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「志生夢叶」
(2007-12-25)
私は子供の頃からプロレス、ボクシング、キックボクシングなどの格闘技ファンであった。しかし、大相撲はそれほど好きではなかった。はっきりした理由などはなかったが、四角いリングの上で鍛え上げられた肉体を鼓舞して戦うレスラーやボクサーに比べ、まーるい土俵の上で太ったおじさんたちが肌を合わせて戦う相撲は“何やもっさりしているなあ”と感じていたように思う。
そんな私が大相撲を興味深く観るようになったのは“舞の海”関が登場してからであった。突進してくる相手をひらりとかわし、土俵の外に追いやる舞の海の勇姿は、プロレス界に衝撃を与えた初代タイガーマスク(佐山サトル)に通ずるカッコよさがあり、私は初めておすもうさんのファンになった。「現代の牛若丸」「技のデパート」などど呼ばれ、小兵ながら自分よりもはるかに巨漢の力士を手玉に取る姿を見て、尺八界において小兵である私はずいぶん励まされたものである(と言っても“別に・・・”気にしたり悩んだりしている訳じゃあーりませんが)。
さて、2007年の角界は激震続きの一年であった。横綱の仮病騒ぎから、新弟子の“かわいがり”による死亡など、ダーティな印象がつきまとい、大ファンでない私にとっても残念な年であった。
そんなある日、私はインターネットのスポーツニュースの「現役最年長力士引退」という一項目になぜか目を奪われた。引き寄せられるようにして記事に見入った私は驚いた。その“一ノ矢”という四股名の現役最年長力士は私と同い年で、しかも生まれた日も10日ほどしか離れていなかったからである。
横綱“朝青龍”関を擁する高砂部屋でマネージャーも兼務する“一ノ矢”関はパソコンにも精通し、自身の経歴もいろいろなところで書かれている。
簡単に記しておくと、鹿児島の徳之島で育った松田少年(“一ノ矢”関の本名)は子供の頃から大相撲に憧れたが、中学、高校には相撲部が存在せず柔道部に在籍していた。しかし、やはり相撲の方が好きだったため大学では相撲部に入ろうとした。経済的事情から国立大学しか許されない(と本人が記す)松田少年は、「相撲部がなければ作ればいいや」と思い琉球大学に入学。その琉球大学で実際に相撲部を立ち上げ、学校側にも正式にクラブとして認めてもらい、1982年の西日本選手権では2部リーグながら団体3位、個人で準優勝という成績をあげた。大学3年の夏に「力士になる」ことを決心した松田少年は卒研発表の直後から相撲部屋へのリクルート活動を開始し、背の低さを理由に数々の部屋から門前払いを受けたにもかかわらず粘り強さを発揮、ついに若松部屋へ入門を許される。新弟子検査合格の経緯は定かではないが、昭和58年11月場所で念願の初土俵を踏み、以来24年間現役力士として活躍した。通算成績は484勝518敗6休、通算在位145場所、序二段優勝が2回、最高位三段目6枚目、とのことである。
体力もさることながら、おそるべきはその精神力である。番付至上主義の角界は年齢よりも番付の高い低いで全ての処遇が決まる世界である。その世界で序二段、三段目を行き来しながら24年間も相撲をとり続けたことに驚嘆してしまう。
新聞の取材に“一ノ矢”関はこう答えている。「相撲を知れば知る程、深くなっていく。もっと相撲を知りたくなるし、面白さも増していく。」「相撲は現在まで理論的な研究がなされてないんです。科学的なデータもほとんどない。研究資料をこれから作っていかないと。相撲は身体運動としてレベルの高い日本の文化です。ちゃんとした資料を残さないとそれが衰退していく可能性がある。そのためにも、大学時代に勉強した物理学も生かしながら理論を残していきたい。それが、私のライフワークになるでしょうね。」「年をとるということに関して、寂しさはあるけど、挑戦する楽しみもあるんです。相撲を続ければ、武道と本質は同じだと感じ取れるのではないかと思います。」「横綱から、私のような人までいろんな人がいるから大相撲は面白いんです。うっとうしいことも多いけど、それもひっくるめて相撲の世界が大好きなんですよ。」(「九州日刊スポーツ」の記事より)
“一ノ矢”関の土俵での勇姿を見ることができなかったことは残念至極であるが、こんな同級生(?)が存在することに感慨を覚えると同時にたいへんな勇気をもらった。
昔は“夢”は叶えるためにあった。今は“夢”と“現実”は別のものになっている気がしてならない。小学生への質問でつきたい職業に「公務員」などとあったりすると意味も無く腹立たしくなる。もうちょっとワクワクするようなことにあこがれろよ、と思ってしまう。私の子供の頃の夢は当時の小学生で圧倒的な人気を誇った「野球選手」だった。その夢は中学一年で破れさってしまったけれど、何かに憧れる心は常に持ち続けていたように思う。
私は現在尺八で生計を立てている。これは18歳で突然始めたことであるし、32歳までサラリーマンをしていたので、私は一ノ矢関ほどに強い信念と夢を持ち尺八の世界に入った訳では決してない。しかし、好きなことで生きられているというのは何にも替え難い喜びである。
一ノ矢関は今後、高砂部屋のマネージャーとして陰から相撲界を支えていかれるそうである。私はまだまだ現役である、というかこれからが本当の勝負であり、尺八人生である。私もまた、人を勇気づけ、元気と夢を与える尺八家を目指し、精進を重ねていきたい。
今年も一年ありがとうございました。
あと書き:タイトルの「志生夢叶」は四字熟語ではなく“芋焼酎”の銘柄である。「志を持って生きて行けば夢は必ず叶う」と宣伝文句にあり、私の心持ちとピッタリくるので人にプレゼントしたことはあるがまだ自分では飲んだことがない。一度試してみたいなぁ、と考えている今日この頃である。ある日突然届いたら嬉しいだろうなぁ。(石の独り言)
「石が流れて木の葉が沈む」
2007年11月24日
【TOMIの日記】
2007年10月29日 きょうははじめて尺八のコンサートにいきました。いしかわさんというおじさんだかおじいさんだかよくわからない人のリサイタルでした。尺八ってどんな人が聴きにくるかわからなくてちょっとドキドキしたけど、そんなにこわい人はいなくて安心しました。
最初の曲は「とうせい」という曲でいしかわさんと大きな男の人が出てきました。大きな人はちっちゃい太鼓のようなものをかかえていました。尺八のフーウーーーという長い音が出たかと思ったら太鼓のポンという音のあとに「イヤーーー」という大きな人のスゴイ声がしてビックリしました。そのあとは尺八の人が一生けんめいに吹いたり、太鼓のようなものがポンポンポンポンポンッといっぱい鳴ったりして耳がビリビリしました。はげしい部分から静かになって、もう終わるかと思っていたらなかなか終わらなくて、目をつむって吹いているいしかわさんが曲を忘れたのか、それとも途中でねむってしまったのかよくわかりませんでした。これは今もまだわからないので今度いしかわさんに会ったらきいてみようと思っています。
次の曲は「秋のしらべ」というわかりやすい曲名がついていました。着物を着たおじさんが出てきておことの前に座ったのでびっくりしました。男の人がおことを弾くなんて想像つきませんでした。一緒に出てきた紅いドレスを着たキレイな女の人はお店の人かと思っていたら歌手の人でした。ものすごく高い声でした。そんなに高い声を出して血管が切れないかと心配したけど曲が終わってニコニコして戻っていかれたので安心しました。尺八のいしかわさんも吹いていたように記憶しています。
3曲目はプログラムを見ても読めない曲名でした。何と読むのだろうとあれこれ考えていたらアナウンスの人がいい声で「びょう」と教えてくれました。譜面台が六つも並んだので六人の人が出てくるんだろう、と思っていたら出てきたのはいしかわさんだけでした。一番左の譜面から順番に吹いて一番右までいったら最後は真ん中に戻って曲が終わりました。尺八のいろんな音が聴けてよかったと思いました。お客さんの拍手も大きかったです。動きながら吹くことがあるのも初めて知りましたが、隣のおじさんが“いしかわさんはじっとして吹いているより歩きながら吹くほうがいきいきしている”と教えてくれました。ふーんそうなんだ、と思いました。
