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竹 石川利光 随筆「石と竹」




「気は心」
2004年11月27日


“河内のオッチャンが久しぶりに会った人への挨拶”と掛けて“更新が滞っている石川の拙文”ととく、そのこころは・・・・

“おー久しぶりやのう、生きとったんけ(久しぶりですね、お元気でしたか?)”→“生きとったんけ”→“生きとったけ”→“生きとたけ”→“いきとたけ”→“いしとたけ”→“石と竹” 〈ちょっと間をおいて〉 “バンザーイ!”“バンザーイ!!”〈皆さんもご一緒に〉“バンザーーイ!!!”


というわけで(どんなわけや!)、諸々の事情により間隔が開いてしまいましたことをお許し下さい。

上の、苦し紛れのダジャレを“バンザーイ”といってごまかすのは関西のお笑い番組の大喜利コーナーの定番である。(その昔は落語家の桂小軽という人がこの“バンザーイ!”の役を一手に引き受けていた。懐かしい!)

今やテレビジョンにおいては漫才師も落語家も一様にタレント化し、画面にでる頻度の多い落語家さんは道を歩いていると“あんたもたまには落語しーやー”とからかわれることも少なくないらしい。しかし実際のところは関西において落語会は毎日のようにどこかで行われ、テレビ番組によく出ている噺家さんも月に何本も高座に上がり研鑽を重ねているのである。

私が上方落語界(江戸はよく知らぬ)において非常に優れたシステムであると常に感じているのは、‘自分の師匠以外にでもネタを習いに行ける’という点である。“あのお師匠さんはこの噺が得意(持ちネタ)なので稽古をつけてもらいに行く”あるいは“次の独演会でこの大作をやるから○○師匠にきいてもらう”ということが普通に行われている。もちろんこの習慣には‘習いに行く弟子の師匠’と‘稽古をつける師匠’との信頼関係や、キャリアの差はあれど‘プロ対プロ’の関係、が前提にあるのであろうが、「皆で若手を育て、盛り上げていく」という空気が感じられて羨ましい限りである。

私はこのシステムを尺八の世界にもぜひ取り入れるべきだと思う。志を持つ者であれば修得したい曲は他派へもどんどん習いに行けるシステムを作るのが良いと考える。

こういうことを言い出すと、決まって「型が崩れる」や「手が荒れる」などという方がおられる。しかし、私は強い師弟関係にある弟子なら尊敬する師の芸を敢えて崩そうとすることはないと実感しているし、もし手が荒れるならばハンドクリームを塗れば済むことである。少しずつではあるが確実に先細りしている尺八の世界にあっては、どんなに素晴らしい芸でも次代へ広く伝えていかなければ“気がつくと途絶えていた”という時期を迎えることは明らかである。

私は、私の持っている曲を修得希望するプロ、もしくはプロ志望の人にはよろこんでお伝えすることに決めている。もちろん上方落語界に倣って月謝は不要である。そのかわり、といっては何であるが、伝えるほうも貴重な時間を割いて教えることになるのだから、それ相応の覚悟で来ていただきたい。“一応これも吹いてみたい”というぐらいならプロならば音源と楽譜があれば出来るはずである。直接対面してお伝えするからにはそれ以上のことをお伝えするつもりである。

これは私なりの心意気であり、尺八によって生かされていることへの恩返しの気持ちでもある。志のある若者は是非来ていただき私の心意気を感じて欲しい。


「尺八なもんですから‘意気に感ず’は‘息に感ず’なんてね。おあとがよろしいようで〜 ドンドーン!」




「親思う心にまさる親心」
2004年10月8日

道を究める為の心得を示す言葉に“守・破・離”がある(“修・破・離”とも表される)。

元々は江戸時代の茶人で「江戸千家」を開いた川上不白という人が提起した、茶道から始まった言葉であるらしい。現在では茶道だけでなく伝統芸能や武道、はたまた社員教育・啓蒙などで広く使われている。実際私がこれを知ったのもサラリーマン時代であった。

まずは型を守り(修め)、それを打ち破り、最後には離、すなわち自分の型をつくる、という修行の過程を簡単な三文字で表したものであるが、たいへんに奥が深い、人生の指針となる言葉である。

先達の教えの中でこの引用が使われるとき、もっとも大事なのは“守”だとされることが多い。“守”をおろそかにすると“破”“離”も実態の伴わないものになってしまうということであろう。尺八にあてはめると、まずしっかり音を出す、師の型をそのまま取り入れる、ということだと思うが、これがまったくもって難しい。私の場合は師の存在が大きすぎて“守”の段階で何度も破綻や自己崩壊をきたし、堂々巡りをしているのが実状である。自分の中ではこの“しゅはり”を常に心に置き「師の保存会ではだめだ」「自分のスタイルを作りたい」ともがいてはいるものの、想いも努力もまだまだ足りない。


その師・横山勝也の過去のリサイタルを収録したCDがこの度発売になり、解説に次のコメントが載っていた。

「僕は人生の多くの時間を尺八を吹く事に使ってきたが、それに劣らない時間を指導活動にも注いできた。僕を超えていく者がいないならば、その時間が無駄になるんだ。」

私はこの文章を目にしたとき、溢れる涙を抑えることができなかった。感動の涙と、いつまでたっても生半可なことしか出来ない自分のふがいなさに対する悔し涙が入り混じった涙であった。

この文章はまた、門人を持つ人間としても非常に共感できる内容であるが、私の場合は既に私を超える者が続出しているので涙の理由にはあてはまらない。頼もしいことに門人の若手プロの諸君は私の貧弱な音よりもはるかに立派な音を出す。一緒に素吹きをしているとどちらが弟子かわからないほどである。それぞれが少しずつ自分の型というものを確立しつつあるのも嬉しいことである。しかし、‘○○さんを育てた石川利光’と呼ばれて喜ぶには30年は早い。


横山先生は私に「常に破格を目指せ」「破綻を怖れるな」「無難な演奏は誰も望んでいない」との教えを下さった。これはまさしく“破”“離”を目指せというメッセージに他ならない。まずは自分が師を突破しなければならない。師の想いと私にかけて下さった時間を無駄にはできないのである。





「人間到るところ青山あり」

2004年9月10日


『注  射』
注射はいやだ。
注射の日になると、みんな「注射、注射。」といっていたくない注射でもいたいようにいう。
順番が来て図書室にいくとどきどきする。
うでにくすりをつけられるとよけいにこわくなる。二年や三年のころはこわくなかったのに、このごろはいつもこわい。
ぼくはいつも注射がなくなったらいいのになあと思っている。次はぼくの番だという時は前の人をずっと見ている。そして、ついにぼくの番がくると、もういいやと思って目をつぶる。そして、やり終わるとぜんぜんいたくなくて「なあんだ」と思う。大人になってもまだ注射がある。これからはこわがらないでおこう。



これは私が東大阪市立意岐部小学校の卒業文集に書いた作文である。卒業がテーマにもかかわらず何ともとんちんかんな内容である。他の人の作品を見てみると、『六年間の思い出』『卒業』『修学旅行』『中学校へ行ったら』など、ほとんどが卒業文集の意義を理解し、そしてわきまえた題名、内容になっており見事である。おまけに文字だけでは一人に与えられたA4のスペースを半分も埋めきらずに、へたくそな注射器の絵を描いてごまかしている。文才の無さおよびアイデアの貧困さが見事に露呈されている【私の恥ずかしい過去】の一つである。(妻には「作文締切の日に病気か何かで提出が出来ず、やむなく昔の文章を載せたのだろうと思った」と言われた。)
このとんちんかんで文才の無さは現在も変わっていない。成長したのは注射をこわがらなくなったことぐらいである。



