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「感謝は感謝を呼ぶ」
2006年12月11日
【第10回石川利光尺八リサイタル評】
それにしても立派なホールである。さすが兵庫県が気合を入れて作っただけのことはある。2006年11月8日、兵庫県立芸術文化センター・小ホールにて尺八の石川利光による10回目のリサイタルが行なわれた。
プログラムは4曲と少なめであったが1曲あたりの時間が長く、途中休憩を挟み約90分の内容であった。
1曲目は古典本曲より『鶴の巣籠』。石川の所属する国際尺八研修館で吹かれている“奥州伝”を基調に、石川の師である横山勝也の手が加えられたスタイルである。何と言っても使用した尺八の響きが良い。聞く所によると門人の製管士、二宮瀧童氏が作った地無しの二尺管らしいが、「これぞ尺八」というトーンを現出していて石川は楽器によって助けられていた。
2曲目は現代作品の独奏曲で松村禎三作曲の『詩曲二番』。この曲は尺八吹きにとっては難曲に属するものである。楽譜にはppppからfffまでのダイナミックレンジが書かれており、弱音を持続させることが至難の曲である。ここでは石川はホールに助けられた。この良く出来たホールは石川の貧弱な音をカバーし、あたかも本人が意図してpppを吹いているかのような音を見事に作り出していた。
独奏曲2曲のあとは合奏曲が2曲、三曲合奏の『尾上の松』と大編成の船川利夫作曲『複協奏曲』であった。
『尾上の松』は、近年ますます充実してきた藤井泰和の三絃に池上眞吾の箏が色を添え、石川の尺八が加わった。一言で言えば石川の尺八は無くとも良い顔ぶれである。石川は藤井の、骨太の中に艶のある歌と、華美な二人の演奏に“いかに邪魔をしないでいられるか”という課題に対し、なかなかよくその仕事を果たした。確かに尺八は無くてもよかった。
休憩のあと、終曲は総勢20名の出演による『複協奏曲』であった。舞台狭しと並べられた箏・十七絃箏合わせ10面。2人の奏者によるティンパニ、大太鼓、鳴り物類。それに尺八が8人。これだけ並ぶだけでも聴衆の目はそちらに向き、合奏が始まると耳はそちらへ傾く。箏のソリスト中川佳代子は確実かつ、熱い演奏で好演であった。この恵まれた環境の中でのうのうと独奏尺八を吹く石川はある意味姑息である。3、4曲目はその字のごとく見事に助演者に助けられた石川であった。また一般的に邦楽の演奏会は観客の目が厳しいのであるが、当日の来場者は頼りない石川に対しとても好意的で温かかったことも付け加えておかねばならない。
考えてみれば全てのプログラムにおいて何かに助けられていた石川は幸せな人間である。またまた聞く所によると石川は近頃、吉本新喜劇の重鎮・チャーリー浜の「あ、キミたち、キミたちがいてボクがいる」というギャグを好んでいるそうであるが、そのギャグを完璧に体現したリサイタルであった。
これだけ色々な人、モノが助けてくれるならば、次回の「石川利光尺八リサイタル」はぜひとも“石川抜き”で聴いてみたいものである。
秋の気配が一段と濃くなった、月の美しい夜であった。(川石 光利)
(藤山寛美ふうに)
あのーもしもしー、リサイタルていうのはその人が出ないとリサイタルと言わないの。わかりますかー。石川利光リサイタルは石川くんが出るから石川利光リサイタルっていうんですよー。わかりますかー。川石光利て、どっかで聞いたことのあるような名前のヘンな人やなぁ。あっ、あんた石川くんちゃいまっか・・・。
というわけで、何とか多くの人に支えられ10回目のリサイタルが終了した。
今回は第10回という節目でもあり、これまでの集大成という意味合いを持たせ、もう一度取り組みたかった曲、やり残した曲を選曲した。『尾上の松』の助演に藤井泰和さんと池上眞吾さん(お二人が在住の関東ではこの組み合わせはなかなかあり得ない)、『複協奏曲』には関西在住の若手(といってもムニャムニャ・・・バゴーン!)にお願いした。藤井さんは翌日にご自身の会、池上さんは翌日とその次の日に関東で本番がある、といったハードなスケジュールの中を無理をいって出演いただき、「これはとても東京、神奈川方面には足を向けて寝ることができませんぜ」と思っていたら、大合奏に助演の皆様も東は滋賀県草津市から西は兵庫県明石市に亘る広範囲な地域、そしてさまざまな会派よりお越しいただくことになり、結局どこへも足を向けて寝ることが出来ず、その日以来立って寝ている(もちろんこれは冗談ではあるが、それぐらい感謝しているという意味であります)。
そして何よりもありがたかったのが当日お運びいただいたお客様である。水曜日の夜間、前売2,500円、当日3,000円の入場料を出してお越し下さった多数のご来場者にはいくら感謝してもしきれない。
話は少々横道に逸れるが、関西の邦楽界はタダ券が飛び交う習慣があり、なかなか券を売りにくい土壌である。大御所といわれる方でも額面3,000円、4,000円の入場券をばら撒く人は少なくない。やる側として、“会場を埋めたい”という気持ちは充分にわかるが、券を配ってしまうとどこかに甘えてしまう部分が出来てしまうのではないか。それは、その演奏を聴かされるお客様のみならず、演奏家にとっても絶対に良くないことだと私は考える。
「2,500円も払って、電車賃も使って、おまけに夕方からの仕事は無しにして来たんだからずぇーったい元は取って帰るんだもんね、楽しませてちょうだいね」というお客様と、「来ていただいてずぇーったいに損はさせましぇーん、出せるもんは全部出しまっせー」という演奏家の気合がスパークするところが舞台の醍醐味だと私は確信している。
空席の中で演奏する恐怖、情けなさは十二分に味わわせていただいた(実は現在進行形?)私であるが、最近はようやく「石川は本気で券を売ろうとしているらしい」ということが知れ渡ってきたようでありがたいかぎりである。
私のリサイタルでは忌憚の無いご意見、ご批評を頂戴し、今後の参考にするためにアンケートをお配りしている。本当は自分の中にそっとしまっておきたいところであるが、その中から一部をご紹介させていただく(いずれも原文のまま)。
「『鶴の巣籠』かれたかすれた音色が秋の季節におもむきがあり絶品でした。(Mさん、女性)」ありがとうございます。ひとえに楽器のおかげです。(石)
「初めてうかがいました。やさしさと温かさを感じました。暗い静かな林の中で添い寝したくなるような音色でございました。(Mさん、たぶん男性)」ありがとうございます。添い寝お待ちしております。(石)
