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尺八とゴルフは似ていることに気がついた。
ひとぉつ 一人でコツコツ練習して人前で成果を披露する。
ひとぉつ 長い道具や短い道具を状況によって持ち替える。
ひとぉつ やたら道具に凝る人がいるが、たいていの場合、道具と腕前とは比例しない。
ひとぉつ いたるところに教え魔がいて、言うことが皆違う(結果、ビギナーはどれを信じていいのかわからずウロウロする)。
ひとぉつ プロより上手いアマチュアがいたりする。
ざっと考えただけでもこれぐらいの共通点が見つかった。
私はその昔、サラリーマンをしていた頃にはゴルフをしていた。いわゆる“接待ゴルフ”というやつである。今は、練習にも本番(コースへ出る)にもお金がかかりすぎること、本当に楽しもうと思えばそうとう練習をしなければならないこと、などの理由で完全にやめてしまったが、ゴルフの面白さと奥深さは少しは知っているつもりである。
止まっているボールを打つゴルフが存外難しいように、止まっている(当たり前)竹の管から音を出す尺八もまた想像以上に難しい。“見るとやるとでは大違い”ということでもこの二つは似ている。
このゴルフ界にあって私が数年前から注目している人に江連忠氏(中国の人ではない。えづれ・ただしと読む)がいる。彼は自身がトーナメントプロでありながら、日本人で初めての〈マスター・オブ・インストラクター〉でもある。平たく言えば“プロゴルファーのコーチ”である。彼がゴルフ界のみならず、世間にその名を轟かせたのは片山晋呉プロが賞金王に輝いた時であった。我々のような素人は、プロゴルファーは自分で練習方法などを工夫して腕を磨き戦いに臨むと考えてしまうが、ちゃんとプロを指導する人が存在するのである。調べてみると江連氏は片山プロの他に、伊沢利光(ゴルフ界の利光くん)、谷口徹、星野英正、福嶋晃子、諸見里しのぶ、といった錚々たるプロのコーチをしていた。ゴルファーのなかではエリート中のエリート達が、さらに向上するためにコーチに指導を仰ぐのである。
話は脱線してしまうが、江連氏には著書も多い。それらのタイトルを挙げると『新モダンゴルフ』『ゴルフはかっこよく気持ちよく』『芯に当たっちゃうゴルフ』『江連忠の出直しゴルフレッスン』など、なかなか凝っていて、この“ゴルフ”を“尺八”や“ロ(ろ)吹き”に置き換えると見事にはまってしまうのが面白い。『○○○の出直し尺八レッスン』『芯にあたっちゃうロ吹き』などという本があれば私は飛びついてしまうだろう。また“ゴルフ”は入っていないのであるが『頭をつかえばミスは激減』という、思わず「そのとおりっ!」と叫んで苦笑してしまうタイトルもあった。
それはさておき、スポーツであるゴルフと、音楽である尺八を並べることは出来ないが、尺八のプロ(特に若手)ももっと習いに行けばいいのに、と思うことがよくある。若手のプロ奏者と話をすると、「元々は○○師匠についていて、今はたまに行くぐらいっすね」という人が少なくない。そういう人の演奏は大体が、本人が思っているほど上手でもなく個性的でもない。底の浅さが見えてしまうのである。自分自身で目標を高く掲げ、弱点を修正し、前進し続けられる人であれば自分でやればいいが、そういう人はほんの一握りである。師匠がこの世にいるならば(私の周りには師匠が亡くなってしまった人も少なくない)、その芸のみならず、経験というものを教わりに行くべきである。また、どうしても違う人に習いたい場合は筋を通して行かせてもらえばいい(その“筋を通す”のも自分の力量である)。若手プロ奏者には、感覚に優れ、才能のある人が多いと思う。また、勉強が足りない人が少なくないとも思う。仲間内で満足せず、世間一般に音楽家として通用するための工夫と勉強をしてほしい。
さて、尺八とゴルフにおいて決定的に違う点はプロの稼ぎの差である。ゴルファーと尺八奏者のトッププロの収入、そしてプロ全体の平均収入を比較すると文字通り“桁違い”であることは間違いない。そして残念なことに、尺八界にあっては現在の最高峰の方々が退かれると演奏単価が下がってしまうことが明らかである。このままでいいはずはない。現在の若手にさらに続く世代がプロに憧れ、希望を持って入ってこれるような環境を作らねばならない。
そのためにはいろいろな方策が必要である。その一つとして私はプロも実践できるような教習メソッドを作りたい。プロがさらに向上するためにメソッドを整備し、そして適確なアドヴァイスができるように経験と情報を身につけたい。私ももっともっと勉強が必要である。
プロになったからには“上を見ればきりが無いが上を見続けなければならない”のである。
「善(膳)は急げ」
2005年10月31日
SCENE6
Tは毎朝一人のオッサンに出会う。
そのオッサンは低い背丈にアンバランスなでかい頭部を持ち、どこからが顔でどこからが頭かわからないくらい頭のてっぺんまで禿げ上がっている。言葉を交わす訳ではないが目と目を合わすだけで何故だかオッサンの心は手に取るようにわかる。
ある朝Tはそのオッサンにアプローチを試みた。“おはようございます”・・・声をかけても返事は無い。そこでTは思いきって顔を触ってやろうと手を伸ばした。するとTの手はオッサンの顔に届かずに1枚の硬い板にあたって跳ね返った。
“ゲゲッ、これは鏡に映った私だっ!”
なんとまぁ古臭い書き出しになってしまった。
“そうです。私は紛れもなく44才のオッサンでーす。”こう言いたくなるくらい、いつの間にかオッサンになってしまった。同い年の真田広之や黒木瞳がTVに映るたびに“これは反則でっせ、神さんもつくづく不公平なことをしはるもんや”と、これまたナニワのオッサンのつぶやきをしている自分に気がつく。
真田広之と私のこの違いはどこからくるのであろう。いわゆる“老化”の大部分はDNAによって先天的に個体ごとに決まっていると私は考えるが、それ以外の、メンタルやフィジカルな要素(前向きに考えるかくよくよ考えるか、身体を鍛えるか何もしないか、など)、および何をどう摂取するか、ということも大きく関与していることは“間違いない”。
そこで、「何をどう摂取するか」ということについて、前回の『酒』に引き続き、今回『食』について書こうと考えていたところ、私が隠れファンであるドクター中松こと中松義郎博士にこの度【イグ・ノーベル賞】なるものが与えられたことをニュースで知った。
【イグ・ノーベル賞】???何ですかそれ、ということで調べてみたところ、「米国のハーバード大系の科学誌が“人々を笑わせ、そして考えさせる”研究に対して贈呈する毎年恒例のイベントで、本家ノーベル賞と同時期に発表されている」賞であることがわかった(「イグ」とは「愚かな」という意味らしい)。そしてドクター中松の受賞理由がまたふるっていて「35年間にわたり自分が食べたすべての食事を撮影し、食べ物が頭の働きや体調に与える影響を分析」し『3日前の食べ物が自身の頭の働きや体調に影響を与えることを突き止めた』というものであった。
素晴らしいっ!35年間食事を撮影するだけなら危なっかしいおじさんの行為に過ぎない(それでもこんなことはできまへん)が、それを分析し結果を導き出すあたり、さすがは世界に冠たる発明家であり科学者である。やはり氏の発明した“フライングシューズ”を履いてぴょんぴょん飛び跳ねたい気分である。
これはいいことを聞いた、と思った私はさっそく実験してみることにした。
決行日は10月20日、私の第9回リサイタルの3日前である。家の近くにおいしく、かつバランスのとれた食事を食べさせてくれるステーキハウスがあるので、店をそこに決め、予算の関係でランチをいただいた。それ以外は通常と変わらない食生活を会当日まで続けた。
10月23日、何とか無事リサイタルが終った。この実験の結果はというと、まさしく効果てきめん、前回まで終演後は歩くのもやっとこさっとこというほど疲れ切っていたのであるが、今回はアンコールを含め6曲吹いた後でも“まだ吹けまっせー”という位、身体が充実していた。何というか、身体の芯がしっかりして、漲っている感じなのである。
ドクター中松恐るべし。これからは『3日前栄養補給術』である。これをご覧の皆様も重要なイベントが控えている際にはぜひこの方法を試していただきたい(もちろん一番良いのは日々身体に効くものを摂ることであるのは言うまでもないが)。
私は外見はオッサンであるが、幸いに内面は少年のように(自分で言うな!)熱く燃えたぎるものを持続出来ている。今回『食』について考えているところへたまたま興味深い説を知り、これから先の演奏家人生について大いなるヒントを得ることができた。ドクター中松には、何の権威もないが、私から【ノン=イグ・ノーベル賞】を進呈したいと思う。
リサイタル後、1日経ち2日経っても依然元気なままである。“おっ、これは身体が変わったか”と思っていたら3日目からズーンと疲れが出てきた。
“やっぱこれってオッサンちゃうのん!!”