『引っ越し』
引っ越しはいやだ。
引っ越しの日が近づくと気持ちに余裕がなくなる。
家の中が段ボールだらけになり、どこに何があるのかさえわからなくなる。これまでため込んだものを処分しなければならなくなるのも苦痛だ。捨てようと思って手紙などを見ると思い出にひたってしまい作業がストップしてしまう。でも引っ越しは自分自身をリセットする良い機会でもある。これからも引っ越しをするかもしれない。その時は億劫がらずに積極的に取り組もう。〈これに家の絵を貼り付けると完璧である。〉


こちらは恥ずかしながら2004年8月の作文である。
ということで、この場を使ってご報告申し上げるが、私とその家族は8月に大阪から神戸へ引っ越しをした。面倒くさがり屋の私は引っ越しが好きではない。しかし、この間友人に数えてもらったところ(自分の引っ越しの回数を数えるのも面倒くさい)、22才で学校を卒業した時から7回目の引っ越しになるらしい。悪いことをしてその地に住めなくなったことは一度もないのであるが、諸般の事情で‘気の弱い転勤族’ぐらいの回数をこなし(?)ている私なのである(本物の転勤族の方、ご苦労様です)。

今回の引っ越しは、酷暑だったこと、例年ヒマな8月には珍しく仕事が集中したこと、戸建てから集合住宅への転居で物を大量に処分する必要があったこと、などが重なり、これまでにもまして疲れるものであった。しかし、立ち直りの早い私は、高いところ(7階)からの景色と、風が通る爽快さで、疲れが吹き飛んでしまった。我ながら感心するほどの単純さである。これからはこの風を感じながら新しい地で竹道に精進したい。また、これから訪れるであろう多くの人との新たな出会いも楽しみにしている。


引っ越しは家族の一大イベントであったが、尺八に関しては各地での様々なイベントに参加する機会をいただき、有意義な時間を過ごすことが出来た。

まずは京都で行われた『全国学生邦楽フェスティバル』で演奏とレクチュア。久しぶりに大勢の大学生と接する機会を持ったが、学生が皆可愛くというよりも幼く見え、自分もオッサンの仲間入りしたことを実感した。主催者の伊藤さんにこのことを話したら“そりゃーおっさん”とひとことで片づけられてしまった、ギャフン(←この反応が紛れもなくオッサン)。尺八で参加の学生は皆熱心で良く吹く。中にはプロ志望の人もおり楽しみである。

京都からそのまま舞鶴へ移動し、地元の中村雅園師がプロデュースした『和楽器・発表会&鑑賞会』に参加。こちらは雅園師が教えに行っている中学校の生徒が塩ビ尺八を持って多数出演、一生懸命に「ロ吹き」や「さくらさくら」を吹いている姿に胸が熱くなった。このまま和楽器や音楽に興味を持って大きくなって欲しいと願う(これもオッサン)。

翌週は岡山・美星(びせい)町で国際尺八研修館の『合宿講習会』、および町と研修館と共催の『国際尺八コンサート』に参加。コンサートは日本在住の外国人尺八奏者に加え、米、豪、仏、独などの国から二十名近い奏者が参加され、タイトルに恥じない充実した内容で、もう一つの目玉である横山勝也師の指導・指揮の「手向」などと合わせ感動的な一夜となった。

外国人尺八奏者には様々な人がいて、とにかくちゃっかりしている人や、尺八のヘンな部分をデフォルメしたような吹き方の、どちらかといえば好きになれない人もいるのであるが、美星に集まった人は皆実力派で、それぞれが真っ直ぐな、訴える音を持っていた。その音はなまじっかの日本人のプロよりも心に入ってくるのである。彼らの、それぞれに味わいのある音を聴きながら、“我々日本人に比べ何倍もの厳しい環境下で習得した音であり音楽であるからこそ、心に沁み入るのであろう”と想った。(しかしまあ羨ましいのは彼らの体躯である。男性は皆プロレスラーでも通用するような立派な身体を持ち、女性も尺八を奏するのに何ら不足のない御体型であった。)

その帰りの車中で岡本太郎先生の「何十年も同じことをくりかえしていれば、たいてい、あきらめや空しさが身にしみるでしょう。それがにじみ出たものが味であり、さび、渋みです。(『今日の芸術』より)」という文章を思い出した。“味わいのある音”というのは艱難辛苦や愛する人との離別、死別などの、いわば〈負〉の経験によって形づくられる部分が多いものである。特に尺八は“泣き”の楽器だという認識が私には強いので、楽器としての訓練以外では〈負〉の経験をどれだけ重ねたかが味わいにつながると考えている。自分の薄っぺらい音を少しでもマシにするためには、道が二つに分かれていれば厳しいほうを選び、不肖43歳ながら苦労は買うてでもしなければならないと痛感する。(注射や引っ越しは恐怖や苦労の内には入れてはいけません、ごめんなさい。)

今年も皆様のおかげを持ち10月27日にリサイタルを開催させていただく運びとなった。この夏多くの人から貰ったエネルギーを力に換えて“突破”するのである。難曲が並ぶプログラムになり、ちょっと苦労を買いすぎた気がしないでもないが・・・・。




「熱いがご馳走」
2004年8月20日

 
私はビール党である。一年を通じて季節を問わずビールである。“おねえさん、とりあえずビールね”ではなくて、“とことんビールね、冷えたグラスもおねがいしまーす”なのである。“よくぞ人類はこんなにうまい飲み物を作ってくれた”と日々感謝の気持ちでいただいている。

ビールにも「飲み頃温度」というものがあるそうであるが、私はキーンと冷えたビールが最高である。そのかわり、アテ、というかビールと共に食べる物は出来るだけ熱いものがよい。湯気の立っているような熱ーいものをフーフーいいながら食べて、キーンと冷えたビールをゴクゴクと飲み干し、ドーッと滝のような汗をかくのが幸福の極みであり、私の夏の健康法でもある。

私が‘ちゃんこ鍋’のおいしさを知ったのは夏真っ盛りの8月であった。サラリーマンをしていた私は取引先の同年代の人に“石川くーん、今日‘ちゃんこ’食べに行こか”と誘われた。(このクソ暑いのになんで鍋やねん)と思いながら私は“えー、‘ちゃんこ’ですかー”と困惑しながら答えた。取引先のその人は“暑いときに熱いもん(もの)を食べるのがえーねん(良い)、いっぺんだまされたとおもて(思って)たべてみ(食べてみなさい)”と半ば強引に私をちゃんこ屋さんへ連れていった。

真夏に初めて食べた‘ちゃんこ鍋’はまさしく衝撃であった。日中に冷たい飲み物をガブガブ飲んでくたびれている私の胃袋にするすると入り、身体の内部に染みわたった。しょうゆ味(ソップ炊き)のやさしいダシの中に魚、鶏、野菜、豆腐などが相当な量入っていたが、私はそれをペロリとたいらげ、残ったダシで中華麺(これがまたウマイ!)を食べ、締めに卵入り雑炊、というフルコースを堪能した(ついでに魔法の調味料‘ゆず胡椒’を初めて経験したのもその時であった)。

