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「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」
2003年8月29日
自分で言うのもおこがましいが私は‘奇跡の尺八奏者’である。10年前にリサイタルを開きたいと会社を辞めて以来、尺八だけでなんとか食えていることを“現代の奇跡”といわずして何といおうか。近年尺八界で一人勝ちしている藤原道山氏もまた‘奇跡の尺八奏者’である。彼の場合は“奇跡のテクニック”“天から二物も三物も与えられた奇跡の人”という表現がまことに相応しい。同じ‘奇跡’でも“奇跡的に尺八で生きている”私とはえらい違いである。
「プロ」と「アマ」の違いは何か、ということが愛好者の中で議論されることがしばしばある。尺八に関して言えば、現在は特別の一握りの名人達を除いてその違いははっきりしない。プロのような音やテクニックを持つアマチュアの方もたくさんいるし、私のように弟子のほうがはるかに立派な音を出し、テクニックに長けている情けないプロもいる。では“プロとは何ぞや”と訊かれると、私は“尺八の神様がそれで生きていくことをゆるした人間”だと答えるであろう。尺八の持つ魅力や魔力を他の人に伝える使命を与えられた人間のみがプロとして存在することをゆるされるのだと思う。
練習に練習を重ね、周りの人々が目を見張るようなテクニックを身につけたからといって、それでプロとしてやっていけるかというと、決してそうではない。もちろん難しいことをさらりとやってのける技術も必要ではある。しかしそれはプロとしての‘必要条件’を満たしただけであって、‘必要十分条件’(うわっ、なつかしい言葉)ではない。‘必要十分条件’を満たすためにはさらにいろいろなものが要る。その大きな一つとして「人間力」がある。「人間力」とは漠然とした言葉であるが、「人を引き付けるエネルギーが圧倒的な人間力」、「周りの人が手を差し延べずにはおれない人間力」、「高邁な精神から醸し出される人間力」「慈愛に満ちた人を包み込むような人間力」など様々なスタイルがある。私が出会った尺八界のみならず多くのジャンルの“巨匠”と呼ばれる人達は皆、この「人間力」に溢れていた。つまるところ「人間力」とは「愛」なのだと私は思う。そしてもう一つは「捨て身の覚悟」である。尺八のプロとしてやっていくからには、常に尺八のために“身を捨てられる覚悟”が必要である。その覚悟が空気となって人の心に届くのである。
ここ数年間で何人もの先輩が職を辞し、プロ尺八家としての活動をスタートさせた。この世界は、毎月決まった日にまとまったお金が振り込まれることのない、一万円札よりもむしろ、千円札、百円玉を積み上げていく厳しい世界である。勇気ある決断をされた先輩すべてに成功していただきたくエールを送る次第である。これまでの世界のキャリアは捨てて、尺八に“捨て身”でぶつかっていただきたい。もちろんこの覚悟だけは私も誰にも負けないつもりである。先輩諸氏、“捨て身”のおじさんパワーで、腹の立つほど上手い若手共をギャフンといわせてやりましょうぜ!
「男は気で持て」
2003年8月1日
時々無性に餃子が食べたくなる。それもニンニクたっぷりのジャンクなものをワシワシと食べたくなる。
大阪で高校まで過ごし、京都で大学生活を送った私は『餃子のO将』の洗礼をもろに浴びて育った。『O将』には『大阪O将』と『京都O将』があり、どちらも餃子が看板商品なのは同じであるが、昔からメニュー豊富な中華料理店スタイルの京都に対し、大阪のそれは以前は餃子とビールだけを出す店であった。現在は大阪系もたくさんのメニューを揃え、皆さんのお越しを従業員一同お待ちしている(といっても私は従業員ではないが・・・)。
どちらのO将も、普通よりはやや大ぶりな餃子が6個で1人前である。高校時代は学校を終え、勉強するために図書館へ行く道すがら、大阪系の店でおやつ代わりに3人前、お腹が空いている時には4人前食べてから図書館へ通った。大学に入学してからは、京都系が頻繁に校門で餃子の無料券を配っており(当時は店舗ごとに1人前食べられるブックレットスタイルであった)、タダ券に弱い私は当然の如くそれを手に3日と開けずに通った。当時は京都O将もまだまだ新店舗が増えつつあり、新規開店時には客寄せで「5人前食べたらタダ」という、文字通り‘おいしい’サービスをやっていたので、その情報を聞きつけた時にはすかさずサービスの期間中、日参した。そして期間が終わるとまたタダ券のある違う店へ行脚した。高校・大学の7年間、餃子はご飯に次ぐ第二の主食であったといっても過言ではない。参考までに書いておくと第三の主食はラーメンであった。餃子やラーメンなら毎日でもよろこんで食べることができた。
ところが、である。最近とみに餃子が弱くなった。おかしな表現と思われるかもしれないが、これは“酒が弱くなった”というのと同じ使い方である。呑み助のつぶやきが“俺は昔酒豪でならしとってなぁ、毎晩ボトル1本は平気やったのに最近は弱なってしもうたわ”なら私は“俺は昔餃子豪でならしとってなぁ、毎晩餃子4人前は平気やったのに最近はホンマに弱なってしもうたわ”である。
ホームページを開設していると実にいろいろな方が訪れて下さる。その中には、学生時代に友達だった人が偶然にこのページにたどり着き、旧交が復活するケースも少なくない。高校時代(私は何を隠そう大阪の『浪速高校』という男子校の出身で、卒業生には藤本義一さんや笑福亭鶴瓶さん、赤井英和さんなどがおられる)に一緒に餃子を食べて図書館に通ったO西君もその一人である。彼とは高校卒業以来ほとんど音信不通であったが、ある時このホームページを見つけて連絡をくれ、それ以来、年に数回「石川尺八スクール設立準備委員会」(と称する飲み会)をするようになった。彼は激烈な業務のサラリーマンであるはずなのだが、そのハードな職務の中、高校時代の友人の消息など実に多くの情報を得て、私に教えてくれる。O西君との会もメートルが上がり(!)いろいろ話が弾んでくると必ず出てくるのが“なんや、お前も高校時代と全然変わってへんやんか”という言葉である。
よく”少年がそのまま大人になった”という比喩が使われる。これは”純粋な”という良い意味で用いられることもあるが、”なかなか成長しない”というマイナスの意味で使われることも多い。
私は次のように考えた。
男性は女性に比べ、その存在自体を根幹から問われるような環境の変化、肉体的変化がはるかに少ない。女性は結婚したら(現在はやはり男の姓を名乗る比率が多いので)、生まれてから今まで慣れ親しんできた姓がある日を境に突然別のものになってしまう。さらに女性には”出産”という人間で最も劇的な出来事(ドラマ)が待っている。自分の身体の中に別の生命が生まれ、それが分身となってあらわれてくるのである。何と凄いことであろうか。喜びはもちろんであるが、凄絶な痛みを伴う大きな試練である。それらに匹敵するほどの試練は男にはない。それ故、男はよほど自分に試練を課さないと劇的に変化することは難しい。
私は子供の頃、人間は40才、50才と年令が上がるにつれ、自ずと立派な大人になっていくものと思っていた。しかし、それは大きな間違いであることがよくわかるようになってきた。年令に関係なく、10才でもしっかりしている人はしっかりしているし、50才でもだらしない人はだらしないのである。
私が吹いている尺八という楽器は構造自体が極めてシンプルなのでその人となりが如実にあらわれる。日頃の鍛錬の具合から心の在り様まで実にストレートに表に出てしまう、ある意味”恐い”楽器である。それだけに、日々厳しさを持ち続け、自分を叱咤していかなければ成長は望めないのである。
イチロー選手がまだ日本にいた頃、”イチローは変わらなきゃ”というコピーのCMがあった。私はそのCMが好きであった。イチロー選手は変わり続け、見事メジャーリーグの頂点に立った。
これに触発され、少々時代遅れではあるが、自分自身を鼓舞する意味で”トシミツは変わらなきゃ”を密かなスローガンとすることに決めた。これを読んで下さっている人で、変わろうとする努力を怠っているトシミツを見かけた方は、どうぞ遠慮なく叱っていただきたい。
私が変わる手はじめに好きな餃子を控えることにした。これからは”焼売”である。焼売パワーでバリバリ吹くぞーっ!・・・”なんや、全然変わってへんやんかっ!!”