「酒は百薬の長(石と酒)」
2005年10月6日
SCENE 5
某月某日
とある演奏会の打ち上げ会場の居酒屋にて
店員「当店の飲み放題メニューは、生(ナマ)、日本酒、各種チューハイ、ソフトドリンクからになりまーす。」
幹事T「じゃあまず全員にナマをお願いしまーす。」
ピッチャーで運ばれてきたナマが全員に行きわたる
幹事T「ではみなさーん、お疲れさまでした。カンパーイ!!・・・・・????ゲゲッ、これは生ビールではないっ!発泡酒だっ!」
私は酒が“大好きであるが強くない”という困った身体の持ち主である。であるからして飲む酒の銘柄は厳選している。私が全幅の信頼を寄せる治療院の先生に教えを乞い、その先生が〈合格!〉と判定を下されたものだけを飲むように心掛けている。先生は「歴史的に見ても酒は薬としても使われていました」「身体に良い酒は薬になりますが、悪い酒は身体を壊す働きをしてしまいます」と説かれ、その治療効果で身体が良くなることを実感している私は、先生の説に大いに賛同し、従っている。
〈合格!〉の酒はビール、日本酒、ウイスキーなど合わせて十数銘柄である。その銘柄の酒が身体に入ると本当に“効く、効くぅ”と身体がよろこぶのである。これを続けていると〈不合格〉の酒が体内に入ってしまうと、“ひゃぁ、毒が身体に入ってきましたよー”と身体の各部位が驚き、急いでそれを追い出そうとする。体調の良い時などは〈怪しい〉酒はニオイを嗅ぐだけで“危険物注意”とサインが送られてくるようになった。
飲み会などでも大抵の場合は自分で酒を選ぶことが出来るので問題ないが、SCENE5のように「居酒屋の飲み放題」では発泡酒の不意打ちをくらわされることがあり、私には要注意なのである。
その発泡酒のゲリラ的存在を脅威に感じていたら、さらに最近は〔第三のビール(風飲料)〕なるヘンテコなものが登場した。〔第三のビール〕とは何じゃ、〔その他の雑酒〕とは何じゃ。発泡酒が出てきたときも感じたが、これらの怪しげなるものは税制のスキマをつく日本人の知恵と、それに対応する技術の表れである。その知恵と技術力は賞賛に値するが、そのほとんどが美味くないし、だいいち身体に悪そうなニオイがプンプンしている。日本人が皆こんなものを飲みだしたら、身体は壊れるわ、売れども売れども単価が低いので売り上げが上がらないわ、というたいへんなことになるであろうことがビール会社にはわからないのであろうか。競争が大変なのはよくわかるが、自分達で自分達の首を絞め合っていることに早く気づいて欲しい(ビール会社のトップ以下、全社員がこのヘンテコな酒を“美味い、美味い”といって毎日飲んでいるなら私は“ごめんちゃい”と謝ります)。
私はほぼ毎日酒(主にビールとウイスキー)を飲んでいるが、本格的に飲み始めたのは大学に入ってから、ということで尺八とほとんど同じキャリアである。いまや私も40代半ばになり、人生の半分以上の日々を酒と共にすごしてきたと言っても過言ではない。
私は以前、“どうして毎日飲むの?”と訊かれて絶句したことがある。この名クエスチョン(?)を吐いたのは私の妻である。私の妻は体質的にアルコールをうけつけず、また、妻の実家も酒を飲む習慣がまったくなかったので、新婚当時、酒を家に常備しておくことを不謹慎だと感じた私は“酒を飲みたい時は買って帰るから”と言って、結果的に毎日買って帰り、一人で晩酌をしていた。そうして何週間か経ったある夕食時、妻が私に真顔で上の質問を投げかけた。妻には他意も悪意も全くなく、素朴な疑問を私に問いかけただけであったが、私はメガトン級のカウンターパンチをくらったような衝撃を受けた。“あなたは何のために生きているの?”という質問と同じくらい答えに困ってしまう問いかけであった。“いや、あの、その・・・・・”とうろたえたまま六年が経ち、私はまだその答えを出せないまま飲み続けているが、毎日飲むことに一言も文句を言わない妻には心から感謝している。
さて、酒と竹(尺八)との共通点は、「どちらも良いものは身体に効く」ということである。良い薬が身体を治すように良い音楽もまた身体を治し、元気を与える働きをする。そういう意味では“酒は百薬の長、竹も百薬の長”である。私が師の妙音や先達の名演を聴いて元気や勇気をもらったように、こんどは私が“おかげ様で身体が良くなり元気が出ましたっ!”と言われるような竹を吹きたいものである。
あのぅ・・・・
ほんとうにたまたま、10月23日の第9回リサイタルには『酒(牧野由多可作曲)』という曲を演奏するので、ぜひ“『石』の『酒』”を聴きに来てくださいね←あっ、また宣伝で終ってしまった!
