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「二幸」
2009-12-31
私は&している。
あっ、間違えた。
私は安堵している。
おかげを持ち四十八才の一年が大過なく終わろうとしている。
尺八の演奏と教授というほとんど形の残らないようなことで、今年も一年、一家が何とか生き延びることが出来た。ありがたいという他はない。
本年のご報告を簡単にさせていただくと、教授関係では新たに11人の入門者を迎えることができた。尺八は先細り感が強いが、私の周りでは尺八に対する人々の関心が年々高まっているように思えてならない。まあその一方で、例えば古典本曲を一通り修得し終えた人が他に勉強に行かれたり、女性会員が結婚や産休のために休会されたりと、定期レッスンをお休みされる人も少なくなく、“純増”しないところは痛し痒しといったところなのではあるが。
演奏の方は、1月にこの項でお知らせした初春文楽公演の1ヵ月出演を皮切りに、景気が悪いなりにも60回近くの舞台を務めさせていただいた。
その今年の最後の舞台が12月17日の「第6回榎戸二幸箏曲リサイタル」であった。箏の人のリサイタル助演は私にとってそれ程珍しいことではないが、今回は東京・銀座王子ホールでの公演ということで、“東京の邦楽リサイタルでのお客様の反応はどのようなものだろう”という、演奏とは別の興味と関心も湧き起こり、私自身とても楽しみであった。
王子ホールは近年、邦楽の演奏会でもよく利用されている、上質で手頃な大きさのホールである。会主の榎戸さんは東京藝大邦楽科卒の若手奏者でいらっしゃるが、もうその年齢(といっても私はよく知らない)にして6回目のリサイタルで、着々をキャリアを重ねておられるところが素晴らしい。
リサイタルの助演も、去年は野坂操壽先生、砂崎知子先生、チェロの藤原真理さん、今年が沢井一恵先生、深海さとみ先生、といった巨匠ぞろいで、事情通の方からすると尺八だけ“何で石川やのん???”といった感じであるが、まあそれは「いろいろあらあなぁ」ということにしておこう(といっても特に深い意味はございません)。
今回の私の受け持ちは川崎絵都夫さんの『蒼月譜』。この曲は元々尺八と箏の方のリサイタルのために委嘱された曲で、3章からなる力作である。過去に何度か演奏の機会があり、それほど慌てることなく準備ができたことは幸運であった。
開催日以前に2回のリハーサルを経ていよいよ当日、うろうろ、キョロキョロしながら銀座界隈を歩きホール入りした。リサイタルというものはやはり一種独特のピリッとした空気が漂いとても心地よい。会場は音楽ホールなので響きは基本的に良いが、演奏する場所によって奏者同士の聞こえかたや客席への音の伝わり方が微妙に違うため、ゲネプロ時にスタッフの意見を参考にポジションを決定した。
ゲネプロ終了後は本番まで結構時間があったため、会の成功を祈りながら、ずぼらな私にしてはかなりみっちりと最後の練習を行った。本当はいつもこうでなければいけない(反省)。
さて、その本番はというと、終了直後の会主の“緊張しましたー”という弁と、とても手が廻る資質との相乗効果(?)で、「せまい日本、そんなに急いでどこへ行くんやー」というような、合奏新記録的な高速演奏になり、少々慌てたところもあったのではあるが、何とか大過なく終えることができた。
本人のその“緊張しましたー”という言葉とは裏腹に、「ガーッと弾いて、バーンと終わって、ワーッと拍手をいただく」という演奏には華があり、そこにたくさんのファンを獲得する要素があるのだと思った。こういうところはまさに天分なのであろう。会場も満席で盛会であった。
また、私の尺八にもあたたかい拍手を頂戴し、安堵すると同時に“東京にも良いお客さんが多いじゃん(?)”と嬉しくなった。
リサイタル終演後は大阪行きの最終の新幹線を予約していたため、その車中において一人でその夜のお疲れさんと、今年一年の演奏の打ち上げを行った。取りあえずビールを口に含み、携帯に溜まっていたメールを開くと、聴きに来てくれていた盟友から「石川利光の尺八をしっかりアピール出来ていましたよ」という内容のものがあり、ますます嬉しくなってだらしなく缶缶を重ねた。