「命に過ぎたる宝無し」
2003年6月20日
Scene2
平日の昼下がり、Tの運転する白い車は国道をすべるように走っていく。道は空いていて開け放した窓から入る風が心地よい。その瞬間、国道横の駐車場から一台の車が飛び出してきた。思わずブレーキを踏むが、追突するような距離ではなく、一台の車を吸収した車の流れは何事もなかったかのように元の流れを取り戻している。Tは前の車が出てきた駐車場にあった看板に目をやり“アカン、アカン”とつぶやいた。
そーなのである。ここ数年、サラ月(いや)、サラ火(ちょっと違う)、サラ水(もーおわかりですね)、サラ木(しつこーいっ!)、サラ金(ふうっ)、そうサラ金の店舗拡充の動きは凄まじく、主要な道路沿いには看板と自動金貸し機が林立し、駅の構内にまでもコーナーが出来ている有り様である。サラ金業者が知恵をはたらかせて作った、人と対面しないでお金が借りられる機械が普及し、より安易に借金する傾向に拍車がかかったようである。この、あまりにも簡単にお金が借りられてしまうシステムは大変危険である。そのような駐車場から出てくる車を見ると、“ホンマにそこでお金を借りる必要があるの?”“自分の稼いだだけのお金で生活できないの!”と問いつめたくなる。
お金を借りること自体が悪い、と言っている訳では決して無い。その人にとってどうしても必要な場合もあるだろうし、確固とした目的があって借り、きちんと返済すれば何ら問題はない。私が嫌うのは苦労、痛み、恥ずかしさなどを全く伴わずに安易に金を借りる風潮であり、そのことが“物を大切にしない”ことにつながると考えるからである。
今ほど簡単にお金を借りられない世の中であった時には、お金が足りなくなった場合、@我慢する、A他に使う予定のお金を始末して回す、B家の中の物を売る、または質屋へ行く、C恥ずかしい思いをして親、兄弟、知人などへ借金する、などの知恵をはたらかせて‘やりくり’していた。ところが近頃は、金貸しが知恵をはたらかせて作った機械にまんまとハメられ、自分の口座からお金を下ろすような感覚で借金が出来てしまう。これでは金にありがたみを感じることはできない。金にありがたみを持てない人間に物のありがたみが持てるはずもない、と私は考える。私が子供の頃、本やLPレコードはとても高かったのでそうそう買えず、少しずつお小遣いやアルバイト代を貯めて何ヶ月もかかって買った。それ故一つ一つへの愛着は強く、今なおその頃の思い出と共に本棚やレコード棚にしまってある。また、大人になって自動車やステレオを買うためにローンを組み、それが完済できて自分のものになった時の安堵と喜びの入り交じった気持ちは忘れることができない。そういう経験を重ねて、物やお金を大事にする心、感謝する心が養われていったのだと思う。
物を大切にしない風潮は人だけではなく、日本の企業においてもそうである。過去に優秀を誇った我が国の電器製品であるが、最近はほんとうに壊れやすい。そして修理代金がバカ高く、かつ歓迎されない。(ひょっとすると私の買った物だけがそうなのかもしれないが、)家の電器製品のほとんどがある年数が経つと、あたかもそれが定められていたかのように壊れてしまう。直してもらおうと思いメーカーの修理窓口に電話すると、気のない担当者が出てきて、“修理費は結構かかりますし、今はもっと性能の良いのがお安いですよ”などと言う。それでも修理を希望すると、電話をたらい回しにされたり、何十分も音程の狂った“エリーゼのために”を聞かされたり、まるでこちらが諦めて新しいのを買うのを待っているかのようである。「日本のメーカーにはクラフトマンシップはないのか!」と、日頃は怒らない私もカーツとなってしまう。日本の家電メーカーはここいらで目を覚まさないと、数年後には外国製品ばかりになってしまいますぜ、いやホンマ。
それはさておき、物を大切にしない風潮が進んでいる中で、最悪、極悪なことは、人間の命を大切にしないことである。少し前までは簡単に人が傷つけられ、殺されてしまうことを嘆いていたが、この頃は“ネット心中”で自分の命を粗末にする輩が続出している。私は新聞などでこの“ネット心中”の記事を見るたび(連鎖反応があるらしく、続く時はパタパタとつづいてしまう)に怒りでいてもたってもいられなくなる。親からもらった大事な命をなぜ自ら絶とうとするのか。そこまで大きくするのにどれだけの人の手がかかっているのかわからないのか。この世に生を受けた人間は精一杯生きて、それを次代に伝える使命がある。一寸先は闇になることもあるが、一寸先が光になることだってあり得るのだ。
私は舞台に立つ時、「この演奏が自分の最後の演奏になるかもしれない」と考えて臨んでいる。明日吹けなくなっても後悔しないようにすべてを出し切るつもりで吹いている。これは、自分なりの命を大切にする姿勢である。しかし、私のような情けない音、未熟な芸ではまだまだ死ぬことはできない。生きて、生きて、周りの人間に“いつまで吹いとんねん、もうええわ!”といわれるぐらいに吹いて、自分の人生に幕を引きたい。
「人は人中、田は田中」
2003年5月22日
scene1
ある日の深夜、Tは四角い鉄の箱の中で心地よい寝息を立てていた。四角い鉄の箱の中はTしかいない。するとそこへ制服を着た若い男が駆け寄り、おもむろにTの肩をゆすって言った。
「お客さん、終点ですよ。降りて下さい。」
その言葉に促されTはふらふらと立ち上がり、力無くつぶやいた。
「ちっ、またやっちまったか・・・・」
そーなのである。酒呑みなら誰でも経験があると思うが、飲んだあと電車に乗るというのは非常に危険なのである。酔っぱらった身体に電車の揺れというのは異常なくらい気持ちよく、瞬時にして意識が無くなってしまう(つまり寝てしまう)のである。元々酒が強くないくせに“大好き”という困った性格と身体の私は、外で飲んで家へ帰るまでが試練の連続である。終点まで眠りこけてしまったことは数えきれない。学生時代は阪急電車で京都と大阪の間を往ったり来たりして、途中で目が醒めて引き返す電車でまた寝てしまったことも一度や二度ならずあった。
しかし私の京都・大阪間などはまだまだ小粒である。私の師匠、本人の名誉のため名を伏すが、Y山K也先生(誰でもわかるっちゅーの!)は、東京駅から“のぞみ号”に乗車、岡山駅で降りるところを寝過ごされてしまい、終点博多駅まで行ってしまわれた。さすがは全国区(??)のスケールの大きな先生である。(先生ごめんなさい)
この“酒を飲んだら眠くなる(妻が‘オート・アイ・クロージャー’〜略してAEC〜と名付けた)”習性は、酒を飲み始めた学生時代からあったが、さらに鍛えられたのはサラリーマン時代である。会社の借りてくれたマンションに住んでいた私は、一時期休んでいた尺八を再開し、猛烈に吹きたい欲求が高まっていた。しかし、営業の仕事で毎夜遅く帰宅するため、部屋ではまったく吹くことが出来ず、仕方なしに近くの中学校のグラウンド横に車を停めて、その中で練習していた。だが、経験のある方はおわかりだと思うが、車の中で尺八を吹くことは無茶苦茶ストレスが溜まる。そこで私は思いきって防音室を買うことに決めた。防音室を導入し、時間や隣室を気にせずに吹けるようになった私は毎日12時、1時まで吹いた。練習を終え、翌日の仕事のため寝ようとするが、吹いたすぐ後は頭も身体も興奮していてギンギラギンの状態である。そこで、酒を飲んで強制的に寝るように習慣づけた。この時期にAECがたいそう強化され、私の身体はアルコールが入るとすぐに‘あっ、寝なさいというサインが来た、おやすみなさーい’と反応するようになってしまったのである。
私は防音室があったからこそ練習が出来、いつのまにか(本当はそうではなく自分の意志なのであるが、ストーリー上ご理解下さいね)プロの尺八家になってしまったが、プロ・アマを問わず、楽器をする者にとって音が出せる場所を確保することは大変に困難を伴う問題である。私の周りでも、学生時代に音楽に熱中した若者が卒業後、中断を余儀なくされているのは練習場所が確保できないケースが多い。
邦楽人口の減少がある種の諦観を持って叫ばれて久しい。しかし、大学の邦楽クラブなどは昔の隆盛時には及ばないものの、全国的に見るとそれなりに活況を呈している。問題は、卒業した人の受け皿というか、練習や活動のできる場所が極端に不足していることにある。10年を超える歴史があり、私もその活動当初からお世話になっている邦楽普及団体“えん”(伊藤和子さん主宰)は、『全国学生邦楽フェスティバル』や幼稚園、初心者向けの和楽器教室など、有意義で貴重な活動をされているが、このような人が集うイベントと共に、若者が継続的、日常的に楽器の練習や活動を続けられるスペースを我々も作っていく必要性を痛感している。私の目標の一つは“練習したくても出来ない”若者にその「場」を提供することである。あまり遠くない将来に、利用し易く、かつ費用も殆どかからない、いわば大学のボックス(部室)のような場所を作りたいと考えている。
これには若者側の姿勢も大事である。若者、特に大学生などはその多くが受動的で他力本願である。これはその年代の特徴的なことで、私なども例に漏れなかったと思われるが、1から10まで敷いてもらったレールに乗っかっておいて、自分の思い通りにならないとあれこれ文句を言う。先程の伊藤和子さんに何より頭が下がるのは、“よくこんな若者達を相手にして10年も立派な活動を続けてこられた”ということである。私がこの役を受け持っていたら、とうの昔にブチキレて放棄していたに違いない。以前の「学校公演」の項でも書いたが、大学生においても、一人一人会ってみると素直な若者が多いのに集団ではとたんに礼儀知らず、恩知らずになってしまうのである。若者は主張と共に感謝の心をもっと表に出して欲しい。そしてこの時期を通過してきた大人が「自分の生きる道は自分で切り拓いていくもの」という教えを、個を尊重し、時には叱りながら伝えていかねばならない。
幸いなことに、私のところへは熱意に溢れた多くの若者がやって来る。その人間の個性を尊重し、より良い方向へガイドしていく仕事はこの上なく楽しいものである。特に若者に対しては、私は道標役に徹し、“努力は自分でするもの”だということを身体で感じてもらう。
この原稿を書いている間(実は一週間ぐらいかかっているんですぅ)に、門人の安田知博君が【第9回全国邦楽コンクール】において、尺八部門最高位の優秀賞に見事輝いた、との嬉しいニュースが飛び込んできた。安田君あっぱれ。嬉しいときにはまずは祝杯である(今日も飲む口実が出来てしまった)。カンパーイ!今日のビールはひときわうまい。
安田君は23才。“若いモンにゃまだまだ負けん”というセリフはもっと年がいってから吐くものだと思っていたが、本日より私もこのセリフを解禁することにした。「ほんとうにおめでとう。若いモンにゃ・・・まだまだ・・・・負け・・・・・ん・・・・・・zzzzzzzzzzz。」
「金は天下の回り物」
2003年4月17日
早いもので私が尺八のプロになって丸10年が過ぎた。学校を卒業し、サラリーマン生活を同じく10年経験してから専門家の道に入った。尺八のプロで“よく10年もった”というのが偽らざる心境である。当時は「会社を辞めて尺八吹きになった」と言うと、「よく決心しましたねー」と人に云われたものであるが、本人はいたってのんき、というかそれほど深刻に考えておらず、“自分が生きるスペースぐらいは作れるのではないか”“どうしても食えないようであれば、また勤め人に戻ればいいや”と気楽に考えていた。