「袖すり合うも他生の縁」
2005年8月25日
トシミツです。
前回書いたように“2倍吸って2倍吐こう”としたらレッスンの時、足の臭い人がいることがわかったとです。決意は三日しか持ちませんでした・・・・。
トシミツです。トシミツです。トシミツです。
私の門人にとっての“夏の甲子園”である『石の会・夏の演奏会2005』が8月21日、大阪にて開かれた。今回の出演者は尺八29名と助演の先生方が8名、私を含めると計38名であった。尺八29名の内訳は女性が3名、男性26名。気になる(誰が?)年齢は、20才代4名、30才代5名、40才代(“たぶん”を含む)3名、50才代(“少々若く見積って”を含む)7名、60才代(“いやぁあの人、実は結構いってはるで”を含む)8名、70才代2名で平均年齢は50才代前半、といったところであろうか。
思えば、今をさかのぼること10年前に尺八6名、総出演者10名でスタートしたこの会であったが、大阪風に言うと“ぼちぼち続けてまんねん”という内に少しずつ出演者が増え、総勢40名近くの会になったことは感無量である。また、第1回に出演した6名のうち4名が今回も元気に参加したことはまことに喜ばしいことであった。
『夏の演奏会』は、原則的に一人一舞台で連管無し(曲のカットも無し)なのでごまかしがきかない。その人の実力と精進ぶりがそのまま音となってあらわれる“こわい場”である。しかし、その“こわい場”にこそ“上達”の二文字が潜んでいるのだ、と今回も全曲を聴きあらためて実感した。若い人の勢いのある音や、こちらの予想をはるかに超える成長ぶりもアッパレであったが、経験を積み重ねられたヴェテランの凛としたたたずまいのある音も見事であった。
そんな中、一つだけ口惜しかったことがあった。7月より入院され、当日一時退院の許可を得て参加された70歳代の方が全くに近いほど音が出ず、自己申告でやり直したにもかかわらず二度目も殆んど音にならなかったことである。二度目の途中で私が影から一緒に吹かせていただいたが、その方は終始恬淡とした態度で通され、その姿勢の気高さに私は打たれた。
翌日、今回初参加の出演者からいただいた挨拶メールのなかに“石川軍団”なる言葉があった。その方は私と、私に近い門人の集まりを称してその言葉を用いていた。この“軍団”という使い方は“石原軍団”から来たものだと思われるが、“石原軍団”といえば、芸能界でも一二を争う鉄の結束力を持つことで有名である。ロケなどの食事の時には裕次郎さん自らが大鍋の前に立ち、一番下のスタッフから順に振舞った、というエピソードには“はー、人の上に立つ人はやっぱり違うなぁ”と感心した記憶がある。“石原軍団”と“石川軍団”では文字通り「一字違いで大違い」なのであるが、メンタリティとホスピタリティにおいては私も負けないつもりである(もし“石川軍団”があるとすれば、“石の会”のメンバーはすべて“石川軍団”である)。
“夏の甲子園”と同じく『夏の演奏会』もまた、終った瞬間から次への挑戦が始まっている。会員各位には新たなる目標を掲げ、強靭な意志で立ち向かって欲しいと願う。
“石の会”は“意志の会”でもある。
「父の恩は山よりも高く 母の恩は海よりも深し」
2005年8月1日
恋は短い 夢のようなものだけど
女心は 夢をみるのが好きなの
夢のくちづけ 夢の涙
喜びも悲しみも みんな夢の中
やさしい言葉で 夢が始まったのね
いとしい人を 夢で捕まえたのね
身も心も あげてしまったけど
なんで惜しかろ どうせ夢だもの
冷たい言葉で 暗くなった夢の中
見えない姿を 追いかけてゆく私
泣かないで 嘆かないで
消えていった面影も みんな夢の中 (「みんな夢の中」作詩:浜口庫之助)
7月2日と7月10日は母の命日である。
私を生んでくれた母は7月2日、37歳の若さで亡くなった。その時私は11歳であった。私はしばらくの間、現実を受け入れられずにぼーっとして生きていた。(当時よく流れていた曲が“みんな夢の中”であった。私は歌詞の意味もわからずによく口ずさんでいた。)
三人兄弟の末っ子であった私は甘えん坊で、いつも母のまわりをうろうろしていた。しかしいくら思い起こしてみても母から叱られた記憶というものがない。わずか11年であったが、私は母の優しさを身体一杯に受けて育った。
母の死後、家事は主に兄弟3人でやることになった。私はご飯炊きを任され、他は母の代わりに家事全般を取り仕切る姉の手伝いをした。この時期に“出来るだけ人の手を煩わせずに自分の力で生きていく”という、私の人生に対する基本姿勢が固まったように思える。
この、“出来るだけ人の手を煩わせない”という姿勢は今も私のベースとなっているが、困ることも少なくない。例えばコンサートを企画したとすると、前の日までの仕込みから当日の手配、ひいては打ち上げ会場の予約から終了後の清算作業までほとんど一人でやらないと安心できないのである。1993年の第1回目のリサイタルの時にも、まだ当時はあった髪の毛を振り乱して会場内を東奔西走(?)している姿を気遣った助演の方から、「石川さん、自分で動きすぎ。自分の会なんだから自分はもっと演奏に専念できるように人に頼めることは頼まないと!」と助言していただいたが、この姿は今年で第9回目を迎える現在もあまり変わっていない(変わっているのは髪の毛と、優秀な管理人が登場したホームページぐらいである)。
これには生来の“面倒くさがり屋”という気質が大いに関係している。“仕事を頼むために説明をする”ということが面倒くさくてしようがなく、「ええぃ、それなら自分でやってしまえ」と仕事を抱え込んでしまうことになる(これはまさしく関西弁で云うところの“いらち”である)。なかなか性分というものは変えられないが、演奏にエネルギーをより集中するためにも、人に任せられるところは任せて行きたいと近頃は考えている。
話が前後するが、生みの母の死後2年ほどして、周囲のすすめもあり父は再婚した。私にとっては二人目の母が現れた。この母には13歳から成人するまで育てていただいた。前の年から微熱と不調を訴えていた母は、6月の初めに検査入院すると、いきなり余命1ヶ月半と宣告され、ほぼそのとおり7月10日に息を引き取った。母62歳、私は34歳の暑い日であった。
この母から教わった最大のものは“もったいない”という心である。節約、倹約を絵に描いたような母の姿を見て、“ご飯は残さず食べる”“食べ物は捨てない”“水や電気などを無駄づかいしない”ということが自然と身についた。
母という存在はほんとうに偉大である。私の考え方から、身体の動きから何からが、今なお母から受けた影響(教え)が根本になっているといっても過言ではない。
ところで、7月は恒例となった【石川ブロス・サマーアクションシリーズ】の開催月であった。お忙しい中、またお暑い中、3会場4公演にお運びいただいた方、ご協力いただいた方にはこの場を使って心より御礼申し上げる次第である。
〈孝行のしたい時分に親はなし〉とはよく言ったもので親孝行は何も出来なかったが、産み育ててくれた二人の母に感謝し、これからは冗談ではなく2倍吸って2倍吹こうと決意を新たにした。
「人の背中は見えるが我が背中は見えぬ」
2005年6月30日
今、大阪空港がだらしない!