それ以来、私の夏には‘鍋’が欠かせなくなった。


「熱いがご馳走」とはよく言ったものである。私のような単純な男の嗜好をよく突いている。「熱いものはできるだけ熱く」「冷たいものはできるだけ冷たく」メリハリを利かせることが何事においても大事である(実は書いている自分自身が一番こたえている)。

私にとっては音楽もまた「熱いがご馳走」である。8月8日に行われた門人会『石の会・夏の演奏会』は私の期待をはるかに上回る熱演に次ぐ熱演であった。この場を借りて助演の先生方および出演者の労をねぎらいたい。

さらに私は今月、各地でのイベントに参加する機会に恵まれた。20〜22日の3日間京都で開催される『全国学生邦楽フェスティバル』(私の参加は20、21日)、22日には舞鶴で行われる中学生参加の『和楽器発表会&鑑賞会』、そして27〜29日は岡山・美星町での『国際尺八研修館合宿講習会&国際尺八コンサート』にそれぞれ出演する。大学生、中学生、国内・外の多くの尺八および邦楽愛好家との熱い交流をとても楽しみにしている。

熱い演奏、熱い講習、熱い鑑賞のあとはやはり冷たいビールが欠かせない。飲み過ぎて厚い腹にならぬよう気をつけなければならない危険な暑い夏である。

“ごっつぁんでーす”。




「芸は身を助く」
2004年7月21日


scene3
ある夏の日、レッスンを終えたTは帰路につき電車に乗っていた。つり革につかまって車窓からの風景を楽しんでいると、横を通り抜けようとした若者の鞄がTに当たった。あまりの衝撃に驚いたTは若者の方を見たが、ヘッドフォンプレイヤーをかけている若者は知らぬ素振りである。 
数分後、駅に到着し階段を上っていると、今度は階上から下りてくる娘のミュールの音が階段でカン!カン!カン!と鳴り響いた。娘は自分がそんな音を出していることに気がつかないのか全く平気な顔をしている。
Tはある種の確信を持ってつぶやいた。“まちがいない”。



今回は「身体意識」がテーマである。

「身体意識」とは文字通り「身体」の「意識」である。(この「身体意識」については、私が愛読している高岡英夫氏や齋藤孝氏〈このお二人の著書の中にはそのまま出てくる〉、西野皓三氏および甲野善紀氏〈このお二人の著書の中には違う語彙で出てくる〉の本に詳しく、またわかりやすく書かれているので、興味を持たれた方は参考にされたい。)

人間の身体の潜在的能力は想像を絶するものである。これは例えばトップアスリートや“天才”と呼ばれる学者などの能力を指しているのではなく、人間一般に備わっている能力を指している。殆どの人間は普段その潜在的能力の数パーセントしか発揮していない。そしてその能力は使えば使うほどに鍛えられ、逆に、使わなければ間違いなく退化、退行するものである。

上に挙げた4氏はそれぞれに人間の身体について研究している方々であるが、‘現在の日本人よりも昔の日本人のほうが身体に対する意識や能力が高かった’という点で見解がほぼ一致している。そして‘そのピークは江戸時代にあり、人々は現代では考えられない身体の使い方や技を使って仕事をし、生活をしていた’ということでも概ね共通している。この説には私もハゲしく同意である。尺八においても、我々が神と仰ぐような名人が“私なんてね、ちっとも大したことはないんですよ。昔の人はもっと凄かったもんですよ。”と云われることからも類推することができる。

その日本人の「身体意識」が低下している。平たくいえば「身体が鈍感になっている」と言いかえることも出来ようか。特にこの10〜20年における低下の度合いは加速の一途をたどっているような気がしてならない。私は、この「身体意識の低下」は「恥の喪失」と密接な相関関係があると考える。身体のさまざまな部分の意識が低下して鈍感になることが、「恥ずかしい」という感覚を無くしてしまうことに繋がっていると思うのである。(駄ジャレの好きな私は、『無知の知』ならぬ『無恥の恥』だと一人喜んだ。)

scene3に登場した大きな鞄の若者は同じ目に遭ったら不快感を表すだろう。場合によってはキレるかも知れない。しかし、自分の鞄が人に当たったことは、気づいていて知らぬ顔をしているのではなく、当たった自覚が殆ど無いと私には感じられた。これは明らかに「身体意識の低下」である。カン!カン!カン!とけたたましいミュールの娘は、自分が大きな音を出していて恥ずかしいという感覚が無いと(こちらも)感じられた。これは「恥の喪失」であるが、これも「身体意識の低下」から来ていることは“まちがいない”。

実はscene3で若者を引き合いに出したことに少々恐縮してもいる。引き合いに出した若者達よりもその親の世代から「身体意識の低下=恥の喪失」が顕著だからである。私は今、新幹線の中でこれを書いている。乗客の多くはビジネスマンであるが、立派ななりをしたビジネスマンが下車した後には、‘シートは倒れたまま、弁当のガラやビールの空き缶は座席の下に置いたまま、新聞&雑誌は網ポケットに突っこんだまま’という状態が少なくない。よくこんな行為を平気でしていて、人に物を教えたり、はたまた説教などができるものである。こういうことは若者のほうがキチンとしている。ここでもマナーやモラルの喪失は身体意識が低下していることと大きな関係があると私は考える。


楽器を扱うことはたいへんに精緻で微妙な身体の使い方を必要とする。上達するためには高い身体意識を求められるのであるが、私がこれまでに出会った名人と呼ばれる人たちは皆、併せてシャイな部分をお持ちであった。楽屋の端でちょこんと座っておられたおばあさんが、舞台では別人のように大きく見えたこともあった。独断ではあるがやはり、「身体意識の高い人は恥に対する意識も高い」のである。

私もシャイな部分は少々持っているつもりである。が、名人達と違うのはいまだに舞台で“恥ずかしい音”を出していることである。

『7がつ9ひ きょうははじめて鹿児島でえんそうしました。おきゃく様にはよろこんでもらえましたが、ちょっとはずかしい音がありました。ぼくも早くはずかしくない音を出せる尺八吹きになりたいでーす。いしかわとしみつ ねんれいナイショ』(あー書いててハズカシ!)




「禍を転じて福となす」
2004年6月26日


6月21日、前日より上京していた私はレッスンと打ち合わせを終え、大阪へ帰るために東京駅へ向かった。山手線の階段を下りて新幹線の乗り場へ近づくほどに人が多くなり、改札の辺りは黒山の人だかりが出来ていた。悲痛な顔をして拡声器に叫んでいる駅員の言葉に耳を傾けると、台風6号の影響で東海道新幹線が全面的にストップしているとのこと。さらによく聴いてみると米原のあたりで架線に大きな障害物が引っかかり、復旧しても名古屋止まりになる可能性が大きいとのことである。飛行機も運休しているとの情報を得た私はやむなく夜行バスで帰ることにした。その時午後4時20分、夜行バスの出発時刻は午後10時20分である。この予定外の6時間をどうしようかと考えるためにとりあえず本屋さんへ入り、情報誌などを立ち読みした末に久しぶりに映画を見ることにした。

見た映画は『21グラム』。ストーリーは、ある街に男の人がいて次の場面には女の人が登場してその人には旦那さんと子供がいてそこに重病を患っている別の男の人がでてきてちょっとエッチな場面があったかと思ったら急にドキッとする場面があったりして最後は「エッ!そんな」という結末である(これから見る人のために詳しくは書かないので期待した人すんません)。人の生死をテーマにしたヒューマンな内容にいたく感銘を受けた。年間に2〜3本しか劇場で映画を見ない映画素人の私であるが、実におすすめの1本である。たまたま台風の平日の夜という状況であったためか500席以上の席数に観客が30人くらいと、見る側にとってはほとんど貸し切り気分で大画面と大音量の迫力を満喫した。