10年もったのはタイミング、そして運が良かったことに尽きる。自分が苦境に立たされた時には誰かしら手を差し延べてくださる方が出てきた。“ほんとうに私は運が良い”、今回の構想を練りながらこんなことを考えていたら、ニューヨークデビュー戦で満塁ホームランをかっ飛ばしたゴジラ松井選手の談話が新聞に載っていた。「野球ってかなり『運』が作用するスポーツではあると思うんだよ。でも自分なりに準備しておかないと、手に入れられないまま終わっちゃうんだ。」うーん素晴らしい!ゴジラ松井選手と現在の私ではおそらく数百倍の稼ぎの差があると思われるが、このセリフには共感する。プロとしてその世界で生きようとする以上努力するのは当たり前である。あとは運をどうつかみ、どう生かすかが大事である。
尺八の専門家としてスタートする時に心掛けたことが二つある。『対する人によって態度を変えないこと』と、『理不尽なお金の取り方をしないこと』である。一つ目の『人によって態度を変えないこと』は、尺八吹きの姿勢というよりも人間としての私の信条である。楽聖・宮城道雄も同様のことを随筆に書いておられ、それを読んだ時も“その通り!”と共感したものである。宮城道雄と現在の私では、もはや戦意喪失してしまうくらいの稼ぎの差(比べようとする方が土台無茶な話である〜もちろんゴジラ松井選手もであるが〜)があるにしても、一人の人間の姿勢としてこういう方と意見が同じだということは嬉しいものである。二つ目の『理不尽なお金の取り方をしないこと』は、この10年間肝に命じ、気をつけてきたことである。‘プロでやっていく’ということは当然‘生活が懸かっている’ということであり、お金の問題は避けては通れない。しかし、「貴様は甘いっ!」と言われる人もおられようが、私は「金は後からついて来る」と考えている。私が携わる演奏や教授、それに付随する様々な事に人々が納得するお金を払って下さって、それで自分が生かされれば良いのである。
『理不尽なお金の取り方をしない』と思うに至ったのは理由がある。サラリーマン時代の10年間はアマチュア尺八奏者として色々なところで吹かせていただく機会があり、そのおかげで尺八のみならず筝、三味線弾きの友人もたくさんできた。その友人達と親しく話をするようになると、お金のことで悩んでいる、というよりも怒っている人が多かった。師匠につくとレッスン料(月謝)をお支払いするのは当然として、(師匠により名目や金額は違うが、)それ以外に何やかやとお金を支払わねばならず、その中に“取られる”という感覚のお金が実に多いのである。自分(友人)が出演する会費なら大勢で出るにしても納得は行くが、師匠に回ってきた、自分が行けもしない演奏会のチケット代や、師匠が上部組織へ払う上納金など、?と考えてしまうお金まで、年間にすると結構な金額を請求され、理不尽な思いをしている人が少なくなかったのである。“これでは駄目だ”と私は思った。その楽器に、音楽に興味を持って始めた人がそれ以外の理由でやる気を失ってしまうことになりかねない。その頃私にも数人の門人がいたが、“自分の門人にはこんな思いはさせたくない”と強く思った。以来、政治家の公約ではないが、「金にクリーンな尺八家石川利光」をモットーに日夜頑張っている私である。(なおこれは安くてよいという訳では決してない。誤解なきよう。)
物には適正金額がある。それは演奏家の演奏料やレッスン料なども同じである。私もこの10年の間に様々な金額の演奏料を頂戴した。その中にはとてもじゃないが私をプロとして見て下さっていないと思える金額もあった。しかし、それは依頼者が私につけた適正金額であり、“私の力が足りないのだ”と考えることにした。「金は後からついて来る」のであるが、自分を磨き、結果として適正金額が上がるように努力を重ねていきたい。私の演奏を聴き、感激して財布ごと置いていかれる方が続出、などというのが理想的である。もっともそれを実現させるのに、尺八の技量を上げるのが早いか、催眠術を習うのが早いか、難しいところではある。
【お願い】
ここまで無事に読んで下さった方は1回につき5000円の購読料を口座から引き落としさせて頂くことをご了承願います・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・うそ、うそ、うそですよーん。今回も読んでいただきありがとうございました。
「艱難汝を玉にす」
2003年3月12日
私は移動の時、電車を利用することが多い。車内でのアナウンスは普段気にもとめないのであるが、よく聴いてみるとまことに奇妙である。
「車内では通路に座りこまないようにしましょう」「座席には荷物を置かず、一人でも多く座れるようにしましょう」「お年寄りや身体の不自由な方には席をお譲りください」「携帯電話は周りの乗客や心臓ペースメーカーをつけたお客様に迷惑をかけますので電源をお切りください」
私もそんなにたくさんの外国に行った訳ではないが、他所の国でこんなに親切かつお節介なアナウンスは聞いたことが無い。(もっとも大抵の場合“言葉がわからない”のであるが・・・いや、でも、あのね、私の知る限りではアナウンスは無い、あるいは駅名だけ、という国が多いように感じるんですぅ。)
これが小学校の道徳教育の時間の話ならわかる。しかし電車の中は分別のある(と思いたい)大人が殆どなのである。その電車でいちいちこんなアナウンスをしなければならないこと自体おかしな話である。さらに嘆かわしいことにその教育的お節介が見事に守られておらず、今や迷惑ツールの代表格の携帯電話においては車掌さんのアナウンスもなんのその、老若男女を問わず平気で通話を楽しみ、また非通話時にはメール作成に余念が無い。これは全くもって日本の教育の誤りであると思わざるを得ない。現在の大人が生徒だった頃は携帯電話などは普及していなかったので「携帯電話は電車内や運転中は使ってはいけません」という教えが無かったのは当然であるが、もっと根源的な「社会の規範は守るものだ」「公共の場では人に迷惑をかけない」という教育が学校、社会でなされてこなかったしわ寄せがここに噴出しているのだ。
この話題を書き続けていると腹が立ってきて本日の御酒が増えてしまうので、気分転換に“もしも尺八の世界にもアナウンスがあったら”(ドリフの番組みたい)、ということを考えてみた。
「人前で尺八を顔にこすりつけることはお止め下さい」(これは結構いる)。「露切りをそこら辺に放置することはお控えください」(‘露切り’とは、尺八の中の露を拭く布である。長年使い込まれて煮〆た雑巾みたいになってしまったものも少なくない)。「人の尺八を勝手に吹くのはやめましょう」(信じてもらえないかも知れないが、こんな無礼な人もいる。こんな人は門人でなくても‘破門’したくなる)。「楽屋で酒を飲んではいけません」(最近はあまり見られないが、昔は結構あったらしい)。
これを読んだ人は「尺八の世界は一体全体どんな世界や」とお感じになられる方もいることと思うが、そんな世界なのである。
この話題を書き続けてもやはり本日の御酒が増えそうなので、また話題を戻すことにする。(飲みたかったら飲みたいとはっきり言いなさい!)
電車内において、携帯電話で通話をしなくとも、メールをせっせと打ち込んでいる人は多い。インターネットの一般化により近頃は携帯電話、パソコンによるEメールがものすごい勢いで普及し、それはそれで大変有用な物であることに異論を挟む余地は無い。しかし何かを手に入れると、その代償として何かを失うことは必定の理である。便利さを手に入れると人間の身体能力は退行するのである。
文字や文章は本来“書く”ものである。それがパソコンや携帯電話に対しては“打つ”という行為に変わる。“書く”作業は構想、下書き、推敲、清書、という過程を経て、完成に至る。この間に、辞書を引く、筆順を思い出す、適正な語彙を選択する、文節を考える、そして実際に手で書く、などという頭と身体を使う行為を要求される。それが“打つ”行為においては、辞書を引かなくともキーを叩けばたちまちその語彙が出て、頼まなくともスペルをチェックしてくれ、おまけに画面上の文字は悪筆を大いに隠してくれる機械文字になる。これは進歩のようであるが、人間にとっては限りなく退行する要素を孕んでいる。文字や文章を書かないで打つ行為ばかりしていると、字が下手になることは言うに及ばず、漢字が出てこない、使う語彙が少なくなる、などの直接的退化から、ひいては、ちゃんと喋ることができなくなる、画面の見すぎで視力が低下したり肩がこる→イライラする→家族にあたる→ムシャクシャするので酒を飲んだりパチンコをしたりする→金が無くなりついサラ金に手を出す(おいおいどこまでいくんやー)→金利が雪ダルマ式に増えて返せなくなる→家にコワいお兄さんたちがやってくる(誰か止めてくれー)→自己破産→一家離散、という恐ろしいことになりかねない。
私は文字に関して言えば‘肉筆’に勝るものはない、と信じている。『目は口ほどにものをいう』というが、『字も口ほどにものをいう』のは確かである。上手い下手ではない。その人の字にはその人の心の在り様や境地が如実に表れる。‘肉筆’の喪失は‘心のコミュニケーション’の喪失につながるのである。
いつも前ふりの内容と尺八を無理からに結びつけているが、今回も例外ではない。
最近は昔の物と比べ、吹きやすい尺八が作られるようになってきた。この陰には製管師さんの並大抵ではない研究と努力がある。とっつきが悪い、と言うか、尺八はまず音を出すことに時間のかかる楽器である。吹きやすい、音律の安定した楽器が増えることは尺八を普及させる意味においては大変望ましい状況である。しかし、音で勝負するプロは別である、と私は思う(‘音で勝負しないプロ’はこの限りではない)。簡単に鳴ってしまう楽器は“音作り”という点で、人から工夫の余地、考える余地を奪ってしまう。簡単に鳴り、音量も出てしまうと、頭や身体で工夫、試行錯誤をして“音を作る”という最も大切な作業がおろそかになってしまうのである。音にこそ自分の境地が表れるのである。『楽に出された音は楽にしか聴こえない』と横山勝也師は言われた。この言葉には私も年々実感を強くしている。五体、五感をフルに使い、楽には吹けない楽器(性能が悪い、という意味では決して無い)を自分の身体の一部分にしてこそ、初めて人の心に訴える音が産み出されるのだ、と思う。
‘肉筆’‘肉声’はとてもわかりやすくて良い。それにあたる「音に関する単語」を探してみたが無く、それならば作ろうと考えた。‘肉音’‘肉響’‘肉韻’うーん、どれもなんか生々しいだけでピンと来るものが無い。そこで私はシンプルに‘肉体派尺八’を標榜することにした。地味ではあるが、今回は私の‘肉体派尺八’宣言でもある。なお、念のためお断りしておくが、これは私が尺八と向き合う際のスタンスを示したもので、マッチョ尺八奏者を目指すことでは決してない。また、関係者におかれては、プログラム等に[演奏:石川利光(肉体派尺八)]などと書かないよう切にお願いする次第である。
「叩けよ、さらば開かれん」
2003年2月2日
今回は前回書けなかったリサイタルの思い出について書くことにする。前回邪魔をした私の手は昼間の練習に疲れ果て、おとなしくしているようである。
昨年12月14日に行なった『咆哮』というタイトルのリサイタルで、私の会も6回を数えることになった。6回それぞれに忘れられない思い出があるが、内容は別にして最も大変だったのが1997年11月の第3回リサイタル『SHAKUHACHI
HYPER BATTLE』である。何が大変だったのかというと、リサイタルの4日前に父が他界したのである。