先日、二ヶ月ぶりに大阪空港へ行く機会があった。
この日は自分が搭乗するわけではなく、知人の演奏家の出迎えであった。したがって“これから飛行機に乗るんだもんね”“さあさあ仕事仕事!いっちょやったるで!”というワクワク感が充満した[出発口]ではなく、かなり地味な[到着口]で飛行機が到着するのを待っていた。空港内は空梅雨のせいで六月にもかかわらず、もはや夏の気配であった。
到着時刻が近づき案内板を見ると、待ち人が乗って来るはずの飛行機は【15分遅れ】の表示が出ていた。私は“しゃーないなぁ(仕方がないですね)”と一人ごち、往来する人びとを眺めるともなく眺めていた。すると、普段は気になるはずもないおじさんの団体のある一群だけ異様にだらしないことに気がついた。最初はその異様さが何のせいなのかわからなかったのであるが、しばらくして合点がいった。ビジネスマンらしき一群が揃いも揃ってスーツにカッターシャツ、そしてノーネクタイなのである。実はだらしないのは空港ではなく、今夏環境省から提唱された『クールビズ』の忠実な実践者とおぼしきおじさん達であった。実践していることは立派であったが、残念ながらその団体のトップが「要はネクタイをはずしゃいいんだろ」というくらいの認識しかなく、「我が社はクールビズに賛同するので今度の大阪出張はみんなネクタイをはずして来るように」というお達しに「えっ、宴会の前じゃないのにそんなことしていいの」と、待ち合わせ場所に着く直前に皆慌ててはずしたような感じの決まりの悪い空気が漂っていた。私にはその異様な一群が“マジックを見に来ていて無理矢理舞台に上げられ、‘3,2,1,ハイッ!’のかけ声と共にネクタイだけ抜き取られて困惑しているサラリーマン”の集まりのように見えた。
上の困ったおじさん達の事例のように、『クールビズ』は‘服装の軽装化’が目的、というイメージが先行しているように私には思える。しかし環境省の提言によると本来の目的は〈地球温暖化を防止するため、夏のオフィスの冷房設定温度を28℃程度にすることを広く呼びかけています。その一環として、28℃の冷房でも涼しく効率的に働くことが出来るような「夏の軽装」を「COOL BIZ−クール・ビズ−」と名付け、推進していきます。みなさんもこの夏はぜひ「COOL BIZ」を実行してみて下さい!〉ということである。
新聞のアンケートによると早くも49%の人が「このプランは定着しないだろう」と答えているらしいが、〈地球温暖化防止〉を大目的とした施策ならばぜひとも定着して欲しい。その願いを込め僭越ながら私も『クールビズ』ルックを考えた。私のおすすめは‘ネクタイがプリントされたTシャツ’である。あのビートルズも着ていたカッチョイイやつである。ちょっとフォーマルな場に出る際には‘ネクタイとスーツがプリントされたハイグレード版’にすればいい。もし見破られたくない場合には5m以上近づかなければいいので暑苦しくならない。腹の出っ張りが気になる人には毎日着ているとダイエット効果がある(かもしれない)。自分で柄を描くことだって出来るので省マネーにもなる。いいことづくめである。これをご覧の環境省、政府関係者がおられたら断りはいらないのでぜひ参考にしていただきたい(そんな奴はおらん!)。
ともあれ、『クールビズ』が、某元総理の“ポケットいっぱいサファリ風変テコ半袖ジャケット”の二の舞にならぬよう、また、その名のごとく“お寒い”施策で終わらぬよう、陰ながら応援している次第である。
ところで、今回空港まで出迎えに行った‘知人の演奏家’の正体はピアニストであった。福田蘭童作品の尺八とピアノ編成の曲をCD録音するために大阪まで来ていただいたのである。福田蘭童作品は独奏曲も良いがピアノとの曲もまた素晴らしい。これをぜひ多くの人に聴いていただきたいと長年計画していてようやく実現の運びとなった。これから編集作業を行い秋には完成する見込みである。これを書いている段階ではまだ録音したものを一切聴いていないので、私の中では空港[出発口]のようなワクワク感が充満している。この勢いに乗って先行予約を大々的に承ることにした。ぜひ「新作CD希望」と書いてメールにてお寄せいただきたい。聴いてみてあまりに“お寒い”演奏だとトーンダウンしてしまうかもしれないので今のうちに強気で宣伝をさせていただくことにする。
“『尺八浪漫』3000円ですわ。そこんとこ ヨ・ロ・シ・ク!”(寒ーっ)
「心ほどの世を経る」
2005年5月31日
トシミツです。
演奏料として魚の干物をもらったことがあるとです。
トシミツです。
“CDに先生のサインをお願いしまーす”と若い女性に言われました。“ハイハーイ”といってニコニコしてジャケットを見たら横山先生のCDでした。使いっ走りだったとです。
トシミツです。
私に習ったことをひた隠しにしている人がいるとです。
トシミツです。
私の写真を撮る時、必ず頭から上をカットしてくれる人がいるとです。余計な気遣いはしてほしくありません。
トシミツです。
家に帰って袋を開けたら演奏料が入っていないことがありました。
会主に電話をして“今日はお世話になりました”と挨拶から入ったら“出ていただいて本当に助かりました”といわれました。
“・・・またお願いします”といってそのまま電話を切ってしまったとです。
トシミツです。トシミツです。トシミツです。
久しぶりにオーケストラの演奏会を聴きに行った。それも十日間に二度。私にとっては‘超’がつくほど珍しいことである。両方とも大阪のプロオケで、一方は創立20数年と若いオケ、もう一方は関西において最も長い歴史を持つオケであった。どちらのオケも音楽監督が最近交替し、注目を集めていたためかほぼ満席であった(うらやましい〜)。
新しいオケの方にはヴェテランの指揮者が、歴史あるオケにはその楽団の象徴であった大指揮者の没後、海外で活躍するエネルギッシュな40代の指揮者が、それぞれの音楽監督として就任されていた。「若いメンバーにヴェテランの指揮者」と「キャリア充分のメンバーにフレッシュな指揮者」、“この違いはどんな形で表れるのだろうか”という興味が私を会場へと向かわせた。
音楽には好みがあり、またプログラムも違うので、両方を単純に並べて批評することは難しいが、私には後者の演奏が断然心地好かった。若々しい指揮者によるエネルギッシュな指揮は老舗オケのメンバーを若返らせたように映った。もう一方のヴェテラン指揮者は若者に大人っぽい振る舞いをさせているようで私には少々しんどかった。オーケストラに関しては素人なので個々の力量はわからないが、やはり指揮者によって違うことを実感した。エネルギッシュな指揮者から出される‘気’は団員を圧倒し、かつ包み込んでいた。
今回のプログラムの中に、私がシンフォニーの中で最も好きなベートーヴェンの『交響曲第七番』があった。ドライブ感というかグルーヴ感が私にとってたまらなく心地良い曲である。これまでクラシックのコンサートをどちらかと言えば敬遠していたのは“一曲の時間が長い”“繰り返しがやたら多い(多そう)”という理由からであったが、ベートーヴェンを聴きながら私はハッと気づいた。“一つのテーマやモチーフが何度も登場し、変容しながら次の場面へ転換し、高揚していく(上手く書けませんが)という形式は、『霊慕』などの、尺八の重厚な骨組みを持った古典本曲のスタイルとかなり近いものがある”と。“AというパターンがBを経てもう一度出てきてもそれはもはやAではなーい”というようなことである。この(私なりの)‘発見’は、これから本曲を吹いていく上で何らかのヒントになると一人合点し嬉しくなった。