「どの曲もなかなかの大曲のようで飽きることなく聴かせて頂きました。また時間が合えば聴きに来たいと思います。(名無しさん、たぶん男性)」ありがとうございます。次回も時間が合うことを期待しております。(石)
「ティンパニの人はバーの人かと思った。(名無しさん、男子学生)」君は着眼点がなかなか鋭い。私もそう思いました。(石)
「〈アンコール時のトークについて〉石川さんの人柄がよく出ていたと思います。“私の心ばかりのこの曲を皆さんの温かい心に包んでお持ちかえりください・・・”なんてトークも石川さんにはよくお似合いですよ。(Sさん、男性)」きゃーっ!恥ずかしーい。でもちょっと練習してみます。(石)
「ホールの音響が尺八に向いていると思いました。〔中略〕石川さんは日々進化していらっしゃいます。頭が下がります。(Mさん、女性)」ありがとうございます。ほんとうに良いホールでした。さらに精進いたします。(石)
(アンケートにご協力いただいた方々にはこの場を使い心より御礼申し上げます。)
最後のアンケートを拝見した時に、以前この随筆の中でジョン・海山・ネプチューンのことを「音楽家として変化(進化)し続ける姿がすごい」と書いたことを思い出した。ネプチューンさんに比べると、私は“進化”といっても元がどうしようもなく下手っぴだったので、ちょっと“マシ”になってきているにすぎない。それでも「上手くなりたい。よい音を出したい。」という強い気持ちがあれば人間は変わり続けられるのである。吹くことが出来なくなるまでこの気持ちは持ち続けようと新たに心に誓った。
それでは参ります。
「私の心ばかりのこの文章を皆さんの温かい心に包んでお読み下さい。」
しっつれいしましたーっ!
「地獄極楽は心にあり」
2006年10月23日
ラストトシミツです。
演奏会の前の日に大根を切ろうとして誤って指を切ってしまったとです。幸いに中指だったので包帯の上に指サックをして演奏したら“指が気になって何を吹いていたのかわからんかった”といわれました。
トシミツです。
くだもの屋さんにぶどうが並んでいて「巨峰(訳あり)」と書いてあったようなのでドキドキしながらよく見たら(種あり)でした。一人店先でドキドキしてしまった自分が恥ずかしかったとです。
トシミツです。
弟子のプロフィールを見たら「石川利光に指示」と書いてあったとです。最近レッスンの時、妙に注文が多い訳がわかったとです。
トシミツです。
「『石と竹』がおもしろいのでぜひ出版してください」と言ってくださる人がありがたいことに何人もおられるとです。でも「私が出版してあげましょう!」という人はまだ現れません。
“ヒロシです”のブームが去ったようなので“トシミツです”も終るとです。
トシミツです。トシミツです。トシミツです。
少し前に「マイブーム」なる言葉のブームがあった。
私の現在のマイブームは“中島らも”である。といっても“中島らも”という名前を聞いてピンと来る人は少ないかもしれない。
本に載っているプロフィールを見ると、“中島らも”さんとは「作家、ミュージシャン」である。それに劇団も主宰されていた。関西の人ならば、以前はTVによく出ていたので憶えている人も少なくないであろう。
この“中島らも”という人の頭の良さはハンパではない。
著書によると子供の頃にはIQが189もあり、東大合格者数で有名な天下のN(灘)中学校に7番で入学したらしい。その後、エリート街道とはまったくかけ離れた道を歩まれ、私が知るころには『明るい悩み相談室』などで、関西では独自のポジションを確立されていた。
残念ながら事故のため2004年に52歳の若さで亡くなられたので、今となっては書きのこされたものでしか、その世界を窺い知ることは出来ないが、エッセイ、小説、脚本などのどれもがインテリジェンスと関西風コテコテギャグに満ち溢れている。それだけなら他にも書く人は関西におられるが、この人の凄いところはアルコールやドラッグなどでトリップした世界を活字にしてしまったところである。こちらの世界(現世)に身を置きながらあちらの世界を覗いたような、“厳格”ではなく“幻覚”的な、常人では識ることのできない世界を読ませてくれるのである(これは、憧れる、とか、そうなりたい、などということとは全く別物である)。小説やエッセイには実生活や実体験に基づく記述が多く、そこからはこの人のとんでもなく“破滅型”の人生がうかがえる。その破滅的な生き様が文章に妖しさを与え、何とも言い表しようのない魅力を醸し出している。
没後2年経ったところで再評価の機運が高まり、再発になった文庫などが書店で平積みになっている。また、“何とかオフ”というような大きな古書店ではたいがい「日本人作家別」のところに収められている。たくさん出されているエッセイ類や小説「今夜、すべてのバーで」などは楽しく読めるのでおすすめである。先ほどのトリップ小説は「バンド・オブ・ザ・ナイト」というタイトルで、こちらはおすすめすると読んだ人に逆恨みされる心配があるのでご一読のおすすめはしないでおく。
尺八の先達でもこちらの世界からあちらの世界へ吹いているとしか思えない人がいる。W道祖とS井C保の両師である。お二人とも我々の想像を絶するような厳しい修行を積まれた方である。その厳しい修行の果てに、やはり“破滅型”の人生を歩まれた。
失礼を省みずにいうと両師には“狂気”がある。私は両師の演奏(W道祖は“尺八”ではなく“法竹”あるいは“道具”、また、“演奏”ではなく“吹定”と表された)がこの上なく好きで、ひところは毎日のように聴いていた。「あの狂気が欲しい!」と痛切に願った時期もあった。しかし当然至極“狂気”とは願って得られるようなものではなく、パンピー(一般ピープルの略、古っ!)の私は今なお一ファンとして両師の世界を味わうにとどまっている。
ほんとうに人の心に残る音、演奏をするためには、“破滅”してしまうほどにまで自分をいじめるか、はたまたあらゆる雑念を取り払い“聖人”の域を目指すか、のどちらかしかないのではないか、と考える今日この頃である。
さて、すでにHPの表紙などでお知らせのとおり、11月8日に兵庫県立芸術文化センター・小ホール(実は大阪や京都からも案外近いんどす)に於いてリサイタルを開催させていただく運びである。今年は第10回という区切りなので『複協奏曲』という大編成の曲や地歌の大曲を取り上げ、自分なりに気合の入ったプログラムとなった。なんやかやでバタバタとしているうちに気がつくとはや16日前である。曲の暗記が進んでおらず、そろそろお尻に火が点きだしたが、このあたりからの自分を追い込んでゆく時間が「たまりまへんなぁ」というくらい楽しい。