ところで、今号のタイトル「二幸」というのは彼女のお名前である。その由来をお聞きしてはいないが、とても良いお名前だと思う。
“あなたの幸せと私の幸せ”“お客様の幸せと演奏者の幸せ”“世界の幸せと日本の幸せ”などなど、例をあげればキリが無いが、利他の心にあふれたお名前を持つ「二幸さん」の今後ますますのご活躍を期待してやまない。
明日から2010年、私にとって40代最後の年はどんな年になるのであろうか。感謝の心を忘れずに少しでも前へ進めるよう精進したい。
今年も一年ありがとうございました。
「NUMBER ONES」
2009-12-6
私は興奮している。
マイケル・ジャクソンの『THIS IS IT』を観た。
普段はほとんど映画を観ることのない私であるが、何ものかの力に引き寄せられるように劇場へと車を走らせた。
一言でいえば“打ちのめされた”。
彼の音楽はもちろん精巧で、エネルギッシュ、かつエモーショナルで、非の打ちどころのないものなのであるが、それ以上にマイケルの壮大な“愛”に私は言葉を失うほどの感動を覚えた。
念のため説明を加えておくと、このフィルムは今年6月に急逝したキング・オブ・ポップ、マイケル・ジャクソン(以下MJ)が、直後に予定されていたコンサートツアーのリハーサルの様子を映像に収めたものである。長いブランクを経ての世界ツアーだったため、身体および精神的には計り知れない不安定要素があったことは想像に難くないが、それを超え、ツアーを成功に導くべくMJの渾身の努力が画面からもひしひしと伝わってくる。
世界から選りすぐりのバックバンドやダンサーたちは普通にやっていても常人を逸した凄さを携えている。そのメンバーに対して掛けるMJの注文は厳しくも慈愛にあふれ、感動的ですらある。
“(演奏に対し)CDと同じクオリティで”“ファンの望みは、日常を忘れること”“来てくれた人が経験したこともないようなものを創ろう”などとスタッフを鼓舞するシーンには自然と手に力が入った。また、“ここは君が輝くところなんだ”“大丈夫、僕がついてる”とギタリストを激励するシーンには、思わず落涙してしまった。
もちろん主役はMJ自身なのであるが、スタッフ全てに最高の力を発揮させ、最高の舞台を創り上げようとするその姿勢、人間性に胸が熱くなった。
これほどまでに“優しい”人間は存在するのだろうか。勝手なことを書いてしまうと、もはやMJは神であり、その優しさは神の赦しであると私には映った。
そこに関わるすべての人間がMJに共感し、興奮し、感動していた。そして映像を見つめている私も同じ思いであった。
このフィルムを観ることが出来たのは僥倖としか言いようが無い。(レベルには天と地ほどの開きはあるけれども)自分もまた音楽をする者、舞台に携わる者の端くれとして安易に妥協を許さず、常に最善、(自分の中での)最高を目指そうとあらためて心に誓った。
MJの不慮の死によって世界が失ってしまったものはあまりに大きい。しかし、彼の遺した音楽やPVなどと共に、このフィルムはこれからも多くの人々に愛と勇気を与えるものとして輝き続けることであろう。世界のすべての人に観ていただきたいフィルムである。
と、ここまで書いていると、さっそく再上映が決まったとのニュースが飛び込んできた。興奮はまだまだ醒めそうにない。
「NUMBER ONES」
にわかにMJファン、というよりもMJ信者になった私はさっそくMJのCDを手に入れるべくCDショップに足を運んだ。たまたまそのショップに1枚あったものが『MICHAEL JACKSON NUMBER ONES』というベスト盤であった。記すまでもなくその日から愛聴盤となった。
「二胡二胡」
2009-11-19
私はニコニコしている。
みなさんのおかげを持ち第13回目のリサイタルが終了した。13という不吉な回数であったが、何とかつつがなく全行程を終えることができた。不吉だったことを強いて挙げるとすれば、問い合わせのメールに“石川利光尺八リサイクル”と書かれたものがあったぐらいか(“リサイタル”なのでそこんとこよろしく!)。
プログラムは前半が古典古典、後半がピンピンの新曲であった。