また、両方の演奏会のあいだ中、横山勝也師の“尺八は一人でオーケストラの音を出さねばならない”という言葉が頭から離れなかった。『ノヴェンバー・ステップス』で洋楽の世界にも尺八の存在を知らしめ、多くの賞賛を持って世界を渡り歩いて来られた人の言葉ゆえ重みが漂う。現存する『ノヴェンバー・ステップス』のビデオからも、それを実践されていた姿がよく見てとれる。師の尺八から発される音はカラフルでオーケストラをも包み込む音であった。琵琶の鶴田錦史先生もまた凄い。どのビデオを見ても、何十人ものオケ団員と対峙した横山師と鶴田先生の音の多様さ、および気魄が完全に勝っているのである。
今回のオーケストラ連続鑑賞会は、「尺八」というフィルターを通してクラシック音楽の楽しさを感じられたことがこの上なく面白かった。また、同じ舞台に立つものとして、‘気’の高め方、発し方が本当に大事なことを再確認でき、とても実りあるものであった。ご覧のあなたに“いやぁ、音楽ってホンットにいいもんですねぇ”と言いたい気分である(誰じゃ、おまえは!)。
閑話休題、さる5月15日に行われた『第11回全国邦楽コンクール』に私の門人が二名出場し、一人は2回目の優秀賞、そしてもう一人は‘なんと’最優秀賞を獲得した。両君とも見事なものである。また、3月号に書いたM子(みち子)さんも目出度くNHK邦楽技能者育成会に合格し、毎週がんばって通っている。若い人のエネルギーにはほんとうに驚嘆を禁じ得ない。この調子でいくと月謝やお小遣いが振り込まれたり、航空券が送られてきたりするのもあながち夢ではなさそうである(第二話参照)。
この言葉を口にするのは二年ぶり二回目(高校野球の出場回数みたい)になるが、“若いモンにゃまだまだ負けーん!!”と鼻息を荒くし、今回はお茶でカンパイをして練習に取りかかることにする(第十八話参照)。
“自分のCDにサインを求められるまでビュービュー吹くぞーっ”なんちゃって。
「虎は風に毛を振るう」
2005年4月25日
三年ぶりに私は虎になった。
といっても酒を飲んで暴れたわけではなく、友人の代演(エキストラ=略して“トラ”)として『吉幾三新歌舞伎座公演』に出演した。〈2002年6月30日号参照〉
前々回の「新人賞受賞」の様子を書いたものがまあまあ好評だったので、今回は「どうやって私が虎になるのか」を書くことにする。
まず、一ヶ月ぐらい前に私に一本の電話が入る。内容は“お前は虎になれ、虎になるんだ!”というもの、では決して無く(当たり前)、“あのー、石川さん。4月のこの日空いてませんか。空いてたら吉さんの公演頼みたいんだけどー”というKT野さんからの丁寧な電話である。私はスケジュールの空きを確認し、“はいはい、いいですよー”と答え、出演が決まる。結構あっさりとしたものである。
今回のような一ヶ月公演では内容がギリギリまで決まらないことはよくある話らしい。公演初日の数日前になってようやく“やっと曲が決まりました。今回はたぶん1曲ですー”との連絡が入り、音源MDと楽譜が送られてくる。しかし、まだこの時点では音源はカラオケ、楽譜には[−24−]などという数字(休みの小節数)と、わずかな音符に[尺八アドリブソロ]と書かれてあるだけで“何が何だかよくわかりましぇーん”といった状況である。なので、劇場でのリハーサルの段階、あるいは公演が始まってから下見に行き、実際の進行を見て内容を確認することになる。‘今度は1曲なのでちょっと安心’と思っていたら、公演初日の前日にKT野さんから、“2曲になりました”とのメールが入りちょっと慌てる。KT野さんも最後の〈通しリハーサル〉でいきなり言い渡され、“ほとんどその場で憶えて吹いた”とのこと。幸いに私の出演は初日から10日ほど後だったので間に合わせることが出来たが、すぐに対応できる人は尊敬してしまう。
その‘頼みの綱’の下見はリハーサルの日に私の都合がつかず、公演が始まってからになった。約束した日時に楽屋へKT野さんを訪ね、同部屋の皆さんに挨拶をする。吉さんのスタッフは親切な方ばかりで、今回もほんとうによくしていただいた。横着を省みずこの場を使い心より御礼申し上げる次第である。(どうでもいい話であるが、新歌舞伎座の裏側はまるで迷路のようである。おまけに和楽器の出演者の楽屋は地下2階にあり、舞台へ出るまでには1階から5階くらいまでの階段と、くねくねとした通路を通らなければならない。それを一日に何往復もするのであるから、もうそれだけですごい運動量である)。
下見の段階ではKT野さんの腰巾着のようにしてついて回り、どう動くかを身体に焼きつける。五感をフルに使って自分というビデオカメラに撮影する感覚である。頭を始めとした、日頃使っていない身体のあちこちの部分が動き出すようで心地よい。また、普段入ることのない舞台裏はいろんな人がいたり、いろんな物が置いてあったりとワクワクする場である。‘やっぱり自分は現場が好きなんやなぁ’と実感する。
進行を確認した後は早々に退出し、帰りの道中(今どき使わない?)でプレイバックする。時間が経つほどに忘れてしまう部分が多くなるので、ポイントを整理してしっかり記憶しなければならない。ここから出演当日までは本番を想定した練習をとにかく数多く繰り返す。
本番当日を迎え、指定された時間に少々緊張しながら楽屋入りする。楽屋の方々はすでに10日近くの舞台を経験されており、空気にも余裕が漂っている。そんな中、私はベテラン歌手の中に一人放り込まれた新人歌手のように落ち着かない。まだ出番まではかなりの時間があるが、そそくさと紋付き袴に着替えを済ませ音源を聴き直す。
歌手が座長の公演は第一部が芝居、第二部が歌謡ショーという構成が一般的であり、今回の吉さんの公演も例外ではない。私は第二部に出演である。第二部が始まる前に出演者、スタッフがステージに集まり、吉さんが来られるのを待つ。久しぶりに間近でお会いする吉さんは体格も凄いがオーラももの凄い。顔合わせのあと一度楽屋へ戻り、会場入りしてから初めて音を出し少しだけ練習をする。
ショーが始まり尺八の出番が近づくと、同じタイミングで楽屋を出る和太鼓の人に誘導してもらい舞台袖へ向かう。まず下手(‘しもて’と読む。‘へた’ではないからねっ!)袖で音響さんにヘッドセット型のマイクを付けていただく。普段ヘッドセットを着けることはほとんどないのでこの時点からドキドキの緊張モードである。そのあと奈落(地下通路)を通り、自分が出る上手(‘かみて’と読むが、こちらは‘じょうず’でもよろしい)袖へ移動し2曲待つ。
さあ、いよいよ本番である。前の曲のエンディング4小節の間に立ち位置に進み、ドラムスの人の“スリー、フォー”という合図を聴いて吹き始める。‘よし、何とかはずさずに音が出た’。曲が進むにつれ落ち着いてきて1曲目は何とか終了。続いてもう1曲、尺八のアドリブが24小節ある新曲である。こちらはイントロ16小節と歌1コーラス32小節を待ってから出る。待っている間にチラッと客席に目をやると人、人、人の満席状態で慌てて目を伏せ歌に集中する。‘来た、来た、来た、来た、来ましたよ、来ましたがな’という感じでアドリブの場面がやって来た。集中して吹きはじめたはずではあるが、考えていたようには全然指が動かない。‘〈空回り〉とはこのことか’。2番の歌詞の間に気を取り直し、後半の楽譜があるところは何とか無事終了。曲が終わり暗転で逃げるようにして袖へ引っ込んだ(‘上手’は‘じょうず’では無かった・・・残念ーーーっ!)。大きなズレやトチリはなかったことが全くもって不幸中の幸いであった。
ため息をつきながら楽屋へ戻り、津軽三味線のF居師に“アドリブのところはすべりまくりました”というと、“全然問題なかったっすよ”と慰めてくださったが、自分のダメなところは自分が一番よくわかる。もっともっと地力をつけねばならないことを痛感した。