その3年前に母が他界し、父は一人暮らしを余儀なくされていたが、昭和一桁生まれで仕事一筋に生きてきた男に家事が務まるはずもなく、見かねた私は実家へ戻り父の世話をしていた。私が戻った当時は父も元気だったので、近所の町工場へ勤めに行っていた。同居生活が2年経ってお互いの生活ペースもわかるようになり、自分の会をやりたくなった私はその年(1997年)の春、第3回目のリサイタルを11月に行なうことを決め、準備を進めていた。8月に入り身体の変調を訴えた父は、しばらくの間通院して様子を見ていたが、検査入院で食道に腫瘍があることがわかり、別の大きな病院へ移ることになった。それからわずか3ヶ月後に父は亡くなった。その間私はほぼ毎日病院へ顔を出し、あとは演奏およびレッスン、そしてリサイタルの練習と下準備を行なっていた。3ヶ月の間に父は少しずつ弱っていった。私もだんだん覚悟ができ、「何とかリサイタルの日まで生きていて欲しい」とだけ願うようになっていた。
11月は演奏会シーズンである。自分のリサイタルの6日前と5日前には別の本番があり、3日前には私が主宰しているグループの学校公演が入っていた。丁度本番を避けて父は4日前に亡くなったので、それはまさしく‘不幸中の幸い’だったのであるが、当然通夜と葬式があり、尺八を吹くどころではなくなった。葬儀の為に帰ってきた兄(実は兄もリサイタルの出演者であった)と姉に家のことをすべて任せ、空いているわずかの時間を練習にあてた。リサイタルの曲は「かん絃秘抄」「真美夜」「双魚譜」など、まぁ喪中の家にはふさわしくない曲ばかりであったし、親戚が大勢駆けつけて下さっていた為、家では全く吹けず、練習には知人宅を借りた。この時は忙しすぎたことと、覚悟が出来ていたこととで悲しい気持ちはさほど無く、ただ「リサイタルに来ていただく方に対し、少しでもましな演奏をしなければ申し訳ない」という気持ちだけであった。
さて、話はここからである。『HYPER BATTLE』というタイトルは、わかる人にはわかるが、プロレスから拝借したものである。次のリサイタルは“尺八と筝の二重奏曲”をテーマにしよう、と決めた時、即座にこのタイトルが思い浮かんだ。「強者揃いの助演者が次々と入れ替わり、私がそれに立ち向かう。曲もタイトでソリッドな曲ばかり。うんうんこれは面白いコンサートになるぞー。よっしゃー、ファイト、ファイト!」妄想に耽りながら私は一人ほくそえんでいた。「よしっ、どうせなら曲紹介のアナウンスはリングアナよろしく声高らかに叫んでもらって、そのあとゴングで試合開始や!」と、すっかりその気になっていた。そこまではよかったが、その後病院通いなどで忙しくなり、アナウンスのことはすっかり忘れてしまっていた。
父の葬儀を終えリサイタルまであと2日という時になって、私はリングアナならぬ影アナとゴングの用意を何もしていないことに気がついた。それから慌ててリングアナをやってもらえそうな知り合いの男性何人かに電話をかけたが、あいにく誰も都合がつかなかった。そこで、「裏方で手伝いに行きます」と言ってくれていた後輩の女性に無理矢理お願いし、影アナは一応確保した。次はゴングである。何故かは知らないが、それまで私は“ゴングはすぐに見つかるだろう”とたかをくくっていた。電話帳でレンタル屋さんを探して借りるつもりでいた。今から考えると大馬鹿者である。誰が何の用途でレンタル屋さんにゴングを借りにいくのだろうか。
当然のごとくゴングを置いているレンタル屋さんは見つからず、入手できないままついに当日を迎えた。それでもなお“会場のブザーはやっぱり違うよな”と思っていた私は、仏壇の『りん』に目をつけ、“これは使えるかもしれない”と尺八を入れている鞄に忍ばせて会場へ向かった。普通はリハーサルの時にアナウンスのテストをするのであるが、この時はどういうわけかテストをした記憶がない。急造アナウンス嬢に「‘第1曲目’ではなく、‘ラウンドワン’ね。次に曲名と出演者名を言ってこれを力いっぱい鳴らしてくださいね」、と『りん』のセットを渡したことだけなんとなく憶えている。
バタバタと余裕がないまま本番の時間を迎え、私は舞台についた。緞帳の向こうも少し緊張した空気が流れているのがわかった。集中を始めた私の耳に女性の低い声が聞こえてきた。“ラウンドワンー”。そうであった。コロッと忘れていたが急造アナウンス嬢は落ち着いたハスキーな声であった。と思ったのも束の間、そのあとに“チーーーーーーーン”と見事な『りん』の音がマイクを通して鳴り響いた。座ったままズッコけたという経験はこの時が初めてであった。緞帳の向こう、客席側も先程の緊張感はどこへやら、あちこちでクスクスと忍び笑いが起こっていた。幸いにして一曲目は古典本曲の独奏だったので緞帳が開いた瞬間からすぐに目を閉じ、気を持ち直して演奏したが、これが楽譜を見る合奏曲から始まっていたらどうなっていたかわからない。
災難だったのは助演の方々である。『りん』の音はラウンド5まで続いたからである。私はラウンドを重ねるごとに慣れ、だんだん平気になっていったが、助演の人は一回きりの出番の前に“チーーーーーーーン”と鳴り響く『りん』、そしてクスクスという笑い声の中、曲に取り掛からねばならなかった。大変な試練を与えてしまったものである。5年3ヶ月前のことであるが、助演の方々にはこの場を借りてお詫び申し上げる次第である。
私は門人に限らずプロ、もしくはプロを目指す若い人に対し、“出来るだけ早くリサイタルの機会を持ちなさい”と奨めている。大きな会場でやる必要やお金のかかる助演を呼ぶ必要は無く、身の丈に合った会場、方法で良いのである。自分で会を企画、運営する過程を通じ、宣伝の大変さ、動員の大変さ、期待通りに練習時間が取れない大変さ、などを学ぶことはその人にとって大きな財産となる。また、本番が終わった瞬間の達成感、後悔、そして何よりもお客様の拍手が演奏者に計り知れない力を与えてくれることを私自身実感しているからである。この感覚はソロでやるのと、複数人あるいはグループでやるのとでは全く違う。厳しいところを通れば通るほどその人の演奏に幅や奥行きが加わるのは間違いない。
“あーたいへん、たいへん”そう言いながら早くも次のリサイタルに思いを馳せている私であった。
「情けは人のためならず」
2003年1月1日
今回は私のリサイタルの思い出について書くつもりであったのであるが、手が勝手にハゲのことについて書き始めたのでやむなく従うことにする。(ちょうど新年の初日の出にふさわしいといえばいえなくもないのでまあいいや。)
私が自分がハゲであると気づいた、いや気づかされたのは26才のときであった。ある日私の頭のてっぺんをしげしげと覗き込んだ友人が、「おまえ、頭のまん中うすくなってるで」と言った。なにを隠そう私は大学生の頃までは髪が多くて多くて困っていたぐらいである。父親がハゲていれば遺伝とあきらめ覚悟もするだろうが、父親は白くなってはいたもののフサフサであった。また兄もハゲる気配は微塵も無かった。(今なお〜弟にあてつける訳でもないと信じるが〜40代半ばを過ぎてフサフサの髪を茶髪にしている。)そんな訳で若い頃はまさか自分がハゲるとはこれっぽっちも思っていなかった。
※当時の利光を見てみたい方はこちら
だからその時も友人には「何をしょーもないことを言うてんねん」と、鼻にもかけなかったのであるが、3ヶ月、半年、と、日を追うごとにブラシにつく髪の量が目に見えて多くなり、28才の頃には見事な“カッパちゃんハゲ”の状態になってしまった。以来着実(?)に長い友だちであるはずの髪が減りつづけ、41才の現在は見事な禿頭である。おまけに2年と少し前に父親になったので、正真正銘の“禿親父”になってしまった。
この随筆には必ず私のメッセージを込めるようにしているが、今回は全世界のハゲていない人に声を大にして訴える。“ハゲ男はハゲたくてハゲたのではなーい!”日本ではハゲることが何か悪のようなイメージ(これは男性かつらメーカーの謀略も少なからずある、と私は睨んでいる)があるし、若くしてハゲた人はコンプレックスをもってしまうが、イタリアなど諸外国のようにハゲがもてる国もあるのである。ハゲること自体は別にみっともなくはない。では何がみっともないかというと、無理にハゲに抵抗している姿と、清潔にしないことである。バーコード頭などは抵抗している姿の典型である。さらに、そのバーコード頭のおっちゃんがくたびれたスーツの肩に雪のようなフケを降らせたりしているとこれはもう最悪である。全日本ハゲ連盟(そんな団体聞いたことない)においても強制的に除名処分になってしまうほどの犯罪的行為と言わねばならない。ハゲている人はそうでない人よりも常に清潔にすることが大切なのである。
私は人のすすめもあり、数年まえから坊主にしている。やはり最初は過剰に他人の目が気になったのであるが、慣れてしまえばどうということはなく、洗ってもすぐ乾くし、とても楽なので今は満足している。それに、私にとってラッキーだったのは尺八を吹くことを職業にできたことである。舞台に立つときは着物のことが多く、ハゲ頭でもあまり気にならない(私だけが気にならないのかもしれないが)。むしろ、「着物を着ると貫禄が出ますね」とお褒めの言葉(これも私だけがお褒めと受け取っているのかもしれないが)をいただくこともある。
そんな私がただ一つだけ怖れているのは“タキシード着用”のお仕事が来ることである。(私と実際に会ったことのある人は私がタキシードを着て、ピッカピカに光る靴を履いて尺八を吹く姿を想像していただきたい。ぷっ。)しかし世の中うまく出来たもので、そのようなお仕事は間違っても来ないようになっている。
今度は若くしてハゲた人へのメッセージである。“無駄な抵抗はやめて短くしなさーい!そのほうが人生楽しくなるよー”
自分がハゲるという経験を経て、得たものがある。それは“人に対する優しさ”である。とくに、お年寄りや身体に障害をもった人に対する接し方は、ハゲる前と今とでは随分変わったように思う。“身体の自由がきかなくなってしまったお年寄りや身障者は自分の意志でそうなったのではない”ということが私にもわかるようになり、“その人の役に立つにはどういう行動をとればよいのか”と考え、少しずつ行動できるようになった。しかしこれは一方通行ではなく、そのような方のお世話をさせていただくと、必ずそれ以上の元気や勇気、人生の教えなどを逆にその方から貰うのである。
私はご縁ができた私の周りのすべての人に対し、最大限の優しさをもって接したい、と思う。そしてそこで得たものを自分の音に込めたい。誰よりも優しく、誰よりも厳しい尺八を私は吹きたい。
「亀の甲より年の功」
2002年10月21日
気が付くと41歳になっていた。こう書くと物語の始まりのようであるが、これは大ウソである。だいたい今の世の中、何年も自分の年齢を気にせずに生きられる人は仙人のような生き方をしている人か、あるいは相当ズボラな人である。普通に生きていると、事ある毎に自分の年を言わされたり書かされたりするので、毎年一つずつ歳をとるのを否応無く思い知らされる。
それにしてもなんとまあ最近は月日の経つのが早い。「子供は一日が短く一年が長い、それに対し老人は一日が長く一年が短い」と云われたりするが、41歳というのはちょうど人生の折り返し地点あたりであるせいか、一日も一年もあっという間に過ぎてしまう気がする。今年もついこの間、お正月恒例の仕事でホテルで『春の海』を吹いていたかと思っていたら、もう来年の依頼が来てしまった。(おっと、その前に12月14日にリサイタルをやります。ちょいと宣伝はこちら。来てね!)