休憩の間にステージで工事が始まりました。おじさんやかっこいいおにいちゃんたちが木の箱や板を持ってきてあっという間に舞台が出来ました。赤い布をのせるといっぺんで和風になりました。終わったらまたこわしてしまうのかと思ったらちょっと悲しくなりました。
休憩のあとはいしかわさんが出てきて一人で尺八を吹きました。さいしょの「とうせい」とおんなじ長い尺八でした。正座して目をつむって吹いている姿はお坊さんのように見えました。“いしかわさんが吹いた「たきおち」という曲は、昔こむそうさんというお坊さんのような人たちが吹いた曲なんだよ”と、また隣のおじさんが教えてくれて“やったー私もやるじゃん”とうれしくなりました。
次の曲はさっきのおことのおじさんと着物を着た若い女の人といしかわさんの3人が出てきました。おことのおじさんはこんどは三味線を持って真ん中に座りました。その左がわにおことが置かれこんどはおねえさんがその前にすわりました。いしかわさんは右がわのはしっこにちょこんとすわりました。また動いて吹いたら今度は舞台から落ちちゃうよーと心配になったけれど、落ちるところを見てみたい気もちょっぴりしました(でもけっきょく落ちませんでした)。真ん中のおじさんがいきなり声を出してすぐに3人が楽器を弾きだしました。合っているのか合っていないのかよくわかりませんでした。でも客席の人が目をつむっていたり、うんうんとうなずきながら聴いているのを見て“あぁ合っているんだ”と思いました。「あおやぎ」という曲で江戸時代にできた曲だそうです。ずーーーっと3人で弾いていていつ終わるのか、きょう電車で帰れるのかまたまた心配になりました。自分には一時間ぐらいに感じましたが終わって時計を見ると23分でした。3人の人が譜面を見ないで弾いていて記憶力を試しているように私には思えました。最後に尺八がふーーと吹き、おことと三味線がシャーンと一緒に弾いて曲が終わった時は今日一番大きな拍手が起こりました。私にはみんなが“あーやっと帰れる”と安心した拍手のように思えました。
はじめての尺八のコンサートはきんちょうしたけど、ぜんぜん自分の知らない世界をけいけんすることができておもしろかったです。いしかわさんは来年もやるそうなのでまた来たいです。 by利光子(とみこです。TOMIってよんでくださいね。)
という訳で「、第11回リサイタル〜風来疎竹〜」が何とかかんとか、兎にも角にも、やっとこさっとこ、えーと(バゴーン!)終了した。今回も多くの人に支えられ感謝感激雨あられである。リハーサルのために何度も貴重な時間を費やしていただいた助演の皆様、裏方として私の我が儘にお付き合いいただいたスタッフの皆様、そして何よりもお忙しい中を会場へお運びいただいた皆様に深甚の御礼を申し上げる次第である。
おかげを持ちプログラムは概ね悦んでいただけたようであるが、今回もなかなか厳しい闘いであった。
今年6月に菊若啓州師の会で初めて吹かせていただいた「新青柳」に惚れ込み、“自分の会でもやってみよう”と取り上げたまではよかったのであるがいつまでたっても暗譜できず、結局準備時間の大半をこの曲に費やしてしまった。こんなに憶えにくい曲は初めてであった(あ、年のせい?)。しかし、あいかわらず古曲は下手ながら気魄だけは伝わったかと思う。
その“割を食って”最も練習時間の少なかったのが廣瀬量平作曲の尺八独奏曲「渺」であった。全部で7段からなるうちの初段から5段までは、五線譜に音の断片が並べてあるだけで、それを音にする作業自体はそれほど困難を要しない。そして6段目と7段に目は難しい漢字が羅列してあるだけで音符はない。何というか“練習のやりようがない”曲なのである。おまけに楽譜には、各段ごとに譜面台を用い、それを演奏者の側から扇形に並べ、順に吹いていくという一種のパフォーマンスまで指示してある。演奏者のイマジネーションを問われるような、技術とは別のプレッシャーのかかる曲で、こういう曲のほうがやりにくい(実は楽譜を見る前に曲を決めてしまった)。とうとう本番まで手探りの状態であったにもかかわらず、蓋を開けてみるとこの曲が最も好評であった。廣瀬先生おそるべしである。でも、本人も予期しないこういうサプライズがあるのでリサイタルは面白い。
閑話休題、なかなかこのご報告が出来なかったのは「読書の秋(へへっ)」を謳歌していたからである。リサイタルを控えると練習や諸雑用のため読みたい本にまったく手がつけられない。その反動もありリサイタルが終わった翌日から残務整理の傍ら“積ん読”してあった本を読み始めた。
まず一冊目は「象の背中(秋元康著)」。著者自身にはさほど興味はないが、“自分と同年代の人間が死とどう向き合うか”という内容に興味を持ち頁を開いた。若くから才能を多方面に開花させた人の作品だけあって流石に上手い。泣かせるツボを心得た人である。しかも著者自身初の長編で新聞小説であるというから驚きである。新聞小説は毎日の字数との戦いでもある。それを感じさせずによくこんなストーリーを書けるものだと感心した。
一冊目はタッチ自体は軽めだったので、もう少しどっしりしたものが読みたくなり、二冊目には「花の回廊〜流転の海第5部〜(宮本輝著)」を選んだ。宮本輝は私がもっとも敬愛する作家である。“肌が合う”とでもいえばいいのか、氏の作品は私にとって心地よいことこの上ない。しかし、近年は一年に1作ぐらいしか作品が上梓されないため、この作品はあえて取りおきしていた“期待の詰まった”一冊であった。著者のライフワークである渾身の作品はその期待に応えてくれるが如く冒頭から“宮本輝の世界”が繰り広げられ、私はたちまち引き込まれていった。「象の背中」も上手かったが宮本輝は上手さの次元が違う。ディーテイルが、リズムが、行間の持つ力が全く違う。失礼を省みずにいうと、とんでもなく上手なアマチュアの秋元に対し、百戦錬磨のプロ中のプロの宮本、といった感じである。決して明るい内容でないにもかかわらず、人に前を向かせ、生きる勇気を与えるという点でも宮本輝は凄い。
私もプロの端くれとして、人に勇気を与える演奏をしたい。内容のいっぱい詰まった一音を出したい。今のところはリサイタルの度に私が皆さんから勇気をもらっているのだけれども・・・。
「当たるも八寸当たらぬも八寸」
2007年10月28日
いつの世も占いブームである。
私は占いをまったく信じない。という訳ではなく、自分に都合の良いことだけを信じることにしている。
そんなスタンスであるから自らお金を払って運勢を見てもらうことはまず無いのであるが、ずっと前のお正月にホテルに演奏にいった際、時間つぶしでコンピューター占いをしてもらったことがある。
その名もコンピューター占い『ボイジャー』、時代がわかるネーミングである。鑑定料はたったの500円。ケチケチ大阪人の私にとってもそう惜しくはないリーズナブルな料金設定である。
項目は「えっ、こんなに見てくれんの」というぐらい多いんであるが、「こんだけいろいろ書いてあったらどれかはあたるやろう」という気がしないでもない。
では、その『ボイジャー』の占ってくれた内容を記し検証してみることにする。( )内は私のツッコミである。
まず私の“若年運”はというと、「なかなかの人気者で若年期から多才ぶりをみせるでしょう(ウーン)。当然学業は良くて当たり前です(も一つウーン)。幼い頃から芸術部門の勉強をすれば必ず大成致します(時すでに遅し!)。」
次に“中壮年運(よっ、待ってましたっ)”「潜在的能力は抜群ですのでやる気さえ出せば誰にも負けません(なんとまあ玉虫色)。ムラッ気の人ですから大成功するか大失敗の運勢です(ムラッ気は当たり!)。易占の方にでもご相談なさったらいかがですか(ってアンタが言うな)。