今回は虎として最低限の働きはしたものの「ダメ虎」に終わってしまった。次回での「ダメ虎」返上を誓い、再び電話がかかって来ることを待つことにする。目指すのは《走・攻・守》三拍子揃った尺八吹きである。
ところで、ただいまスキマスイッチというユニットの『全力少年』という曲がJ-POPのヒットチャートを急上昇している。さわやかで印象的なメロディの楽曲と♪〜積み上げたものぶっ壊して 身につけたもの取っぱらって〜♪ ♪〜あの頃の僕らはきっと 全力で少年だった〜♪という歌詞がとても気に入ってしまった。それにあてはめるならば私は『全力中年』である。また、常にそうありたい。『全力中年』だけでは見た目にも情けないので、『全力中年、心は少年』にしておこう(これも情けないか?)。
とにかく、積み上げたものをぶっ壊しながら今を全力で生きて行きたい。輝ける未来はその向こうにあるのだから。
「日々是好日2」
2005年3月17日
トシミツです。
緊張して白足袋の上に革靴を履いて舞台に出たことがあります。
トシミツです。
客席の間を吹きながら歩いていたとき、袴が椅子に引っかかって20cmぐらい破れてしまったとです。“すすり泣くような音が良かった”とほめられました。
トシミツです。
お酒を飲みながら書いた楽譜を本番で初めて見たら、何を書いてあるかまったくわかりませんでした。
トシミツです。
20分の曲を睡魔と闘いながら練習しました。終わってみたら120分かかっていたとです。
トシミツです。
“下手なプロより上手い”って、“下手なプロ”とは誰のことでしょうか。その言葉を聞くたびにドキドキするとです。
トシミツです。トシミツです。トシミツです。
3月15日はキライである。
その日は、超がつくほど‘ものぐさ’の私にとって最も憂鬱な「確定申告の締切日」である。だいたいその時期には天敵の“スギ花粉”が飛散のピークを迎えるので、締め切り日の数日前から自分の正面に金銭出納帳を開き、右側には伝票類と電卓、左側にはティッシュの箱を置いて、のろのろと作業をしながら申告書の完成を目指すのが例年の姿である。運悪く今年は花粉の飛散量が「過去最悪」になるらしい。遺伝的にも極度のアレルギー体質である私は“今年は例年より多いらしい”と聞くだけで鼻の奥がムズムズしてくる。ちょうど10年前の1995年が花粉飛散量の多い年(‘当たり年’という人もいるがそんな使い方はしないでちょうだい!)であったが、その時は尺八の勉強をするため東京にいる時間が多く、あまりの凄さに何度も呼吸困難になり、まともに稼いでもいないのに“廃業の危機”とわめいていたことを思い出した。「過去最悪」の今年は一体全体どうなるのだろうか。
そのとってもとってもキライな3月15日にリサイタルをしたことがある。“何を好んでまたそんな日に”と思われる方も少なくないだろうが、答えは簡単、企画を進めるのが私の場合、8ヶ月から6ヶ月前の“花粉症?あぁそんなのもありましたね”というくらい元気な時期だからである。
その3月15日のリサイタルは、最初にして最後、私が横山勝也先生をお招きした会であった。先生にはご自身の作曲の『春吹』と福田蘭童作曲『わだつみのいろこの宮』の1パートを吹いていただいた。今にして思えば、現在よりもさらに下手っぴな私が、よく“「世界の横山」と二人で同じ舞台に立つ”という大胆なことをしたものである。
助演の方々のおかげを持ち、会は盛会裡に終えることが出来た。初めて横山先生と舞台に立たせていただいて感じたことは、“人間とはこんなに身体をゆるめられるのか”ということであった。失礼を省みずに書くと“舞台でそんなに身体をゆるめて、それ反則ちゃうのん”と本当に思ったのである。そのゆるんだ身体から発せられる音はゴーッという勢いと豊潤な広がりを合わせ持ち、出された瞬間にホール一番奥の壁にまで飛んでいった。先生の音はリハーサルの時ももちろん凄かったが、舞台ではさらにターボのかかった凄まじいまでのツヤと広がりのある音になっていた。‘身体をゆるめて吹く’のではなく‘吹きながらゆるめる’技であった。“あぁ、天才とはこういう人のことを言うんだ”と横で吹きながら感動していた。
「良い音を出すためには身体を緩めることが必要」とはそのリサイタルの前から感じていて、呼吸法を習いに行ったり、武道や声楽の本を読みあさってはいた。しかしその日、舞台上で‘吹きながらゆるめる’技を文字通り“体感”したことは衝撃的であり、それ以降の尺八および音に対する考え方、取り組み方が随分変わったように思う。
今年の3月15日は大阪・茨木教室のレッスン日であった。この日一番うれしかったことは、数年のブランクのあと復活を果たしたM子さんという若い女性の音と演奏が“ポンッ”という音でも聞こえてきそうなくらい劇的に変わったことである。彼女はこれから某放送局の邦楽の技能者を育成する会に入ってさらに勉強を続ける意志を持っている。ここ数ヶ月間の彼女自身の努力によって、みちがえるような地力がついてきたことがことのほかうれしかった。
悩みの種の確定申告は何とか締め切りに間に合い、今年も源泉が還ってくる見込みである。花粉症も今のところ出ていない。
だとすると、
3月15日は結構いい日ぢゃないか!
「楽あれば苦あり、苦あれば楽あり」
2005年2月13日
2005年1月19日、私はおそらくこれまでの人生の中で最も晴れがましい場所にいた。その日は運よくいただけることになった芸術祭新人賞の贈呈式であった。
衣装は何にしようかと2分ぐらい迷ったが“なかなか羽織を着る機会がないので着物にしよう”と思い「紋付き羽織袴」にした。私は招集された時間ぎりぎりに会場のあるホテルに到着した。決められた席に着いて辺りを見回すと想像以上に多くの和装の人がおられた。能、日本舞踊、落語などで受賞された方たちであった。その中でも2列ぐらい前に座っていた、茶髪、というよりも金髪に近い髪の色をして、ブルーの紋付きを召された方は一際目立ち、私は“うわぁ、芸術祭をもらう人にも‘いきった’(カッコつけた、ふざけた、はしゃいだ、という意味で使われる大阪弁)人がいるもんやなぁ”と興味半分で注目していた。
芸術祭賞の選考方法については変遷があるが、現在は、参加公演の演劇、音楽、舞踊、演芸部門それぞれにおいて関東と関西で別々に審査し、受賞者および団体を決定する、という形である。賞には大賞、優秀賞、新人賞の三つの賞がある。私は「音楽部門・関西参加公演の部」で新人賞に引っかかった。ちなみに同部門・関東参加公演の部の新人賞は九州系地歌の藤井昭子さんであった。藤井さんとは久しぶりにお会いし、席も隣だったことからご挨拶かたがたお話をさせていただいたが、私よりもずっとお若いのに凛とした風格を備え、聴かずとも“この人はすごい演奏をする人なんだろうなぁ”と思わせる雰囲気を漂わせておられた。物珍しさでキョロキョロと落ち着かない私とは対照的であった。
贈呈式は上の参加公演に加え、テレビ、ラジオ、レコードの部門を含めた全7部門からなった。受賞対象が全部で45組にもおよぶため、アナウンスがあり、受賞者が出て行って賞状をいただき、次の人と入れ替わる作業で一時間近くを要した。
密かに注目していたブルーの紋付きの人は、私よりも先に発表があり正体が判明した。その人は「タカラヅカ」の人であった。‘いきった’にいちゃんなんかではなく、‘清く、正しく、美しい’麗人であった。誰に気づかれることもなく私は反省した。
新人賞は38番目から発表があり、私は41番目に名前を呼ばれた。‘新人賞、尺八・石川利光さん〜’とのアナウンスに立ち上がり、戻ってこられた藤井昭子さんと入れ替わるように式台へ歩き始めると、会場の後方にある「受賞者関係者席」からの視線が私の背中に突き刺さった。それは“えっ、あの人が新人賞・・・”という戸惑いの空気を含んでいた。テレビの何とかサスペンス劇場だと“賞”のところにリバーブがついて“えっ、あの人が新人賞賞賞賞”という感じであった。