以前読んだエッセイに“人生時間”ということが書いてあった。自分の年齢を3で割った数字がその人の“人生時間”であり、24歳なら3で割ると8で午前8時、これから仕事にとりかかる年齢。60歳なら同様に20時=午後8時で、仕事を終え自分の時間が始まる年齢、という説で妙に納得してしまった。その“人生時間”でいくと、41歳の後半は午後2時前ぐらいでちょうど仕事がはかどる良い時間帯である。(関係あるかないかわからないが、1時51〜52分というのは針式の時計では最もバランスのとれた美しい時間である。やっぱり関係ないか。)
私は32歳で尺八家になったので、午前11時前に今の仕事につき、ようやくこれからが本番というところである。スタートの遅かった影響が無いといえば嘘になる。しかしそこは社会経験と工夫で補い、常に‘攻め’の仕事をして行きたいと考えている。
前回の内容と関連してくるが、充実した仕事を長続きさせようと思ったら、午前中の時間をいかにうまく使うかが大きなポイントとなることは間違いない。朝早く(10代、20代前半)から尺八を仕事(演奏家)として志した人は、今の時間を大切にして頑張って欲しい。お茶を飲むくらいの休憩ならいいが、間違っても〔二度寝〕などしないように祈る次第である。
ところで、私のスケジュールを真面目に(でなくても)ご覧になっていただいている方は、公演のタイトルに時折「詩吟」という字を目にされることであろう。「詩吟」はその名のとおり、漢詩(や和歌など)を‘吟じる’、日本の文化的エンターテインメントの代表格の一つである。町の公民館などで、おっちゃん、おばちゃんたちが声を張り上げているイメージがあるが、「詩吟」をあなどってはいけない。トップレベルの人の‘吟’はプロの演歌歌手や浪曲の名人同様、うまさ、凄さ、美しさを兼ね備え、人の心をわしづかみして離さない力がある。この「詩吟」の伴奏に尺八と箏がよく使われる。たまたま以前よりお付き合いのある箏の先生が関西における詩吟伴奏の大家であることから、私を相方に指名してくださり、年に何回か舞台に立たせていただいている。
この詩吟の世界(吟界)ですごいのは、何と言っても皆さんメチャメチャ元気なことである。おそらく平均年齢は尺八や箏の世界よりも上であろうと思われるが、とにかく声を出すことが大好きな人が集まり、その多くは若い時分から鍛えておられるので、皆気力に溢れ、開放的で、もの凄い生命パワーである。先日出させていただいた大会の90歳の宗家は私の20〜30倍の声を楽々出され、こちらがこの年齢でぼそぼそと喋っているのが恥ずかしくなるくらいであった。
詩吟人口は箏や尺八などに比べはるかに多く、大小さまざまな会が全国至る所で開催されているので、弱ったり悩んだりしている方は是非一度覗かれることをおすすめする。元気になることうけあいである。
しかし実は、さらに圧巻なのは大会の“打ち上げ”なのである。“打ち上げ”はホールやホテルなどの広い会場でパーティ形式で行われることが多い。最初はVIPによる挨拶、乾杯、食事、と型通りに始まる。それが、一段落するとこの会場が突如盆踊り会場と化すのである。司会者の合図があり曲が流れ始めると、それまで席についていた人々が自然に席を離れ、輪になって踊り出す。(曲は土地柄か河内音頭が多いようである。また、後になってわかったのであるが、列席者はこれを楽しみに来ている方も多いらしい。)
初めてこの場面に遭遇した時は何が起こったのかわからず、しばし呆気にとられていた。すると近くにいたおばさんが「さ、さ、尺八の先生も輪の中に入って踊ってください」と言い、腕を引っ張ろうとするので、「わ、わ、わたしは結構ですから」と表面上は平静を装ってお断りしたものの、内心は〔ムンクの『叫び』〕状態であった。
まさかこんな体験は一度きりであろうと考えていたら、その後立て続けに三度その場面に遭遇し、吟界の打ち上げでは定番であることがわかってきた。名づけて“人生時間真夜中の盆踊り”である。こう書くとなんだか恐ろしい光景のようであるが、前にも書いたように誰もが元気で生き生きとしていてホントに羨ましい限りである。‘あんなふうに年齢を重ねることが出来たら楽しいだろうなあ’と心から思う。私も真夜中に河内音頭が踊れるように、充実した時間を積み重ねて行きたいものである。
「少年老い易く楽成り難し」
2002年9月13日
8月9日〜8月11日、『東京国際尺八サミット』なる催しが開催された。私は9日、10日と演奏および講習で参加した。また、期間中に行われた“第4回尺八新人王決定戦”では審査員を務めさせていただいた。“新人王決定戦”はそのタイトルが示すとおり、尺八を吹く若い人が集まって王位を争うものである。今年は26人の参加者があり、一人4分の独奏で技を競った。審査員は福田輝久、菅原久仁義、田辺洌山、林鈴麟の四氏と私であった。
コンクール独特の緊張した雰囲気のなか、決定戦が始まった。抽選で決められた順に次々と奏者が入れ替わる。出場者の吹奏レベルは接近しており、とんでもなく見劣り(聴き劣り)する人もいないかわりに特に秀でた人もいない。ほとんどダンゴ状態である。なかなか点差をつけるのが難しいが、この決定戦で人生が左右されてしまう人がいるかもしれないことを考えると、可及的厳密に審査しなければならない。自分自身の尺八に対する姿勢が逆に問われているようにも思え、演奏とは別種の緊張感があった。
結果は、ピーター・ヒルという外国人が一位、その下にいわゆる常連組が続いた。
尺八にふとしたきっかけで出会い、それが高じて日本にやってくる外国人は今なお多い。今回の優勝者もその一人であると推察するが、やはり醸し出す‘気’が他(日本人)と比べて全く違うのである。そのような外国人は生活のすべてを(否、人生と言っても過言ではない)尺八に賭けているのである。その気魄が音となり、演奏となる。己自身と向き合う厳しさが底に流れている、とでも言えばよいか。それに比べ、日本人の若者、特に上位の人などは音も出て技術も悪くないのであるが、どこか甘さが見えてしまうのである。私が楽しみにしていた“スケールの大きさを感じさせる人”や、“曲を完全に自分の歌として確立できている人”は残念ながら今回はいなかった。逆に、“ほんとうにこの人はこの曲を吹きたくて出てきたんだろうか”と思える人も少なからずいたし、自分で選んだ曲の演奏に楽譜を見ていた人もいた。これは私の勝手な考えであるが、たかだか4分の演奏に何ヶ月も前から準備をして何故楽譜を見るのか。尺八の演奏といってもつまるところ自分の歌である。歌詞を見ながら歌を歌ってほんとうに人の心に刺さる歌が歌えるはずはない。すでにプロとして活動している人も何人もいたようであるが、「自分がどういう状況で何のためにそこで吹くのか」をよく考えて欲しかった。
出場者の大部分は20代であり、数多くの若者が尺八のプロを目指し勇気を持って取り組んでいる姿は頼もしく、その意味においては尺八界の将来は明るい。しかし、プロになるということは畢竟青木鈴慕師や山本邦山師と同じ土俵に乗るということでもある。先達を尊敬し、学ぶという姿勢とともに自分がオンリーワンになろうとする気概を持ち続けることが大事である。そして、舞台では“勝負する”という姿勢が何よりも大事である。言うまでもなく、“自分自身と勝負する”のである。これは演奏する音楽の種類とは関係ない。自分自身を厳しく律し、制することが出来る者だけが生き残れるのである。出場者には才能豊かな人が多かった。その才能を生かすも殺すも自分次第であることをもう一度肝に銘じて努力を重ねて欲しい。
私が今回審査員を務めさせていただき最も収穫だったのは、他の審査員の率直な感想、意見を生で聴けたことであった。皆さんそれぞれに20年以上プロとして第一線で活躍している方々である。魅力ある演奏をしている人、良い音を出している人は聴き方も着眼点も優れていることがわかった。失礼を省みずに書いてしまうが、今回審査員を務めた人は出場した人達よりもはるかに深く厳しく尺八に、そして音楽に対して向き合っている。この姿勢をかいま見られたことは本当に収穫であった。“一生修行”という言葉を改めて実感した。
「鉄は熱い内に打て」、「若い時の辛労は買うてもせよ」先人のこの種の教えは実に多い。春秋に富む間は物事に本気で取り組むことが難しいことを言い表しているのだと私は思う。そこで今回のテーマとなった若人に対し、私からも熱いメッセージを贈り、この文章を終えることにする。
【 頭が光り輝く前に自身の才能を光り輝かせよ! 】
「子は親を映す鏡」
2002年8月12日
私は現在、二つのグループのメンバーとして年間50校を越える学校公演を行っている。6月下旬から7月中旬にかけては長野県茅野市および宮城県石巻市を訪ね、27の学校で公演を行った。今回は私の兄が代表を努める「アンサンブル昴」の一員として、尺八と笛(ゲゲッ、私が笛を吹く!)のパートを担当した。一日に3校、それも午前中に2校廻るため、6時50分から朝飯を食べ、7時半に宿泊先のホテルを出発する。楽器車とメンバーを乗せたワゴン車が連なっていく姿はまさしく現場に向かうおっちゃん、おばちゃん(おっと失礼、にいちゃん、ねぇちゃんもいました)である。学校に到着するとすぐに荷物を下ろし、セッティングにとりかかる。和楽器だけのアンサンブルとはいえ9人分の楽器に小物類、簡単なP・Aセットを含めると相当な量である。舞台は主に学校の体育館を使用するのであるが、最近は体育館が2階に作られている学校もあり、そんな時は普段まったく使わない「オーマイガー!」という言葉が自然と口をついて出てくるので不思議である。公演が終わったらすぐにバラして再び車に積み込み、次の学校へ向かう。これを毎日3回やるわけで、3校目が終わると身体はボロボロである。普段いかに楽をしているかを思い知らされる。この時ばかりは「もうちょっと体力をつけるために帰ったら鍛えるぞっ」と決意するが、これは、外国から帰った瞬間の「よし、明日から毎日英語の勉強や」という脆い誓いと同じで、出来た例しはない。
小学校ではだいたいどこの学校でも1年生が最前列で、それから学年順に並ぶ。まだまだ幼児の面影を残している1年生、2年生ぐらいまでは文句なしにかわいい。たどたどしい言葉で“おーはーよーごーざーいーまぁす”と挨拶をされると“うん、うん、おじさんも頑張って笛を吹くからみんなもしっかり聴いてね”という気持ちになる。反応も素直で、よく知っているディズニーの曲などが始まると全身で喜びを表す。子供の持つピュアな気が舞台までとどき、こちらもつられてニコニコしてしまう。これがもう少し大きくなって3、4年生になると羞恥心もめばえ、また、好きな子の動向も気になるのか反応がおとなしくなってくる。しかしここまではまだ良い。小学校高学年や中学生になると冷え冷えとした反応になり、たくさんの人形の前で演奏するようである。とにかく他人の目が気になるのか、“わざわざこんな遠方まで来てくれてごくろうさんですね僕はドラゴンアッシュとバンプ・オブ・チキンが好きなんでそんな地味そうな楽器には興味ないけど授業の一環なんで聴いてますわ”という感じである。(体育座りの膝の下に手を置いたまま、おざなりな拍手をしている女子中学生を見た時は、怒りを通り越して笑ってしまった。)中学校は、校内に入る段階からこういう冷めた空気が充満しており、次の学校が中学校だとわかった時点で気が重くなる。登校拒否おじさんである。一旦公演が始まってしまうと、私は相手(聴衆)が誰であろうと全身全霊をもって演奏することを主義としているので、クールな反応も気にならなくなる。が、中学校が続くと自分でも気がつかないうちにストレスが溜まるのか、ついつい酒量が増えてしまう。ストレスを明日に持ち越さないことは大事なことである。お酒をたくさんのむのはストレス発散のためには仕方のないことなのである。(それは誰に言い訳をしてんねん!)