そして“晩年運”「若い頃の苦労が開花する時ですので、男女ともに安泰です。貴重な体験をなされた方ですので周囲の若者に体験的訓話をなさって下さい(これも全ての人に当てはまりそうな玉虫色なコメントであるが、オッケーです)。
次は“環境影響運(こんな運もあるのね)”「交渉時に早合点して大失敗することも有りましょうが、人望有る人ですから何とか乗り切れます(ホッ)。もう少し慎重になられたら鬼に金棒です(はいわかりまちた)。総じて良好の運者です(ありがとうありがとう)。
“要点(何の要点?)”「周囲を意識し過ぎ一人相撲を取る傾向がある人です(周囲は意識しすぎまへんがこれは当たり)。まず自身の管理をし、次に他への気配りを考えましょう(わかりまちた)。貴方のラッキーカラーはグリーン(おー、“竹”は緑や)。
そろそろ本題に入りそうな気配で“性格”「あなたは判断力が強い人ですからいったん奮起すれば爆発的に力を発揮するのですが、ムラッ気の強い人ですので、自らを苦境に追い込んだりもします(あんまりムラッ気、ムラッ気言わんといてちょうだい)。生まれ月が一月ですので正直で働き者ですが短気でしょう(何とアバウトな。一月生まれの人は皆そうなんかい!)。
次に生まれ年から判断すれば優柔不断で何事にもスローペースです(悪かったね)。表面上は穏やかで交際上手の人です(ウーン)。しかし用心深い割にはヌケたところが多いようです(アンタ見たんかい)。男性は色情の思いが強いため女難があります(ゲゲッ)。本質的にはボォーとしてますので、買い物好きな割りには迷やすいが為、グズグズしがちです(どういうこったい)。
出ました“金運(キタキターッ)”「綿密な計画のもとに進めば天性の福縁が有る人ですのでかなりの財を築ける人です(ヨッシャーッ)。貴方が家長であるならば一家繁栄の樹木は“梅”と“桃”ですのでご参考ください(“竹”ではなかったのね)。他方面からも貴方を見れば金銭運は安定性がありお金に困ることは一生を通してもほんの数回です(へっへっへっ)。しかし爆発的に蓄財できる人でもありません(ありゃま)。そこそこに財を築くためには力量のある人との交際を続けるべきです(さっき“かなりの財を築ける”ゆうたやん)。それから口先だけでは儲かりませんのでそのつもりで・・・(て、占いが・・・で終わってどないしまんねん)
こちらは気になる“健康運”「数霊上からは腰痛に注意です(今んところ大丈夫です)。貴方は流行病にかかりやすい傾向の人ですので要注意です(注意します)。次に、気管支炎、小腸、十二指腸、毛髪の病気、筋の病気、胆石、右手の障害、等です(私の禿は病気なのかしらん)。
そろそろお終いで“職業運(これこれ)”「明朗な人ですので、協力者にも恵まれ成功するでしょう(最後は持ち上げて終わるのね)。かなりの大事業も可能な人です(がんばってみます)。
貴方の生まれ星から適職を割り出しますと、建設業、建築家、運送業、貿易商社、呉服商、紡績関連、仲介業、宣伝広告業、材木商、そば屋、等が向いて居ります(ガビーン!尺八や音楽はかすりもしてないやおまへんか。残念ーっ!)。
この項目ごとの占いに加え一生のバイオリズムが記されてある。私のバイオリズムは22歳頃から「順風」で28歳まで「希望」。そこから「スランプ」に入り、30代から持ち直し30代はずっと「変動期」。40歳からは「好調」で50歳前に「開花」とある。現在46歳の私は「好調」で「開花」目前ということになる。
『ボイジャー』君、よくぞ言ってくれた。私は自分に都合の良いことだけを信じ、今日からまた前進することにする。
500円でこれだけ楽しめれば占いも捨てたものではない。
【特別付録】
※《10月29日の貴方の運勢》(byストーンリバーとちみつ)
おひつじ座 ・・・好調な時間は19時。
おうし座 ・・・「新大阪」に行くといいことがあります。
ふたご座 ・・・ラッキースポットは「コンサートホール」。
かに座 ・・・「ムラッ気」ではなく「ムラマツ」。
しし座 ・・・邦楽に触れる時間を作ってみては。
おとめ座・・・今日の繁栄の樹木は“竹”。
てんびん座 ・・・『石』と『川』がキーワード。
さそり座 ・・・一月生まれの人を見るといいことがあります。
いて座 ・・・電話をすると3,500円が3,000円になります。
やぎ座・・・お友達を誘いましょう。
みずがめ座 ・・・20時半には終わります。
うお座 ・・・怖くありません。
てな訳で、10月29日19時「第11回石川利光尺八リサイタル〜風来疎竹〜」(於:ムラマツリサイタルホール新大阪)にてお待ちしております!
※もちろんテキトーに書いたので信じないでください(今月もすんません)。
「酒は憂いの玉箒」
2007年9月21日
我輩の辞書に“夏痩せ”の文字は無い(石川利光)
そーなのである。一際厳しい酷暑であったこの夏は、ビール党の私にとっては一段とビールが美味しくいただける楽しい夏でもあった。
世の酒豪のおじさん達に比べれば私などはかわいいものであるが、「ひと夏(二ヶ月間)に一体どれ位のビールを飲んだんだろう」という疑問がむくむくと湧いてきたので計算してみることにした。
私は普段、家に居るときには一日に1〜1,5リットル(ロング缶2ないし3本)を常飲している。平均を取り一日1,25リットルとして×60日で計75リットル。夏はイベントや演奏会が週末ごとにあり、打ち上げ、反省会と称してはそれよりもやや多めに飲んじゃうので、0,5リットル×20日として10リットル。これを追加すると計85リットルのビール消費量である。多いのか少ないのかよくわからない数字である。
ビールメーカーが出荷量を発表する時には“東京ドーム”何杯分などと表される。そこで、この85リットルという量は何に例えるとわかりやすいか考えてみた。「50リットルのガソリンタンク1,7杯分」これは今晩飲むときにガソリンの臭いが漂ってきそうなのでNGである。「60リットルの洗濯槽1,416杯分」泡は泡でも泡違いでNG。「20リットルのポリタンク4,25杯分」こちらは“非常時に何しとんや”と怒られそうな雰囲気なのでやっぱりNG。「170リットルの風呂桶0,5杯分」そんな汗臭いビール飲めるかい!とこれもNGである。うーん難しい。いろいろ思いついたが、「一斗樽4,72杯分」これが一番しっくりくる。やはり酒つながりが一番落ち着くとの極私的結論に達した。
そんなこたぁどうでもいいのであるが、私が困っちゃうのは、暑い夏は“夏痩せ”ではなく“夏太り”の危険と常に向かい合わねばならない、ということである。ビールが美味いと食べ物も美味い。その相乗効果でついつい食べ過ぎちゃうのである。
おじさんと呼ばれる年齢になってから太ることが危険なのは周知の事実である。さらに、私の亡父は糖尿病と高脂血症の既往があり、遺伝するそのあたりの因子には私もかなりの警戒を払わねばならない。しっかしビールの無い夏というものはもはや考えられない身体である。今日も明日も危険をかえりみずビアグラスと茶碗を重ねてしまう私であった。
「危険な夏」という言葉は10代の若者ばかりでなく40代のおじさんにも充分にあてはまるのである。
それはさておき、前号でお報せした学フェス以降も様々なイベントが開催された。
8月19日は12回目を数える「石の会・夏の演奏会」であった。毎年5名前後が入れかわるが、今年も27名が参加し、熱演が繰り広げられた。最年少は高校2年生、年長さんは推定70代半ばで、それぞれが一人吹きの真剣勝負の舞台である。私は例年のごとく舞台袖で全曲を聴き、向上した点、さらに改善が望まれる点などをチェックした。2月の「石の会・独奏会」と合わせて1年に2回の一人吹きの効果は充分にあり、それぞれが目覚しい進歩を遂げていたが、初参加のスーパー高校生(前号のコンクール第二位の彼である)には皆、度肝を抜かれていた。こういうサプライズがあるのもまたこの会の楽しいところである。