幸いに(?)私はこういう空気には慣れっこになっているので、賞状をいただき席に戻る際に、感謝の気持ちと“私は新人賞受賞者の保護者ではありません、本人でーす。‘50、60洟垂れ小僧’のまだ小僧にもなってまへん。”とのメッセージを込めてにっこり微笑んだ。
式典における受賞者の席次は、大賞、優秀賞、新人賞の順で私は最後列であった。また、記念にいただけるトロフィーが飾ってあり、大賞は「金色の大」、優秀賞は「金色の小」、新人賞は「銀色の小」と明確に区別されていた。私は自分が名前を呼ばれるまでの長い待ち時間に「同じやるなら前の席に座れるように頑張ろう」と思い、これからも参加することを心に誓った。
話は変わって2月9日はサッカーワールドカップ最終予選の初戦、「日本対北朝鮮」戦であった。日本代表ファンの私は試合開始時刻に練習を終え、ビールを片手に観戦をしていた。“薄氷を踏む”とはまさにこういうことか、というほどハラハラした展開で後半のロスタイムにようやく日本は決勝点をものにした。
結果オーライで、勝利したのはよかったのであるが、日本代表を見ていていつもじれったくなるのは、日本選手同士のお見合いでボールを取られたり、相手ペナルティエリアに入り傍目から見ればシュートチャンスでありながらパスをする選手が少なくないことである。素人がこんなことを言うのはおこがましいが“サッカーは点をとってなんぼ”ではないのか。少しでもチャンスがあるなら自らボールを取りに行って自らシュートをする、という姿勢が大事ではないのか。確かに大舞台は通常とは違う空気があると思うが、そのために練習をしているのではないのか。好きだった人生好朗師匠になりかわり「責任者出てこーい」といいたい(出てきたら‘ごめんちゃい’と謝るだけである)。
大事な舞台で実力が発揮できるためには不断の努力と気構えが大事なことは音楽でもまったく同じである。先の藤井昭子さんのように、聴かずとも“この人はすごい演奏をする人なんだろうなぁ”と思わせる空気は、見えないところで徹底して自分を鍛えておかねば出せっこないのである。
残念なことに“ビールを飲んでいる場合ではない”と気がつくのはいつも“ビールを飲んだあと”である。あぁ、強くなりたい。(‘酒に’ではない、念のため。)
ところでその贈呈式を終え、意気揚々と帰宅した私は自宅の鍵を持っていないことに気づき愕然とした。家人が帰ってくる予定の時間まで2時間もある。仕方なく私は再び外に出て暗くて寒い道を歩き出した。少々小腹は空いていたがすぐに食べてしまってはまだ時間が余ってしまう。書店、コンビニとはしごをして1時間ほどつぶした後、中華料理店に入った。ビールと小エビの天ぷらと炒飯を注文し、私はため息まじりにつぶやいた。“人生なんてこんなもんやなぁ。”その炒飯はいつもよりしょっぱい味がした。
「対岸の火事」
2005年1月18日
scene4
1970年頃の児童Tと友達の会話。
友達“おー、お前いま何してんねん。”
児童T“えー、別に何もしてへんよ。”
友達“えっ!、お前息してへんのんかぁ。息してへんかったら死んでまうでぇ。”
児童T“なにをしょーもないこと言うてんねん。”
1995年1月17日午前6時すぎ、私は埼玉県所沢市の兄宅で目を覚ました。前日に東京で演奏があり一泊して17日に大阪へ帰る予定だった。演奏後には打ち上げがあり、飲んだ翌朝は決してそのような時間に目が覚めることはないのであるが、その日に限っては何故か目を覚まし、何故かすぐにテレビをつけた。
しばらくするとテレビの画面から煙の立ち上った街の風景が映し出され、引き続き「今朝神戸を中心に強い地震が発生しました」とのアナウンスがあった。次々に映し出される映像はこれまでの経験から想像しうる地震よりもはるかに凄まじく、ぞくぞくと入ってくるニュース原稿にアナウンサーの声も次第に悲痛さを増していった。まだ半分眠っていた私ではあったが“これはただごとではない”という気配を感じて気がつくと布団の上に正座していた。
その時プロになって3年目であった私は、東京で勉強する時間を多くするため兄宅に居候し、大阪には荷物置きの四畳半のアパートを借りていた。木造モルタルの古いアパートで、付近の駐車場の相場が一台2万円するのに対し家賃は1万8千円であった。友人・知人には「駐車場よりも安いアパートに住んでます」と自虐的に自慢していた。サラリーマン時代に住んでいた2DKから四畳半一間に引っ越したため押し入れに収まりきれない段ボール箱は天井近くまで積み上げられていた。
そのアパートがあった大阪府吹田市も震度5を記録し、かなりの被害が出ていたため、帰阪してからは被害の少なかった東大阪市の実家に身を寄せ、震災一週間後の1月24日にアパートに戻った。アパートが傾いていないことを確認し、おそるおそる部屋の戸を開けてみた。はたして、本棚は倒れて反対側の壁に凭れかかり、段ボール箱は崩れ落ちて床を覆っていた。私はぞっと身震いをした。そのとき部屋にいたならば無傷であることは不可能に近く、下手をすると生命にかかわる大怪我をしていたかもしれないことがはっきりと見て取れたからである。私は“あぁ、生かされた”と私を護ってくださっているものに感謝した。
あの忌まわしい出来事から10年の歳月が流れた。
2005年1月16日、私は神戸にある神社のお祀りで吹く機会をいただいた。お祀りに来られた方はそれぞれに被災された経験を話され涙を流されていた。学生だった息子さんを亡くされたお父さんは今なおその日が近づくと身体がおかしくなるという。そんな中にいて私は一人傍観者であることに気づき愕然とした。報道などで大震災の惨状は知っているつもりであったが、自身に痛みを伴っていないためそれはうわべだけのことであった。私が去年移り住んだあたりも新しい建物が建ち並び復興が順調のように見えるが、人の心の復興はその人の生涯続くものだとあらためて実感した。
奉納演奏をさせていただいた神殿は私がこれまで経験したことのない不思議な場所であった。自分の身体があたかも強力な磁場に置かれているようで、目に見えない強い力が働き私の呼吸から吐き出される音をじっと見まもってくれているような感覚を味わった。
10年前、アパートでの私なりの経験から生死について考えることが多くなったが、生死の境というか間(あわい)はほんとうに紙一重である。
無事に息(呼吸)が出来ていることに感謝して、人の心を慰め、また魂を鎮めるために前を向いて吹き進んで行きたい。私の震災復興は始まったばかりである。
「一年の計は元旦にあり」
2005年1月1日
謹賀新年 本年もどうぞよろしくお願いいたします。
ところで私は1月8日生まれである。何かの会合で誕生日を訊かれた際に「一か八かの1月8日生まれでーす」と言ったら、知り合いの大阪のおばさまに「1と8は一尺八寸やないの、そんなことも気がつけへんかったん?」と返され(ご教示を受け)、以来「誕生日は1月8日、一尺八寸の1と8どぇーす。尺八を吹くために生まれてきましたー。」と調子よく答えることにしている。
学校に行っているころは1月8日生まれがくやしかった。誕生日のプレゼントが貰えないからである。大人はだいたい「はいはい利光くん、これお年玉ね。そうそうお誕生日のお祝いも一緒ね。」と誕生日祝込み(実は同額)のお年玉になることが普通だったし、同級生は年明けの初登校日で私の誕生日どころではなかった。私の周りでは賑々しく誕生パーティなどをする家庭は少なかったが、それでもプレゼントやケーキをもらえる友達が羨ましかった。
