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「竹」(ホームへ) 随筆「石と竹」



「福韻福果」
(2008-12-30)

良いものを鑑賞した時に「眼福でござった」などと言う(いつの時代やねん!)。しからば、良いものを聴いたときには「耳福」と言うこともあるのかと考えた。そこでさっそくググッてみたところ、辞書的(?)には「耳福」自体は存在しなかったが、私と同じようなことを思いつく方が少なからずおられ、個人のホームページやブログではその言葉がたくさん登場していることを知った。

なぜこんなことを思いついたのかというと、もう一ヶ月以上も前になるが、大阪で『箏曲〜野坂操壽と茨木の演奏家が奏でる和の響き〜』という演奏会を拝聴したからである。この演奏会で私はまさしく「耳福」を味わったので“ござった”。
その日のプログラムは『みだれ』『五段砧』『八重衣』〈ここでやっと休憩〉『春の海』『夏山四章(飛山桂作曲)』『琵琶行-白居易ノ興ニ倣フ-(伊福部昭作曲)』という、前半、後半のそれぞれだけでも一回のリサイタルになるくらいの濃ーいものであった。定食屋さんに例えるならば、《刺身天麩羅八宝菜定食、ごはん大盛り&みそ汁おかわり無料、デザート食べ放題!!》てな感じである。

私にとって野坂操壽(野坂惠子あらため)先生は、My師匠の横山勝也先生と並び、〈現人神〉はたまた〈生き仏〉のような存在である。野坂先生は近年、関西へもよく演奏に来られているのであるが、なかなかスケジュールが合わず、すべての機会を逸し残念至極であった。それだけに、ようやく生演奏を聴かせていただく機会を得られ、私は開演前から高揚していた。
期待感の高まる中、最初の曲『みだれ』が始まった。先生の手が箏に伸び、その第一音が爪先から発せられた瞬間、私は客席に押し付けられ身動きすることが出来なくなってしまっていた。もの凄い“氣”のパワーである。私はその後思考することさえも不能な状態になり、心地良いふわふわした気分で前半の3曲を味わわせていただいた。
検校さんがそこにいるかのような自在の箏の音色も、ため息しか出ないような素晴らしいものであったが、初めて聴く先生の歌(八重衣)も「耳福」でござった。何と言い表せばいいのか、平原綾香をおばさんにした(失礼・・・・って、この場合誰に対して失礼?)ような、太く、かつ広がりのある声で、こんなに穏やかな気持ちにさせてくれる地歌を私は今までかつて耳にしたことがなかった。
しばしの休憩のあと、後半の現代作品はまさしく十代の私が虜になった野坂先生の演奏そのままで、ダイナミックで深遠な箏の音は一つ一つの音がまるで生きているかのように思えた。一流オーケストラの団員が野坂先生のことを「彼女は音楽家ではない。芸術家だ。あの音の運び転びは練習してできるものではない」と評したという話をどこかで目にしたが、“高いセンター”と“ゆるみきった身体”から紡ぎ出される音楽はまさに“天上からの芸術”と言うにふさわしいものであった。

この日の、空から降ってくるかのような音を愉しみながら、私は横山勝也師と山口五郎師の音を想い出していた。演奏スタイルは異なるものの、両師の音はいずれもホールの天井から降り注ぎ、すべてを包み込むような、人を「耳福」にする音であった。
私もそんな音を出したいと強く希う。聴いてくださる方を「耳福」にしたいと思う。そのためには楽器の修行のみならず、さらに人間を磨く努力をしなければ近づき得ないものなのであろう。


あっ、私は昔から「福耳」と周りの人から云われていた。「福耳」をひっくり返すと「耳福」である。これはちょっと可能性があるかもしれない。

どこかで、逆立ちをして尺八を吹こうとしている私の姿を見られた方は、ヘンな人だとは思わずに「耳福」の修行中だと思って欲しい。


。たしまいざごうとがりあ年一も年今(ううーっ、左右が反対になっただけか!まだまだ修行はこれからである。)






「愚公山を移す」
(2008-11-24)


    朝日が昇るから 起きるんじゃなくて
    目覚める時だから 旅をする
    教えられるものに 別れを告げて
    届かないものを 身近に感じて

    越えて行け そこを
    越えて行け それを
    今はまだ人生を 人生を語らず


    
11月8日、私にとっての今年の芸術祭が終った。
えっ、「あんさんの“独竹”とか何とかいう会は10月に終りましたがな」って。どこのどなたかは存じませぬがよく憶えて下さり光栄至極である。

ご指摘のとおり自分の会は10月28日に終ったのであるが、今年はその前後に芸術祭参加公演の助演の機会をいただいたため、都合3回芸術祭参加公演への出演という、私にとっては珍しく、かつ、ありがたいシーズンとなった。


    嵐の中に 人の姿を見たら
    消えいるような 叫びをきこう
    わかり合うよりは たしかめ合う事だ
    季節のめぐる中で 今日をたしかめる

    越えて行け そこを
    越えて行け それを
    今はまだ人生を 人生を語らず



まず第1ラウンドは10月18日、横山佳世子さんという若手奏者の箏リサイタルであった。横山さんは天賦の才に加え、沢井忠夫、野坂操壽(惠子)という名人の薫陶を得て、いよいよその能力を開花させようとしている大型新人(といってもすでに凄いキャリア)である。そのパワー、テクニック、音楽的感性など、いずれをとっても若手の中では群を抜いている。
昨年に引き続きのリサイタルであったが、選曲がまた凄い。『みだれ』『三つの断章』『物云舞』『上弦の曲』『ヨカナーンの首級(みしるし)を得て、乱れるサロメ―バレエ・サロメに依る―』と、大曲、難曲が連なり、いただいたチラシを見た時は「こんだけ続けて弾けんのやろか(これだけ続けて弾くことが出来るのだろうか)」と人ごとながら心配に思ったほどである。
私の受け持ち(?)は沢井先生の代表曲の一つである『上弦の曲』であった。幸いに、幾度となく舞台で演奏していた曲だったため、その点ではあせることはなかったが、人様のリサイタルで吹くことは自分のそれよりも数倍緊張するものである。ましてや今回は芸術祭参加でもあり、いわば“彼女の人生がかかっている”といっても過言でない。何とか破綻無く吹き終えた時にはびっしょりと汗をかいていた。
当の横山さんはというと、1曲でハアハアいっているおっちゃんを尻目に、涼しい顔で難曲5曲を弾き切っていた。それにしてもパワーとテクニックを兼ね備えたすごい逸材である。加えて彼女は尺八の人間国宝A木R慕師も認める三絃の才能も併せ持っている。これからの更なる飛躍を見守りたい。


    あの人のための 自分などと言わず
    あの人のために 去り行く事だ
    空を飛ぶ事よりは 地を這うために
    口を閉ざすんだ 臆病者として

    越えて行け そこを
    越えて行け それを
    今はまだ人生を 人生を語らず



そして第2ラウンドはその10日後、自分の第12回目のリサイタルであった。
これまでにあちこちでお知らせしてあったとおり、今回はすべて独奏曲のプログラムを組んだ。私にとってはハードな曲を選んだので、練習はたいへんだったが、準備は拍子抜けするほど楽だった。この楽さはクセになりそうである。でも、いつも独竹っている(?)と、そのうちに本当にお客様が一人になっちゃうかもしれないので、これはたまにやることにしたい。