1曲目と2曲目は『虚空』『鶴の巣籠』の古典本曲の独奏。3曲目に石川ブロスの片割れ(兄、あれっ弟だったっけか?)に助演を仰ぎ箏曲の名曲『五段砧』をサシで演奏した。本曲は一応自分の中に入っているので楽譜は必要なく、それならば前半は舞台をすっきりさせようと『五段砧』も暗記しようと奮闘したのであるが、二日前に断念(ざんねーん!)し、楽譜を置くことにした。この楽譜がまた104cmと横長であったため、楽譜の右3分の1は主に右眼で見て、真ん中3分の1は両目、左3分の1は主に左眼で見る、という眼科検査のような方法で楽譜を追いかけた(半分本当)。
前半は曲ごとに吹く尺八を持ち替えることになり、そのたびに口を微妙にアジャストさせなければならなかった。そこが試練といえば試練であったが、何とか大過なく吹き終えることができた。いつもながら会場のムラマツリサイタルホールは楽器の音もよく響く。ということはお客様の拍手も、あたかも倍の人数の聴衆がいらっしゃるかのような大きなものになり、安堵して舞台を後にした。
後半は今回の特別ゲスト、世界的二胡奏者のジャン・ジェンホワさんの登場である。それも新作初演を2曲、という贅沢極まりない(もちろん私にとって)プログラムで至福のひと時であった(ねっ“リサイクル”じゃないでしょ←けっこう根に持ってたりして)。
ジャンさんを目当てに来られたかたも少なからずおられ、休憩を終える頃にはホールは期待感でいっぱいの得も言われぬ空気に変わっていた。
新作の1曲目は川崎絵都夫さんに委嘱した尺八と二胡の二重奏曲で、『レゾナンス』というかっちょいいタイトルがついていた。お互いの短いソロを挟みながらゆったり、あるいは広広とした場面と、疾走するような躍動的な場面が代わる代わる現れる曲で、曲自体もとてもかっちょいいものであった。
2曲目は神坂真理子さんに書いていただいた『蓮の花』という、ハイネの詩にインスパイアされた、エレガント、かつ情熱的な、尺八・二胡・二十絃箏のための三重奏曲であった。
お二人共、石川ブロスは以前より親しくさせていただいており、また、それぞれにジャンさんのためのアレンジなども手掛けておられたので、曲を委嘱する際には編成以外のお願いはせずに“完全白紙委任”をした。結果としてそれぞれがまったくスタイルの違う曲になり、プログラム的にも良好で、お客様にも楽しんでいただくことができたと思う。
それにしてもやはり世界レベルのソリスト、ジャンさんは凄かった。どちらかといえば小さい部類の楽器である二胡から、ホールを覆い尽くさんばかりの音が、文字通り“あふれ出る”といった感じなのである。楽器を超越して“音”が、“音楽”が湧き出ているようであった。この桁外れの音を聴きながら「そういえば横山先生の一尺八寸管の音も、楽器のほうがひれ伏すようなエネルギーに満ち溢れた音だったなあ」という思いを抱いた。
さてその2曲の、演奏のほうはどうだったかというと、これはもう“完璧だった”・・・・・ことにしておこう。何といっても世界初演なのである。曲のあるべき姿は作曲者の内にしか存在しない。舞台上で行なわれた超絶技巧を超えた再現不能な運指や、0.5秒ほどの音のずれ、ハッと息を呑む驚きの表情などはすべて計算ずくなのであった・・・ということで今回はご勘弁願いたい(あれっ、なぜ謝っているんだろう)。
「尺八をやっていてよかった」とは毎日実感し、感謝していることであるが、今回のリサイタルはとりわけその思いを強くした。自分の目指す方向がより鮮明になってきたということも大きな収穫であった。助演者、作曲者、スタッフ、各方面の関係者、そしてお忙しい中ご来場いただいた皆様ほか、お世話になったすべてのかたに心より御礼申し上げる次第である。
ちょっと大がかりなことをやったので収支的には多少“こまったちゃん”なのであるが、心と身体は“にこちゃん”になった私である。あーおもしろかった。
「第五風動」
2009-10-1
私は慨嘆している。
NHK邦楽技能者育成会(以下“育成会”)という邦楽演奏家の養成機関が今年度をもって終了する。
「NHK邦楽技能者育成会とは何ぞや」という方のために、NHKのサイトにある育成会紹介文を転載させていただく。
〈「NHK邦楽技能者育成会」は、公共放送としてのNHKの使命と役割に基づき、邦楽界の次世代を担う優秀な演奏家を育成し音楽放送の充実向上を図ることを目的に、昭和30年1月に創立されました。