その翌週の8月24〜26日は、今夏最大のイベント「井原市美星国際尺八フェスティバル」が盛大に行なわれた。国際尺八研修館の20周年記念イベントで、恒例の合宿講習会に、大規模なコンサートや講演、シンポジウムなどをドッキングさせた、それはそれは楽しい三日間であった。外国人の招待演奏家や参加者も多く、スタッフの一人として、「国際」の名に恥じない大会になったことが殊のほかうれしかった。シンポジウムにおいては、アメリカ、オーストラリアで上がり続けている“尺八熱”が、いよいよヨーロッパにも拡がりつつある様子がリアルタイムでうかがえ、こちらも熱くなった。また、国内からも金子朋沐枝女史(ほんとにいい人)をはじめとする女性尺八軍団(失礼!)も大いにフェスティバルを盛り上げてくださり感謝に堪えない。女性の尺八人口がさらに増えることを願ってやまない。
盛りだくさんの内容だったこのフェスティバルにおいて、最も印象に残った人は何といってもジョン・海山・ネプチューンさんであった。ギターの直居さんとのライブ・パフォーマンスは、私が以前聴いた時よりも更に進化したネプチューン・ワールドが展開され、700人を超えるコンサートの聴衆にハッピーな時間を与えた。また、翌日の講習会参加者向け特別レクチャーでは、前日のパフォーマンスとはうって変わって、尺八に対する真摯な思いや取り組みが惜しみなく語られた。彼の言によれば、その圧倒的な技術は最初から与えられた訳ではなく、彼自身の不断で弛まぬ努力によって獲得されたものであるとのことであった。
ネプチューンの言葉を聴きながら私は、バッハの「私のように努力すれば誰でも私のようになれる(大意)」という言葉を思い出していた。実際、その努力できること自体が天賦の才だと考えるが、ネプチューンのレクチャーは私に大いなる勇気を与えてくれた。ネプチューンは「時間はいくらあっても足りない」とも語った。私より10歳年上のネプチューンは、気持ちを持ち続ければ年齢に関係なく“進化”できることを我々に示してくれた。
実は、今年はリサイタルを一休みしようと思っていたのであるが、“吹きたい虫”がむくむくと頭をもたげてきたため、あまり大掛かりにならない規模でやらせていただくことにした。今回は“声”と“尺八”にスポットをあてたプログラムである(内容はこちら)。演るほうはヒーヒー言っちゃうくらいハードな内容になってしまったが、聴きに来てくださる方には悦んでいただける番組が出来たのでは、とほくそ笑んでいる次第である。
もう残すところあと一ヶ月とちょっとになり、少々焦りながら日々練習を重ねている。練習のあとはやっぱりビールである。
という訳で、
“皆様のご来場とビール(※)の差し入れを心よりお待ちしておりまーすっ”
※但しビールはアサヒ、エビス、サッポロにてお願いしまーすっ(えらいすんません)。ビール券も可(ほんまにすんません)。
「果報は吹いて待て」
2007年8月17日
7月は月初におよばれの演奏会があり、その他は学校公演がちらほらと、本番の少ない月であった。そんな月はレッスンが主体になり、あとは自分自身の鍛錬と事務作業(個人事業主ゆえ結構多いんどす)がおよその仕事である。
比較的静かな月であったが、慶事がいくつかあった。一つは、6月に助演させていただいた菊若啓州師の50周年の記念演奏会に対し“大阪文化祭賞奨励賞”が与えられたことであった。贈賞の理由のところに尺八の文字も見え、四半世紀になるご縁に少しはご恩返しが出来たかと安堵した。
もう一つは、昨年からレッスンに来ている高校2年生が、岡山で行なわれた“全国高校生邦楽コンクール”で見事第二位に輝いたことであった。私もその場にいたが、並居る強豪を抑えての第二位は立派!の一言である(ちなみに第一位はおことの作曲で著名なY崎さんのお嬢さん)。
また、東京ではプロで頑張っている門人の結婚披露パーティがあり、新郎の師匠ということで、主賓としての扱いで祝辞をさせていただいた。何とかつつがなく話せたが、こういうことは演奏よりも緊張するものである。
ともあれ、自分が関わった人たちが晴れがましい舞台に立っている姿を見ることはこの上なく嬉しいものである。私も過去にどういうはずみでか賞をいただいたことがあるが、上記の二人の受賞は自分が貰った時よりもはるかに喜びをおぼえた。また、パーティで皆に祝福されている門人を眺めながら、ちょっぴり子供を結婚に送り出す親の気持ちを味わうことが出来た。
これからも私の周りに慶事が続くことを願って止まない。
さて、8月はイベントの月である。
この駄文を書きそびれている間に、私が関わる最初のイベントである「第13回全国学生邦楽フェスティバル」が盛会の裡に終了した。
私は一日目の講習会講師と鑑賞会出演、二日目の地歌ワークショップ助手と学生コンサート審査員、とフルに参加させていただいた。それぞれに単独の催しとしても充分に充実した内容であり、これを纏めて味わえる現役の学生は本当に恵まれていると思う。
そのフェスティバル一日目を終え、用意していただいたホテルに投宿し、入浴の準備をしていた私はふとつけたテレビの画面に釘付けになった。そこには大汗をかきながらリハーサルに臨んでいる尾崎豊の顔があった。NHKの番組で、『プレミアム10尾崎豊がいた夏〜知られざる19歳の素顔〜伝説の大阪球場ライブ』というタイトルがついていた。何というタイミングであろうか。忘れもしない、というのは大嘘ですっかり忘れていたが、この1985年の大阪球場での尾崎豊ライブは私も聴きに行っていたのだ。その時私は24歳。尾崎を知ったのはその前年で、以来彼は最もよく聴くアーティストの一人になっていた。大阪球場でのコンサートが発表になると私はいてもたってもいられず、歳を省みず(球場でも果たして、一人おじさんが交じっている、という感じであった)チケットを購入し、旧なんば球場へ臨んだ。そのライブの率直な感想は“ハァー、19歳でもこんな大きいことができるんやなぁ”だった。純粋で真っ直ぐなそのパワーに圧倒された。
22年後の同じ月、尾崎が歌い、叫ぶメロディに引き込まれ、風呂に入ることも忘れTVの画面に見入っていた。リハーサルや打ち合わせなどメイキングの部分も多く放映されていたが、周りの大人たちを完全に掌握してコンサートを成功に導くそのパワーとオーラに私は一人興奮し、感動していた。セットの間をよじ登り、ステージを走り回る、といったパフォーマンスに“尾崎は完全にトランス状態に入っている”と現場で私は実感したのであるが、一旦楽曲が始まると進行も歌詞も完璧に再現していた。まさしく世阿弥が言うところの“離見の見”である。46歳の私はまたしてもこの19歳の少年に打ちのめされた。
プログラムのラストナンバーが終わり、呼吸困難な状態で舞台袖で悶絶していた尾崎が映されていた。しかし尾崎はアンコールの絶叫に応え、再び立ちあがりこの曲を歌った。
シェリー 俺は転がり続けて こんなとこにたどりついた
シェリー 俺はあせりすぎたのか むやみに何もかも 捨てちまったけれど
シェリー あの頃は夢だった 夢のために生きてきた俺だけど
シェリー おまえの言うとおり 金か夢かわからない暮らしさ
転がり続ける 俺の生きざまを
時には無様な格好でささえてる
シェリー 優しく俺をしかってくれて
そして強く抱きしめておくれ
おまえの愛が すべてを包むから
シェリー いつになれば 俺は這い上がれるだろう
シェリー どこに行けば 俺はたどりつけるだろう
シェリー 俺は歌う 愛すべきものすべてに
<中略>
シェリー
あわれみなど受けたくはない
俺は負け犬何かじゃないから
俺は真実へと歩いて行く
シェリー
俺はうまく歌えているか
俺はうまく笑えているか
俺の笑顔は卑屈じゃないかい
俺は誤解されてはいないかい
俺はまだ馬鹿と呼ばれているか
俺はまだまだ恨まれているか
俺に愛される資格はあるか
俺は決してまちがっていないか
俺は真実へと歩いてるかい
シェリー いつになれば 俺は這い上がれるだろう
シェリー どこに行けば 俺はたどりつけるだろう
シェリー 俺は歌う 愛すべきものすべてに