今回の曲目は『松巌軒鈴慕』 福田蘭童作品三題『深山蜩・旅人の唄・桔梗幻想曲』『詩曲〜独奏尺八のための〜』『恵みあふれる雨』の計6曲。それぞれに趣向が異なり、楽しんでいただける曲を選曲したつもりである。
『松巌軒鈴慕』と福田蘭童作品三題は私のライフワークとする曲なので、だいたい予想どおりの出来であった。蘭童曲の曲間に、蘭童先生自身が書かれた言の葉を“石の会のアナウンサー”安田知博君にナレーションしてもらったのが殊のほか好評をいただいた。
あとの現代作品2曲は今回の“挑戦”とも言える選曲で、どのような出来になるか私自身まったくわからなかった。
『詩曲』はもともと“七孔尺八”を想定して書かれた曲である。夏の終わり頃まで、この曲の演奏には合理的な七孔尺八を使うか迷ったが、“自分は横山勝也の弟子である”との矜持もあり敢えて五孔尺八で臨んだ。結果を運転に例えて言うと、「蛇行するわ、ガードレールに幾度となくこするわ、ノッキングするわ、で、よくぞエンストやクラッシュせずに完走を果たした」という感じである。でも、終ってみるととても面白く、また演ってみたい曲になった(聴かされるほうはたまったもんじゃないかもしれませんが・・・)。終曲の『恵みあふれる雨』は当日のプログラムにも書いたとおり、“私がこれまでに出会った中で最も難しい曲”である。一応楽譜に書かれてある95%くらい(いや90%・・・ちょっと言いすぎ84%・・・待てよ78%・・・バゴーン!)は音に出来たと思うが、もうありとあらゆる技巧を次から次へと要求され、相当の準備と気合を持ってかからねば、跳ね返されてしまうほどの凄みを持った大曲であった。しかしそれ以上にこの曲の素晴らしいところは、その技巧を包み込んでしまうような、慈悲とさえ言える大きな温かさを持ち合わせているところである。何とか吹ききったあとは、北島選手ではないが“なんも言えねー”状態であった。

先の号でも書いたとおり「お客様が“ひとりだけ”だったらどうしよう」と心配した今回のリサイタルは、おかげを持ち、多くの熱いご来場者に恵まれ盛会裡に終えることができた。お世話になったすべての皆様にこの場を使い心より御礼申し上げる次第である。


    遅すぎる事はない 早すぎる冬よりも
    始発電車は行け 風を切ってすすめ
    目の前のコップの水を ひと息に飲み干せば
    傷も癒えるし それからでも遅くない


    越えて行け そこを
    越えて行け それを
    今はまだ人生を 人生を語らず



そしてラストラウンドは11月8日、京都在住の優れた箏奏者、中川佳代子さんのリサイタルの助演であった。ちなみに彼女は、今回の会場バロックザールが主催する“青山音楽賞”の先輩のため、バロックザール内では私は彼女のことを“姐さん”と呼ばねばならない(もちろん嘘・・・バゴーン!)。そんなことはどうでもいいのであるが、“音の行方〜箏ぷらす尺八〜”とのサブタイトルがつけられたこちらのプログラムも、先の横山かよちゃんに負けず劣らず凄まじい。『萌春』『莞絃秘抄』『土声』『双魚譜』そして『そして秋』と、美しくも激しい曲が並び、箏、十七絃箏、二十絃箏が飛び交う(実際には飛びません)凄いステージであった。5曲のうち4曲が箏と尺八の二重奏で、尺八には風童でいっしょにやっている米村鈴笙君、岡田道明君と私がバラ(?)で出演した。
私の受け持ちは吉松隆さんの『双魚譜』であった。ほんとうに良くできた曲で、現代作品の中ではかなり好きな曲である。ただ、難しい。自分なりに練習を重ねたが、本番でも少々すり傷や打ち身(?)があり、中川さんにご迷惑をお掛けしてしまったことは痛恨である。曲全体に対するお客様の評価は高かったらしいことがせめてもの救いであった。
しっかしまあ、中川さんも幼少の頃からソリストになるべく鍛えられてきただけあって、どんな曲でも自分色にしてしまうところが見事という他はない。関西での益々のご活躍を祈る次第である。


    今はまだまだ 人生を語らず
    目の前にも まだ道はなし
    越えるものはすべて 手さぐりの中で
    見知らぬ旅人に 夢よ多かれ



リサイタルは、その人がいつも以上にがんばる姿が見られて楽しいものである。また、その打ち込む姿は例えようもなく美しい。
リサイタルを私なりに例えると登山のようなものである。周りの協力者はいたとしても、最後は一人で登らねばならない。しかし頂に登ると確実に見える景色が違ってくる。そしてもっと高い山に挑戦したくなる。


    越えて行け そこを
    越えて行け それを
    今はまだ人生を 人生を語らず


結局は自分との闘いなので、敢えて芸術祭に拘る必要はないのであるが、ひょっとするとご褒美がもらえるかもしれないとなると、おまけに弱い私はついついそっちを選んじゃうんだよね。


    越えて行け そこを
    越えて行け それを
    今はまだ人生を 人生を語らず (「人生を語らず」詩、曲、歌:吉田拓郎)








「天に眼」
(2008-10-23)

私は現在趣味らしい趣味を持たないが、強いてあげるとすればそれは“料理”である。在宅時は一日一回以上は厨房に立つし、亡き父が一人暮らしをしていた時にはおさんどん(お三度)をしていたこともあるので玄人といえばいえなくもない(ちなみに直近に作った料理は“からすかれいの煮付け”“ポテトサラダ”“大根となめこの味噌汁”である)。しかし現在は、自分の都合の良い時だけ出来るので、あくまで素人であり、趣味の範囲である(でも厨房に立つ時ははだしなので“玄人はだし”・・・違うか〜!)。

料理をしている間はだいたい曲の暗譜に充てている。これから舞台にかける曲やしばらく吹いていない本曲などを唱譜しながら作業をしていると、あまり苦もなく料理ができる。また、5分煮炊きをする時は「心月」を一回、3分焼き物をする場合は「旅人の唄」を一通りなど、曲がタイマー代わりになって便利なことこの上ない。傍目から見るとヘンなおっさんであるが、台所で「ツレーレー」などと歌うのは結構気持ちのいいものである。

私はまた、料理を作るのと同じくらい、スーパーマーケットや百貨店の食料品売り場をうろつくことも好きである。二つ、あるいはそれ以上の店をはしごしたりして、世の中の諸物価の動向をリサーチする(そんな大層なもんやおませんが・・・)ことも面白い。“それが一体何の役に立つねん”と言われそうであるが、好きなこととはそんなものである。

それはさておき、現在は子供が小さいこともあり、食品の安全性には特に気をつけている。食料品を目利きする際にも、産地や添加物の有無、農薬の使用、賞味期限などについて、以前よりもずいぶん注意深くなったように思う。そんな中、信じられないような事件が報道された。大阪の何とかフーズが引き起こした汚染米事件である。人としての良心やモラルが完全に喪失してしまった人非人による所業と言わざるを得ない。マスコミに対して“えぇ、金儲けのためですよ”などとふざけたコメントを出していた社内の広報担当者にも憤りを憶えたが、やはり諸悪の根源は社長である。報道によると濡れ手に粟のような儲けでそうとうバブリーな暮らしをしていたらしい。自分達は悪事を働いて儲けた金で安全なものを食べればいいとでも思っていたのであろうか。“そんな悪どいことをする輩はどんな奴だろう”と思い、報道を注目したらなんと73歳のおじいさんであった。また、それに知恵を付けた“顧問”もいい歳をしたおっさんであった。何度目かは数え切れないくらいであるが、悪事を働くのに年齢は関係ないことを再認識した。

食品に携わる人間は、自社の扱っている製品について、自身はもちろんのこと、家族や子供が摂取しても問題ないような品質と安全性をまず確保すべきではないのか。同じ恰好(?)をした野菜がスーパーの店頭に並んでいるものと、有機農法で作られたものとで3倍くらいは値段が違うことからもうかがえるように、食品を真面目に作ることがどれだけ大変で、どれだけコストがかかるかは想像に難くない。ちょいと薬品を使ったりすると、見た目が綺麗で日持ちするものが出来るのかもしれない。しかし、生産に携わる人はその良心に基いて、安心で安全なものを我々に供給していただきたいと切に願う。