以来一貫して、邦楽の演奏家を志す若い世代に広く門戸を解放し、流派を越えた基礎的な音楽理論の習得と正確な古典の把握、五線譜による演奏技術の向上に重点をおき、各分野の第一線で活躍する講師陣のもと、指導を進めています。(後略)〉
補足しておくと、育成会は1年制(実際は11か月)で週1回開講の専門学校のようなもので、日本音楽の演奏家を目指す若者がジャンルの垣根を越えて勉強する機関である。学校と同じように入試によって選抜され、入ってからも前期・中期・後期のそれぞれに試験があり、成績不良者には退会勧告が出される。締めは3月に行なわれる卒業演奏会で、NHK−FMなどでその模様が放送される。
幼少の頃から邦楽の演奏家を志す人のためには藝大の邦楽科などあるが、その環境を持ち合わせなかった者が勉強する機関としては永い間、ほとんど唯一(箏など特定の楽器には存在する)の存在であった。現在邦楽界で活躍する演奏家の多くが卒業生である。また、1年制であるから他の期生とは重なることはないのであるが、前にも書いたことがあるように卒業生同士は“同じ釜の飯を食った仲”のような精神的な繋がりが存在することも特徴の一つである。
NHKがやっていることもあり、この学校(機関)は未来永劫続くものだと勝手に思っていた。
しかし、やはり物事には始まりがあれば終わりがあるのだった。
今春の募集が第55期生、私が第37期生なので私が通っていたのはもう18年前のことである。
当時私は(まだ)真っ当なサラリーマンとして企業に勤めていて、仕事と尺八を何とか両立させていた。アマチュア、かつ、尺八の世界では若手ということで結構演奏のお声が掛かり、何を吹いても楽しい頃であった。邦楽の合奏団やグループもたくさんあった時代で、いろいろと評判が聞こえてくると実際にその場に身を置かずにはおられず、一番多い時には8つのグループに所属していた。ただ、育成会に関しては東京にあること、毎週火曜日に開講されていることなどから、“それ(通うこと)は無理やろう”と考えていた。しかし、育成会の年齢制限である30歳を迎えた時に、“仕事を何とかやりくりすれば行って行けないことはないかな”と思うに至り、勤め先の上司に「こういう機関があって年齢がリミットなので受けるだけでも受けてみたいんですけど・・・」と相談すると、「君の人生だから自分で判断しなさい。私は反対しない」と言ってくださった。この一言がなければ私の人生も大きく変わっていたことであろう。普通の民間企業の普通の上司では考えられないお言葉である。今なおこの元・上司は私にとっての大恩人として感謝を忘れないでいる。
育成会の試験には首尾よく合格し、毎週新幹線で大阪から東京・渋谷のNHK放送センターへ通学する生活が始まった。勤務先の会社は毎週火曜日を休みにして自分だけ週休三日制にした。また、年間50回におよぶ新幹線代は夏冬のボーナスをそのまま充てた。今思うと結構大胆不敵な行動である。しかしその分、“これだけいろいろなことを犠牲にしたり、人に迷惑を掛けているので結果を出さなければ”と私なりに奮闘、努力をしたことも確かである。超忙しかった1年を終えてみるとこの間に得られたことは多く、有形無形の財産となって今なお自分の中に残っている。
私が育成会に通った時の看板講師が藤井凡大、杵屋正邦の両先生であった。その創成期から第40期くらいまでは、育成会といえばこの二枚看板で、広く邦楽界にも浸透していた。
藤井凡大先生については前に書いたこともあり、また機をあらためて書きたく思うので、今回は杵屋正邦先生について記すことにする。
杵屋正邦先生には『合奏指導』という授業で教えていただいた。五線譜で書かれたエチュードから大合奏に至るまで、ご自身の作曲された楽曲を指揮しながら、至らぬところにダメ出しをしてくださった。大合奏曲の多くはそれ以前の育成会の卒業演奏曲として書かれた曲で、自分が尺八を始めた大学のクラブで親しんでいた曲もあり、とても楽しく、充実した授業であった。正邦先生は第37期生の頃にはもう70歳代の後半で、失礼を省みずにいうと“好々爺”といった外見でいらっしゃったが、時折鋭く厳しい眼光を放たれた。ある時、凡大先生との会話の中で「正邦先生は俺なんかよりずっとファイターなんだぜ」と評されていたことがあった。その、凡大先生の授業がピリピリする分、反動で正邦先生の授業は気が緩んでしまうことが少なくなく、教室がざわついたりもした。その時に漏らされた「君たちはねえ、失礼ではなく無礼なんですよ。礼儀が無いんですよ」というお言葉は正邦先生の穏やかな面影とともに忘れることができない。