Wow・・・・ (「シェリー」作詞・作曲・歌:尾崎 豊)
腹が立つほどの暑い8月であるが、真実へ向け吹き進んで行きたい。尾崎に負けないように。
「衣錦の栄」
2007年7月1日
久々に日本人に快哉を叫んだ。それも立て続けに二度。
初めの快哉は2007ミスユニバース世界大会でなんと〈優勝!〉された森理世さんに対してであった。
ニュースでまずそれを知った時には「これって快挙ちゃうのん」という驚きが大半を占めていたのであるが、インタビューの記事などを読むにつれ“この人は只者ではないっ”ということが徐々に見えてきて、驚くと共に言いようの無い感慨を覚えた。
女性なので“弱冠”ではないが、まだ20歳の彼女がその栄冠を引き寄せたあとのインタビューで「優勝できる自信はあった」とさらりと言ってのけたことは“お見事!”というほかはない。また、「私は誰よりも準備をしたと思う」とも語ったそうである。すばらしいことである。
この言葉を目にして思い出したことがある。
横山勝也師は弟子に「良い演奏とはどのようなものか」という問いかけをよくされた。それに対する弟子の意見、考えは様々であったが、横山師の回答は「考え、吹き、準備をされつくした演奏だと思う(大意)」というものであった。私などは実際に演奏や録音を控えていたとしても、自分でそこまで言い切れるだけの準備をしたことは恥ずかしながら一度もない。
森さんのインタビューを読んだ時、この横山師とのやりとりを思い出した。「誰よりも準備をした」と言い切れるだけの自信が強さとなって審査員の心に響いたのであろう。
ミス・ユニバースは今後1年間、世界中を回ってさまざまなチャリティー活動などに従事するそうで「まだ20歳の私が、社会に役立つことができることがうれしい」「この世からエイズやHIVを無くす第一歩になれば」と熱い想いを語ったとのことである。
某スピリチュアルカウンセラーの表現を借りれば、そうとう「たましいの年齢が高い」人なのであろう。もはや“尊敬”するにふさわしい素晴らしき女性である。これからの森さんの活躍に注目したい。
もう一つの快哉は“イチローと桑田の対決”である。今や大リーグには常に二桁の日本人選手が活躍しており、日本人同士の対戦は珍しくもなくなってしまった感があるが、この二人が大リーグで2007年に対決するなどとは誰が予想しえたであろうか。桑田投手(以下略)は巨人軍で数々の輝かしい実績を残した後、試練の時期を乗り越え見事に復活を果たした。その時に甲野善紀氏の助言を実践して再生したこともあり、再生後の桑田に対しては、私自身、以前よりも注目していた。しかし大勢の声のように「大リーグでは厳しいんじゃないか」と応援をしながらも疑心を抱いていたことも事実である。
大リーグでも揺るぎないトップスターに登りつめたイチロー選手(以下略)と桑田の初対決は果たして桑田の勝ちに終わった。わずか4球のやりとりで見事イチローを三振に切って取った。アメリカの球場で、地元の多くのファンの前で、二人が対決し、観客が喝采をおくる映像を見て胸が熱くなった。
この時のパイレーツとマリナーズの3連戦において桑田とイチローが互いを評している言葉が興味深い。
イチローが桑田を「すごく力が抜けている感じがいい」と評せば、桑田はイチローの印象を「走攻守見てても、力みがないでしょ。さらっと水のようにしなやかだけど、力が伝わっているっていうか……」と口にし、最後にこんな言葉を付け加えた。
「求めてるものは、同じかも」
これっ、これである。ジャンルも、レベルも、名声も、年収も、えーと・・・(もうえぇっちゅうねん)すべてにおいて二人と私とは天と地ほどの差があるが、私の求めてるものも同じだと思う。
私も「さらっとしてしなやかだけど、力が伝わっている」優しくて強い音を目指したいものである。
もはやこれらの人たちに“日本人”という括りは無いのかもしれない。しかし、この3人の日本人による海外での素晴らしい活躍を目の当たりにし、私は大いに刺激を受けた。
私も、伝統と、無限の可能性を合わせ持つ素晴らしい楽器『尺八』を、自信を持って世界に知らしめて行きたい。
あまりにも英語がまずく、不肖、拝命されている「国際尺八研修館講師」を返上して、私だけ「国内尺八研修館(そんなものは存在しない)」所属にしていただこうか、などと考えたこともあったが、それはここだけの話にしておこう。
「報恩謝徳」
2007年6月16日
口を開けば文句を言う人がいる。
口を開けば愚痴を言う人がいる。
口を開けば他人の悪口になる人がいる。
これは性分というやつである。
こういう人はたとえ何億円持っていたとしても文句を言うことを止めはしないだろう。
こういう人はどんなに豪邸に住んでいても毎日毎日愚痴を言ってすごすであろう。
こういう人は完全無欠な人を見ても“あんな人はたいがい足臭いねんで”などと邪推を止めないであろう。
昨年から今年にかけて数多くの老人ホームで演奏させていただく機会があった。経営母体は民間や半官半民など様々であったが、いずれも“超”がつくほどハイソでセレブ(?)な施設であった。職員の方と食事をご一緒させていただいた時に「私らはとてもやないけどこんな高いところに入れません」と半ば自嘲気味に話されていたのが印象的であった(施設内の掲示板に“ダイヤのピアスの落し物があります”との張り紙を見た時は笑ってしまった)。
この“超”高級老人ホームでの演奏の期間を通して、私は“人間の一生とは何か”“幸せとは何か”ということを自問し続けていた。
私は、“人間の一生とは、良いこととそうでないことで結局チャラぐらいなのではないか”と思う。良いことばかり続くことがそうそうありえないし、逆もまたそうであろう。畢竟、少しだけ「浮き」で人生を終えることができれば上出来である。その為に精一杯生き、人の役に立つような善い行ないを重ねることが人間に課せられた仕事ではないかと私は考える。
また私は、“人の運命は決められている”という説を信じる人間であるが、数年前より傾倒している甲野善紀さんの著書に“、若き日の甲野さんが「(人間の)運命は、決まっているが、同時にまったく自由である」という結論にたどりついた”という記述があるのを読み大いに共感した〔「身体から革命を起こす」甲野善紀・田中聡 2005年 新潮社〕。自由に、ポジティブに生きることこそ、生かされている自分にとって大事なことなのである。同時に忘れてはいけないのが「感謝」の心だと思う。私が何とか尺八で生きていくことが出来ているのは、この感謝の心を日々持ち続けているからだと思う。えらくお利口さんのようであるが、これは実感である。
ところで、私が常々お世話になっている菊若啓州師が(何と!)芸歴50年の記念演奏会を開催される。師は三絃と箏曲のおっしょはんで実は大先生であられるが、気さくなお人柄故たいへん親しくさせていただいている。今回の演奏会にも声を掛けてくださり、「(新)青柳」と「哀歌」(けっこうバラバラな選曲!)で吹かせていただくことになった。
そのうちの「青柳」はもうお一方、こちらも関西の重鎮・中野幹子師との三曲合奏である。この合わせ(リハーサル)が何ともありがたい。啓州師が「こんな世の中やけど好きなことさしてもらってほんまにありがたいですわ。」とおっしゃれば、中野師も「私もそうよ。毎日感謝して弾かせてもらってんのよ。お竹(尺八)の人にも“せんせ、青柳弾くときは幸せそうな顔してはりますなぁ”云われるねん。」と応酬(?)される。とにかく曲を弾いている以外の時間は「ありがたい」「感謝」の言葉が飛び交っている現場なのである。
私はこの両巨匠の前では小僧なので、心の中で「ありがたや、ありがたや。」と唱えている。実にありがたーい舞台になることうけあいである。
このありがたい舞台へのご来聴をお待ちして今回の「石と竹」を終わらせていただくことにする。
会場は大阪の「日本橋」駅下車、『国立文楽劇場小ホール』。日時は2007年6月17日(日)13時開演・・・・6月17日、ゲッ!明日だ!!