2時間20分楽しませていただいてこれで1,800円。大満足で映画館を出て♪夜の新宿裏通り 〜♪と八代亜紀の歌を口ずさみながら(映画館が新宿であったため。単純この上ない)私は自問自答していた。私がいつもこれだけお客様に満足して帰ってもらっているか、と。一生懸命やっている姿は見ていただいているつもりである。しかしそれだけではダメである。演奏技術はもちろんであるが、演出面を含め、初めて尺八を聴くお客様にも入場料に見合う(上回る)満足感を与え、そして再度足を運んでもらえるような舞台を作っていくことが必須である。大阪風にいうと“にいちゃんなぁ、生きていこう思たらせいだい頭使うて腕磨いてぎょーさんゼニの取れる芸にせなアカンで!”である。

こう考えるに至ったのにはもう一つのきっかけがあった。その4日前の6月17日、私は大阪・吹田での「竹邦&憲弘」のライブ・コンサートに裏方で入っていた。演奏と共に2人のトークでお客様を楽しませるライブである。客層のメインとなっているのはオバサン達で、開場直後からすごい話し声が舞台袖まで聞こえてきたので、“おっ、20人ぐらいの話し声が聞こえるなら既に4〜50人は入っているかもしれない”と期待して客席を見たら20人ほどのオバサンであった。座っている人がほとんど皆一斉に喋っていたのである。さすがは大阪のオバサン!。このオバサン達のエネルギーとステージ上のエネルギーのぶつかり合いは‘おもしろすさまじく’、トークの場面ではドッカンドッカンと爆笑の連続で大盛り上がり大会となった。帰路につく人達の表情は満足感に溢れ、それを見ていた私は“コンサートはこうでなくっちゃ”と思った。またまた大阪風にいうと“コレコレ、コレやがな、コレですがなコンサートっちゅうもんは!”である。お二人のパフォーマンスはまさしく“ゼニの取れる芸”であった。

これは襟を正すような真面目なコンサートを否定している訳では決して無い。そのいずれにおいても、来られた方が、時間をかけて、お金を払って“来て良かった”と心から納得していただける舞台作りが必要だと考えるのである。もちろんこれまでに私が企画したコンサートでも私なりに考え、工夫はしていた。が、まだまだ足りない。どうやればわざわざ来て下さった方が喜んでいただけるかを考えに考え抜いて“もうこれ以上は出来ましぇーん”というくらいに練り上げなければならない。私はお客様に喜んでいただけるなら自分の恥ずかしいもの、たとえば「○ンコ」(※1)を見せても構わない覚悟で舞台に臨むことをここに宣言しておく。

こんなことをいろいろ考えることができたのも台風で足止めをくらったおかげである。しょっちゅうなら大変であるが、たまになら自分の思い通りに動けないのも楽しいものである。私が“ぎょーさんゼニの取れる芸人”になれたあかつきには改めて台風6号さんに御礼を述べたいと思う。


さて、7月は「石川ブロス」月間である。今年は鹿児島(9日)、奄美大島(11日)、京都(24日)、大阪(25日)、東京(26日)の5会場6公演で皆様、もとい、あなたとお会いできることを楽しみにしている次第である(‘皆様’と呼びかけられると‘オレのことじゃないもんねー’と受け止める人が多いということをこの前聞いた)。これをご覧の貴方、貴女、貴男、ぜひぜひお運びくださいませませ。


(※1)は「ハンコ」または「キンコ」。まさか、「○ンコ」を見せるなんてことはできましぇーん。←バゴーン! 


《6月号付録『独竹』》
大阪・吹田メイシアター駐車場から歩いて30秒ほどのところにある居酒屋が【石竹亭】という店名でありました。料理がおいしく、よく打ち上げで利用していた店ですが、まったく気がつきませんでした。メイシアターに行かれた際にはぜひご利用ください。店員さんに“『石と竹』いつも読んでいますよ”といってくだされば、“何ですかそれ?”ぐらいは返してもらえるかもしれません。もちろん値引き等はありません。←バゴーン、バゴーン!



「人こそ人の鏡」
2004年5月19日

尺八は微妙である。

何が微妙かというとありとあらゆるものが、である。まず、その形が微妙である。竹のまったく根っこでなく、地下茎から地上に出たところの微妙にカーブしているところから出来ている。作る工程がこれこそ微妙で、精緻で綿密な作業が要求される。正面から見る姿、吹き口の裏側から見る姿、中の作り、すべてが微妙なバランスで成り立っている。

吹き方もまた微妙なことこの上ない。下唇のくぼみの安定の悪いところにそれを当て、息の出口をうすい板状にし、正面上部まん中の凹んだところへ近すぎず、離れすぎず、微妙な距離をとって息を入れる。筒の外と内に息流が分かれれば音は鳴るが、これを良くする作業がまた微妙である。口の中をちょっと広げたり、息流の角度をこれまたちょっと変えたり、微妙な調整をしながら自分の求める音に仕立てていく。

私はこの微妙な楽器、尺八に人間や人生の機微というものを教えてもらった、否、現在進行形で教えてもらっていることは間違いない。人と人との関係、また、人と物との関係は微妙なバランスの上に成り立っているものほど刺激的で面白く、それに関わる人間を成長させるものである。


なぜだかわからないが、尺八を吹く人は微妙にヘンテコな人が多い。“尺八”という文字にルビをふると“しゃくはち”であるが、“尺八吹き”という文字には“ヘンなひと”というルビがピタリとあてはまる。

ここで私が最近出逢った微妙にヘンな人を紹介することにする。ある日家の電話が鳴り、妻が出たところいきなり「地図をファクスして下さい!」と男の声。「ハァ・・・」と唖然としているとさらに「附近見取図!!」と怒ったような声。何のことかさっぱりわからない妻が恐る恐る「ど、どういうご用件でしょうか」と訊いてみると、“私の自宅レッスン日に習いに行こうと思っている”とのこと。“それを先に言いなさいっ”ちゅーの(懐かしい!)。翌日地図と来宅方法をファクスしたのであるが、2ヶ月経った今もその人は現れていない。またある時は近所の知らない人から電話があり、「あなたの家に行きたがっている人がいる」とのこと。誰とも約束をしていなかったが、そのご近所さんに場所を教えたところ、数分後に家のまわりを自転車でぐるぐる回る人が現われた。私が不審に思い、「何か用ですか?」と尋ねたところ「尺八のホームページを見ていたら近所に石川という人がいるので訪ねて来た」とのこと。その時はちょうど学生が来ていたので稽古部屋に入ってもらい、楽器をお見せしながらお話をして一時間ほど居られたが、ついにお名前を聞くこともなく、また自転車でふらふらと帰って行かれた。“人の家に来る時には名を名乗ってアポをとりなさいっ”ちゅーの。それ以来その人にもお会いしていない。こんな話は数限りなくあるので‘今月の尺八吹き=ヘンテコな人情報’として報告するのも良いかもしれない。