育成会は、その両看板講師が引退後の第40期頃を境にリニューアルされ、多彩な顔ぶれの講師陣に代わられた。これはこれで魅力があると思うが、私自身は正邦、凡大両先生の時代によくぞ間に合ったと実感している。内容もさることながら、演奏家、音楽家として生きていくにあたっての《気合い》を注入していただいたからである。かえすがえすも育成会の終了は残念と思わざるを得ない。
そしてまた、尺八吹きにとっては、“杵屋正邦”とは“尺八三本会”であり、“尺八三重奏曲「風動」”である。この三つは切ろうとしても切れない関係である。稀代の名手が3人集まってしまった(それはやはり必然であったろう)“尺八三本会”も「風動」という曲がなければその存在価値が変わっていたかもしれない。
「風動」は好評を重ね、演奏者、作曲者両方のアプローチにより「第五風動」まで5作品が産み出された。
その最終作である「第五風動」の楽譜に正邦先生自身の添え書きがしたためられている。自分が年をとったせいか、こういう一文にぐっときてしまう。
〈風が吹いて、風が吹いて、また風が吹いて、まえの風があとの風に吹きとばされて、風になる。
子供が大人になって、大人が年寄りになって、また子供にかえる。
ぐるぐる廻って、ぐるぐる廻って、更にぐるぐる廻って終わらないことを、輪廻というようです。
第五風動には未来への展望もありますが、終わりもあります。〉
ここでもやはり始まりがあれば終わりがある。
自分の人生も、演奏家としての人生も、いつ終わるのかはまったくわからないが、最期の最期まで未来への展望は持ち続けて生きていこうと思う。
「8月12日〜上を向いて歩こう〜」
2009-8-31
私は回想している。
24年前のその夏の日も暑かった。
1985年8月12日。東京・羽田空港を飛び立ったJAL123便は目的地の大阪・伊丹空港に着くことなく群馬県・御巣鷹山山中に消えた。
当時私は製薬会社の営業マンをしていた。その日は日中の内勤業務のあと、上司数名と夕食をとるためにラーメン屋さんに入り、店のテレビで惨事を初めて知った。テレビの画面からは夥しい人の名前がテロップで流れ、アナウンサーや報道記者の悲痛な、叫び声にも似た声が消えることなく続いていた。坂本九さんがその便に乗り合わせていたことを私が知ったのは翌日だった。
ものごころついた時、坂本九は既に日本を代表する国民歌手の一人であった。
今なお日本歌謡界を代表する一曲であり、日本語の原曲のまま米・ビルボードHot100で1位を獲得するという快挙を生み出した『上を向いて歩こう』が発表されたのは、何という奇遇か、私が生まれた1961年である。おそらく私がこの曲を耳にしたのは小学校へ上がる頃と思われるので、大ヒットしたその後もずっと巷間で流れていたのであろう。
九ちゃんの、少しビブラートのかかったハスキーな歌声は不思議な魅力を持っており、その歌声に六八コンビの楽曲が合わさると、ポップでいて少し哀しい独特の世界が広がる。こういう才能が呼び合うことはもはや運命的な“神の仕業”だと思う。
尺八を吹くようになって教則本の中にこの曲を見つけた時には、懐かしく、そして嬉しくなった。尺八三本会「風童」でもアンコールピースとして作曲家にアレンジを依頼し、時折演奏しているいわば「私の一曲」である。
この駄文を書くために九ちゃんについて調べていて驚いた。何と享年43歳。現在の私よりもずっと若い。今さらながらその不慮の死は残念の極みだったと言わざるを得ない。
閑話休題、8月はイベントの月である。今月もいろいろ楽しいことがあった。
まず8日は京都にて『第15回全国学生邦楽フェスティバル』の一日目に参加。講習とコンサートを担当させていただいた。もう一人の尺八は“あの”今をときめく藤原道山センセイであった。
不思議なほど道山センセイとは接点がなく、この3〜4年のうち舞台でも演奏を拝聴したのが1回、会でご一緒したのは8年も前であった。