「下手の縦笛好き」
2007年5月11日
SCENE8
その時Tはビルの中の大きな密室にいた。目の前には無機質な金属製の棒や箱が整然と並べられてある。壁のうちのある一面がガラス張りになっていてその向こうには数名の人影が見える。無音の空間を切り裂き人の声が何処からとも無く聞こえてきた。“では本番参ります。テープが廻りました。”すぐに声は聞こえなくなりガラスの向こうの人がパントマイマーのように右手をTに投げかけた。Tは軽くうなずくと竹を口元に当てて深く息を吸い込んだ。
4月某日、NHKから依頼をうけFM番組「邦楽のひととき」のための録音を行なった。スタジオでの録音は慣れるということがなく毎回緊張の連続である。ホールと違いスタジオは余分な残響がないように作られているため、スタジオに入りまず一音出したところで自分の貧弱な音に愕然とする。“何や、オレの音は実はこんなに情けない音やったんやー”というショックからすべての仕事が始まるのである。尺八は身体が楽器の部分が大きいため、精神的に萎縮してしまうと見事に音も縮こまってしまうので厄介である。それでもしばらく吹いていると身体も緩み、無響のスペースにも幾分馴染んでくる。
今回は「現代邦楽で」という指定があったので、師・横山勝也作曲の「春吹(しゅんすい)」と、邦楽技能者育成会でご指導いただいた杵屋正邦先生の「一定(いちじょう)」の2曲を選曲した。自分で選んでおいてこんなことを言うのも何であるが、両方ともメリが出まくるムズカシーイ曲である。おまけに「春吹」はメチャメチャ速い手が出てくる。選曲をした2月には“よし、これをきっかけにこの曲のスペシャリストになったる、ふんっ!”と息巻いていたが、録音日が近づくにつれ、“何でこんなややこしい曲を選んだんやろ”とだんだん弱気になっていく自分がそこにいた。「一定」は独奏曲で、「春吹」は二重奏曲である。二重奏の助演は、やはり横山門下である“炎のチャレンジャー”岡田道明君にお願いした。
NHKの録音は、1.練習がてら音出しをしてマイク位置の調整および録音レベルの決定→2.テスト録音で全曲演奏→3.本番録音(OKが出るまで)という流れである(だいたいどこもこんな感じですかね)。
今回は休憩の多い(相方の吹いている間)二重奏を先に録音しておいて、環境に馴染んでからソロをかまそうという作戦をとった。
ところが二重奏曲の録音とは存外難しいもので、片方がうまくいけばもう片方がどこかでチョンボをしてしまったりして、なかなかOKレベルまでいかない。「両雄並び立たず」ではなく「下手の共倒れ(岡田君ごめんちゃい)」といった感じで、結局レベル調整1回、テスト録音1回、本番録音4回の合計6回吹いてようやくOKになった。予想外(大誤解、なんちゃって←前々回参照)の展開で、この時点ですでにヘトヘトのフラフラ、次のソロ曲は試合前からパンチをかまされたような状態であった。
私はこれまでの経験から2回目か3回目のテイクが最もマシな出来になることが判っているが、非常な緊張を伴う「一定」をその時点から何度も吹く自信が持てなかった。そこでディレクターにお願いしてテスト録音からテープを廻していただいた。
すると何と、神のご加護かご先祖様のお導き、はたまた正邦先生のお情けか、そのテスト録音でOKのものが録れてしまった。一度試聴したあと、ディレクターが“もう一度録られても結構ですよ”と言われたため、“げっNG(NoGood)か”と一瞬あせったが、そのディレクターの上司の方の“いやぁ、よい演奏でした、OKでいいでしょう”の一言でめでたく録音終了となった。
自分がこういう経験をしてみて感じることは、横山先生をはじめ、青木鈴慕師、山本邦山師、山口五郎師など“巨匠”“名人”と評される人の「凄味」である。何十年も前の録音なのに、すぐそこでまさしく竹が歌い、叫んでいるかのような凄い録音が少なくない。海童道祖にいたっては「録音中に竹がひび割れ、息もれとなったがかまわずに吹定を果たした」や「吹定中に豪竹が叱咤激励され、忽ち狂いを生じて了い、役に立たなくなった」などといったもう何だかわからない逸話まで残されている。私などはマイクの前に立つと破綻なく吹こうとするのがやっとで、あらためて凡人と天才の違いを実感し、驚嘆を禁じえない。
閑話休題、先日の新聞に大平サブローさんのインタビュー記事が掲載されていて興味深く拝読した。(大平サブローさんといえば大平サブロー・シローのコンビで一世を風靡した名漫才師である。私が漫才を見だした小学生頃からの上方漫才師で名人(名コンビ)といえば、横山やすし・西川きよし、Wヤング、オール阪神・巨人、そして大平サブロー・シロー〔敬称略〕で、上手さ、面白さでは群を抜いていた。)その記事の中で現在の若手漫才師について、「漫才はうまいんだけど“叫び声”が聞こえてこない」「魂の叫びというか、必死のパッチの気迫みたいなものが、あんまり伝わってこないんですよね」との感想を語っておられた。これは私が現在の若手尺八吹きに抱く印象とまったく同じなのであるが、よくよく考えてみると、私自身も上の世代の方々からは同じように思われていることは想像に難くない。それでも何とかあがいていると、近頃ようやく尺八で歌う、叫ぶということがどういうことであるかがわかりかけてきたような気がする。
先の録音の放送日は5月30日(水)am11:00〜11:30〔再放送は翌31日am5:20〜5:50〕、ご都合のつく方はぜひともご一聴をお願いする次第である。自分なりの歌が歌えているか、叫んでいるか。今は結果発表を待つ受験生の気分である。
「水火を辞せず」
2007年4月5日
水曜日 スイスイ泳ぐ お父さん
これは私のダジャレ好きが完全に伝染(うつ)ってしまった6歳の娘の迷作である。
私がプール通いを始めてから一年と半年が過ぎた。
『目指せ!尺八界のトビウオ日記』はのっけから頓挫してしまったけれども、おかげを持ち水泳は生活の一部となった。
現在も毎週水曜日の水泳教室は継続し、それ以外にも自己鍛錬のため暇を見つけてはプールに通っている、と言いたいところであるが、最近は忙しさにかまけてしまい、週一の教室がやっとこさといったところである。
それでもやめることなく続いている理由は、水の中に浮かぶことと、身体を動かして少々ハァハァいうことが“チョー気持ちいい”からである。
ちょうどこの原稿を練っている時にメルボルンで「2007世界水泳」が開催されていた。普段は滅多にテレビを見ない私が画面に噛り付くようにして見入った。こんなことは以前の私からは想像もつかなかったことである。だから人間というのは面白い。
おそらく水泳をしていなくとも各国の代表選手のレベルの高さは感じることが出来たと思うが、実際に自分が同じようなことをやっているとあらためて選手のすごさがよくわかる。
号砲が鳴って飛び込んだ直後の魚のような足の動き、クロールや背泳の手をかく速さ、平泳ぎでの上体の浮き上がる高さ、バタフライ選手のイルカのような動き、どれをとっても人間技とは思えない。
それに加え、外国の代表選手ともなると皆ものすごい身体である。バケモンみたいな男子選手が、オッサンみたいな女子選手が、次から次へと画面に登場してくる。もはや驚嘆のため息しか出てこない。
そんな中、貧弱(あくまで相対的に、です)な体躯の日本人選手もよく奮闘した。伍して戦うだけでも充分すごいことなのに、その上メダルまで獲っちゃう人はほんとうに“おそれ入谷の鬼子母神(?)”である。ライバルが棄権し、順当(戦いにこんなことは絶対おまへんが)と言われていた北島が金メダルを獲った瞬間には思わず快哉を叫んでいた。熱い戦いを繰り広げてくれた選手たちには心から慰労と感謝の言葉をおくりたい。
再び水泳教室の話に戻るが、コーチは「上手く泳ぐためにはまずそのイメージを持つことが大事」だと言われた。