それはさておき、尺八で名人と呼ばれる人の演奏は、常人には計り知れないほど微妙である。名人は豪快さ、スケールの大きさなどが突出しているが故に名人と呼ばれるイメージがあるが、それだけではない。同時に驚くべきほどの微妙さを兼ね備えている人のみ‘名人’と称されるのである。なかなかこの“微妙さ”を表す言葉がないので私は「微妙度」(あるいは「微妙指数」)と名付けた。コンクールなどの判定基準として、「うーん、この人の演奏は音量4、技術5ですが、微妙度2というのが残念ですねー。微妙度を高める努力をしてもらってまた挑戦してもらいましょう。」などと使うとわかりやすい(かえってわかりにくい?)。まあこんな使い方をする必要は無いが、人の演奏や自分の練習などを聴く際に「どういうところをどれくらい徴妙に吹いているのだろう」という指針にはなるのではないだろうか。ただ単に音量が馬鹿でかい人や、やたら指がまわる人と、名人、名手の差は何だ、という時にこの「微妙度」を比べることによって改善の目標がより具体的に見つかるのではないだろうか、と思うのである。

今回も意味の無いことを書いてしまった気もするが、この辺で私も筆を置き、「微妙度」を高める練習に取り掛かることにする。


>Q さて、ここで問題です。本文中に「微妙」という単語は何回出てきたでしょうか。「微妙度」などの‘微妙’も1と数えます。(制限時間 1分)



>A 23回(1つだけ‘徴妙’になっているものがありました。)←バゴーン!(はり倒す音)「そんなしょーもないことを考えているからおまえはいつまでたっても上手くならんのじゃ!!!」



「正直の頭に神宿る」
2004年4月15日

この駄文も今回で切りのいい(どこがやねん)27回目を迎えた。ますます快調ペン先スラスラ、“誰かこの手を止めてくださーいっ”といいたいところであるが、実際は正反対で、毎回自分の文才の無さに呆れ果て懊悩(Oh No!)呻吟しているのが正直な姿である。しかし、インターネットに乗せて発表するからには〈全世界へ向けて発信している〉という姿勢と責任は持って書いているつもりである(‘それがそんな駄ジャレかい’というツッコミは無しよ)。

私がこの駄文を書くにあたり心掛けていることは、@メッセージを入れる、Aお笑いを入れる、Bオチをつける、の3点である。そして全体としては暗くならず、常に前向きで爽やかな読後感を持っていただける文章を目指している。

ある日私は、このAとBの「お笑いを入れてオチをつける」というのは見事に“大阪人の性(‘おおさかじんのせい’ではなく‘おおさかじんのさが’である。念の為)”であることに気がついた。

大阪人は“二人寄れば漫才になる”と言われるほど、相手にうけることを意識して会話をする。そして、片方のおしゃべりが長かったり、内容がはっきりしなかったりすると、もう片方に「それでオチは何やのん」とツッコまれるはめになる。

私がこの文章を書くときにも、「それでオチは何やのん」とツッコミをいれるもう一人の内なる自分が存在する。そのため、いくつかのテーマで書き始めるにもかかわらずその多くはオチが見つからずにボツになり、1ヶ月位かかってようやくオチに辿り着いた一つがめでたく日の目を見る、という訳である。結末を美しく結ぶ、終えるということはほんとうに難しいものである。


ところで私は3月、4月と二つのお葬式に参列した。お一人は親しくさせていただいている三弦の先生のお母様で享年九十歳、もうお一人は妻の祖母で享年八十七歳とどちらも長生きされた。お二方とも亡くなられる直前までご自宅で普通に生活され、周りがアッという間に他界された、とのことであった。人を見送ることはもちろん悲しいことなのであるが、両方の葬儀場共どこか安らかですがすがしい空気に満ちていた。私は“あぁ、天寿を全うするということはこういうことなんだ”と悲しさの中にも感慨を覚えていた。

近ごろ私は“死”について考えない日はない。これは決してネガティブな意味ではなく、誰もが迎える人生最後の日を美しく迎えるために何を為すべきか、また、何が出来るか、という自身への積極的な問いかけである。

私のこれからの人生で最も伝えていきたいことは「尺八はすごい音がするとんでもない楽器だ」ということである。最近は妙にソフィスティケイトされた部分がクローズアップされ、そういう音や演奏が尺八の進化した姿だと見られている。世間の注目を集めるという点では歓迎すべき事であるが、それは尺八のごく一面である。尺八はその細い筒の中に宇宙がひそんでいるといっても過言ではないくらい凄まじいエネルギーを包含し、様々な貌を持っている楽器なのである。私は尺八の持つ様々な貌のなかでもとりわけ凄味、魔性というものを世間へ、そして次代へ伝えたいと希っている。


先のお二人とは反対に、悪業をはたらいた人に対し“ええ死に方はでけへんで(良い死に方は出来ないですよ)”と諫める。やはり私には生き様と死に様は無関係だとは思えない。お二人の死は改めて私に正しく生きることの大切さを教えてくれた。ふみさん、しげこさん、ほんまにありがとう。



「堂に升りて室に入らず」
2004年3月17日

“一流の音楽家は例外なく大食いである”。これがNHK邦楽技能者育成会でご指導いただいた藤井凡大先生の持論であった。実際に、『絲竹交響』で颯爽とデビューの後、作曲および指導などにおいて、その才能を遺憾なく発揮された先生ご自身も人並みはずれた大食い(失礼しました)で、〔前から見ても横から見ても幅が同じ〕という日本人離れした驚異の‘腹板’をしておられた。

育成会在籍中のある日「一度メシを食いにいらっしゃい」と声を掛けていただき、同じく尺八の受講生であった中村和義(米谷和修)君と嬉しさ半分、恐ろしさ半分でこわごわと先生宅へうかがった。

【猛人注意!】という、人を喰ったような札がぶらさがったお宅(既にその時点でカマされている)へ入ると、奥様と二人暮しの家にはとうてい似つかわしくない、白菜が丸のまま6個入った段ボール箱が台所脇の廊下に決然と置かれてあり、“今日は鍋だ、さあ食うぞっ!”という雰囲気に充ち満ちていた。

その日は午後6時半ごろから宴が始まったように記憶している。およそ4人前ぐらいの材料が入る大きな土鍋が食卓の中央にデンと据えられた。先生がお酒を召されないのでノンアルコールの宴会である。お酒を飲む時間が無いとひたすら食べることになる。先生は泉のごとく湧き出てくる音楽の話、育成会の話、人生の話など、ほとんど喋りっぱなしのようであるが、実は相づちだけを打っている我々よりもたくさん食されている。一つの鍋が終わると内容の違う鍋がセットされ、すぐに次のラウンドが始まる。

先生は冒頭の“一流の音楽家は例外なく大食いである”のほか、“良い音楽を作るには一緒にメシを食うことよ”“たまに胃を拡げるのはいいことなんだ”と凄味満点で熱く語り続けられる。この叱咤激励(?)を受け私と中村君は‘ハイッ’‘私もそう思いますっ!’と無我夢中で食べ続ける。ひたすら食べまくり、締めに“餅入り雑炊”で終了したのは午前零時半であった。開始時刻から6時間ずーーーーっと食べ続けていたことになる。途中から意識が半ば朦朧としていた私はどれだけの量を食べたのか憶えていない。

私はこの日初めて人間の食べるエネルギーに圧倒された。人より少々‘大食い’を自認していた自分を恥じた。私と先生とではサッカーで例えると「地域の中学生代表」と「日本のA代表」ぐらいの差があった。後から聞いた話であるが、この延々と続く鍋は『凡鍋』として関係者の間ではつとに有名で、私が寄せていただいた当時も週に5日位、相手を変えて行なわれていたそうである。