翻って演奏や音楽もまた同じである。まずは自分自身の目指す音、演奏に向かっているかが大事であるが、その演奏を自分の愛する人に安心して与え(聴かせ)られるかということもまた、自身に厳しく問いただして修練に努める必要があると私は考える。うわべだけ装って良く見せようとしても、真剣に聴いてくださる人やお天道様の前では“ちょんばれ”なのである。ここでは“偽装”は全くもって通用しない。


さて、私のリサイタルまでいよいよあと数日となってしまった。お忙しい中ご来聴いただく皆様方に安心して(ちょっとドキドキしてもらえるともっと嬉しいどす)お聴きいただける演奏を目指して、最後の追い込みに入ったところである。曲を“料理する”という境地にはほど遠いが、嘘や偽装の無い安全な音をお届けする所存である。

まだまだお席には余裕があります故、ご都合のよろしき方には是非ともご高聴をお願いする次第でありますっ。


【お詫び】
早期に着手しましたが、書き了りまで日数がかかりすぎ、賞味期限切れの内容になってしまいましたことを心よりお詫び申し上げます。





「尺八(虻蜂)取らず」
(2008-9-9)

中途半端はやめて
苦しいだけだから
どっちかはっきりさせて
好きなの 嫌いなの
惚れた弱みにつけ込んで
あなたは何さ
小猫がマリにじゃれるよに
たわむれないで
責任とって 責任とって
あなたも男なら

〈中略〉

責任とって 責任とって
あなたも男なら(「中途半端はやめて※」作詞:なかにし礼 作曲:筒美京平 歌:奥村チヨ)


※近頃はyoutubeという便利なモンがあり、そこで曲を聴くことができます。


 私が今何故尺八を吹いているかというと、『世界平和に貢献する』という大願は横に置いておくと「自分の人生の中で一つぐらいは全うしたい」という理由からである。
 思えば子供の頃から色々なものに手を出しては頓挫してきた。野球、切手集め、釣り、ガットギター、絵を描くこと、“アマチュア”プロレス、自転車、ロック、酒(頓挫せずともプロ級にあらず)、ギョーザ(?)、ゴルフ、呼吸法、などなど。全てが無駄だったとは断固として思いたくないが、一つとしてモノになったためしがない。

 実を言うと、尺八もこの中の一つに並べられる寸前であった。
大学入学とともに始めた尺八は、私にしては珍しく熱中し、充実した大学生活の源となった。しかし、まさかそれを生業に出来ると考えられる要素はこれっぽっちもなく、サラリーマンとしてスタートを切った時点ではやめるつもりでいた(実際に半年間位はまったく吹かない期間があった)。
それが再び尺八を手にすることになった理由は、まず、独りで出来る楽器だということ、そして、古典本曲の素晴らしさ、奥深さを体感することが出来たこと、この二点である。

 古典本曲なら誰に迷惑を掛けることもなく、独りで楽しみ、向上することも可能だった。加えて、現在の指針であり、かつ、究極の目標でもある横山勝也先生の尺八音楽に出会えたことは何よりの動機づけとなった。また、尺八の世界はパイの小さな世界なので、一介のアマチュアサラリーマンである私が、尺八界の頂点に立つ横山先生と直にお話が出来たり、ご指導を仰いだりすることが出来たことも幸運であった。層の厚いクラシックの楽器などでは想像もつかないことであろう。

 10年のサラリーマン生活のあと、“一度リサイタルというものを納得の行く形でやってみたい”と脱サラし、半年後に初リサイタル『一管懸命』を何とか形にすることができた。気がつくとそれから15年が経ち、11回もの回数を重ねていた。これは偏に応援し、励まして(その間に見事にハゲてしまったが)くださる皆様方、ご先祖様、神様、仏様のおかげに他ならない。

 これまでの11回のリサイタルには毎回ゲストの人をお願いして私の拙い尺八を助けていただいたが、今年のリサイタルは意を決して全曲独奏曲で臨むことにした。→内容はこちら
何事も中途半端で生きてきた私が唯一続けてこられた「尺八」で、私のすべてをさらけ出す覚悟である。一切合財の“責任”を背負った“自分自身”の音を会場一杯に吐き出したい。


“あらっ、10月28日はたまたま空いているわねぇ”というお方には『独竹』(読み方は“どくちく”でも“ひとりだけ”でも構いませんが、お客様が“一人だけ”では困ってしまうんですぅ)のご来聴を切にお願いする次第である。


 先日街に出かけたら同じ日に、《電車の中でipodを聴きながらマンガを読み携帯でメールを打っている学生風》と、《バイクを走らせながら携帯メールを打っている(右手はアクセルを握っているので操作は左手!)にいちゃん》を見かけた。気の弱い聖徳太子でもあるまいし、人間そんなにいっぺんに何でもかんでも出来るわけがありませんぜ。

 「中途半端はやめて」一つずついきましょうや、あなたも私も男なら!




「人間国宝万事塞翁が馬」
(2008-8-16)

SCENE9
その時Tは空港のロビーにいた。友人が来るまでにはまだ時間がある。仕方無しにTはスーツケースに腰掛けぼんやりと遠くを眺めていた。その時だった。Tの視界の中に一人の初老の男性が入った。数秒ののち、Tはその男性が誰であるかを認知した。“ゲッ、A木先生だ”紛れもなくその初老の男性は尺八の人間国宝A木R慕師だった。Tは慌ててスーツケースから降り直立不動の姿勢になって口を開いた。“ごぶさたしております、大阪のI川です”するとA木先生はTの顔をマジマジと覗き込み、合点がいったようにこう言った。“老けたねぇ”



7月4日〜8日、シドニーに於いて『国際尺八フェスティバル2008』が開催された。
私も招待演奏家の一人として参加させていただいたのであるが、まさしく度肝を抜かれたといっても過言ではない。日本からは人間国宝のA木R慕師を筆頭にピチピチ(?)の若手まで尺八家約30名に絃方、作曲家などを加え総勢40名以上、そして諸外国からも20名以上が招聘されるという大盤振る舞いで、昨今の日本では考えられないような豪華な顔ぶれであった。
また、内容も2年を超える時間をかけて綿密に組まれたプログラムで、大会場でのメインコンサートと日本の巨匠(人間国宝A木R慕師、五世荒木古童師、川瀬順輔師、宮田耕八朗師)の講習が毎日あったほか、コンサートや講習会、ワークショップ、パネルディスカッションなどその数合わせて70以上という充実極まりないものであった。特に海外の尺八奏者に人気の高い古典本曲や三曲はいうに及ばず、世界初演の現代作品、弦楽四重奏や民族楽器とのコラボレーションなど様々なジャンル、企画が取り上げられ、助演で参加されていた現地の世界的打楽器奏者をして“尺八とは何と幅が広く、奥が深い楽器だ”と言わしめた。
また、若手のコンクール、その名も“S−1グランプリ”が企画され、世界中からの応募の中、予選通過者が覇を競い、見事日本の女子高校生井本さんがグランプリに輝いたことは尺八が新しい時代に突入していることを感じさせた。
(詳しいレポートは〈邦楽ジャーナル〉誌2008年8月号に記載されているのでそちらをご高覧されたい)

とにかく、尺八の国際的な拡がりには目を見張るものがある。もう数十年もブームが続いているアメリカ、今回の芸術監督ライリ・リー師が見事に開拓を成功させたオーストラリアに加え、昨年初めてフェスティバルが開催されたヨーロッパ、着実な伸びの中国、台湾などのアジアなど、海外における尺八は前途洋洋である。〈邦楽ジャーナル〉の記事でもライリ・リー師が「もはや尺八はオーストラリアの楽器です」と言い切っていたように、その発祥や起源はあまり意味をなさなくなってきているのかも知れない。
それにひきかえ本家本元の日本における尺八の前途は多難である。対外的には藤原道山さんが孤軍奮闘しているが、それ以外ではなかなか一般の人々の前に尺八をアピールすることが出来ない状況が続いている。私自身も恥ずかしい話、プランばかりはたくさん頭の中にありながら遅遅として形には出来ていない(先だって終わった「石川ブロス」、ようやく出せたCD「一管懸命V」、10月のリサイタル、など少しづつ行動してはいるが〔“石”ののろいの話〕のようなペースにすぎない)。