これは尺八においてもまったく同じである。良い音のイメージ、良い演奏のイメージを持つのと持たないのとでは、上達や進歩の度合いが変わってくるのは自明の理である。
私にとっての“良い音”とは書くまでもなく横山先生の音であり、永遠の目標である。その目標に近づくために、尺八吹きにとっての“伝家の宝刀”である一尺八寸管を持ち替えた。病に倒れられる直前の横山先生の自信作である。
その尺八は大きな身体の使い方をしないと全く真価が発揮できないばかりか、逆に情けない音しか出てくれない楽器で、実は先生に譲っていただいた十年前から、何度もトライしてはその度に挫折を繰り返してきた手強い一管なのである(ちなみに愛称は“マサアキ”です。よろしくね)。
「もしかしたらこれは一生まともに吹くことがでけへんのとちゃうやろか」と自分自身半ば諦めかけていたが、近々録音の仕事が入り、意を決して再度向き合うことにした。何とかこのチャンスをものにして新しい音を獲得したい、いや獲得するのだ。
水泳には、例えば世界記録のラップスピードで人間の身体を引っ張って、その速さを体感する装置が存在すると聞いたことがある。ならば尺八にもそんなものがあったらば、と考えた。横山先生や海童道祖の音を疑似体験できるようなシステムである。しかしながら、私の貧弱な肉体ではその音圧にまったく耐え切れずに壊れてしまうであろうことは想像に難くない(それでもいいと一瞬考えてしまう自分がそこにいる)。
スイスイとはいかないが、一つずつ積み上げていくほかはない。
「切磋竹磨」
2007年3月3日
♪僕のあだ名を知ってるかい〜
長管太郎って呼ぶんだぜ〜
長管握ってもう20年
メリやハラロにゃ慣れ〜た〜け〜ど〜
やっぱり大(おぉ)メリは厳しいぜ〜♪
私はかけっこは遅いが‘いらち’なので歩くのは速い。人間なんてそんなもんである。
私は喘息持ちだが尺八を吹いて生計を立てている。人間なんてそんなもんである。
私は背はちっこいが長管が大好きである。人間なんてそんなもんである。
さて、前回紹介をさせていただいた“炎のチャレンジャー”岡田道明君の『第五回(‘大誤解’では決してないのでお間違えなきよう)尺八リサイタル』は盛会の裡に終った。本人は謙遜して当日のプログラムに「後半は誰のリサイタルやら分からなくなるきらいもありますが・・・」と書き記したが、岡田君のがんばりは素晴らしかった。竹笛の友としてこれからのさらなる活躍を願っている次第である。
私はそのリサイタルのなかで助演として3曲に出演させていただいた。会主から拝命されたパートはすべて長管のパートで、いずれも手強い曲であった。自分のリサイタルより人のリサイタルに出演するほうが何倍も緊張するものである。近年では最も真剣に長管の練習をしたと言っても過言ではない(横山先生ごめんなさい)。その練習時に浮かんだキャッチフレーズが「長管太郎」(えへへっ)で、そこからするすると上の替え歌がでてきた。
まだまだまったく上手く吹くことは出来ないが、ほんとうに長管尺八の音は魅力的である。たまに現れる”乙のロ(ろ)”の“ゴオーッ”という響きは私をとらえて放さない(たまに現れるんでは困るんですけどねぇ)。
ところで、門人会「石の会」の“冬の甲子園”、『第四回独奏会』も2月25日無事終了した。今回は参加者26名のうち、古典本曲および琴古流本曲を吹いた人が22名と‘大本曲大会’(‘だいほんきょくたいかい’と読んでくださいね)になった。そしてさらに特筆すべきは、26曲のうちG管、A管、H管、C管といった長管での演奏が13曲と、長管太郎の集まりになった(長管花子さんも一人いた)。
曲目と使用管の長さは全て本人に任せてあり、緊張した舞台での出演者それぞれのがんばりを聴かせてもらうだけで私は満足なのであるが、今回は一層私の本曲志向、長管志向が反映されたプログラムになった。もはや充分にマニアの会である。私にとってはまさに至福のひと時であった。
今回は初めて〈門人紹介〉のページで紹介している5人の若手プロが全員出演することになった。そこで私は一計を案じた。会のラストに5人が続けて演奏し、他の出演者から「誰が一番良かったか」というアンケートをとったのである。
若手5人の実力は拮抗しており、演奏終了後には私もどのような順位になるか全く予想がつかなかった。結果は、“石の会の野生爆弾”松本太郎君が見事1位に輝き、私からの薄賞金をゲットした。また、投票と同時にいただいた各奏者へのコメントから、若手に求められているものは「上手さ」よりも「強さ」「フツーの人には出せないような鍛えられた音」であることがわかった。いきなりコンクールのようなことをやらされた若手はいい迷惑だったかもしれないが、いろいろなことに発見があり、私にとっても収穫であった。
話は変わるが、ビール王国ドイツでは「ビールを一緒に飲みたい相手」とされることは非常に名誉なことらしい。選挙の際にも「候補者の中で最もビールを飲みたい相手は誰か」などという世論調査がなされ、その結果に候補者は一喜一憂するそうである。
私も門人や竹友から「最もビールを飲みたい相手」と言われたいものである。
あっ、私は大のビール好きであるがからきし弱いのであった。
人間なんてそんなもんである。
「竹笛の友」
2007年2月8日
“プロがプロとして尊敬を集められるのは、逃げも隠れもしない潔さによると思う。”
これは以前新聞の記事で見つけた一文である。その記事自体は音楽や尺八とはまったく違った内容だったのであるが、自分の姿勢と通ずるところがあり心に留めている。
さて、今回はプロの話である。
関西(“首都圏以外の一地方”と言い換えることができる)におけるプロ尺八家はビミョーな立場にある。
何というか「中途半端」なのである。
例えば、ある人が会を企画する場合、「師籍何十周年!」や「何々会大演奏会!」などと気合の入った内容を開く時には、“お客さんにも入ってもらわなあかんし、こら一丁奮発して○○先生お呼びしまひょか”ということで文句なく「特別出演○○○○先生フロム東京」をお招きすることを考える。
逆に、それほど大きい会でなくお弟子さんの発表会などの場合には、“内々の会やしなぁ、プロの先生に声掛けるのも大層やし、ご近所の△△さんに吹いてもらいまひょ”ということで、ノンプロの人に依頼されることが少なくない。
“玄人はだし”とはよく言ったもので、関西にはプロも“はだし”(尺八の場合は“玄人足袋はだし”、なんちゃて)で逃げ出したくなるほどの吹奏力を持ったノンプロ尺八吹きの人が存在する。特に、経験を要する地歌などは「何とまぁえぇ味出さはりますなぁ」と、私も惚れ惚れするような吹き手が何人もおられる。
こういった背景をもとに、「関西でプロの尺八吹きは3人おれば充分でっせ」と言う人もいる。もちろんこれはその人の考えで、関西の三曲系の舞台数と尺八の需要から割り出された荒っぽい数字なのであるが、それ位ニーズが多くないということであり、あながち“当たらずとも遠からじ”な数だと実感する。
「前門の虎、後門の狼」に置き換えると「前門の東京の巨匠・名手、後門の地元のノンプロ名人」とでもいえようか。それに加えプロ同士の競合があり、関西のプロ尺八家はなかなか厳しい環境の中で日々闘っているのである(もちろん依頼演奏に頼っている訳ではなく、口を糊する方策は自分で作り出さねばならぬことは言うまでもない)。
私の周りでは「好きなことで生活できていいですねぇ」と羨んでくださるかたと、「いやぁ、なかなかたいへんでしょう」と慰めてくださるかたが半分半分といったところである。
実際楽なことは決してなく、一生修行の道であるが「逃げも隠れもしない“潔さ”」を持ち精進を重ねていきたいと思う。