リサイタルは私にとって「マイブーム」などではなく、「ライフワーク」の一つであり、「真剣勝負」の場である。私の現在のすべてをさらけ出す舞台である(といっても裸にはならないのでご安心ください)。
今回はたくさんの助演の方々の演奏も聴きものであります。皆様のご来聴を心よりお待ち申し上げております。
「義を見てせざるは勇なきなり」
2006年9月1日
続けざまに苦しそうなせきばらいをしてた
西新宿の飲み屋の親父が昨日死んだ
「俺の命もそろそろかな」って吸っちゃいけねえタバコふかし
「日本も今じゃクラゲになっちまった」と笑ってた
わりと寂しい葬式で春の光がやたら目をつきさしてた
考えてみりゃ親父はいい時に死んだのかもしれねえ
地響きがガンガンと工事現場に響きわたり
やがて親父の店にも新しいビルが建つという
銭にならねえ歌を唄ってた俺に
親父はいつもしわがれ声で俺を怒鳴っていた
錆びついた包丁研ぎ とれたての鯛をさばき
「出世払いでいいからとっとと食え」って言ってた
「やるなら今しかねえ
やるなら今しかねえ」
66の親父の口癖は
「やるなら今しかねえ」
古いか新しいかなんてまぬけな者たちの言いぐさだった
俺か俺じゃねえかで ただ命がけだった
酒の飲めない俺に無理矢理とっくりかたむけて
「男なら髪の毛ぐらい短く切れよ」ってまた怒鳴った
西新宿の飲み屋の親父に別れを告げて
俺は通い慣れた路地をいつもよりゆっくり歩いている
すすけた畳屋の割れたガラスにうつっていた
暮らしにまみれた俺が一人うつっていた
「やるなら今しかねえ
やるなら今しかねえ」
66の親父の口癖は
「やるなら今しかねえ」
「やるなら今しかねえ
やるなら今しかねえ」
66の親父の口癖は
「やるなら今しかねえ」(「西新宿の親父の唄」作詞/作曲:長渕剛)
早いもので今日から9月。今年も残すところあと3分の1になった。
おかげを持ち6,7,8月と忙しい日々を過ごさせていただいた。しかし、忙しいということはその字のごとく「心を亡くして」しまいやすい。それに加え、毎日時間に追われ行動する状態になると、よほど気をつけないと「音も亡くして」しまうことになってしまうので要注意である。あちこちに移動して忙しい時などは、実際に吹いた時間を足してみるとビックリするほど短いことがある。
“プロの人は一日何時間ぐらい練習するんですか?”と訊かれることがしばしばある。けっこう返答に窮してしまう質問である。
私がまだサラリーマンだった頃、先にプロを目指した後輩に私はこう言った。
「普通の人は一日8時間は働いて生計を立てているのだから、尺八で生きていこうと思うならばそれ位は練習しなさい(実際はもっとベタベタの関西弁)。」
自分がプロになった今もこの思いに変わりはない。とはいえ、毎日平均して8時間吹くことは現実的に難しいので、吹く時間に加え、尺八および音楽について考えることを最低8時間は取るようにしている(実際は24時間尺八のことを考えているといってもウソではない)。単純に時間だけで判断することはナンセンスな部分もあるが、自分の経験に当てはめると、向上を目指すならば一日5時間は吹く時間が必要である。もちろん漫然と吹くのではなく、強い意志を持ち、工夫をこらしての時間である。それを切ると、何とか音を維持するか、曲をなぞるくらいしか出来ない。「尺八は上手くなるには時間がかかるが、下手になるには簡単至極な楽器である。」と日々実感する。
この歳になって恥かしいかぎりなのであるが、痛切に『自分の音が欲しい』と希うようになってきた。それだけ自分に与えられた時間が少なくなってきたということかもしれない。
自分の音を磨くことは自分との闘い以外の何物でもない。吹くこと、考えること、憶えること、すべてにおいて全然足りない。イヤんなるくらい足りない。忙しくしていられるのも今だけかもしれないし、身体が動くのも今だけかもしれない。
となると「やるなら今しかねえ!」
「新しい酒を古い革袋に盛る」
2006年8月4日
一日二杯の 酒を飲み
さかなは特に こだわらず
マイクが来たなら 微笑んで
十八番を一つ 歌うだけ
妻には涙を 見せないで
子供に愚痴を きかせずに
男の嘆きは ほろ酔いで
酒場の隅に 置いてゆく
目立たぬように はしゃがぬように
似合わぬことは 無理をせず
人の心を 見つめつづける
時代おくれの 男になりたい
不器用だけれど しらけずに
純粋だけど 野暮じゃなく
上手なお酒を 飲みながら
一年一度 酔っぱらう
昔の友には やさしくて
変わらぬ友と 信じ込み
あれこれ仕事も あるくせに
自分のことは 後にする
ねたまぬように あせらぬように
飾った世界に 流されず
好きな誰かを 思いつづける
時代おくれの 男になりたい
目立たぬように はしゃがぬように
似合わぬことは 無理をせず
人の心を 見つめつづける
時代おくれの 男になりたい(「時代おくれ」作詞:阿久悠・作曲:森田公一)
この曲を歌った河島英五は私の大好きなシンガーの一人である。
初めてそのしわがれ声を聞いたのは高校生になったばかりの頃だった。
無骨でストレートな声がいっぺんに好きになった。また、その声に似合わぬやさしいメロディと、若者に対するメッセージ性の強い歌詞も耳に心地よかった。
代表作の一つであり、今なおカラオケの定番曲である「酒と泪と男と女」が発表されたのは1976年であるから、何と30年も歌い継がれていることになる。
今回、これを書くにあたって調べたところ、この「時代おくれ」ももう20年も前に発表された曲であり、また、ずっと河島英五の自作曲だと思っていたのが、実は阿久悠&森田公一というヒットメーカーの曲だということがわかった。それを感じさせないほど詩、曲、歌い手の三つが見事に一体感を持っている。一度聴くと耳に残って離れないシンプルなメロディが素晴らしく、そのメロディに乗る歌詞、それも2番の歌詞がとてもいい。私が“かくありたい”と希(ねが)う男の姿がそこにある。
この主人公の「男」は“デジタル”では決してなく、まさに“アナログ”な男である。
そして、私が友とする楽器、尺八も“アナログ”な楽器である。
とはいえ、最近は尺八においてもかなりの部分でハイテク化が進んでおり、内径や歌口の構造などは“どこをどう作ればボリュームが出て、バランスがとれる”などということが解析され、それが実用化されている。これはこれで素晴らしいことである。
実際、名の通った(売れている)製管師さんの尺八はどこのものも良く鳴る。
しかし、皆、似かよってきていることも実感する。お叱りを省みずにいうと、楽に鳴りすぎてつまんないのである。音が均質化しすぎて面白くないのである。吹く人による音の違いは少なく、息の量とスピードの違いで何となく個人差がついてくるような感じなのである。