そんな中、前向きなニュースがあった。フェスティバルの打ち上げのディナークルーズに於いて、ほぼ4年おきに行なわれている国際尺八フェスティバルの次回開催地に京都が名乗りをあげたことである。ほぼ決定したという噂もある。「尺八ニッポン(?)」を復権させ、世に尺八をアピールする絶好のチャンスである。成功に導くためには想像を絶するような苦労を伴うことが予想されるが、幸い京都には実行力に溢れた先達、仲間が多数存在する。私も同じ関西人(その頃には道州制が導入され、関西州あるいは近畿州になっているやもしれない)として、尺八の再興に貢献したいと希う。


ところで、冒頭の人間国宝A木R慕師との遭遇の話には続きがある。“老けたねぇ”と言われてしまった私は一瞬絶句し、“貴方様からそのようなお言葉を頂戴するのはいささか不本意でございます(関西弁では「ア○タに言われとうないわい!」)”と思ったのであるが、まさか国宝の先生にそのようなお言葉を返す訳にもいかず、数秒間苦悶した後に口から出た言葉は“ありがとうございます”であった。何と間抜けな応答であろうか。頓珍漢とはまさにこういうことである。
その“ありがとうございます”を聞かれたかどうかは定かではないが、次に国宝先生に目を移すと、持っておられたショルダーバッグをやおら床に置かれて何やらごそごそされていた。しばらくの後、バッグから半紙の束らしきものを取り出された国宝先生はそこから一枚抜いて、“これあげるよ”と私に手渡してくださった。そこには直筆で「龍騰鳳舞」という、訳がわからないが何となくありがたそうな漢字が揮毫してあった(どうやら故事らしい)。私は心の中で「えっ、こんなん貰ってええのん、超ラッキー!」と叫び、今度は晴れやかな大きな声で“ありがとうございまーす”と言った。

私の父マサアキは凹(へこ)んだ時に“いろいろあらあなぁ”と言ったが、いろいろあるから人生は面白い。今度海に行った時には砂浜を駆け出し海岸線に向かって“いーろーいーろーあらーなーーー”と叫ぶつもりでいる。



「寝る間が極楽」
(2008-7-2)

“春眠暁を覚えず”孟浩然さんはこう書き遺した。何の何の私は“通年暁を覚えず”である。んもう、一体全体どうしちゃったの?というぐらい毎日毎日眠くて眠くてしょうがない。特にアルコールが入るともうだめである。
“睡魔に克てずスイマセン”などと、故林家三平師匠もズッコケてしまうような駄洒落がついつい口をついて出てしまう私である。


それはさておき、6月は久しぶりに泊りがけの学校公演ツアーに参加させていただいた。場所は長野県木曽郡。“木曽路はすべて山の中である”と藤村が記したとおりの、緑豊かな山々に囲まれた、長閑でのんびりとしたよいところであった。
今回は月曜に現地入りし、リハーサルと打ち合わせ、翌火曜日から金曜日まで小中学生を対象に一日3公演ずつ、計12公演というスケジュールだった。小学校低学年の子供達は音楽を身体で感じ、喜びを表してくれるが、学年が上がるにつれ恥ずかしさも芽生え、少なからず醒めた反応に変わっていくのはだいたいどの地方も共通のようである。
そんな中、今回特に印象に残ったのは、生徒達よりもむしろ、演奏終了後に挨拶をされた校長先生のコメントだった。校長先生といってもせいぜい50歳前後なので、和楽器や邦楽などにはほとんど関わることなく現在まで来られたことは想像に難くない。“和楽器でこんな音楽が出来るとは知りませんでした”“一つ一つの音がすーっと身体の中に入ってきました”等々の感想は本心から出たものだろうと私は感じた。感動のあまり言葉に詰まる先生もおられ、こちらも“もらい感激(?)”した。
今回の公演は司会の役も仰せつかり、なかなかハードな五日間であったが、やはり学校公演は面白く、またやりがいがあると、充実した心持ちで木曽を後にした。

その充実したツアーの中で一つだけ難儀なことがあった。それは、宿泊したホテル(その名も「ねざめホテル」)が一泊二食つきだったことである。
“何だ、結構なことじゃないか!”と思われるむきも少なくないであろう。しかーし、夕食は午後7時からなのである。それまでにホテルの温泉に浸かり、お疲れモードに入っている人間の前にご馳走が並べられてお茶とご飯で済むわけがない。とりあえずのビール(ビール党の私にはこの“とりあえず”というのは不本意極まりないが・・・)でお疲れさんの乾杯を行ない、その後当然のごとくずるずると飲酒パターンに入るという毎日になってしまった。
アルコールが入ると私の身体は自動装備されているAEC(Auto Eye Closer→ずっと前のこの項に書いとります)が働き、2時間の限界ランプが点滅を開始する。午後7時+2時間=午後9時であるから、もう9時には居ても立ってもいられず、寝床にバタンキューをしてしまうことになる。
“何だ、早くから寝られて結構なことこの上ないじゃないか!”とまたまた思われるむきも少なくないであろう。
しかーし、私はビールを飲んで寝ると、今度はほぼ4時間でパチリンコと目が覚めてしまうのである(これはAEO)。午後9時+4時間=午前1時。今回のホテルでも午後9時に眠りに落ち、“あーぁ、よく寝た、さぁ今日もがんばりましょか、ん、まだ暗いな、何時ですかいね”と一人ごちて時計を見ると“げっ、まだ午前1時、ひぇーっ”ということが三日ほどあった。困ったことにここからは目が冴えて眠れなくなるのである。自宅に居る時や翌朝早くない時はもう一度焼酎かウイスキーをちびちび舐めてAECが再起動するのを待つわけであるが、ツアー中は〈6時起床、7時朝食、7時半出発、8時到着&セッティング、9時演奏開始〉という品行方正な朝型スケジュールであるからしてそれも出来ず、再び眠気の催す明け方まで悶々として過ごす「ねざめホテル」の私であった。

この木曽路の経験から、“通年暁を覚えず”の昼間の眠さは「こま切れ寝」と「長い二度寝」の悪循環が原因だと自己分析をするに至った。あまり認めたくないが、続けて眠れないことは体力が落ちてきていることの表れだと思う。長時間続けて眠るのにも体力が必要なことは確かである。充実した50代、60代を迎えるためには眠るための体力をつけねばならぬ、と考える今日この頃である。


ところで、只今“世界のナベアツ”が大ブレークしている。あの「3の倍数と3がつくときだけアホになりまーす」というやつである。実は私もちょっと気に入っている。
そこで、この稿も終わりに近づいたので一杯やりながらちょいと真似事をやってみることにする。
当然私は尺八に引っかけて「108のときだけアホになりまーす」である。
「イーチ、ニーイ、サーン・・スーッ・・・グーッ・・・・zzzzzz」
あららもう寝ちゃったよ・・・・・・ご想像通りのオチでほんまにスイマセン!