話が少し横道にそれてしまったが、中学生も一人ずつなら廊下ですれ違っても照れくさそうに“こんにちはー”“よろしくお願いしまーす”と素直なのである。それが集団になるととたんに態度が悪くなる。私の子供時代はこんなことはなかった。ツッパリや不良は挨拶なんてしなかったし、きちんと挨拶が出来る子は聴く態度もきちんとしていた。ヒールとベビーフェイスははっきりしていたのである。現代の子供のこの二面性はどこからくるのだろう、とその場面に遭遇するたびに考えていたが、原因の大部分は大人にあるのではないか、と考えるようになった。子供をうまく叱ることのできない親、教師、世間の大人。そして愛情をもって正面から叱られることのない子供たち。この両者の冷めた関係が子供たちの健全な人間形成を阻害しているのではないか。もちろん世の中のシステム自体が日々変化しているので一概には言えないが、いまの子供たちは私たちの子供時代に比べても社会からかけられる愛情が乏しく、可愛そうである。
学校公演は一校たかだか60分ぐらいの短い時間である。子供たちの一日の中でも短い時間ではあるが、真剣にそして楽しく尺八や笛を吹く姿を見てもらい、楽器や音楽を愛する心を感じとってもらえたらなぁ、と思っている。
今回のツアーで最も感動的だったのは長野の養護学校での公演であった。演奏は生徒に受け入れられ、後半のノリのいい曲では踊り出す生徒が続出した。演奏が終わり、「あぁ、喜んでもらえて良かった」と安堵しているところに校長先生の挨拶があった。『ウチの子供たちは皆正直です。皆さんの演奏が良かったから子供たちはよろこんで聴きました。なかなか外には聴きに行けないので、違う楽器も持ってぜひまた来てください。』というようなことを話された。この時点でもうウルッときていたが、最後にもう一度万雷の拍手をいただき、ついに感極まってしまった。ステージ横の控室に戻ったら男性メンバーは皆泣いていた。特に太鼓のOさんは“俺、こういうのダメなんだ”といってボロボロ涙を流していた。学校公演は上に書いたようにいろいろと大変なこともあるが、こういう感動をこちらが与えられることもあるのでやめられない。
泣き顔を見られると恥ずかしいのでコソッと女性陣の方をうかがったら、皆ニコニコして「受けて良かったねー、あーお腹すいたー」だって。やっぱ女にはかなわねえや!
私の演奏スケジュールをまじめに(?)ご覧になっている方はお気づきになられたことがあると思うが、私はたまに藤あや子さんや吉幾三さんのコンサートに出演している。このお二人のバンドのレギュラーが私の友人であることから、友人の都合が悪い時にいわゆるトラ(代演)で舞台に出てブヒョーとやるわけである。会場は普段邦楽で出演するようなホールと違い、新宿コマ、梅田コマ、新歌舞伎座、あるいは各地の2000人以上収容の大ホールなどで、スターの歌はもちろん、ダンスや和太鼓なども入る盛りだくさんな内容のはなやかな舞台である。
このトラで大変なのは、殆どリハーサルなしでぶっつけ本番、ということである。レギュラーの方々は公演前のリハーサルから劇場公演で1ヶ月、コンサートツアーの場合は半年から1年くらいほぼ同じプログラムで進行するので、サウンドチェックと簡単な確認で本番を迎えることができる。しかしトラは初めてやる曲をいきなり舞台で、しかも大勢のお客様の前でやることになる。今日は尺八がトラだからといって出演の部分のリハーサルをしてもらえることはまずない。そこで友人が出演しているステージをあらかじめ見ておき、手順と楽譜を憶え、徹底的にシミュレーションして本番に臨む。ステージが始まってしまうとほとんど秒きざみの進行である。ほんの数秒音の出るタイミングがずれたり、照明やセットと咬み合わなかったりするだけで流れが悪くなったり、緊張感が途切れたりしてしまう。ここで求められることは、尺八の音が必要なタイミングで、かつ、きっちりとふさわしいピッチ、表情を持って出ることであるが、わざわざ尺八を登場させるだけの必然性や尺八の存在感を強烈に出さなければならないと私は考えている。同じ演歌系の仕事でも録音の場合は、自分に都合の良いタイミングで吹き始めることができたり、納得のいくテイクまでやり直したりすることができる。それに対し舞台は毎回一発勝負である。最近は舞台上で過剰な緊張は持たなくなった私であるが、この時ばかりは足と足の間のものがキュッと縮み上がる感覚を味わう。それ故、無事終えた後の爽快感は独特のものがあり、反省しながら飲むビールも格別の味がする。
しかし、ある時考えた。他の舞台でさほど緊張せずに吹くことが出来ているのは自分に対する厳しさが欠けてしまっているのではないか、どんなときでも股間がキュッとなる真剣味を持たなければ本当に人の心に訴える演奏は出来ないのではないか、と。プロとして演奏でお金をいただいている以上、払って下さる方が納得して払うに値する音を出し続けていかねばならないのである。自分にとって現状維持は後退と同じであり、進化し続けていかなければならない。己の心の中に生じる甘えの虫を徹底的に排除しよう・・・。などと考えながらグラスを重ねるうちに、家の中に赤い顔をした虎が出来てしまった。その虎は「今日はさっさと寝て明日から頑張るぞ!」と決意を新たにした。(それが甘いっちゅーの!)
「写瓶」
2002年5月15日
私が現在所有している横山勝也先生作の尺八は4本あり、それぞれに銘がついている。
といっても、横山先生が「これは銘何々という」と言われた訳ではなく、私が勝手につけたものである。
今吹料(ふきりょう)としている一尺八寸管は銘を”プレリュード”という。これを人前でいうと「さすがは音楽家、カッコイイ名前をつけていますね」とホメられるが何のことはない。平成元年に横山先生からこの尺八をいただいた時に代金がなく、当時乗っていた車を売って支払ったので、その車の名前をそのままつけただけのことなのである。したがってその楽器の正式名称は「平成元年式横山勝也作尺八、一尺八寸管”プレリュード”」という。あとの3本の尺八につけられた銘は殆ど公開する機会がなく、いわば”私の秘密”であったが、今回は特別にこのHPにお立ち寄りいただいた皆様だけに、お教えすることにする(そんな大層なもんやおません)。2本目にいただいた二尺四寸管(A管)は銘が”定期預金”、3本目の一尺六寸管は”普通預金”、そして4本目の新しい方の一尺八寸管は”マサアキ”という。”マサアキ”は父の名前で、買う際に一時的に借金をしたのでこの名前がついた。”定期預金””普通預金”は説明するまでもなくそこから引き出して支払ったことによるが、今となってはこの銘をつけたことは、まことに若気の至りであったと反省している。
運良く私の没後も保存され、歴史的古管などと並べられた時、他は「松風」「三日月」「爪箏」といった、カッコイイ銘が並んでいる中に横山勝也作「定期預金」では想像するだけであまりにも哀しい。おまけに長い歳月の間にそのヘンテコな銘を横山先生がつけたと誤解されないとも限らない。というわけで”プレリュード”以外の3本の尺八の新しい銘をつけるプロジェクトを立ち上げることにした。(何度もいうが、そんな大層なもんやおません。)尺八の銘として途徹もなくおシャレでセンスがよくカッコイイものがあればぜひお知らせいただきたい。
”プレリュード”は今年で14年目を迎えるが、私はその楽器の持っている音、ポテンシャルを充分に引き出せているとはお世辞にもいいがたい。職業柄最新作から古管までいろいろな尺八を吹く機会に恵まれている中、初めて吹くにもかかわらず、吹きやすく大きな音量がする尺八に出会うことがある。それでも私がこの”プレリュード”を吹き続ける理由は、「師と共に吹く」という心を大事にしているからである。師の作られた楽器を吹いている時、私は師の優しさと厳しさをいつも身近に感じている。
”プレリュード”および他の勝也管は、長管の名手であり、体格的にも大柄な横山勝也先生が作られただけあって、吹くのに非常に大量の息を必要とする。小柄な私が吹くには不釣り合いではないか、と思ったことも何度もあった。しかしその分、身体の使い方を常に考えて吹く習慣がついたことも事実である。
師は「吹き方は竹が教えてくれる」と言われた。身体の使い方を更に工夫すればもう少しマシな音はでるはずである。私は以前、新聞のインタビューで「先生の音をまねてまねて突き抜けたところに自分の音があると思う」と答えたことがある。突き抜けることは一生かかっても出来ないかも知れないが、悩み、もがき苦しみながら、先生の妙音を道標として吹き進んで行こうと思う。素晴らしい師に出会い、師から習った曲を師の尺八で吹く。これほど幸せなことはない。
「暑さ寒さも彼岸まで」
2002年3月30日
私はレッスンの際に門人の音や吹き方などを”悪くない”と表現することがしばしばある。これは”良い”とまではいかないが、その人なりに努力していることが伝わる、という意味を含んでおり、肯定的な表現である。努力を重ね、明らかに前と比べて変化が生じたと時、”良い””うまい”という表し方になる。私はレッスンでは殆ど怒ったり叱ったりしないが、何でも手放しでホメるような調子のいいことも決してしない。その人が努力していることを正当に評価し、更に向上する為にどこを伸ばせばよいかを私なりに工夫して伝えている。この過程において私自身にも様々な発見があり、門人に教えられることも多い。縁あって私のところに来た門人が努力を積み重ね、変化をしていく瞬間を共有できることは感動的であり、何事にも代え難い喜びである。
ところで、一般的に技量を評価する時に「うまい」「へた」そして微妙なニュアンスを含んだ「うまくない」「へたではない」という言葉が使われる。私の尺度でいえばこの「うまい」を突き抜けたところに「すごい」が存在する。尺八に関しても「うまい」奏者はたくさんいるが、「すごい」奏者は数えるほどしかいない。私が実際に演奏を聴いた中で音そのものが「すごい」と感じたのは故山口五郎、横山勝也、青木鈴慕、山本邦山、福田輝久の五師だけである。あと、ジョン・海山・ネプチューンは音楽家として変化(進化)し続ける姿が「すごい」と思う。これらの人が他の人と違うのは舞台上で自己の全存在が音となることである。そこには夾雑物を排除した純粋な音空間が存在するのみである。なかでも私はとりわけ横山勝也先生と故山口五郎師の音が好きであった。演奏スタイルは大きく違ったが、両師の音は高められた意識が舞台のはるか上にあり、そこからそれが音となって降りそそぐといった感じの音であった。この世のものとは思えない、まさしく”彼岸”の音であった。その音を聴いている時、私は言葉では表せない幸福な気分に浸ることができた。残念ながらお二人の「すごい」音は聴くことはできなくなってしまったが、私の記憶と細胞には今もなお鮮やかにインプットされている。暑さも寒さも忘れさせてしまうような解き放たれた境地の音、”彼岸”の音を生涯の中で一度でいいから出してみたい、ということが私の”悲願”である。こんなダジャレで終わるようでは私もまだまだ修行が足りまへんなぁ。
「帰去来兮」
2002年2月28日