音楽家のみならず様々なジャンルにおいて“一流”と称される人には「健啖家」「美食家」が多い。この理由を私なりに考えた。“一流”の人は、その“一流”の技を発揮する際、身体が細胞レベルで高度に機能し、身体自身がよろこんでいるのである。“一流”の技を発揮している状態が例えようもなく快感なのだろうということは想像に難くない。そしてその快感の源である食物が身体に入ると、その“一流”の技を発揮している時に近似した身体自身のよろこびを感じるのではないだろうか。

私のような凡人(おおっ、凡大先生の名前から“一流”の“一”を取ると凡人になることに気がついてしまった!)には推測の域を出ないが、この考察はあながち的はずれではない気がする。


一般の人間がたくさん食べることを“無芸大食”、もっとひどいと“バカの大食い”と揶揄したりする。さしずめ現在の私は“無芸大食・準師範”ぐらいである。大食いをプラスの評価にしてもらうためにはもっと尺八が上手くならなければならない。何よりもまず、自分自身の身体がよろこぶ音を作り上げねばならない。演奏会の少ない今の時期はひたすら素吹きをくり返し、音を錬磨している。しかし、食事の時間が近づくにつれ“今夜は何を食おうか”などと考えてしまう自分がまったくもって情けない。一日も早く身体がよろこぶ音を出し、質、量ともにレベルの違う食事をしたいものである。




「教うるは学ぶの半ば」
2004年2月17日

どうしてこんなことが出来るのか信じられない(文字にするとこうであるが頭の中では「何でこんなことが出来んねん!」という大阪弁である)。
親による子への虐待である。
食事を与えられなかった大阪の事件は被害者が中学生だったということもあり大々的に報道されたが、新聞を読んでいると、これは氷山の一角にすぎず、次から次へといたるところで起こっていることがわかる。
これまでは実子でない子供に親(または同居人)が手をかけるケースが多かった。しかし、最近では実の親が実の子を死に至らしめる、またはそれに近いところまで虐待を加えることも稀ではなくなってきた。
これは畜生(辞書の最初にある〔人にかわれて生きているものの意〕のこと)以下、最下等の動物の所業であると言わざるを得ない。

私は3歳の子の父親である(ということは親としてはキャリア3年、見た目より若造なのだ)。
自分がつらい思いをして産んだ訳ではないが、それでも子供が痛がって泣いていたりすると自分の身を切られるよりもつらいものである。私はこれが普通だと考えるがそうばかりでもないらしい。
自分の未熟さを省みずにいうと、身体だけ成人した、親として学習せずに親になったバカ親が多すぎるのである。

先の中学生の事件を契機にして私は思い出したことがある。
以前読んだ本に書いてあったことであるが、「第二次大戦後日本を実質的に統治したマッカーサーが極めて重要視したのは“日本人に道徳教育を与えない”という一点であった」という説である。
終戦直後に道徳教育を必要とする年齢に達していた人々が現在60〜70歳(およその年齢であることを含みおき下さい)、その人達が産んで育てた子供が35〜45歳、そのまた子供が現在の小中高生を形成し、そこに校内暴力、いじめ、不登校、援助交際などが湧き起こり、日本人の精神的衰退を目論んだ占領政策が見事に奏功している、という内容であった。
俄には信じがたい説であるし、それぞれの事件にはそれぞれの様々な‘因’が絡み合って‘果’になっているのであるから一概には言えないが、今回の事件を聞いた時、妙な説得力を持つこの説が私の中によみがえった。

今年43歳になった私はちょうど上の35〜45歳にあてはまる。
私自身はよい時代に生まれ育ったと思う。世の中も豊かで争いごとも少なかった。
しかし、よくよく思い返してみると私は目上の人に叱られた経験がほとんど無い。また学校の先生を恐いと感じたこともない。
つまり大人をおそれずに育ったのである。
世の父親たちは皆ひたすら働いていた印象しかない。

私の小中学校時代はいわゆるスポ根ドラマの全盛期で、その中に登場する“熱血感動教師”は、尊敬し、畏怖するというよりもむしろ仲間、よき先輩といった存在に作られていた。
なかばこじつけ気味にいうと、この時にはもう“目上の人は敬うこと”“先生は尊敬すべき人”という道徳教育は骨抜きにされていたのかも知れない。

ついつい若者の犯罪や事件に目がいってしまうが、我々の世代が世間を騒がせているケースも実際には相当多い。これはやはり我々の世代の教育の歪みがツケとなって今現れていると考えざるを得ない。
以前では分別があると考えられた年かさの人間が”世間が悪い”“時代が悪い”と責任を他者の所為にして無茶をするのも教育の不足の現れだと思う。


身が美しいと書いて躾(しつけ)、美しい文字であり私の好きな字でもある。この美しい文字がその意味とともに忘れられていっているようで残念でならない。
躾には‘ほめること’と‘叱ること’の両方が必要であり、そのどちらかが欠落していたり、偏り過ぎていたりすると、それを受ける人間もバランスを欠いてしまう。
その子の将来を考えて叱ることはたいへんなエネルギーと深い思慮を要することである。

私が尺八で行なっている「レッスン」と「躾」はもちろん違うものである。しかし共通点も少なくない。
10年後、20年後を見据えたダイナミックな展望、および短期的な細やかな心配りの両方が必要なこと、また、する側とされる側の双方のベクトルが合ってより効果が上がること、などである。

私にはありがたいことに10代の若者から70歳を過ぎた方まで、実に様々な年齢の門人がいる。
私より目上の方には、年下のこんな若造に習いに来て下さることに心から敬意を表している。 尺八を吹く上では少しだけ先輩として指導する立場であるが、人間としての生き方、考え方は逆に多くのことを教えていただいている(あっ、酒の飲み方も)。
将来ある若者に対しては、尺八を通して音楽のみならず実社会において役に立つ様々なヒントを伝えたいと考えて相対している。また同時に私が若者の迸るエネルギーを享受していることも事実である。

尺八の「レッスン」という形をとってはいるが、お互いが気を交わし向上を目指すという点で「躾」のあるべき姿と近似している。こちらが力を尽くすほど見返りも大きいという点でもこの二つは似ている。
若者が、自分の音とひたすら向き合うことによって、‘求道者’の貌に変わっていく様を見ることは指導者冥利に尽きることである。子供が一つ山を越えるごとに逞しくなっていく姿を見る親の喜びと同じである。

それにしても“求道”は美しい印象なのにそれを突き詰めた“極道”はなぜ近づきがたい印象になってしまうのだろう(“極道尺八”ううっ、こわい、でも新鮮な響きなのだ)。

人生とは“道を極める”ために生きること。みなさんも尺八で道を極めませんか。
身体を張って指導させていただきます。

来たれ同志 極道尺八へ!