「オモロナーイ!!」




「一念岩をも通す」
(2008-5-27)


“いろいろあらあなぁ”
これが亡き父の酔っ払った時の口癖だった。

ちなみに音程はというと、およそ“リリリロリ甲レーイのメリー”、都山式だと“乙ハハハロハ甲レーリー”だった。烈しく酔っ払った時は“いろいろ”が“いっろいろ”になったり、通常“甲のレ”の“ら”のところが“甲のチ”に跳ね上がるというバリエーションがあった。ストレスは音に附点をつけたりピッチを高くしたりする働きがあるようである。


そんなこたぁどうでもいいが、またまたシビれる本に出会った。
  『赤めだか』立川談春(2008扶桑社 定価:本体1333円+税)
高校を中退して天才落語家・立川談志に入門した少年(のちの談春)が、前座から二つ目に上がるまでの生活を記した「エッセイというか自伝というか青春記(推薦文より)」のようなものである。本の腰巻で書評家二人が絶賛しているように文章が抜群に上手い。文中には家元・談志を始めとして談春を取り巻く兄弟弟子、師匠連、ひいては米朝師、小さん師にいたるまで多くの人物が登場するが、談春はおそろしいほどの記憶力と筆力で、落語に携わる人たちの厳しくもおかしい日常を鮮やかに描き出している。「笑わせて、泣かせて、しっかり腹に残る」という(こちらも)推薦文のとおり、小気味よさと感動が詰まった一冊である。くやしいが落語家の師匠と弟子の強い絆にジェラシーを覚えてしまった。面白さが半減してしまうといけないので内容を書くことは差し控えるが、落語に興味があるなしにかかわらず皆様にご一読をおすすめする次第である。


さて、私にもまた私と弟子との絆がある。今回は前号のに引き続き、私のところに集う若手の門人を紹介させていただくことにする。前回の“松本クァルテット(????)”に続く第二弾は“岩小安谷(読み方は自由)”である。

今回も入門順で「一念“岩”をも通す」の岩本みち子女史から紹介させていただく。彼女は製管師松本“浩和”君の同級生で、私の稽古場に初めて来たのは大学生の時であった。チャーミング(死語?)な容姿からは“えっ、この人が尺八を吹くの”といった印象を受けるが、それがなかなかどうして肚がすわっているというか、どんなときも物事に動じず堂々としている。学生の頃から練習よりも本番に強く、その意味においては実に演奏家向きの性格だと言えよう。大学を卒業と同時にレッスンに来れなくなったため私が惜しんでいたら、何年か経ってまた戻ってきた。それも会社を辞しNHK邦楽技能者育成会に入る、というプランを持ってである。育成会には目出度く一発で合格し、そこで一年間鍛えられて卒業、現在は京都を基盤に彼女なりの演奏活動と尺八の啓蒙活動を行なっている。彼女には、特に女性や子供に尺八を紹介する役割を担って欲しいと期待しているので、そのようなビジョンをお持ちの方はご連絡をお願いする次第である。
色々なところに気がつき、面倒見の良い〈石の会の婦人部長〉といったところであろうか。

続いては、優秀な若手尺八奏者が犇めく東京において、確固たるポジションを築きつつある小濱明人君である。彼は“松浩”と“岩”の同志社大学の二年後輩で、やはり学生時代に初めて私のところにやって来た。
当時はビッグバンドと邦楽の二つのサークルに属していて、いつも「いや〜、忙しいですね〜」と言いながら稽古場に通って来ていた。この口癖は今も変わらず、話をする度に「いや〜」と言っている。それはさておき、私が感服するのは関西から何のバックボーンも持たずに上京し、数年で周りから認められるようになったことである。育成会を卒業した直後には“尺八新人王決定戦”で優勝するという快挙を成し遂げ、また、その頃から自作曲を中心としたライブ活動も開始し現在もなお継続中である。作曲も多く、また、民謡やヴォイスなど彼独自の切り口で音楽と向き合いますます活躍の場を拡げ、近年では、私も驚くようなキャリアのミュージシャンに可愛がられて(もちろん実力を認められて、である)一緒に仕事をさせていただいている。もっともっとビッグになってもらって、私にお小遣いをくれる日が来ることを心より期待している(もちろん・・・マジっす)。“ちょっとおもしろい尺八を聴いてみたいわ”という方はぜひライブへのお運びをおすすめする次第である。男女の性差を越えた〈石の会の年上キラー〉である。

もう1人忘れてはならないのが〈石の会のアナウンサー(そのままやないか!)〉安田知博君である。彼は尺八界でももはや有名人であるが、もっと有名なのはアナウンスの世界である。試しに“安田知博”でググッていただくと890件ものヒットがあり、その総数のみならず放送関連の内容の数の多さからもその知名度がうかがい知れる。高校生の時には全国高校生放送コンテストで3連覇という偉業(門外漢の私でも、とんでもなく凄いらしい、というのはわかる)を成し遂げ、現在は“放送部インストラクター”として全国を股にかけ活躍している。
尺八および笛は10歳より始めたそうである。たまたま(かどうかは知らないが)入った大学が私と同じで、クラブでも先輩、後輩の間柄であったため、私が修めた古典本曲を伝授してはいるが、はっきり言って彼のほうが私の数倍は上手い。音の扱いや耳の良さなどは石の会随一である。全国邦楽コンクールの優秀賞を二度獲得するほか、数多の受賞歴を持ち、現在は『おとぎ』という和楽器のバンドやソロ活動で忙しくしている。“最近いいものを聴いていないわねぇ”という皆様には、安田君の“多くの女性を虜にした”美声と、流麗な尺八演奏をご一聴いただきたくここにお願いする次第である。

そして第二弾の“トリ”として谷 保範君を紹介したい。谷君は“今どきこんな青年がいるのか”と驚くくらい爽やかでシュッとした(関西弁?)青年である。彼は谷 泉山師の長男、後継として既に関西ではよく知られた存在であり、また、所属する上田流尺八道においては、流の明日を担うホープとして嘱望されている。私のところへは会友として古典本曲の勉強に来ている。ここ数年の充実度は目覚しく、いよいよ彼の時代を迎えようとしているといっても過言ではない。この5月18日に行なわれた「第14回くまもと全国邦楽コンクール」に於いては優秀賞を獲得するという殊勲をやってのけた。初参加で尺八部門1位、優秀賞獲得とは立派の一語である。私の知らないところでも多くの演奏の場があるようなので“シュッとした尺八吹きを見てみたいわねぇ”という皆様には演奏会へのお運びをおすすめする次第である。私からは〈石の会の監査役〉として、これからも末長いお付合いをお願いしたい。

前回、今回と4名ずつ、計8名の若手を紹介させていただいた。皆それぞれにがんばって勉強、修練を重ねている。尺八は今のところ『絶滅危惧種』とまではいかないが、全体で見ると結構ヤバイ状況だったりする。そこで、尺八界の将来を担う若手に対しては、皆様のより一層のご指導、ご鞭撻をお願いする次第である。若いから、ちょっと吹けるからといって褒めるばかりでなく、ダメなところはダメと厳しく指摘してやっていただきたい。


さて、先述の『赤めだか』において私の心情とフィットするくだりがあったので、禁を破ってその部分だけ紹介させていただく。談春らが二つ目に昇格披露した際の師匠・談志の祝辞である。

「落語家は伝統を語っていかなければいけません。当人の段階に応じた伝統を、落語を語ってゆく。そしてウケる根多を作ってゆく、それをこれからやってゆくのです。そして、最後には己の人生と己の語る作品がどこでフィットするか、この問題にぶつかってくると思います。〔ちょいと略〕
 問題は古典落語が一般的にあまりポピュラーではないということです。落語さえ上手ければ何とかなるという時代ではない。だからこそやり甲斐があるのです。落語に己の人生をフィットさせて、俺がつくった夢金だ、大工調べだと云えるようになってほしい。落語はもはや伝統ではありません。個人です。演者そのものを観に来る時代になっているのです。」

この文中の「落語」を「尺八」に置き換えると見事に私から若手へのエールになる。伝統を土台にし、それぞれ“本人”の尺八を、演奏を作り上げていって欲しい。みんながんばろう。もちろん私もがんばる(何か熱血教師みたいになってきた)。


今回の稿の完成が遅れてしまったのは、5月18日の「くまもと全国邦楽コンクール」の結果待ちのためであった。出場メンバーの顔ぶれを知り、谷君なら充分に戦えると予想した私はその結果を聞いてから今号を纏めようと考えていたのである。
私の予想は見事に当たった。待った甲斐があったというもんである。

えっ、それにしては発表からずいぶん日が経っているじゃないかって・・・・
いや、あの、それは・・・・

“いっろいろあらあなぁ”






「松の事は松に習え、竹の事は竹に習え」
(2008-4-19)