2月8日〜11日、オーストラリアのメルボルンで開催された第三回オーストラリア尺八フェスティバルに参加した。日本側の講師スタッフの一人として国際尺八研修館の先輩講師と、講習およびコンサートを担当した。参加者は現地オーストラリアの人が尺八、箏をあわせ約50人、日本から講師を含め約25人、フランス他諸外国から数名の総勢約80人(約が多くてすみません)で、日本から遠く離れたオーストラリアに於いてこれだけの規模のフェスティバルが開催できることは”ワンダフル”の一語に尽きる。正に尺八の言葉を超えた普遍的魅力を実感するものであった。
講習曲は毎回尺八本曲が中心であるが、今回は箏の参加者も多く、箏と尺八の合奏曲も数曲用意されていた。その中の一曲、宮田耕八朗作曲「矢部の郷」を私が担当することになった。「矢部の郷」は現地参加者の殆どが受講する曲ということで、日曜日に行う公開コンサートのプログラムにも加えられていた。そこで私は急遽指揮をすることにした。尺八、箏のパート練習の後、早速合奏の稽古をしてみると演奏のレベルが非常に高い。現地の方は相当練習を積まれていたようで、数回の通し稽古で即席の合奏団とは思えないような出来映えとなった。特に、なかなか日本でも合いにくい尺八のピッチがよく揃っていたのには驚かされた。
急造指揮者なので指揮棒の持ち合わせがなく、適当なものが見つからないままコンサート当日を迎えることになった。いよいよリハーサルも間近となり慌てて昼食の弁当を食べようとしていた時、緑色の袋が目に止まった。割りばしである。昼食は日本料理屋さんからの仕出し弁当だったので割りばしがついていた。これは使える、と思いポケットに忍ばせ、そのままリハーサルに向かった。リハーサルではあるが、やはり舞台に立つと皆緊張は隠せない。そこで私はポケットから何くわぬ顔で緑色の袋を取り出し、割りばしで指揮をしたらえらく受けてしまった。私はこんないちびりはリハーサルだけのつもりであったが、ライリー・リー氏の「本番でも是非やるべきだよ」という声に押され、本番も割りばしで臨むことにした。ここは大阪人の悲しい性、同じネタは許されない。本番は頭にバンダナを巻いてハゲかくしをし、指揮台では今度は懐から取り出した割りばしをパチンと割って、その一本で指揮をした。演奏は出演者の気魄が一つになりとても良い出来であった。私は特に何をしたわけでもなく、知らない人が見れば皆の前で頭にバンダナを巻いて割りばし片手に踊っている変テコなオッサンという風体であったが、終わってからたくさんの人から「ベリーナイス」「ユーアーグッドコンダクター」「○×△?#!(聴き取り不能)」と声を掛けていただいた。何でもやってみるものである。ちょっと違うのであるが指揮者のよろこびがチョッピリわかった良い経験であった。
オーストラリアには雄大で美しい自然があり、またそれを保護する努力も厳しく行われている。そして人もまたおおらか、かつフレンドリーである。なかでも今回特に印象に残ったのは、お年寄りが生き生きとしていることであった。人間の尊厳が護られている、とでもいえば良いだろうか。私が見た限りでは日本のような暗い老人はいなかった。これは身障者なども同じである。聞いたところによると交通ルールなども人に優しく、横断歩道を渡っている人に少しでも恐怖心を与えると厳しく罰せられるそうだ。
美しい国土を大切にし、高齢者や社会的弱者を大事にする。これは人間として極めて自然で根源的なことである。翻って日本はどうか。人間の私利私欲のために自然が破壊され、多くの高齢者は疎んじられ、社会的弱者は片隅へ追いやられている。モノとカネを追い求めるあまり、大事な心をどこかへ喪失してしまったように見える。日本人は優しさを取り戻す必要がある。”情けは人の為ならず”、人に対しての思いやりは必ず自分に還ってくると私は信じている。今回のオーストラリア・ツアーはお笑い部分も多かったが人間の心の在り方を考えさせてくれる良い旅であった。御世話になったすべての方にこの場を借りて感謝申し上げる次第である。
ところで今のニッポンはいわゆる”癒し”の音楽があふれている。良い悪いは別として、その多くが刺激の少ないおだやかな類いのものである。だが耳ざわりの良い、軽い音楽ばかりが癒しの音楽ではない。私は尺八に、中でも尺八古典本曲にそれ以上の癒しの力があると確信する。私が師から受け継いだ古典本曲の多くは痛切で激しい。しかしその痛切さは悲しみや困難を突き抜けた痛切さであり、ひたむきに生きようとするものの激しさである。聴くものが心を揺さぶられ、前向きに行きようとする動機づけになるならば、それはよりポジティブな”癒し”の音楽である。世界平和を希い、自然との共生を希い、私は今日も尺八を吹き続ける。
「日々是好日」
2002年2月3日
日本がおかしくなりだしてからもう長い時間が経つが、特に最近は信じられない理由で、いとも簡単に人が殺されている。それも、毎日毎日である。これは急速に豊かになりすぎた日本のひずみなのか。さすがの私も前回書いたように「生きているだけで丸もうけ」「皆さん、ありがとー」と脳天気に感謝しているだけではいけないと感じ、このところはずっと、自分の尺八がこういうことの抑止力として生かすことはできないか、を考えている。
と、ここまで書いたところで、石垣征山さんの訃報が飛び込んできた。私は石垣さんとは特に親交があった訳ではなかったが、私の第一回目のリサイタルに石垣さんの委嘱された「闌曲弐」という曲を演奏することに決め、楽譜を頒けていただいて以来、私を憶えて下さり、お会いしたときには色々とお話しする機会をいただいた。「私が委嘱した曲はどんどん演奏して下さい」と、文字通りの(失礼)太っ腹でやさしいお人柄であった。しかし享年51歳とは早すぎる。51という数字を耳にしてもピンと来ないが、私のわずか10歳上であると思うと衝撃的である。演奏家として最も油の乗り切った時期ではないか。お世話になった御礼と、心より御冥福を申し上げる次第である。合掌。
これ迄にも、私が尺八を手にしてから20年余りの間に20代、30代、40代で急逝された竹友、先輩がおられた。親しくさせていただいていた人がある日突然この世からいなくなることは筆舌につくしがたいショックである。若い頃はその度に動揺していたが、私自身も年令を重ね、36歳で両親が帰幽してからは、現実を厳粛に受け止めることが出来るようになった。
現在私は厄年であるらしい。こう書くとお叱りを受けるかもしれないが、私はあまり気にしないようにしている。ただ、”肉体の変わり目だから注意しなさい”という教えだとうことは実感できる。この数年を大事にするか否かで将来に大きな影響を及ぼすのは確実である。
今はお陰様で体調も良好であるからポジティブに考えることが出来ているが、そうでなくなった場合、同様にポジティブにすごせるかははなはだ疑問である。そのためにも一日一日を精一杯生きることが大切だと思う。
プロ野球がキャンプインし、監督が今年のテーマを発表する時期にちなみ、私も今年のテーマを発表することにする。『自分に厳しく、他人に優しく、明るく笑って吹いて行こう。行けばわかるさ。1、2、3、ダァーッ!!』我ながら見事な出来である。何、これを読んでいるそこの君、「頭はもう何年も前から充分明るいですよ」だって。えーかげんにしなさい。君とはやっとられんわ。ほな、さいなら。
「笑門来福」
2002年1月19日
私は貧乏である。しかし考えてみると、私のような尺八の実力で一切副業もせずに生活できていること自体、奇跡に近いことなので、貧乏なのは当然といえば当然である。占い師をしている義妹からは「こんな竹筒で家族を養っているんだからすごいねー」と感心をされた。尺八にはいくら感謝してもしきれない。海へ向かって駆けて行き「尺八よ、ありがとー!」と叫びたくなる私である。
そんな私の貧乏所帯を察知してであろう、私の周りの人は実にいろいろなものを下さる。食べ物、着物、洗剤、ベッド、暖房器具、果ては車に至るまで、私の家はいただいたものだらけである。師走、正月などは殆どいただいたものを飲んで食べて生きている、といっても過言ではない。ほんとうにありがたいことである。ここでもまた、海に向かって「○○さーん(いただいた人の名)、ありがとー!」と叫びたくなる私である。ちなみに、もらって嬉しいものは、ビール券、米、ハム、海苔、子供用品などである。もちろん、これはあくまで参考である。
愛する家族には最低限の文化的生活をさせてやらねばならないが、私自身は日頃の練習に耐えうる身体が保持できれば良い。貧乏生活に慣れてしまうと物質的欲求はなくなり、日常のささやかなことに喜びを見つけられたりするので楽しいものである。
昨年12月のある日の午後、少し遠くまで仕事に行った私は大阪駅に帰り着き、愕然とした。人の顔に精気が無く、駅全体にどよーんとした空気が漂っていたのである。環状線のホームは一層それが強く、なかには怒っているかのような顔の人もいた。何か事件でもあったのかと思ったぐらいである。乗っているうちに、その原因が不景気のせいであることに気が付いた。長引く不況のせいで、世間の人はリストラにあったり、実質賃金ダウンなどを余儀なくされているのだ。バブル崩壊後ゆっくりと、しかし確実に景気が悪くなっているが、もはや限界点に来ているのかも知れない。一度向上した生活レベルを落とすのは大変に苦しいものである。
私がサラリーマンをしていた頃はいわゆるバブル期で、製薬会社の営業マンをしていたこともあり、かなりバブリーな生活をしていた。独身で一人暮らしをしていたため、給料は入っただけ使うのは言うに及ばず、医者の接待をして夜は高級料理店からクラブ、スナック、休日はゴルフ、と自分の年収以上の交際費を使っていた。23、4歳の、社会に出たばかりの若造が毎月毎月60万も70万もの大金を消費するのである。しかし、この生活が私をより尺八へと向かわせる結果となった。月に何十万使ってもそんなに楽しいと思わなかったし、世間の人がうらやむような収入と地位を得ている医者でもみんながみんな幸せそうには見えなかった。人間、金がいくらあっても幸せは買えないのである。
平成9年に父が他界し、私は共同名義で借りていた銀行の住宅ローンを一人で背負うことになった。いきなり大きな借金が私の肩にのしかかり、私は始終暗い顔をしていた。ある日、横山勝也先生のところへレッスンに伺ったとき、つい先生にその借金の話をしてしまい、家と土地を手放そうと考えていることを打ち明けた。すると先生は「そのうちに君にも大工さんの弟子が出来て、家を建ててくれることもあるだろうから、土地は売らないで頑張りなさい」とおっしゃられた。なんという励まし方であろうか。やはり横山先生はすごい人だと改めて思った。人間は常に前向きにあらねばならないことを教えていただいた。以来私は何事も前向きに、時として自分でも調子が良すぎると思えるくらいに物事を楽観的に考えるようにしている。心を開いている方が良い”気”や良い情報が入ってきやすく、好結果につながることは私の経験からも間違いない。こんな時代だからこそ、笑って、前向きに生きて行きたい。
「訥言敏行」
2001年12月16日