私が師事している巨匠は以前『最近の尺八は大きな音がするけれど尺八の音がしないんだよね』と言われたことがある。その巨匠に『君のはまだ竹が鳴っていないんです』とダメ出しを《くらって×→頂戴して○》いる分際の私が“何をか言わんや”であるが、これには私も同感である。
昔の尺八はとにかく音色(音味)が良い。一本一本がそれぞれに個性を持っているのに加え、ロ(ろ)はロの音、ツはツの音、チのメリはチのメリの音、と大仰に言えば違う世界を有している。また、身体を上手く使わなければその尺八本来の音が出てこないところも、難しいが故に面白いところでもある。
先日来、洋楽器や鍵盤楽器と一緒になる機会がしばしばあり「尺八の音量はたかだか知れている」ことを再認識させられた。少々音量が出るようになったところで、たっぷり鳴らされたヴァイオリンや金管楽器などにはかないやしないのである。
ならば、やはり私は古くさい尺八の音にこだわろう。ひたすら音味を練ることにしよう。そのかぎりにおいて、人から「時代おくれ」と云われようともかまわない。
「必要は向上の母」
2006年6月26日
SCENE7
“Tは出稽古を終えて自宅にたどりついた。家人が夕刊をとった後なので郵便受けには数枚のチラシが入っているだけである。自宅階に上がるためエレベーターに疲れた身体をあずけ、ぼんやりとその束に目をやっていると、カラフルな写真入りチラシの中に1枚の白黒コピーのものが申し訳なさそうに挟まっていた。それを見た瞬間、Tはニヤリと笑みを浮かべつぶやいた。「これは使えるかもしれない・・・」”
集合住宅である拙宅には毎日数多くの、そしてさまざまなチラシが郵便受けに入る。
不動産屋さん、ピザや寿司の宅配、美容院、はたまた「配水管工事のお知らせ」などなど、“定番”といえるものが大半であるが、先日何ともファンキーでファニーなもの(?)にお目にかかることができた。
それは『○○英語空手(○○は地名)』の勧誘チラシであった。
「英語空手」・・・???訳がわからないままそのチラシをよく読んでみるとこう書かれてあった。「英語を学びながら本格的な空手も習得できる、このようなスクールが今までに存在したでしょうか? 指導員は○○年の英会話教授経験と、○○年の空手歴を持ち某国空手代表チームの選手経験もあるベテラン外国人。体を動かす事により脳が刺激され英語を自然に覚えることができます。英語環境の中で空手を学ぶ、そんな画期的体験をしてみては?」。チラシにはこの宣伝文句に加えBOYやGIRLが空手の型をしているイラストと“What a great idea”“Come and try!”というメッセージが添えられてあった。うーん、よくわからないが、これが本当ならまさにGreat ideaである。“New Classes!”とあるので既にその教室が存在し、tryしている人もいるのであろうが、「英語空手」なるものは一体全体どんなものなのであろうか。妙に興味をそそられるチラシで最近一番のスマッシュヒットであった。
ところで「英語」というと、近頃、小学校の授業に英語を採り入れようという声が上がっているようである。これはまったくもってナンセンスだと言わざるを得ない。いくら時期を早めてもそれだけでは日本人が英語を喋れるようになるはずがない。“そんなことをするより国語(日本語教育)の時間を増やすべきだ”という反対意見に私は賛同する。それに加え“道徳”あるいは“一般常識”(例えば「人間は刃物で刺されるととても痛いです」や「親を殺してはいけません」など)の時間と“日本音楽および和楽器の鑑賞(質の良いものでなければならない)と実習”の時間を増やすべきだと私は思う。
当たり前のことであるが、英語に限らず何事も身につけるためには、その人にとってそれが“必要である”ことが大事である。
不肖、下手っぴの尺八吹きを省みず、私が惚れ込んだ尺八古典本曲と福田蘭童曲を一人でも多くの方にお伝えしたいと願い、講習会を始めてから早9年が経った。ここ数年は年間5回シリーズという形で定着しており、この6月に今年度第2回目を終えたところである。会場は大阪なのであるが、参加者の在住地が驚きである。京阪神は言うに及ばず、奈良、滋賀、三重、愛知、岡山、高知、福岡、そして今年は大分と鹿児島からも参加される方が現れた。この私の拙い講習と演奏を聞くために受講費以上、人によってはその何倍もの交通費を使って来て下さるのである。ありがたい気持ちと同時に“下手な(うかつな)ことは出来ない”“私の持っているものはすべてお伝えせねば”と身の引き締まる覚悟で毎回臨んでいる(そのわりに痩せませんねぇ、というツッコミは無しよ)。
また、自分自身も指導を請うために岡山や東京へ行っていることを併せて考えると、やはりその人にとって“必要である”ということが最も大事なことあり、それが習得、向上の原動力となることは間違いない。“意欲”や“情熱”は“距離”や“金銭”を越えるのである。
私の主な仕事は演奏と教授活動であるので、レッスンや講習会、演奏会などで人前に立ってお伝えしたり吹いたりすることが多いが、逆に私が教えられたり励まされることは少なくない。先日の「石川利光尺八演奏会(もうちょっとひねったタイトルは無かったんかい、というツッコミも無しよ)」においても終演後、よろこんでくださった自分の母親ぐらいの方から“身体に気をつけてがんばってくださいね”という励ましをいただきいたく感激したところである。少しでも自分が世の中に“必要とされる”よう更に精進を重ねていく所存である。
さて、先ほどの「英語空手」にヒントを得て(あくまで“ヒント”であって“盗作”ではございません)『英語尺八』ができないか考えてみた。チラシの中の“空手”を“尺八”に置き換えるとざっとこんな宣伝文ができた(これってやっぱり“盗作”?)。
「英語を学びながら本格的な尺八も習得できる、このようなスクールが今までに存在したでしょうか? 指導員は○○年の海外教授経験と、○○年の尺八歴を持ち、国際尺八フェスティバルでの講師経験もあるベテラン日本人。指を動かすことにより脳が刺激され英語を自然に覚えることができます。英語環境の中で尺八を学ぶ、そんな画期的な体験をしてみては?」これはなかなかイケそうな感じである。おっと、講師名も忘れてはいけない。「講師・倉橋義雄先生」・・・えっ、お前が講師をするんじゃないのかって?・・・“オーゴメンナサーイ、ワタシニハソンナエイゴリョクハアリマセーン”CHAN.CHAN.