それにしてもまた松本である〈門人紹介〉。私はよほど“松本さん”とご縁があるらしい。

ありがたいことに、私のところへは“尺八に関わって生きていきたい”と熱望する若者が少なからずやってくるのであるが、今のところその2人に1人は“松本”という姓である。尺八のプロを目指す若手、というだけでもイマドキ珍しいのに、20代後半から30代前半の7つか8つの年齢の間によくもまあ“松本さん”が集まったものである。

せっかくなのでその4人の松本さんを紹介させていただくことにする(なお、松本さん以外の若手の紹介は次号を予定している)。

入門順でいくと、一番古いのが松本“浩和”君である。今年35歳になる彼が私のところにやってきたのは大学生の頃であったので、もうかれこれ15年位のつきあいになる。とにかく音楽全般に関して博識で造詣が深く、一時は本気で音楽評論への道を志していたこともあったらしい。その彼が今はプロの製管士としてやっているのだから人の人生というものはわからないものである。凝り性で、尺八制作においても弟子入りしていた師匠の方向からは離れて「十割り尺八」を中心に作っているイマドキ珍しい存在である。また、本曲、古曲をメインに吹奏力を高めることにも余念がない。かなりマニア向けではあるが、響きの良い面白い尺八を作っているので興味を持たれた方は連絡をお願いする次第である。現在は関東に居住して制作を行ない、月1回出身地の大阪府堺市でも作品試奏や情報交換の場を持っている。次に登場する“太郎”君をして「こんなに頑固な人間はいままで見たことがない」と言わしめた。〈石の会のザ・こだわりスト〉といったところであろうか。

その“浩和”君が学生で出演していた第1回の『石川利光尺八教室夏の演奏会』(1996年)を聴きに来ていたのが松本“太郎”君である。彼は高校の途中から単身オーストラリアに渡り、そこで尺八に出会う。現在、オーストラリア尺八界のみならず海外の尺八界において中心的な役割を担うリー・ライリー師との出会いが彼の運命を変えた。進んでいた大学を中退し、尺八を本格的に勉強するために日本に帰国。入門先を探している時に大阪にて私の門人会を聴き、即入門と相成った。いわば尺八界の〈ノブ・ハヤシ〉である(・・・K-1ファン以外はわかりまへんね。ごめんなさい)。
〈石の会の野生爆弾〉と呼ばれている(あれっ、そう呼んでいるのは私だけ?)彼は、野性味溢れる型破りな音と演奏が持ち味であり、その“野趣を損なわずに整えるべきところをいかに整えていくか”ということが、本人と私双方の課題である。一部で熱狂的なファンを獲得したバンド『沙弥音』を経て現在はジャズピアニスト、ロジェ・ワルッヒさんとのユニット、および尺八本曲を中心に活動を展開している。また最近はジャズボーカルの黒岩静枝さんのライブにもよく出演させていただいている。他ではなかなか聴くことの出来ない音を吐き出す尺八吹きなので興味を持たれた方はライブへのお運びをお願いする次第である。

3人目の松本君は今回〈門人紹介〉に登場した松本“宏平”君である。学生時代には都山流尺八を学び、その後私のところへやってきた。大学を出てサラリーマンをしていたが、熱が高じてついに退職、この3月にNHK邦楽技能者育成会を卒業した。
彼は京大卒というだけあって、その集中力がハンパではなく、ここぞという時に爆発的な力を発揮する。サラリーマン時代に出場した熊本の『全国邦楽コンクール』においては初参加で並居るプロや藝大卒などを押さえて最優秀賞を獲るという快挙を成し遂げ、また、NHKの育成会も募集の告知を締め切り数日前に見て受験し、見事に合格したという強者である。現在は練習に明け暮れながらこれからの方向を模索している。〈石の会の頭脳〉となってくれることを期待してはいるが、若手飽和状態の東京の尺八奏者の中で独自のポジションを見つけて羽ばたいて欲しいと切に願う。古典本曲に加え、他ジャンルとのコラボレーションや即興演奏に惹かれているそうなので興味を持たれた方はご支援をお願いする次第である。

そしていよいよ4人目は〈石の会のkanaiya〉松本“学(まなぶ)”君である。変わり者が多い石の会の若手の中でも一際異彩を放っているのが彼である。17歳頃からインド、タイ、屋久島、中国、チベット、ネパールなどを旅し、その間に出会った各地の笛および笛の作り方を習ってきたとのこと。また、“学”君は出身地の福岡でも、地元の一朝軒(いっちょうけん)に入門し法竹(ほっちく)を学んでいる。おそるべきはその行動力であり、それがそのまま現在の生活に結びついていることは見事という他はない。バンスリー、しの笛、地なし尺八・法竹の制作に加え、最近は竹製の箸や麻製品も作っている。ただ、本人の真面目さも手伝ってあまり高い値段をつけられないようである。私自身あまり協力出来ていないのが心苦しいが、何とか販売のほうも軌道に乗ってほしいと願う。興味を持たれたご覧の皆様にはご本人様使用でのお買い上げ、および販路のご紹介をお願いする次第である。

4人の“松本”君はそれぞれに目指す方向は違うが、敢えて妥協せずに生きる道を模索しているところが皆素晴らしい。私も微力ながら出来るかぎりの後押しをしたい。


ところで、私自身脱サラして尺八の世界に入ってからこの3月で丸15年が過ぎた。よくこの年月持続できたものである。皆様のお導き、お力添えに深甚の感謝を申し上げるより他はない。演奏家を目指しプロへの道を歩き出したが、幸いに教室に入門する人も増え、はっきりした数字はわからないがその数は100人を超えたようである。(この無責任な書き方は私が〈去るものは追わず〉〈出入りは極力自由に〉というポリシーだからである。習得したい曲を習得し終え自分で出来ると判断された方、他へ習いに行きたい方などは私から引き止めることはしない。)
以前は口コミによる入門が大半で、それ以外は実際に演奏を聴いていただいて来られるケースが多かったが、近年は圧倒的にインターネット経由である。私は尺八家の中でもインターネットの恩恵をかなり享受している人間だと思う。ただ、この便利なシステムの拡がりは良い面ばかりではなく、人をルーズ(またはイージー)にしてしまう面も併せ持っている。気分が乗ったから突発的に連絡を寄こし、その内に気が無くなったからと簡単にキャンセルするケースや、また、自分の素性を明かさずに一方的に自分の用件だけを言ってくる人も少なくない。近頃では個人レッスンを受けにくる人にさえ連絡先を教えたがらない人がいる。私は何でもかんでも売りつけようとしたり、その方の情報を利用しようとしたりするつもりは毛頭ないのである。それでも、例えば次のレッスンまで間隔が空いてしまうので私が「次の楽譜をお送りしますので送り先を教えてください」とたずねても「いえ、次のレッスン時で結構です」などと連絡先を隠そうとされる。
私は、わざわざ来てくれた人に対しては最善の方法で、その方のために役立つであろうことをお伝えしているつもりであるし、人によって分け隔てをしないよう常に心がけているつもりである。しかし、そのご本人から“都合のよいところだけ習おう”という空気が見え隠れしてしまうと、こちら側の志気に影響が出るのは仕方の無いことだと思う。

今回のタイトルは松尾芭蕉が記したものであるが、実に含蓄のある言葉である。「竹のことは竹に習え」“その気持ちになって考えるべし”という教えである。人がこちらの意図するにならないことは自分自身の修行不足、実力不足である。

“松”に限らず、縁あってお会いする人に皆よろこんでもらえるような“石”に私はなりたい。







「石の上にも三十年」
(2008-3-15)


「人生の半分を生きてこれから後半にさしかかると思うと、好きでないことには、もう関わっていたくない、とつくづく思う。それは善悪とも道徳とも、まったく別の思いであった。一分でも一時間でも、きれいなこと、感動できること、尊敬と驚きをもって見られること、そして何より好きなことに関わっていたい。人を、恐れたり、醜いと感じたり、時には蔑みたくなるような思いで、自分の人生を使いたくはない。この風の中にいるように、いつも素直に、しなやかに、時間の経過の中に、深く怨むことなく、生きて行きたい。」