私は何をかくそう大のプロレスファンである。その歴史は古く、日本プロレスでジャイアント馬場とアントニオ猪木がBI砲というタッグチームを組み、圧倒的な強さを誇っていた頃にさかのぼる。当時は今よりもプロレスが市民権を得ており、夜8時というゴールデンタイムに放映されていた。小・中学生の頃はその時間が来るのをワクワクしながら待っていたものである。馬場や猪木ももちろん好きであったが、最も好きなレスラーは国際プロレスのエース、ストロング小林であった。思えば私はこの頃から少々ひなびたものが好きだったのかもしれない。
当時のレスラーは今より技の種類は少ないものの各レスラーのフィニッシュホールドがはっきりと決められており、そこへ行くまでのパターンも特有のものがあった。また、人の得意とする技は使わない、という不文律もあったように思う。TV中継に出てくる花形レスラーだけでなく、前座で闘うレスラーにも薫り立つような個性があり楽しかった。
プロレスはショーだからキライだ、という人は少なくない。確かに内部事情に詳しくなってみると、勝敗があらかじめ決まっている試合も多く、流血も一部のアクシデントを除き、初めから仕組まれたものが殆どである。それでも私がプロレスを好きな理由は、鍛え上げられた者同士がぶつかり、技を見せ合うエンターテインメントとしての魅力を感じるからである。一見単純そうな投げ技、関節技一つとっても大変な労力と技術を要し、観客にうまく見せるのは至難なことなのである。これは高校時代にアマチュア・プロレス(何かヘンではあるが、この呼び方が最もふさわしい)の団体に所属し、技をかけたりくらったりしてみてよくわかった。
個人的な意見として、最近のプロレスはおもしろくない。確かに選手全体のレベルは上がった。しかし、みんなが同じような技を使い、同じような流れで試合をしているように見える。コスチュームは個性的になっているが、選手一人一人は本人が思っているほど個性的ではない。身体の奥底から湧いて出てくるようなカラーがないのである。
この状態は今の尺八界にも言えるのではないか、と私は思う。中堅、若手の技術的なレベルは平均的に上がったが、皆同じような顔で同じようなことをしているように見える。現在の、特に40代までの尺八吹きで、音を聴いただけで、あるいは演奏を聴いただけで名前や顔が浮かんでくる人何人いるだろうか。この曲はこの人でないとダメだ、といわれる人は何人いるだろうか。自戒の念を込めて訴えるが、我々はもう一度、”借りものでない”音づくり、表現づくりから始める必要がある。そしてその上で、聴いて下さる方に心より楽しんでもらえるように、エンターテインメントとしての尺八音楽を目指さなければならない。これは聴衆が存在する以上、新しいものだけでなく古典についても同じである。尺八を再興させることも、衰退を早めることも我々自身の手にかかっているのだ。
〈場外乱闘〉
話は少々脱線するがこんなことも考えた。プロレスは基本的にベビーフェイスと呼ばれる善玉が、ヒールと呼ばれる悪玉をやっつける、という勧善懲悪の構図から成り立っている。ヒールの役割は難しく、生半可なテクニックやキャラクターでは一流のヒールになることはできない。試合を盛り上げ、観客をわかすのもダメにするのもヒールの腕一本にかかっている、といっても過言ではない。また、ベビーフェイスばかりが闘っても、なんだかおりこうさんすぎて面白くないのである。少し前までは、尺八界にも私が尊敬するヒールのカリスマ、W道祖が圧倒的な存在感と実力を厳然と示していたが、その後は大物ヒールは存在しない。尺八界を面白くする、という点からいえばヒール、というか型破りで破天荒な奴が現れてほしい。「あの人のライブでは毎回流血者が出るらしい」「前回の合奏ではギブアップ負けをしたので、今回は新しい必殺技を磨いているようだ」「相手が構える前から吹き始めたので全く間が合わず楽屋で乱闘になった」「登場するときは美人マネージャーに付き添われて出てくる尺八奏者」、これはプロレスに侵されている者の妄想にすぎないが、こんなコンサートやライブがあればワクワクして見に行くだろうなあ、と思う。少なくとも、「古典から現代まで」や「流派を超えて」なんかより「尺八界の暴れん坊、○○ホールに初見参」「魂と魂のぶつかる音がする。5年ぶりの遺恨の合奏」などというコンサートの方がずっと面白そうである。自分のような小粒の下手っぴはヒールになどなれそうもないので勝手なことを書いてしまうのであるが・・・。
「人のふり見て我がふり直せ」
2001年11月13日
インターネットおよび携帯電話の普及(というよりもはや氾濫)は便利な世の中を創り出したが、同時にモラルの低下を招き、世の中も、人と人との関係も加速度的にルーズになっていっていると思わざるを得ない。
私はHP上で過去の演奏曲目の紹介や、奏法などに関するQ&Aコーナーの開設などを行っているが、時として失礼、非礼、無礼極まりないメールに遭遇することがある。
例えば、私が過去に未公刊の曲目を演奏していたとすると、殆ど自分を名乗りもせず、「この曲の楽譜を入手したいのですが」というメールが送られてくる。それに対し「その曲は私は直接作曲者にお願いして頒けてもらいました。確か楽譜代は2500円だったと思います。ご希望なら連絡先をお教えしましょうか」と返答。するとその輩は「そんなに面倒で高いのですか。もっと簡単に入手できる方法はありませんか」と、”コピーしてくれれば済むことじゃないか”というニュアンスでふざけた返信をよこす。そこで私はあくまで冷静に「私はそれ以外に入手する方法を知りません」と再び返答すると、そのふざけた野郎からはそれっきりなしのつぶてである。
また、奏法に関する質問でも、いきなり(こんなメールは殆どがいきなりである)「○○という奏法が出来ません。よい練習方法はありませんか」と1行、質問メールが来る。そこで私はこれまでの全知識を駆使して、それでも足らないときは図書館や書店、楽器店に足を運んで調べた上で、出来るだけ詳しく返答をする。自分で言うのも何であるが、私はこういうことに関しては親切である。ところが、質問した野郎からもまた、”ありがとう”はおろか”メールが着いた”とも言ってこない。
悲しいかな、こういう事例には事欠かず慣らされてしまった感があるけれども、情けないのは、私のところへ来るこんな野郎の殆どが”ええ年をこいたオッサン”だということである。尺八を趣味とする人達が特殊だとは思いたくないが、世のオッサンの常識、分別の無さ、身勝手さは目を覆いたくなるばかりである。オッサンは自分のことは棚に上げてすぐ、「最近の若いモンは・・・」と言いたがる。しかし、少なくとも私のところへ来る若者は礼儀をわきまえ、他者への気配りもできる人間が多い。また、若者は気がつかずに他人に迷惑をかけている場合があり、注意すれば聞き入れるが、オッサンたちの前述の行為などはインターネットの匿名性を利用した確信犯であり、狡猾きわまりない。
私からすれば「最近の若いモンは」ではなく「最近のオッサンは」である。よくもまあそれで社会生活ができるものだとヘンに感心してしまう。
と、ここまで書いて私はあることに気がつき愕然とした。私も若い人から見れば十分に”ええオッサン”であった。すくなくとも私は”何やしらんけど、あのオッサン恰好ええなぁ”と感じてもらえるよう”凛”として生きて行きたい。
「出藍の誉」
2001年10月8日
私には「石の会」という名の門人会がある。「石の会」は二十代の若者たちの世代と壮年の世代が中心となり、成り立っている。
若者の成長の速さはおじさんたちに脅威を与え、また、おじさんたちの貪欲な姿勢は若者に驚異を与えている。
若者組の代表に三名のプロがいる。
まず一人目は、自己の深奥に問いかけ、ストイックなまでに音を磨き込む松本浩和君。彼は昨年製管士として独立し、旺盛な製作意欲を見せているが、琴古流の吹奏法も頑張って勉強しており、徐々に成果が出てきている。
次に、大陸的なおおらかさを漂わせ、けれん味のない音を吐き出す松本太郎君。彼は新日本音楽バンド”沙弥音”を結成し、尺八、ギター、パーカッションのトリオで活発なライブ活動を続けている。また、古典本曲の演奏にも著しい成長を見せている。
そして最後に、繊細さと豪快さを併せ持ち、艶のある音を紡ぎ出す小浜明人君。彼は昨年より東京に本拠を移し自己のスタイルの確立を目指し奮闘している。昨夏には”第二回全国尺八新人王戦優勝”という栄誉にも輝いた。
三人の目指すところは違うが、それぞれ人の心を捉える魅力を持っている。これからも切磋琢磨し、尺八家として、音楽家としてオンリーワンの存在になることを期待する。
彼らは私の誇りである。さまざまな巡りあわせを経てよくぞ私のところへ来てくれたものだと思う。私は彼らに対し金銭以外の支援を惜しまない。若さという無限の可能性を武器に道を切り拓いていって欲しい。
彼らに対する私の夢は、ときかれると、「尺八が売れて売れて困っているので先生にお小遣いをあげます」、「今度ニューヨークで公演があるので来てもらえるよう航空券と宿の手配をしておきました」、「レッスンに忙しくて行けません。月謝は来年分まで振り込みました」などという電話がかかってくることだ、と答えるようにしている。もちろんこれは冗談、ではない。
「無くて七癖」
2001年9月4日
数多くの尺八吹きと共演したりレッスンしたりしていると、様々な癖を持っている人に出会う。ざっと思い起こしただけでも、尺八を構えてから吹き出すまでにやたら時間のかかる人、本人は真っ直ぐのつもりでもかなり曲がっている人、息つぎの度にペロペロと唇をなめる人、尺八をしょっちゅう顔にこすりつけている人、乙ロを吹く時に1孔もしくは2孔、あるいは4孔を打たないと吹けない人、甲ロを吹くときは必ずハローと吹いてしまう人、リズムのある曲を吹く時に両足の親指が同時に上下する人、etc...。かくいう私も尺八を吹く前に管を覗き込む、リズムを腰でとるなど指摘されたことがある。自分の事は棚に上げて、レッスンのときには出来るだけ癖のない素直な姿勢で素直な音を出してもらうよう指導しているが、これが難しい。「無くて七癖」とはよくいったものである。レッスンの間隔が10日もあれば、それぞれに立派な(?)癖をつけてやって来る。意外だと思われるかもしれないが、入門したての大学生なんかの方がなまじっか練習時間をとれる分だけ変な癖がつきやすい。変な癖、悪い癖ほどつきやすく、またとりにくいので厄介である。先にあげた癖は吹奏上のものであるが、もっと”タチ”の悪い癖がある。それは”言い訳”という癖である。リハーサルやレッスン時に決まって”全然練習出来てませんのでよろしく””忙しかったもんで吹けてませんねん”などと言い訳をする人がいる。私も、その度に”何がよろしくや!””ワシもそんなにヒマちゃいまっせ”と怒っていたら生きてゆけないので”あぁ、そうですか”と聞き流す様にしているが、この癖が一番みっともなく、また人を不快にさせるものである。私はいつからかは忘れたが(たぶん7〜8年前のプロになった頃から)、尺八に関しては”言い訳”はしないことに決めた。それが癖になると何だか自分の人生に対しても”言い訳”して生きるように思えたからである。年々せり出てくるお腹については”いや、あの、それは違うんですぅ”と言ってしまうのであるが・・・。
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