「メメント・モリ」
2006年5月13日
“メメント・モリ”とはラテン語で“死を想え”という意味らしい。
このタイトルがつけられた藤原新也氏の写真集が1983年に刊行された時、私はそのショッキングな内容に惹かれすぐにとびついた。その時私は22才、“死を想う”ことなどありえなかった。
それから20数年が経ち、40代も半ばになった現在は逆に死を想わない日は一日とて存在しない。
自分の尺八吹きとしてのピークはまだまだこれからだと信じているが、人生も折り返し地点を過ぎ、終焉に向かってのカウントダウンが緩やかに始まっていることも厳然とした事実である。
私が尺八を手にして以来26年の間には、竹の縁で知り合った方々とのいくつかの悲しい別れがあった。
サラリーマンとプロのはざまで苦悩し、自ら命を絶ってしまわれた先輩。前夜まで普段の生活をされていて翌朝突然に動かぬ身体で発見された先輩。肉親を迎えに行く途中で車に追突され生涯を閉じてしまわれた先輩。演奏に行った海外で肝炎ウイルスに罹り生命を奪われた先輩。訃報に接する度に私はその理不尽さに怒り、嘆き、悲しんだ。
そしてまた最近、悲しい報せが届いた。これからを嘱望されていた若手尺八奏者の山での遭難死である。
“s君が亡くなったらしい”という噂を耳にして、その真偽を確かめるためにインターネットを検索した。遭難死は紛れもない事実であった。そして彼が所属していたグループのホームページにたどり着き、そのプロフィールを見た瞬間に凍りついた。
“夢:世界平和”
私とまったく同じである。
私もプロになった時から「夢、目的は」と訊かれると「世界平和です」と答えているが、こんなところに同志がいて、その同志が若くして旅立ってしまった。31歳という早すぎる死は痛恨の極みであるとしか言いようがない。
彼とは特別親しかった訳ではないが、門人の大切な友人であり、同じ関西出身ということもあって気にかけていた。唯一話をした機会といえば、数年前大阪で開催された和楽器のイベントで、私がいた尺八のブースに彼がひょっこりやってきた時であった。内容は“今使っている楽器を削りすぎて壊しちゃったんですよー”というような他愛のないものであったが、その時の純粋で真っ直ぐな表情は今なお忘れることができない。
私は肉体が無くなってしまった後も魂は霊界にいって生き続けると信じるので、いずれは先に行かれた方々ともそちらで再会を果たすことが出来ると考えている。それまでの間、彼らの魂の一部をお借りして“共に吹く”という意識と感覚を持ち続けたい。
さて、星の数ほど出版されている人の生涯を記した書物の中でも、とりわけ私が感銘を受けた2冊を紹介させていただく。溢れる才能を発揮させながら道半ばで病に倒れてしまわれた人間の生き様を描いた作品で、どちらも魂を揺さぶられ、生きる勇気を与えてくれる好著として一読をお薦めする次第である。
『聖の青春』大崎善生著(2000年講談社、現在は講談社文庫に所収)
『甲子園への遺言』門田隆将著(2005年講談社)
前者はわずか29歳でA級在籍のまま亡くなった棋士・村山聖の壮絶な人生を綴ったもの、後者はプロ野球界で伝説の打撃コーチとして活躍の後、高校球界に転向し甲子園を目指した高畠導宏の生涯を記したもの、である。
『甲子園への遺言』の中に、プロ野球で、さらに人生そのもので大切な伸びる人の共通点が七つ挙げられていた。
一、素直であること。
二、好奇心旺盛であること。
三、忍耐力があり、あきらめないこと。
四、準備を怠らないこと。
五、几帳面であること。
六、気配りができること。
七、夢を持ち、目標を高く設定することができること。
自分に足りないもの、やるべきことはまだまだたくさんある。
死を想い、生を想い、私は吹き続ける。
「跳ぶためにはまず屈め」
2006年4月13日
“石川くん、今日もあるあるやでぇ。”“うんわかった、あるあるやな、ほないくでぇ。”
「吹いたとたんに帰られる」♪ハイッ、ハイッ、ハイッハイッハイッ、あるある探検隊、あるある探検隊っ!♪
“これあるな、イベントなんかで吹いた瞬間に席を立つ人いてはるな”“うん、これキツイな。どんなのを期待してはったんか訊いてみたい気もするな”“ほな気を取り直して次のあるあるいこか”
「CDネットで流される」♪ハイッ、ハイッ、ハイッハイッハイッ、あるある探検隊、あるある探検隊っ!♪
“これもあるあるやな、オークションに自分のCDが出るとショックやな”“うん、もっとショックなのは100円でも買い手がつかん時やな”“自分で買うのも癪やしな。ほな次いこか”
「登場したら客3人」♪ハイッ、ハイッ、ハイッハイッハイッ、あるある探検隊、あるある探検隊、あるある探検隊、あソレあるある探検隊っ!どうも、ありがとうございましたーっ!!”