以上、今月の「石と竹」は終わり!・・・・・・・・というのは真っ赤な嘘である。私の想いをドンピシャリ(?)と言い表したこの文章は、私が傾倒する曽野綾子さんのものである(『燃えさかる薪』より)。
うーん。一度でいいから私もこのようなキリッとした言の葉を綴ってみたいものである。

そこで、思い立ったが何とかでちょいと私も挑戦してみることにする。

「私はとおねんとって三十七歳である(嘘かますなオッサン!〈陰の声〉)。・・・いや、だから、十年取ると三十七歳であーる(何をしょうもない化石みたいなギャグを言うとんねん!)。・・・では、気を取り直して。えへん、私は四十七歳である(それがどうしたー)。だからあと三年で五十歳になってしまうのである(何あたりまえのことを言うとんねん、引っ込めー!)。でも、四捨五入すると二年前から既に五十歳である(面白くないわよ、引っ込みなさいよ!)・・・えっ、女の人も増えた?」 
という訳で、すごすごと退場処分になってしまうのが関の山である。

早いもので、十八歳で始めた尺八が今年で三十年になろうとしている。超長く見積ってあと三十年吹けるか吹けないかであるから、人生のみならず尺八とのつきあいも折り返しを過ぎ、後半に入ったと言えるであろう。

「三十年近く吹いてそれかい」と突っ込まれてしまうような全く恥ずかしいかぎりの吹奏力しか持てていないが、それはさておき、私は演奏に臨む時、その“音楽”はちゃんと“尺八”でなされているのか、ということを自分に問い質している。
「あんさんのその楽器は尺八でなくて何でんねん」とまたまた突っ込まれかねないが、私は“尺八”でなければ出せない音色、表現に拘りたいと常々考えている。私にとっての“尺八”とは、乱暴な言い表し方になることを省みずにいうと、“ロ(ろ)はロの音、ツはツの音、レはレの音、チはチの音、リ・ヒ(ハ)はリ・ヒの音がして、また、メリはメリ、大メリは大メリで、それぞれが他に代えることの出来ない音と韻を持った竹の笛”である。出しやすい音や比較的音量のある音と、そうでない音がある以上、それを繋ぐとデコボコになるのは当然であるし、そこをいかに美しく表すか、というところに尺八の最大の魅力と価値があると私は思う。
私にとっての“尺八”とは、「カリ(通常)音とメリ音」のいわば「光と影」のコントラストによって音を紡いでいく“楽の器”なのである。
(ちょっと脱線すると、特に東京を中心として優秀な若手尺八吹きがたくさんいて喜ばしいことなのであるが、おおかたの人たちはこの“影”の部分への意識が薄く、“光”ばかりを強調しているように見えて、その音量とは逆に物足りなさを感じてしまうことが多い。ほんとうに魅力があって、また、難しいのは“影の部分”なのに・・・と思ってしまう。ツのメリ〈半音〉の音量が出にくいからといって何でもかんでもロ(ろ)をカってバーバー吹きゃあいいってもんではないと思うんである。おっとこれは「石の独り言」)

私はまず、自分が理想とする“尺八”の音を追求し、その上で真摯に「楽譜」「楽曲」に取り組み“音楽”をしたいと考えている。
そして、その意味において現在のところ、私が求める“尺八”の“音楽”としては「古典本曲」に勝るものはない。もちろん近代・現代作品にも良くできたものも少なくないが、それらを演奏するたびにあらためて「古典本曲」の素晴らしさを再認識することに帰結する。長い年月を経て吹かれ、文字どおり風雪に耐え、現在まで残ってきた曲にはそれぞれに独自のバイブレーション(波動)が宿っているよう感じる。


さて、去る2月24日、告知させていただいていた門人会「石の会・独奏会」がおこなわれた。内輪褒めになってしまい恥ずかしいかぎりであるが、熱演、好演が続く聴きごたえのある演奏会になった。皆それぞれに自分の音を出している、また、出そうとしているところが素晴らしい。

熱演の数々をを聴きながら私は、昨夏、岡山・美星で開催された国際尺八フェスティバルでの菅原組(別に危なっかしい集まりやおまへん)の皆さんのコンサートを思い出していた。菅原組とは、私が尊敬し、またお世話になっている菅原久仁義さんのご門下の皆さんの集まりである。その演奏レベルの高さと、菅原さんが実践しておられる吹き方をそれぞれが実に上手く修得されていること、また菅原さんへの尊敬や憧憬などが演奏の端々に表れていることに感嘆したのであるが、今回の「石の会・独奏会」においては、特に若手のプロを中心として誰一人として私に近似した人はいなかった。私はこのことに得がたい悦びをおぼえた。私は金子みすず女史ではないが、“みんなちがってみんないい”と考えるからである。尺八はやはり基本的に独奏楽器であり、本音を吐き出す器であることを嬉しさの中で強く実感した。プロとしてがんばっている人から、まだ始めて日が浅い人まで、私など到底出し得ない音をたくさん聴くことができ、大満足のひとときであった。(気が早いが、次回の門人会「石の会・夏の演奏会」は8月17日(日)におこなわれる。これをご覧の皆様には是非ともご来聴をお願い申し上げる次第である。→8月24日(日)に日程変更になりました。)


私は、尺八人生の残り半分の多くの時間を、私にとっての“尺八”を吹き、「古典本曲」をもっともっと掘り下げることに費やしたい。そしてそれを可能なかぎり次の世代に伝えていきたい(とは言いましても“石川は「古典本曲」しか吹かない”というわけではありませんので皆様よろしくね)。


感動できること、そして何より好きなことに関わっていられ、幸せというほかはない。






「心氣一転」
(2008-2-15)

遼くんがプロになった。
といっても誰のことだかわからない方がいらっしゃるかもしれない。遼くんとは、今をときめくプロゴルフ界の新星、石川遼選手のことである。何を隠そう、石川遼くんと私とは・・・・・・・・・・・・遼くんと私とは・・・・・・・・・・・・・・・・・赤の他人である(バゴーン!・・・失礼しました)。

私は、石川遼選手が高校生ながらプロのトーナメントで優勝しちゃって以来、陰ながら応援しているのであるが、それはたまたま“石川”つながりだったからという訳ではない。日々配信される記事やコメントを通じて彼が、私の座右の銘とする「謙虚に、素直に」を絵に描いたような人物であることがうかがい知れるからである。

私が高校生の頃は間違いなくもっとひねくれていた。学校のある日は授業が終わると大阪O将の餃子を食ってから図書館の自習室に通って受験勉強のふりをし、休日はロックを聴くかプロレスの真似事をして(参考までに当時のリングネームはキム・ヤト、衣装は膝までの黒タイツに下駄というスタイルでちょいヒール役でした・・・誰が参考にすんねん)、少々傾きながら生きていた。一人前に扱ってほしいくせにまだ社会には出たくなくて、高校生という鎧を身に着けて自分をがっちりガードしていた。

それにひきかえ、当時よりももっとギスギスした今の世の中にあって、遼くんのあの爽やかさはどこからくるのだろう、とずっと疑問に思っていたが、ある雑誌(文藝春秋2月号)に載っていた父親のインタビューを読んで腑に落ちた。彼の謙虚で素直な性格と、ゴルフに対する姿勢の礎を形成しているのは紛れもなく家庭環境であり、親の教育であった。この父なくして遼くんは存在しえないと言っても過言ではない。私自身も一人の父親として、また、私の場合は尺八であるが指導させていただく立場にある者として、教育の重要さ、大事さをあらためて痛感した。
ともあれ、高校生活を送りながらプロのゴルフトーナメントに通年で参加するということは、大変に過酷なスケジュールを要求されることであろう。また、早くも大手企業のスポンサーがつき、それはそれで目出度いことながら、反面プレッシャーになることは想像に難くない。プロ宣言をした翌日にはハワイ入りし、早速プロゴルファーとしての活動を開始したとのこと。石川遼プロの大成を期待すると同時に、周りの関係者や報道陣には、このまさしく“金の卵”に対し、期待や取材が過剰になりすぎぬよう配慮ある対応を願うばかりである。