【号外】「竹生」
2004年2月1日

入学 尺八 竹友 尺八 没頭 尺八 田嶋師 尺八 卒業 尺八 就職 尺八 休眠 尺八 苦悩 尺八 再開 尺八 印度 尺八 邂逅 尺八 横山師 尺八 驚愕 尺八 弟子 尺八 歓喜 尺八 模索 尺八 呻吟 尺八 引越 尺八 母の死 尺八 転職 尺八 夢 尺八 挑戦 尺八 育成会 尺八 同志 尺八 感謝 尺八 凡大 尺八 根性 尺八 餃子 尺八 欧州 尺八 懸命 尺八 浪漫 尺八 落選 尺八 気 尺八 借金 尺八 入賞 尺八 父の死 尺八 風童 尺八 天命 尺八 猪木 尺八 憧憬 尺八 湯麺 尺八 安寧 尺八 結婚 尺八 再生 尺八 不惑 尺八 旅 尺八 誕生 尺八 咆哮 尺八 CD 尺八 心音 尺八 去来 尺八 突破 尺八 人生 尺八・・・・・・・・・まだまだっ! 尺八 


「石に立つ矢」
2004年1月17日

前回この欄で紹介し、御来場を呼びかけた「阿國・わらう」が全日程を終了した。残念ながら連日超満員という訳にはいかず、興行的には“無事”ではなかったかもしれないが、30名を越えるキャスト、およびそれを上回るスタッフに大きな事故もなく14日間25試合(もちろん本当は「公演」であるが私は毎回試合と捉えて臨んでいた)を“無事”に終えることができたことは‘幸運’の一語に尽きる。

まだ初日を迎える前の不安と期待が入りまじった時期に、今回の作曲を担当した音楽監督T枝さんから「長丁場なので飽きないよう集中を持続させて下さい」とのアドヴァイスをいただいた。私は毎試合開演前に家族、横山先生、亡くなった両親およびお世話になった方々の顔を思い浮かべ、気を引き締めて臨んだので、ダレたり狎れたりすることはなかった。この瞬間、私はリングと化した舞台に立ち、試合前のお祈りを踊るムエタイ(タイ式ボクシング)のボクサーの気分であった。

14日間出演者と顔を合わせ、舞台に立ってみると、@常に及第点をキープする人、Aだんだん狎れてテンションが日によって上下する人、B日々進化していく人、の3タイプの人間がいることに気がついた。割合としては@とAが大多数を占め、Bの「日々進化していく人」はほんの一握りであるように感じられた。

お客様が多く、万雷の拍手を戴いた時には“これだけよろこんでいただけるならこれでいいんだ”と思ってしまうし、逆にお客様が少ないとどうしても舞台と客席の緊張感が高まりにくく、空回りしてしまいやすい。舞台というのは生ものなので、どちらの状況でも緩んでしまう危険性を孕んでいる。そんな中で「日々進化していく人」は、「高いところに確固とした理想があり、周囲に流されず、常に自分自身と戦っている人」であった。そのような人はやはり醸し出す‘気’が違っていた。

私にとっては久しぶりの団体戦であったが「阿國・わらう」は多くの収穫と、○○○○の収入を得ることができた(○○○○はご想像にお任せします)。共演者、スタッフ、そしてお世話になったすべての方々にこの場を借りて御礼申し上げる次第である。特に裏方のスタッフの皆様方には常に出演者がベストの状態で舞台へ上がれるよう尽くしていただいた。私がこれまでに経験した団体戦のなかでは最高のスタッフであった。

年が明けた2004年1月7日、私は三重県にいた。地元の合奏団“グループ真珠(あらたま)”のニューイヤーコンサート出演のためである。“真珠”の通常のコンサートは、メンバーの方々の小曲と大合奏曲の二本立てで、私は大合奏曲の助演が主な仕事であるが、今回はグループ代表の念願である大合奏曲ばかりの構成であった。こちらも団体戦である。
真ん中に15分間の休憩時間と曲中の転換のわずかの時間はあるものの、本プログラム4曲とこの日のために委嘱したアンコール曲2曲を続けて演奏。おまけに録音を録るというので、リハーサル時に一度録音し、本番もすべて録音、というハードな内容であった。普段こんなことは無いのであるが、リハーサルの途中から胃がキリキリと痛みだし、本番が始まる頃にはピークを迎えていた。コンサート自体は満員の500名を越える入場者と演奏者の熱気溢れる中、大成功に終わった。しかし私は細かなミスを何度も犯し、演奏に多くの傷をつけてしまった。終演後がっくりしていると慰め、労って下さる方もいたがプロは結果がすべてである。つくづく自分の力不足を思い知らされた。「まだまだお前にはやるべきことはいっぱいあるんだよ」と頭から冷や水をぶっかけられた思いであった。

この二つの団体戦で得た教訓と反省をふまえ、私の今年のテーマを『突破!』に決めた。現在の自分をぶち壊し、突破するのである。今年も自分自身との闘いである。

具体的な活動内容としては、リサイタル、石川ブロスなどの恒例のコンサートに加え、ソロライブも充実させていきたいと考えている。現在、その内容と共にタイトルを思案しているところであるが、箏の友人が『独箏』と書いて 〜ひとりごと〜 と読ませるのがなかなか洒落ているので、“それ、いただき”と尺八にあてはめてみた。『独竹』・・・見た印象はなかなかかっこいい。しかし読みは 〜ひとりだけ〜 である。「今度〜ひとりだけ〜というライブをやります。是非来て下さい、ね、ね、ね。」これではあまりに寂しいし、お客様が‘一人だけ’だったらどうしよう、などと不安もつのるのでボツにした。やはり人のパクりは良くない。ここでも小さく反省した。

このタイトルは乞うご期待、ということで、本年も皆様といろいろな場所でいろいろな形でお会いできることを楽しみにしている。そして突破した(しようとしている、が正確である)自分の姿をお見せ出来るよう吹き進んで行きたい。



「破顔一笑」
2003年12月8日

【お詫び】
「石と竹」を楽しみにして下さっている約120,000,000人の愛読者の皆様、『阿國・わらう』出演準備のため更新が大変遅れましたことを謹んでお詫び申し上げます。


[【お詫び】のお詫び]
上記の数字は約120人の誤りでした。重ねてお詫び申し上げます。


恐い顔と悪い顔はちがう。これは普段から感じていることであるが、ことさらそれを実感するのは選挙の時、それも国政選挙の時であるから面白いものである。先だっての衆議院議員選挙においても立候補者、開票後の当選者および落選者の顔をたくさん見ることが出来た。ニコニコとしてはいるが明らかに腹黒そうな悪い顔の人がいるかと思えば、自分が何故立候補者になったのかさえわからないような自信なさげな顔(これもこの場合は悪い顔に入ると思う)の人もいた。“顔は男の履歴書”“40過ぎたら顔は自分で作るもの”などといわれる。実際に大きな造作は変わらないが、心持ち一つで人間の顔は良い方にも悪い方にも変わっていく(変わりうる)ものである。これは身近なところではテレビに出てくるタレントが売れるに連れて輝いてくることや、視聴者参加番組のダメ出場者が試練を経て成功を勝ち取るまでのわずかな期間に別人のように変貌することを見ても如実である。しかしまあ、政治家という職業の人達は何故あんなに悪い顔をしているのだろうと思う。それも政権党のベテラン議員になるほど悪人顔になってくるのは国民として恥ずかしい限りである。国会中継などでベテラン議員同士がヒソヒソ話をしている絵は“代官様”“越後屋、おぬしも悪よのう〜”という吹き出しがぴったりである。

私のことはどうかというと、私は自分の顔があまり好きではない。悪人顔ではないと思うがヘンな顔である。しかし、この年齢になると自分の顔は自分で作っていかなければならないのである。心を磨き、世のため人のために少しでも役に立つ人間を目指して生きていけば顔は自ずとついて来ると信じている。