「登場したら客(お客様)3人」とは何とも恐ろしい話である。しかしこれは冗談ではなく実話、しかも近年の出来事である。舞台となったのは南のほうのとある島(といっても空港もある大きな島である)で、私を含め3人の出演によるコンサートであった。出演者の現地在住の知人がセッティングをしてくださったところまではよかったが、その日程があろうことに国政選挙の投票日とバッチリ重なってしまった。島における国政選挙は島挙げての一大イベントである。前日に島入りしてその知人およびスタッフにお会いした時には“選挙で動員がちょっと心配なんですぅ”と話されていたが、蓋を開けてみたら“ちょっと心配”どころではなかった。
舞台も3人、客席も3人、「3対3でよかったね」などと言っている場合ではない。自分もがらがらの客席で味わったことがあるが、こういうときは客席にいる人間のほうが緊張するものである。まず目のやり場に困る。“出演者を見てて目が合ってしもうても困るし、かというて目をつぶってて「あいついきなり寝とんな」と思われてもいややしなぁ”などと落ち着かない。自分には何ら責任はないのに困惑しながら曲を聴く羽目になってしまうのである。
その経験を舞台上で思い出し(演奏する私からすれば、基本的に客席が何人であろうとも吹く姿勢に変わりはないのであるが)、この日ばかりはとりわけお三方に感謝の気持ちを込めて演奏した。
こういう時に、より緊張する、というか困るのは演奏よりもおしゃべりである。“たくさんのかたにお越しいただき”とも言えないし、もちろん“本日ご臨席賜りましたお三方には”というのもちょっと違う。笑いを取るための話題でも、客席は客席で他のお二人の反応を気にしながらのリアクションになってしまうため、常にビミョーな空気が流れてしまう。そんな中、不幸中の幸いだったのは、そのお三方のうちのおひとりが、休憩時間に電話で「いいのをやっているから来なさい」と動員をかけて下さり、めでたく二桁のお客様で終演を迎えることが出来たことである。このコンサートはいろんな意味で記憶に残るコンサートになった。
それはさておき、尺八という楽器は緊張すると音がすぐに変わってしまう、ひどい時にはまったく音が出なくなる、という厄介な楽器である。楽屋で鮮やかに吹いていた人が舞台では緊張のあまり、「えっ、あの楽屋での演奏は何だったの」と同情せずにはいられない迷演奏になってしまった場面を見たことも一度や二度ではない。それにひきかえ私は若い頃から“石川さんは全然緊張しないんですねぇ”といわれるくらい緊張とは無縁であった。今思えば脳天気さ故の無緊張状態である。そんな私も年とともに舞台において緊張を感じるようになった。
再々横山勝也師のお言葉を持ち出して恐縮ではあるが、師は“舞台は跳躍の場だ”といわれた。跳躍するためには覚悟が必要だ。覚悟は緊張を伴う。緊張を感じるようになったのは何も考えないで吹いていたころに比べ、少しは自分に責任感が出てきたことの表れだと思う。
自分自身が成長を楽しみにしている40代もちょうど半分を過ぎた。さらなる緊張で、さらなる覚悟で、跳躍したい。
「率先垂範」
2006年3月11日
最近感銘を受けたイサム・ノグチ氏の言葉を紹介する。
I am a simple Buddhist monk, no more, no less.(私はただの仏教僧です。それ以上でもなく、それ以下でもなく。)
ならば、拝借の非礼を省みず、私はこうありたい。
I am a simple Shakuhachi player, no more, no less.(私はただの尺八吹きです。それ以上でもなく、それ以下でもなく。)
3月1日はNHK邦楽技能者育成会(以下、育成会)第51期生卒業演奏会の日であった。1年前のこの項で合格をお報せした門人、岩本みち子さんが目出度く卒業の運びとなり、その成果をこの耳と目で確かめるべく上京した。この会へは当初からうかがう予定をしていたのであるが、直前に本人から交通費が送られて来、“よろしい、よろしい、弟子の鑑であーる”と気を良くして会場のイイノホールへ向かった。
イイノホールへは13年ぶりであったが全く変わっていなかった。卒業演奏会の雰囲気や形式もほとんど私が在籍していた頃のままである。今回の演奏会の構成は、新卒業生の演奏曲2曲とゲスト演奏曲4曲であった。
門人が出演していることもあり、少し緊張しながら聴いた新卒業生曲の感想を(お叱りを覚悟で)率直に言うと“難しいことをやらせすぎ”である。新卒業生に与えられた2曲はいずれも“現代音楽”にカテゴライズされるものであり、私には編成自体に無理があるように思えた。和楽器を使った大編成の現代音楽に地平が無いことは何十年にも亘って検証されてきたことではなかったか。演奏者が己の力量の中で曲を最大限に音にしようとしていたその姿勢は充分に伝わったが、小学校を卒業する人間に大学入試問題を与えるようなもので、私には最後まで未消化の印象を拭い去ることはできなかった。
私が育成会に在籍していた頃は、いずれも故人となられた杵屋正邦、藤井凡大両先生が二枚看板として存在され、一年を通して“君達は音楽家としては小学生(またはそれ以下)レベルなんだ”ということを徹底して叩き込まれた。そして卒業演奏曲もそれに見合ったシンプルなものであった。
クラシック音楽のオーケストラもそうであるが、和楽器にもユニゾン(斉奏)の魅力がある。一つのパートを5人、10人、またはそれ以上で鳴らし、ピッチ(音高)、動き共にピタッと決まった時、一人の奏者では出しえない豊穣な響きが現出する。個人的には、育成会とはまずそういう経験をする場としてその存在価値があるように思う。
育成会は約40名の定員で、尺八パートはその中で例年3〜5名くらいだったと記憶しているが第51期生には8名もの在籍者がいた。この8名にはぜひがんばって欲しいと希う。
その3日後の3月4日には計らずも戴けることになった青山音楽賞の授賞式があった。
青山音楽賞とは、京都にあるバロックザールというコンサートホールにおいて、一年を通じて行なわれたコンサートを対象に、選考の上、贈られる賞である。バロックザールが元々室内楽用のホールであるため、過去の受賞者はほとんどがクラシック音楽の奏者であった(邦楽ではこれまでにただ一人、箏の中川佳代子さんが受賞されている)。受賞対象者の年齢に応じて“新人奨励賞(これが一番高額)”、“音楽賞”、“バロックザール賞”の三賞があり、私は「年長さん」の“バロックザール賞”を戴いた。