石川遼プロのニュースを日々楽しみに見ていて、“若いもんにゃまだまだ負けられん。自分もがんばらねば、フンッ”と息巻いていたら、同じスポーツニュースの項に腰が砕けそうな記事が出ていた。「まだまだ成長、『やれる』66歳法華津、44年ぶりの大舞台に意欲十分=馬術」。なんと66歳の方が日本史上最年長で北京五輪の代表に確定したとのことである。その法華津(ほけつ)寛選手の経歴がこれまた凄まじい。44年前の東京五輪(障害飛越で出場)に初出場され、その時は個人40位、団体12位。1984年のロス五輪(ここから馬場馬術で出場)は補欠(シャレやおまへん)。その4年後のソウル五輪では代表に選ばれながら馬が検疫に引っかかり出場できず(こんなこともあるんですね)、今回も馬インフルエンザの影響で五輪予選が延期になるアクシデントがあったにもかかわらず、それでも「成り行きで来ている」と前向きな姿勢を貫き、代表の切符を勝ち取られたとのこと。はからずも、私自身も法華津選手と同じ66歳までは現役を続ける意志を持っているので、このニュースには驚くと同時に大いなる勇気をいただいた。しっかしまあ、世の中にはスゴイ人がいくらでもいらっしゃるものである(ちなみに、オリンピックの最高齢選手は1920年アントワープ五輪の射撃に72歳で出場したスウェーデンのオスカル・スワーン選手で、同選手は当時あった種目、ランニングディア(ダブルショット)の団体で銀メダル獲得とのこと・・・豆知識だよっ)。


さて、2月24日は「石の会独奏会」が行なわれる(詳細はトップページ)。今回は24名の出演者中、半数の12名が大学生から30代半ばと、「大若手本曲大会(だいわかてほんきょくたいかい、と読んでくださいね)」になった。皆それぞれに刺激を受けて切磋琢磨しており、一年前と比べてどのように変わっているかがとても楽しみである。他の年齢層は40代が私だけで(とほほ)、50代、60代の方がたくさん、おそらく72歳くらいの人が最高齢、の見事な“砂時計”型の年齢構成である。若手の奮闘も楽しみであるが、人生経験が音に込められたヴェテランの演奏もまた聴き逃すことができない。『いやあっ、尺八ってホンットにいいですねっ(誰じゃ)』という会になること間違いなしなので、ご都合のつく皆様には是非ともご来聴をおすすめする次第である(たいしたおもてなしはできませんが、アメちゃんぐらいはご用意いたします)。


なお、私事であるが、今春より新大阪に稽古場と仕事場を設け、ここを発信拠点とすることにした。微力ながら、尺八が多くの人の心に根ざすよう尽力していきたい。66歳まであと19年、まだまだ先は長い。遼くんや法華津選手の活躍を応援しながら利光くんもがんばる所存である。



「喉元過ぎれば寒さ忘れる」
(2008-1-15)

2008年1月1日0時00分。私は紋付袴の装束をつけ、とある天神さんの境内に立っていた。二日前からの寒波のため気温は2℃から上がらず吐く息が白い。すでに初詣を待ちわびる人たちが拝殿へ向けて長い列を作っている。私は初詣、ではなく今年の初仕事で、そのお参りの方々のためのアトラクション演奏であった。

前年に引き続き2回目の演奏である今年は、代表役員の方から「何かテーマとストーリーを設けて演奏してください」と前もって頼まれていた。そこで、『日本の四季と詩情を謳う』というタイトルをつけ、唱歌やよく知られている歌謡曲など17曲を選んだ。ご参考までに全曲目を列記すると「お正月」「春が来た」「さくらさくら」「浜辺の歌」「北国の春」「朧月夜」「昴」「うみ」「知床旅情」「赤とんぼ」「虫の声」「里の秋」「もみじ」「川の流れのように」「冬景色」「ふるさと」「一月一日」そしてアンコール曲として「千の風になって」であった(誰が何の参考にすんねん、という声もありますが・・・)。昨年の経験から譜面台が置けず暗譜だとわかっていたため、少々心もとない「一月一日」と「千の風になって」の2曲を大晦日の掃除の合間を縫って浚い、全曲名を忘れないよう出番直前に手のひらに書いて臨んだ。
吹き始めると予想以上の寒さで、一瞬にして手先の感覚も思考回路もほとんど停止寸前の状態である。また、皆様に見られている手前カンニングもできず、曲の終わり頃になると“えーっと次は何の曲やったかいな、あっ「知床旅情」ね、始まりはレでレーリーツ中ーレーはいはいOK”と凍えそうな頭と手で自転車操業(?)をし、ほうほうの体で何とか破綻することなく終曲までたどり着いた。その間一度も尺八をアゴから外さなかった、というよりも外せなかったのと、ほとんど固まった状態で指先だけ動かしていたので、途中から見てくださった人には「尺八らしき音が延々と流れてくる紋付を着て尺八を持ったおっさんの人形」のように見えたであろうことは想像に難くない。ともあれ、依頼されていた30分ぴったりで吹き終わり、熱心に聴いてくださった皆様からたくさんの拍手をいただいて目出度く2008年の初仕事が終了した。
その後控室に戻り、かじかむ手でそそくさと着物をしまい、逃げるようにして駅に向かった。終夜運転の電車に飛び乗ったのが0時54分。吹き終わり、着替えてから天神さんを飛び出し徒歩5分の距離を経て電車に乗るまで何と19分、私とは思えない素早さであった(やれば出来るやないの)。


こうしてなかなか厳しい初仕事を終えた後は、特に新年の他の仕事はなかったため、ゆったりと正月を寿ぎ、再び音との闘いを開始した。今年の自分の音に対する目標は“音のスピードを上げる”である。昨年末に横山先生と会食させていただく機会があり、その際に去年の私のリサイタルの録音を聴いてくださっていた先生から“音のスピードが足りない”というアドヴァイスを頂戴していた。特に長管においてその不足を自覚している私は、弛まないように今年の手帳の頭に「音のスピード!」と書き込み、また日々ブーブー(実際はローロー)やり始めた。

その甲斐あってか、これを書いている現在はまだ二週間ほどではあるが、音にスピードを持たせ、負荷をかけて吹き続けると、これまでより少しマシな音が出るようになってきたように思う(実際には“少しマシな音が出るような気配が感じられる気分がちょこっとだけするんじゃないかな、たぶん・・・”ぐらいである)。気が緩み、少しでもサボってしまうと、とたんに情けない音に逆戻りする悔しい思いは幾度となく味わってきた。年頭の“寒仕事”の厳しさも忘れず、何とか今年一年この意識を持続させたい。


さて、音以外の今年の目標は「環境改善」である。稽古場の環境、特に若手の門人が活動するための環境、自身が発信するための環境などなど、5年、10年、20年後を見据え、環境づくりに力を入れたいと考えている。昨年は諸事情により新しいことに手をつけることが殆ど出来なかったが、今年は新しいコンテンツを増やすためのアクションを起こしたい(何のこっちゃわからないと思いますがぼちぼちと明らかになって参ります)。

ほんなら今年もよろしゅうおたのもうします(なんで京都弁やねん!)。


【付録】元日に近所の神社でいただいた御神籤より。

巻頭の一首:ゆきくれて まよえる野辺の ほそみちに さやけき 月のかげは さしけり(何か光が見えるっつうことですよね)

その下にある啓示:目上の人のひきたてにより思いがけぬ幸福があります(ヨッシャー!)
心を引き立て奮発して一心につとめなさい(ハイッ、わっかりましたっ!)
けれどあまり勢にまかせて心におごり生ずると災あり(へい、承知しやした)

運勢:吉(よしっ!)。今年もやりまっせー!

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