ところで私は宮本輝が好きである。いや、あのね、誤解のないように補足すると、作家の宮本輝という人が書く文章が好きなのである。飽きっぽく移り気な私が全作品を読破している数少ない作家の一人である。氏の作品からは‘最後の最後まで諦めず、かつ、油断しない心を持つこと’や、‘正直に生きることの大切さ’また友情や愛情の尊さ、など生きていく上での指針や教訓を数多くいただいた。氏の文章は、難解な語彙や表現で飾られている訳ではなく、平易な表現のなかに深みのあることが述べられてある。私が尺八で表現しようとすることもまさにそういうことであり、この点が惹かれる大きな理由である。

宮本輝氏がシルクロードを旅した際の、過酷な日々を綴った『ひとたびはポプラに臥す』という紀行文がある。そのなかに私がたいへん勇気づけられた一節があり、それを一部紹介させていただくことにする。
「人間は好きな事柄でないと長続きしない。どんなにそれを好きでも、才能がなければ、ある水準以上には到らない。そして、なぜそうすることが好きなのかということについては、理屈では説明がつかない。  なぜだかわからないが、子供のころから植物が好きで、花を育てたり植物園に行ったり、野山で樹木を眺めているうちに、もっともっと深く研究してみたくなって、大学の農学部へ進み、さらに研究をつづけるうちに、気がつくと植物学の権威になっていたという人もいるであろう。  数学や歴史学等々の学問の世界でも、スポーツや芸術の分野においても同じことが言える。最初に「好き」ありきなのだ。人間は最初から理詰めでひとつの道へと進みだしたのではない。なぜなのかわからないが、それが「好き」だったからこそ、他の人がどんなに別の道を勧めようとも、そして、ときに他の事柄に目移りしようとも、結局はその道の奥深くへと進みつづけることができたのだ。好きでなければ、どんな分野でも、つづけられるものではない。  だが誠に酷薄な言い方ではあるが、好きなだけではどうにもならない。音楽を好きな人すべてが、モーツァルトやベートーヴェンになれるわけではないのだ。  しかしそれでもなお、いささか立ち入って考えてみるならば、さまざまな障害や難関や自らの壁に懊悩呻吟しながらも、ひとつの事柄を好きで好きでたまらないということ自体が、才能である。並外れて、あることが好きだということが、すでに才能なのだと私は思っている。  それほどまでに「好き」であることは、もはやその人を成す生命の核のようなところからほとばしり出る何物かであって、その人だけの快楽と同義である。快楽に向かって突き進もうとする力は、誰も止めることができない。(第6巻より)」

凡人の私には‘天分が最後にはものをいう’のか、‘努力にまさる天才なし’なのかはわからない。しかし、日々発見があり、吹けば吹くほどその魔力に魅せられる私は紛れもなく“尺八が好き”である。「好き」が才能という氏の言葉を励みとし、精進を重ねていこうと決意を新たにする(しかしまぁ私は決意を新たにするのが好きである)。


さて、顔の話に戻るが、私は今、12月11日より始まる『阿國・わらう』というスーパー太鼓ミュージカルの出演者として日々稽古を行なっている。関係者とは今年初め頃から顔を合わせているのであるが、いよいよ公演日が迫り、キャスト、スタッフ共に日を追うごとに顔が変わってきているのが実感としてわかる。(どーでもいい話であるが石川は18の時以来二十何年ぶりに定期券を持っての電車通勤である。期間限定だとわかっているからであろうがこれもまた楽しいものである。)初日を迎える頃には皆、さらにキリッとした顔に変わっているに違いない。『阿國・わらう』は不景気を吹き飛ばす、迫力十分な元気の出る舞台になる(はずである)。なにせスーパーな太鼓のミュージカルなのである。この随筆をご覧のあなたにも是非ご来場賜り今年一年の締めにわらっていただきたい。あなたがわらえば私もわらう、わらう門には福来たる、ついでに私にゃギャラ来たる、である。よろしくお願いしまーす!(あっ、また今月もお願いになってしまった!!)




「足ることを知る」
2003年10月19日


家の中に物が多すぎるのである。私がレッスン場、兼居間、兼書斎、兼時には寝室(要するに私の部屋は一部屋なのだ)としている六畳の和室は、物という物(実は殆どガラクタ)であふれかえっている。普通に生活していても郵便物は毎日来るし、外に出れば本やCDは買ってくるしフリーペーパーはもらってくるしで物は増える一方なのである。今の家に引っ越ししてからたかだか4年の間に随分部屋の様相が変わってしまった。部屋の三方には紙類の山がそびえ、収納棚の引き出しは上積みされたガラクタでもはや閉めることは不可能である。

こちらは引っ越す前からなのであるが、尺八も知らないうちに増えてしまった。自分で買ったもの、製管師さんから提供していただいたもの、いつのまにか家にあったもの(?)などなど、一尺八寸管だけでも10本以上になっている。よほど変わったことをしない限り一度に一本しか吹くことは出来ないし、またする気もないので、長い間吹かれずにいる可哀想な尺八は養子にやるか里子に出そうかと考えている。

尺八にしろ、部屋の中のガラクタにしろ、溜まる一方なのはひとえに私の“物を捨てられない性格”による。意を決して「今日という今日はスッキリさせるぞー」と部屋の整理を始めても、いざ押入れの段ボールに入った、昔出演した時の楽譜やパンフレット類、はたまた手書きの手紙などを見ていると「うんうん、この時はこんなことがあったなー」などと思い出に浸ってしまい、ついには疲れて果てて寝てしまう。結局そんなこんなで捨てられないモノが私のレッスン場、兼居間、兼〈しつこいっ!〉・・・、とにかく私の部屋を侵蝕してしまうことになるのである。

しかし、考えてみると人間が生きるにあたって本当に必要な物はごくわずかである。そのあたりを的確に見極め、出来るだけ物を少なくして生きたいものである。‘シンプル・イズ・ビューティフル’とは何のキャッチフレーズだったか忘れてしまったが、これは実に共感できる言葉である。無駄を省いた姿は美しい。それが、何もない、いわばエンプティな状態の‘シンプル’なら苦労はないが、一旦モノや情報が増えて(増えすぎて)しまった状態から‘シンプル’な姿にすることは容易ではない。その為には取捨選択が的確に行なわれるための知恵(智慧)と工夫が必要になる。

私が希求する尺八の音も正にこの「取捨選択が的確に行なわれた」シンプルな音である。一見単純なようで、その裏には智慧や工夫、意志などが込められている音を出したいと痛切に希う。私はこれまで「一本の尺八を鳴らしきることが出来れば、そこで得た感覚を他の尺八にも生かせる」と思い、吹き続けてきた。だが、“逆もまた真なり”という教えに導かれ、「多くの尺八を吹き、その共通項から尺八の要諦を探ってみよう」という考えに至った。自分の精神と肉体を可能な限り柔軟にして、その尺八の欲するところと合致させるのである。楽器を身体に合わせるのではなく、身体を楽器に合わせ、その楽器の持つ‘素’の音を引き出そうというアプローチである。

思い立ってこの実験を公開で行なうことにした。2003年10月27日(月)午後7時、大阪・「桜宮」駅下車アンサンブル・ホール。7本の尺八を用いて7曲を吹く『第7回石川利光リサイタル〜去来〜』である。是非共多くの方々にお越しいただきたい。→詳しくはこちら

今回の「石と竹」は“10月27日のリサイタルに来て下さいね”これだけでよかったのであるが、なかなかこのお願いが‘シンプル’に出来ないのよね、ホント。


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