この授賞式では受賞者の答礼として演奏が要請され、賞状授与式のあとは受賞者7名による披露演奏会であった。1月に受賞の報せがあり、その際に“式典では演奏を”ということでお引き受けしてはいたのであるが、後日バロックザールのホームページで他の受賞者の顔ぶれを見て吃驚仰天した。私以外の受賞者は例外なく日本でもトップレベルの音大か海外の音楽学校の出身者で、なおかつ華々しい経歴、受賞歴を持つ人たちであった。
演奏の無い式典は気楽なもので、のんびりとその日が来るのを待てばよいのであるが、今回ばかりは事情が違った。ホールの響きに合わせ使う楽器を選定し、当日の舞台を想定し、ズボラな私には珍しく細かなところにまで気を配って練習を重ねた。
その傾向と対策(?)の甲斐あってか、本番では何とか他の人とは違う“風”を舞台に送り込めたように思う。式典終了後の懇親会では、私を推挙して下さったと思われる先生をはじめ審査委員の方々から賛辞をいただくことが出来、ほっと胸をなで下ろした。
今回はホール側からのリクエストで、受賞リサイタルのプログラムの一曲である「鶴の巣籠」を演奏したのであるが、それが洋楽とは全く違った印象になり良かったようである。改めて古典を勉強してきたことのありがたさを実感し、“やはり尺八は基本的には独奏楽器である”ことを再認識した。
この日、特に収穫だったのは、同じ楽屋だったピアノとヴァイオリンの受賞者(いずれも新人奨励賞)のいろいろな話が聞けたことである。二人とも幼少のころから世間の注目を集め、ピアノの関本さんなどは既に国際的に活躍している逸材である。一見した感じはフツーの大学生といった感じであるが、二十歳そこそこで数々の修羅場をくぐってきており、音楽に対する向き合い方はやはりハンパではない。音楽に、そして音により厳しさを求め、それを克服することにより自分がさらに成長する、ということをこの二人の若者は教えてくれた。
この二つのイベントから私は大いなる示唆と刺激を与えられた。また、熾烈な競争を背景に技術の向上を競い合っている洋楽の世界に比べ、邦楽の世界は何とぬるま湯の世界、アマチュアの世界かということを気づかせてくれた。私は“尺八で世界に通用する人材を育成することが大きな仕事の一つ”だと考えているが、その前にまず自分自身を鍛え、変わっていかねばならないことを痛感した。
これを受けた今年のスローガンはシンプルに「さあ、これからだ」である。これは保険のCMに感化されたものでは決してなく、宮本輝の小説『彗星物語』よりインスパイアされたものであることをお断りしておく。
「闘魂伝承」
2006年2月2日
ロックが先生だった。
1961年生まれの私は中学・高校生時代がちょうど1970年代だった。
当時は歌謡曲全盛の時代で、若者の音楽はフォークソングからニューミュージックへの移行期だったように記憶している。そんな中、いわゆる洋楽好きだった兄の影響を受け私は外国のロックに傾倒した。
歌謡曲ファンのための月刊誌に「平凡」と「明星」があり、ちょうどそれに対応するようにロックファンには「ミュージックライフ」と「音楽専科」という雑誌があった。ちょっとミーハーでグラビアの多い「ミュージックライフ」に比し「音楽専科」はアーティストの特集が多く、まさに資料の宝庫であった。中学生だった私はそれらの雑誌をむさぼり読み、近年の言葉でいうと「ロックおたく」、あるいは「ロック萌え〜」というガキだった。
同級生の実家が新聞販売店を営んでいたことから、中学に入る前より夕刊配達を手伝っていて、そこで得たバイト代の大半がレコード代、雑誌代、そして中学後半からはコンサート代に消えた。
そのころすでに私の中ではビートルズは神格化されていたが、ビートルズ以外にも、雑誌などで“推薦盤”と書かれてあるアーティストのレコードは手当たり次第に聴いた。特に好んで聴いていたのは、ビッグネームでは、エルトン・ジョン、エリック・クラプトン、EL&P、レッド・ツェッペリン、キング・クリムゾン、ブルース・スプリングスティーン、サンタナ、スティーリー・ダン、ザ・バンドなどなど。少しだけマニアックになると、モット・ザ・フープル、ELO、BTO、PFM、あと、コックニー・レベル、カルメン、など数作で消えてしまったグループもあった。見る人が見たら“何じゃこりゃ、節操のかけらもありゃしねぇ”と思われるかもしれないが、自分のなかでは好きなものが@図太いヴォーカル、A超絶技巧、かつ美しいトーンのギター、Bメロディの美しいプログレッシブ・ロック、の大きく三つあり、好みのアーティストはおよそこのどれかであった。
当時は英語がわからないにもかかわらず(・・・すみません、嘘をついてました。“今も”です)図太いヴォーカルが好きだったのは、ヴォーカルを「声」というよりもむしろ「楽器」として捉えていて、その包み込まれるような心地よさに惹かれていたように思う。尺八を手にして25年以上が経ち、いまだに上手く出せないながら“図太い”音に憧れるのはこのころの体験がもとになっている。また、尺八を手にすることになったのも元々はリンダ・ロンシュタットの「アリスン」という曲のバックに流れるソプラノサックスにしびれたことがきっかけであった(結局サックスではなく尺八を選んだ経緯はHPの「尺八のネットワーク作りをめざして」に書いとります)。
という訳で、中高生時代のロックから現在の尺八までそのスピリットは連綿とつながっているのである。
そして、現在は尺八が先生である。
尺八という素朴(でも実際はきわめて精緻でデリケートな作りである)な竹の笛が私の生き方にまで大きな影響を及ぼしている。加えて、私が尺八を語る際には師の横山勝也先生を抜きにしては語れない。
私が横山先生のレッスンに通うようになってから20年近くになる。先生のレッスンは9年前のご病気以来、唱歌(しょうが)と言葉によるレッスンである。まだご自身が演奏された時は、どちらかといえば昔風、あるいは天才型とでもいうべきか、“一緒に吹いて自分で取りなさい”というスタイルであった。それが、吹くことができなくなってしまわれてからは、その想いや改善点を言葉で伝えてくださるスタイルに変わった。先生の妙音が聴けなくなってしまったのは残念至極というよりほかはないが、より一層言葉の重みが増したことも事実である。レッスンはまず自分の課題曲を吹くことから始まる。私の拙い演奏は、先生からすれば“何だこんな演奏しか出来ないのか”というレベルであろう。また、ご自身が吹けない忸怩たる思いもうかがえ、腹立たしい限りだと察するに余りある。しかし、そこをぐっとこらえ、毎回厳しくも温かいコメントをしてくださる。