しかし、大人になってからはこの一尺八寸の誕生日が結構好きになった。新しい年が明け、気分をリセットするのと自分の年齢の増えるのがほぼ同時でわかりやすいからである。四十を過ぎるとバースデイプレゼントを貰うことはめっきり少なくなったが、‘来るものは拒まず’で、いつでもプレゼントをありがたく頂戴する態勢にあることは付け加えておきたい。
さて、“激動の年”2004年は私が尺八を手にして25年目の節目の年であった。私のこの一年を振り返ってみたい。
まず反省点は、@やろうと思っていたソロライブがほとんど出来なかった(タイトルだけは考えた)、A形にしたかった講習ビデオが台本未完成のため持ち越しになった、B充実させたいと考えていた門人のための資料作り、およびホームページの新しいコンテンツが出来なかった、などである。いろいろ考えてはいるのであるが、取りかかることや、パソコンに打ち込んだりすることにものすごく時間がかかってしまうのである。自分のことを「石川‘スローハンド’利光」と名乗ろうかと思うくらいである(←意味が違う!)。
成果としては@参加したイベントやコンサート(一部既報)でより尺八の素晴らしさを実感できた、A久しぶりに海外(シンガポール)へ行けた、B門人会が充実してきた、C石川ブロスがぼちぼち軌道に乗ってきた、Dリサイタル「突破」がお客様に喜んでもらえた、などなどである。リサイタルは‘新人賞’というおまけが付いてきて嬉しい一年の締めくくりとなった。
何はともあれ、一年何とか無事で過ごせたことにあらためて感謝する次第である。
2005年の目標は、これまでの活動に加え、懸案の@ソロライブ、A講習ビデオ、B新CD、などを形にしていくことである。プランは他にもいろいろあるが、あまり書いてしまうと‘スローハンド’だけでなく‘狼少年(中年)’になってしまうので、不言実行で世に出したい。個人的なスローガンは「なくそうスローハンド、狼中年撲滅2005」である。
ところで私は現在神戸在住である。高校までを大阪で過ごし、大学時代は京都、そして長年の大阪暮らしを経て昨年神戸に移り住んだ。どうでもいいことであるが“ひとり三都物語(「三都物語」はJR西日本のキャッチコピー)”の完成である。
私が尺八を始めたころ、プロを目指していた先輩が“関西の邦楽は東京に比べ10年遅れている”といっておられた。その時から20年以上経った現在では、もはや比べることが出来ないほどのレベルや層の違いが生じている。首都圏への一極集中化は進む一方であり、お叱りを覚悟で言えば、大阪、京都といえども“一地方”に過ぎなくなっている。しかし、だからこそ私は関西にこだわりたい。関西で尺八を広め、喜んでいただける活動をして行きたいと強く希う。全国各地に特色のある奏者、名人がいて、そこでしか聴くことのできない曲目やスタイルがあるのが健全な姿だと思う。
2005年1月8日には44歳になる。‘残された時間は少ない’というあせる気持ちと‘まだまだこれからや’という余裕にも似た気持ちの交錯する複雑な思いの今日この頃である。
「近くて見えぬは睫」
2004年12月22日
新加坡と書いてシンガポール、私が彼の地に降り立ったのは2004年11月10日22時50分でございました。世界一とも称される巨大な空港から街へ出ますと、立ち並ぶ近代的な高層ビルと豊かな樹々の緑との調和が見事な、それはそれは美しい景観で、私はこの国がいっぺんに好きになりました。
‘旅’といえば‘食’でございます。七日間の滞在の中で私が頂いた食事に順位をつけますと、第一位は何といいましてもU野様にご招待いただいた東岸公園の海鮮料理でございました。“ぷるん”という音が聞こえてきそうなほど弾力のある大きな蟹を黒胡椒で味付けしたものは、今思い出してもあの“ふわっ”として、それでいてスパイシーな食感がよみがえってまいります。その料理だけで「もう一度此の地を訪れたい」と思わせるような力強さを持った一品でございました。第二位はTaんさんに連れて行っていただいた屋台でのワンタンスープでございます。上品なスープの中に浮かんだ“つるっ”としたワンタンは日本では味わうことのない、さりげなさの中に本格さを感じさせるものでありました。第三位はどれを選ぶか難しいのでございますが、Yoうさんにご馳走になりましたヌーベルハウスの中国料理になりますでしょうか。フルコースのどれもが感嘆の声をあげずにはいられないほど見事な逸品揃いで、中国四千年の歴史の奥深さを改めて感じたのでございます。また、ここで初めて食したししとうのピクルスはやみつきになり、滞在中欠かせないものになりました。第四位にはやはりN村様と偶然通りがかったベトナム料理の屋台の麺料理を上げないわけにはいけません。平打ちの麺と牛肉と卵を少し甘めにこってりと炒めた一品は私に限らずどなた様にも喜ばれる味でございましょう。第五位は二十四時間営業の巨大屋台〈ラオパサ〉で食した各国料理の数々でございます。あまりに数が多いのでここには書ききれませんが、どの品も「この値段でいいのかしら」といらぬ心配してしまうほど安価でボリュームたっぷりの品々でございました。また、〈ラオパサ〉を間違えて〈ロサモタ〉と言ってしまい、皆の苦笑を買ってしまったことも良い思い出になりました。
新加坡と書いてシンガポール、彼の地でいただいた料理の数々はそれだけで「一年の何ヶ月かはここに住んでみたい」との思いにかられるようなそれはそれは素晴らしいものでございました。
途中からご覧になられた方のためにおさらいを・・・《バゴーン!》
カット、カット、カーーーット!
違う、違う。ここは‘えせ貴婦人’のB級グルメレポートのコーナーではないのである。“石川利光的音楽紀行手記在新加坡”なのである。
というわけで(どんなわけや!)、私は邦楽アンサンブル「昴」の一員として11月10日から17日までシンガポールへ公演旅行に行ってきた。今回は演奏の内容について書こうと思っていたら、ぐずぐずしている間に団長の石川憲弘のホームページに詳しい報告が載っていた。私にはこんなに詳しく書けないのでご興味のある方はこちら(昴レポート)をご覧ください。
初めて訪れたシンガポールは治安が良く、私の目には安定した国に映った。人々に昔の日本のような人情深さがあり、わずか七日間であったが快適に過ごすことが出来た。‘えせ貴婦人’ではないがぜひ一度は住んでみたいと思える国である。難点といえば赤道に近く、一年を通して高温多湿なことである。現地でお世話になった上野氏によると、年中暑いと季節感や月の感覚というものがなくなり、3ヶ月前のこともはるか昔のことになってしまうらしい。
七日間の慌ただしい滞在の後、日本へ帰国すると、出発時の晩秋から冬を感じさせる気候に変わっており改めて日本の四季のありがたさ、美しさを再認識した。“ディスカバージャパン(古っ!)”である。旅行から帰ってきたオバサンの口から思わず突いて出る「やっぱり家が一番ええなぁ」である。
ところが、その美しい日本がどんどん壊れていってしまっている。連日のように報道される耳を塞ぎたくなるような陰惨な事件に加え、今年は地震や洪水などの天災も相次いだ。人の心が様々な形で傷ついているように私の目に映る。音楽には、そして尺八には傷んだ人の心を回復させる大きな力がある。目先のことに精一杯で、何の手助けも出来ない自分が情けないが、こういう時だからこそ自分に何が出来るかを真摯に考え、行動していきたい。
海外公演は自分が日本に生まれ、尺八を吹いていることの喜びを、日本とはまた違った形で味わえる実りある機会である。自分自身を再発見することも多い。これをご覧の方で“今度外国に行くときに尺八吹きが1人いてもいいわね”というお方がおられましたら是非連れて行って下さいね。
“そんな奴はおらん!”(by大木こだま・ひびき)
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