ところで、私が普段、活動を共にしている演奏家に米村鈴笙プロと岡田道明プロがいる(ゴルフかボウリングみたい)。
米村君とはもう四半世紀(えっ!)を超える付き合いになってしまった。彼とのことは他の項にも書いたことがあるので、今回は岡田道明君のことを書いてみたい。
実は私と岡田君とは京都のとあーる(R)大学の邦楽サークルの先輩後輩の間柄である。
とはいっても私が卒業してから彼は入部してきたので、初めて会ったのはOBと現役の関係であった。彼は私以上に尺八にのめり込み、大学の4年目を終える頃には演奏家を目指していた。当時の印象を無礼を省みずに書くと、「えっ、そんな実力でプロになるっちゅうの。それでメシが食えるなら警察いりまへんで(?)、プロとはそんな甘いもんやおへんやろう。」といった感じであった。しかしながら、一旦目標を掲げたら行動の早いところが彼の長所である。京都に演奏に来られていた横山勝也先生のホテルを訪ねて入門し、また、NHKの育成会にも入学して毎週京都から夜行バスで通うということをやってのけた(よって普段は、彼は私のことを“先輩”と呼ぶことが多いが、育成会では私が後輩にあたるため、NHKの中では私が彼を“にいさん”と呼ばねばならない→もちろん嘘)。
プロを志してから20年近くになるであろうか。近年は充実してきた演奏力に加え、生来の気配りの細やかさと面倒見の良さが支持され、京都の三曲界では欠かせぬ存在になっている。
その岡田道明プロの第5回リサイタルが2月12日(月・祝)、京都府民ホール・アルティで行なわれる。何と「10年連続開催」の目標を掲げ、その3年目にあたる今回は、かなーり気合の入った面白いプログラムである→詳細はこちら。前半が尺八本曲と三曲合奏の古典2曲、後半が尺八三重奏、四重奏、五重奏の現代作品3曲の全5曲で構成されている。私も後半の3曲でお手伝いするのであるが、3曲だけでもヒーヒーハァハァいっちゃうくらいハードな内容である。よくこんなプログラムを考えつき、それをまた実践するものだと感服する。彼こそ“炎のチャレンジャー”と呼ぶにふさわしい(ちょっとヨイショしすぎ?)。
ともあれ、演奏する側はたいへんであるが、聴いてくださる方々はお楽しみいただけること間違いない。ぜひとも“炎のチャレンジャー”の勇姿を見届けに来て頂きたい。
数日前、車を運転していたら前を走っていたトラックにこんなステッカーが貼ってあった。
『追突事故はプロの恥』
舞台上で追突事故を起こさぬよう、私もプロとしてしっかり準備をして臨みまひょ。
「美しい音は美しい心に宿る」
2007年1月8日
“わたしはだいがくせいのころしょうがくせいだった”
???と思える文章である。
パソコンにこう打ち込んで変換すると、“私は大学生の頃小学生だった”になる。
でもこのひらがなの文章は間違いやいちびりではない。
正解は“私は大学生の頃奨学生だった”なのであるから。
昨2006年も激動の一年であった。天災や人災、目を覆いたくなるばかりの凄惨な事件に事故、政治家や役人の不祥事は数知れず、これが平和と安全を誇った日本の姿かと思わせるような出来事が毎日のように報道された。
そんなニュースの中で私が憤懣やるかたない気持ちを覚えたのは「給食費の滞納」と「奨学金未返済」の二つであった。“何を小さいことを”と感じられる方も少なくないかもしれない。実際に大企業や政治家、役人どもが関与する“巨悪”に比べれば取るに足らない金額かもしれない(と思っていたら今日の朝刊に「給食費未納20億円超」と出ていた。もの凄い額のタダ食いである!)。しかし、魑魅魍魎が跋扈する“巨悪”の世界は今に始まったことではなく、悪しき体質であり伝統であり、政治家や役人の世界とはそんな“病気の世界”なのだと私は思う。
それに対して「給食費の滞納」や「奨学金未返済」はここ数年でその規模が急に拡大してしまった“一般市民の犯罪”である。店屋で飯を食って代金を払わなければ“無銭飲食”でしょっぴかれる。また、金貸しの会社にお金を借りて踏み倒そうとすれば怖く厳しい取立てが待っている(にちがいない)。それが給食費や奨学金においては、時効が短かったり〔給食費は何と2年!〕、取立てが厳しくなかったり(コワいオニイサンはいないようである)するせいもあって確信犯的に逃れようとする人間が後を絶たない。
私が最も憂えるのは、腹黒い政治家や役人たちではなく、一般市民によって引き起こされる、“人の道”を踏み外すような事例が増えてきたことである。
給食を食べるのは言うまでもなく子供であるが、食べた代金を“頼んだ覚えはない”などと言って払わない親を見て子供がどう思うかそのバカ親は考えたことがあるのか。貸与されて使った奨学金を、いい年をした大人が“今これ(返済金)を支払っちゃうと痛いんだよなぁ”などと、自分のことしか考えずに踏み倒していいと思うのか。
この二つの事例に象徴される“利己主義”や“刹那主義”が社会モラルの喪失やマナーの低下を生み、現在引き起こされる様々な事件や社会問題に繋がっていることは想像に難くない。
三島由紀夫が日本の将来を憂いて書いた有名な一文がある。
「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら『日本』はなくなつてしまふのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、そ の代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。」 (「果たし得てゐない約束」より)
おそるべき洞察力と予言力である。37年前に書かれた文章であるがほぼ現在の日本の姿を言い当てている。残念なことにもはや「富裕」ではなくなってしまっているが・・・。
新しい首相はその政権構想のなかで日本を「美しい国」にしたいと提唱した。真に「美しい国」の姿を目指す(あるいは取り戻す)ならば「美しい人間」「美しい人の心」無しには成し得ない。私は、まず自分から「美しい人間」になれるよう勉め、この一年を生きていきたい。
さて、個人的な2006年は、某H女史の占星術によると“健弱”の年と出ていたが、おかげを持ち大病もせず、何とか充実した一年を終えることができた。門人会などを含めた演奏の機会は56回、放送が2回、講習会が10回ほど、それに教授活動が200日強で完全にオフの日は月1〜2日と、忙しい日々を過ごさせていただいた。
節目となった「第10回リサイタル」は(先月の“川石光利”氏による厳しい批評もあったが)、自分の到達点、相変わらずの欠点が明らかになり、良い反省材料となった。また、尺八の助演8名のうち門人が6名出演し(あとの2名は“風童”の戦友)、上々の評判を得たことはもっとも喜ばしいことであった(これは“安くついた”という意味では決してない、念のため)。
また、兄(向こうも私のことを“兄”と言っている。???)とのユニット「石川ブロス」が結成5年目にしてCDを発売し、ライブとともに好評を得たことも嬉しいことであった。
今年は従来の活動に加え、さらに、普段接することのない人々に尺八を知っていただく機会を増やしたい。また、私を慕ってきてくれた若手プロの門人達の生活がもっと安定するよう、ハード、ソフト両面から整備したいと考えている。
昨12月には半年振りに横山先生のレッスンを受けることができた。
緊張しながら吹いた演奏に対し、師は“よく吹いてはいるが君の音はノイジーだ。”というコメントを出された。
今年のスローガンは決まった。
『美しい音は美しい心から。心を鍛えて音を磨け。やるぞやります2007エイエイオー!』
本年もよろしくお願い申し上げます。
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