本当は教えたくないが、あるレッスンでのコメントをここに公開する。
『良かぁ吹いているよ。でもね、音の冴えが足りないんです。もし神様が一音だけを聴かせろといった時に君はその音を聴かせられるか。もっともっと一つ一つの音を大切にしてロ、ツ、レ、チ、リ、ロを徹底的に練るんです。君は考え方が甘いんです。私は決してうまくなかったけれど、一つ許されることがあったとすれば“力一杯”吹いていたということです。“音”そのものを鳴らしきっていましたよ。君もうまくは吹いていますよ。そりゃぁへたよりうまいに越したことはない、プロはうまくなきゃいけない。だけど、うまさに頼る訳にはいかないんです。うまさに頼っただけではつまんないんだよ。人は感動したいんです。聴きに来る人間は皆感動したい、慰められたいんですよ。その人たちを慰めることができるといったら、ホント神様に捧げられるような音であることですよ。その時に音そのものの練りが足りないようじゃダメなんです。君も長距離を運転してきて試し吹きもせずに吹けっていわれるんだから大変ですよ。でもその無理を承知で言ってるんです。最悪のコンディションの時がその人の実力なんです。その時に音を大切にするって心を失くしちゃいけませんよ。舞台ではうまいへたを突き抜けたところで吹いてもらいたいね。君だったら出来るよ、あぁ出来るよ。』
録音の音源を起こしていても、そのレッスン時の感動と不甲斐なさが同時によみがえり落涙を禁じえない。先生のこの大きさと熱さはもはや大慈大悲の感すらあるが、私から言わせればこの熱さはロックスピリットである。先生のような音は出せるべくも無いけれど、このスピリットだけは受け継いで行こうと思う。
この師にめぐり会うことが出来て本当に幸せである。
「照顧脚下」
2006年1月3日
謹賀新年 本年もよろしくお願い申し上げます。
水曜日は溺れる日である。
昨2005年は不意の喘息や鼻炎の憎悪などで何度か体調を崩す羽目になった。これは生来のアレルギー体質が根本原因なのであるが、常々運動不足と体力の衰えを感じていた私は、“何か運動をせねば”と思い、水泳を始めることにした。敢えて書くことでもないが実は私は“カナヅチ”である。それも“超合金製”とでもいうべきハードなものである。私の水泳歴は無手勝流の平泳ぎ(周りからは溺れているとしか見えない)で何とか前に進める程度、それも最後に泳いだのはいつかも憶えていないほど長年に亘り泳ぎとは無縁の生活を送っていた。
そんな私がわざわざ水泳教室を選んだ大きな理由は“憧れ”であった。私は子供のころから、“水がそこにあればスイスイと魚のように泳ぐことができる人”、“外人から話しかけられればぺラっと英語がしゃべれる人”、“ギターが立てかけてあればシャラランとギターを弾き語りできる人”、“入った店の片隅にピアノがあればポロロンとショパンの1曲でも奏でられる人”に憧れていた。残念ながら“訪ねた家の床の間に尺八が置かれてあればおもむろに手にとって〈ぶひょーっ〉とムラ息の一つも出せる人”というのは“憧れ”の対象には全く入っていなかった(尺八を知らなかったので当たり前であるが、そんな無礼な人がいたとしたら「弟子でなくとも破門」である)。
家から自転車で3分のところにプールがあり、たまたま私に空き日が多い水曜日に『基礎からの水泳教室』が設けられていたので、その教室に入会した。少し緊張しながら初回開始時刻に集合場所に行くと皆親しげに談笑されていた。1期3ヶ月毎の更新ながら大半の方は何年も通っておられるようであった。そのためか、一応の開講の日からいきなりコーチが「では身体を暖めるために25メートルをまず3本泳ぎまーす、型は自由でーす」と言い放ち、号令と共に皆スイスイと泳ぎ始めた。「えっ、そ、そ、そんな。最初は顔つけと違うんですかー、センセーイ」と当惑しているのは私一人であった。最後列の私の順番がやってきたので、仕方なく昔学校で習った(と思われる)バタ足を思い出し、それに手をつけてもがきながら前進した。25メートルを6回ほど立ち止まって“もがき泳ぎ”でようやくゴールまでたどり着いた。どう考えても、止まったところからキックだけで浮いたまま進んだほうが早い“見事”な溺れっぷりであった。
この日から私の水曜日は“水に溺れる日”となった。あれよあれよという間に1期を終え、私は未だ“カナヅチ”の域を抜け出せていないが、水に浮かぶ楽しさがようやくわかり始めてきた。2期目も迷うことなく継続の申し込みをした。
44歳と遅まきのスタートではあるが目指すは「尺八界のトビウオ」である。
さて、この水泳教室に通って気づいたことがある。
まず最初に各泳ぎの基本の型、順序を習い、それを自分で繰り返すのであるが、自分で繰り返すうちに、その型から外れる動きをしてしまうことがある。この“型から外れる動き”は本人にとって“楽”なのでそうなってしまうことが多い。このことから私はこう考えた。きちんと型を習得、修得する前にこの“楽”な動作が習慣になってしまうと、それは“くせ”でしかありえない。型やセオリーを修めた上で型から外れる動きとなって初めて、それが“個性”“芸”たりうるのではないか、と。
“くせと個性”とはしばしばテーマとして取り上げられることであるが、これは水泳をとおした実感を伴った私なりの気づきである。
また、肉体的には泳ぐ際のキックが私のそれではぜんぜん足らないことを痛感した。足腰が強くないとしっかりと身体を支え前進することができない。“何事においても足腰が大事だ”ということも水泳をとおして私は再認識した。
この二つの気づきから、今年は、尺八において自分の“くせ”となってしまっている部分をチェックしなおし、足腰を強化する(尺八における自分の足腰は“しっかり吹くこと”と“古典本曲”である)ことから始めたい。
最後に、故藤井凡大先生が山本邦山師より委嘱された曲の楽譜に添えられてあった一文を紹介したい。後年私がその曲を再演した折、凡大先生の奥様より教えていただき、それ以来大事にしている言の葉である。
『吾が立てる 足もとをこそ 深く深く』
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