憲弘が初リサイタルの折、作曲の師である牧野由多可先生に委嘱した曲です。1987年作曲

◆松巌軒鈴慕 →第12回リサイタル

本曲とはその楽器のために作られた曲という意味を持ち、今日「古典本曲」と呼ばれるものは主として江戸時代に虚無僧が吹いたとされている曲をさします。
岩手県花巻にあった虚無僧寺「松巌軒」が発祥とされている「松巌軒鈴慕」は、その哀愁と寂寥感に溢れた旋律により多くの尺八家によって吹奏されてきました。本日は師の横山勝也より伝承をうけた形式で演奏いたします。

◆福田蘭童作曲 「深山ひぐらし」「旅人の唄」「桔梗幻想曲」 →第12回リサイタル

 "笛吹童子""紅孔雀"など、NHKラジオドラマの主題歌の作曲で一世を風靡した福田蘭童(1905〜1976)が、20代の頃に作曲した尺八のための独奏曲集です。「蘭童」とは尺八の雅号で、福田蘭童は尺八の曲を作るために作曲法をはじめピアノ、ヴァイオリン、フルートなどを学びました。尺八の特性を生かしつつ西洋音楽の手法を取り入れた作品は、ロマンティシズムに満ちた独自の世界を形成しています。

◆長澤勝俊作曲 「詩曲−尺八独奏のための−」 →第12回リサイタル

現代邦楽を代表的する作曲家、長澤勝俊(1923〜2008)の尺八独奏曲です。現在も尺八界の第一人者である宮田耕八朗氏のために1969年に作曲され、同年10月に日本音楽集団第10回定期演奏会で初演されました。西洋音楽のテクニックをふんだんに取り入れた手法は尺八のイメージを覆し、一大センセーショナルを巻き起こしたといっても過言ではありません。技巧的な中にも作曲者の持つ人間や自然に対する愛情が感じられる作品です。

◆前田行央作曲 「恵みあふれる雨」  →第12回リサイタル 

 私が尊敬してやまない尺八演奏家がCDに録音されていたことからこの曲を知りました。作曲者の前田行央(1948〜2008)氏について、初めはまったく手がかりがありませんでしたが、よくよく調べてみるとヴァイオリニストである私の妻が学生時代にソルフェージュを習っていた作曲家の恩師であることがわかり、人の持つ縁に驚嘆した次第です。私がこれまでに出会った尺八曲の中でも最も難しい曲ですが、同時に大慈大悲を思わせるようなスケールの大きさを併せ持ち、私の心をとらえて離さない一曲となりました。1993年作曲。

◆濤声(愛澤伯友作曲) 第11回リサイタル 

2007年、邦楽合奏団の助演で訪れた三重県で初めて耳にした曲です。大鼓の怜悧で鋭い響きと、空間を切り裂くような気魄あふれる声に衝撃を受け、即座に次のリサイタルの候補曲に決めてしまいました。
"「水」の多様な側面のいくつかを「音」という言葉で置き換えてみたものである"と作曲者は記しています。

◆渺−尺八独奏のための−(廣瀬量平作曲) 第11回リサイタル

日本の代表的な作曲家の一人である廣瀬量平氏の尺八独奏曲です。六つの独立した段と、そのエッセンスを纏めた終段の七つの段から成っています。壱から伍段は五線譜の断片、六段と七段は漢字で表してあり、奏者のイマジネーションに委ねられる部分が多くあります。今回は楽譜に図示してあるスタイルに従い演奏いたします。1972年作曲。

    壱――渺〈びょう〉之段(渺−はるか、水または野のはるかにひろい、ごく少さいさま)
    弐――象〈しょう〉之段(象−あらはれたもの、すがた、形、きざし、現象)
    参――曠〈くおう〉之段(曠−あきらかなさま、ひろし、おおいなり、とおし、むなし)
    四――惻〈そく〉之段(惻−いたむ、痛み悲しむ)
    伍――霏〈ひ〉之段(霏−雪や雨が細かく飛ぶさま、雲の飛ぶさま、草の茂るさま)
    六――溟〈めい〉之段(溟−悼、啾、寥、冽、煌)
    七――結〈けつ〉之段

◆秋の調(宮城道雄作曲/小林愛雄作詞) 第11回リサイタル

宮城道雄が25歳の時に作った曲です。箏と尺八との合奏に新しい境地を拓いた作品で、宮城道雄の代表曲の一つとされています。1919(大正8)年作曲。

(歌詞)秋の日のためいきに  落葉とならば  河にうかびて
        君が住む 宿近く  流れて行こうよ  流れて行こうよ
      ふけて行く秋の夜の  こほろぎとならば  草の葉かげに
        君が住む 窓近く  夜すがら鳴かうよ  夜すがら鳴かうよ

◆瀧落(尺八古典本曲) 第11回リサイタル  

本曲とはその楽器のために作られた曲という意味を持ち、今日「古典本曲」と呼ばれるものは主として江戸時代に虚無僧が吹いたとされている曲をさします。"瀧落"はシンプルな構成と流麗な旋律により尺八古典本曲の中でも屈指の名曲とされており、伊豆の虚無僧寺、龍源寺の住職が滝の音を聞いて作曲した、との言い伝えがあります。

◆青柳(石川勾当作曲) →第11回リサイタル

十九世紀初め、石川勾当が作曲した地歌に八重崎検校が箏の手を付けた手事物の大曲です。この曲はなぜか演奏することがありませんでしたが、今年機会をいただいた時、先達の音源を耳にして、その曲の美しさに魅了されてしまいました。技巧的な手事(器楽の部分)を備えた難曲とされていますが、一陣の吹き抜ける風のような演奏をしたいと思っております。

(歌詞) されば都の花盛り、大宮人の御遊にも、蹴菊の庭の面、四本の木陰、枝垂れて、
     暮に数ある沓の音、柳櫻をこきまぜて、錦を飾る諸人の、華やかなるや小簾の隙、
     洩れ来る風の匂い来て、〔手事〕
     手飼の虎の引綱も、長き思ひに楢の葉の、その柏木も及びなき、恋路はよしなしや、
     これは老たる柳の色も狩衣の風折も、〔手事〕
     風に漂う足下の、たよたよとしてなよやかに、立ち舞ふ振の面白や、
     実に夢人を現にぞ見る。実に夢人を現にぞ見る。



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