尺八界を代表する演奏家(もはや若手とは呼べない!)として八面六臂、縦横無尽の活躍をされている道山センセイの生音、生演奏はどんなものだろうと興味津々であったが、実際の道山センセイは8年前の印象をはるかに超えたパワーアップ、スケールアップぶりであった。クリアな音、凄まじいまでのテクニックは想像どおりであったが、驚いたのは、何というか「巨匠のオーラ」が出ていたことである。これは三本会と山口五郎師以外には過去にもほんの数人からしか感じ得なかった空気である。トップランナーの位置に甘んずることなく常に自分を厳しいところに置いて鍛えている証であろうか。おそるべし道山センセイ。究道者としてこれからも前進し続けていただきたいと希う。
なお、ついでに書いておくと自分の演奏は“ぼちぼち”といったところである。「飛騨によせる三つのバラード」は、それを想定して書かれたセブンホールズ尺八を久々に持ち出して吹いたが、最後まで他人の口で吹いているような違和感をぬぐうことが出来ずに撃沈した。「産安」は何とかメッセージは伝わったかと思う。多くの刺激をいただいた充実した一日であった。
23日は我々の“夏の甲子園”『石の会・夏の演奏会2009』が開催された。私と絃方の賛助2名を含め総勢30名出演、全29曲の熱い戦いが繰り広げられた。
今回は、関西在住や会員に縁のある若手に声を掛け、〈怪友〉ならぬ〈会友〉として参加していただいた。石の会の出演者もそれぞれに前進のあとが見られ、嬉しくなったが、会友の小林静純さん(虚空)、平山泉心嬢(末の契)、今井祐介さん(魔切)の演奏はいずれも音、テクニック共に素晴らしく、石の会に刺激的な新風を送りこんでいただいた。また、助演をお願いした細見由枝師、竹山順子師には最高のお力添えをいただいた。この場を用い心より御礼を申し上げる次第である。
27〜30日は岡山・美星町における『国際尺八研修館夏の本曲講習会』に講師として参加させていただいた。講師陣、受講生の中に入ると本当に私が“若造”であることを痛感する。ここにも私よりもずっとずっと尺八が好きで、もっともっと勉強熱心で、自身の生活や身体の一部として共生されている方がたくさんいらっしゃる。尺八が奥の深い楽の器であること、一生修行は続くこと、まだまだ工夫と努力が必要なこと、などたくさんのことを思い知らされる。
夏の講習会は毎年、公開の演奏会を持つが、今年は講師がメインとなったコンサートであった。その中で3講師が「古典本曲」と「福田蘭童曲」をそれぞれ一曲ずつ続けて演奏するプログラムがあり、緊張感とそれぞれのカラーがにじみ出る面白い舞台となった。
また、別の曲で共演させていただいた地元の中塚千栄寿師は80歳を超えてなおもお元気で、たいへんな勇気をいただいた。その夜は寝ている頭の中に「努力」「夢」「希望」「友愛」など、修学旅行生の土産物に書かれてあるような言葉がぐるぐると渦巻いていた。
気がつくともう9月である。この月も
上を向いて歩こう、笛を吹いて歩もう!
一歩ずつ、一歩ずつ。
「或る阿呆の一生」
2009-7-29
私は感謝している。
もう8回目の夏になる。“どちらが兄か、弟か”というキャッチコピーで始めた「石川ブロス・サマーアクションシリーズ」が終了した。
1年目の夏は大阪と東京の2か所であった。それが8回目の今夏は6か所で開催することができた。ひとえに応援してくださる方々のおかげである。二人の異なる指向を反映して、新しいものと古いもの、純和風と洋風がごっちゃになった、統一性の無いばらんばらんなプログラムであるが、逆にそれが聴きやすかったという声をいただいたりもするので、これはこれで良いのかもしれない。
“さすがに兄弟、息が合っていますねぇ”と言ってくださるかたもいらっしゃるが、実は演奏もお喋りも綿密な打ち合わせをすることはほとんどなく、その場の雰囲気で勝手にやっているようなものである。
各会場それぞれに同じ曲を演奏し、同じような内容のお喋りをしても反応がまったく違うところも面白い。関西の4か所(京都、奈良、大阪、和歌山)はいずれも電車で1時間くらいで行き来できる土地であるが、会場の空気からして違い、また、トークでは盛り上がる場所が微妙に違ったりもする。関東の所沢、東京の2か所にしてもしかりである。
次の予定はまだ立っていないが、これまでに公演を行なったことのある関東、関西、鹿児島以外の場所も訪れてみたいものである。箏・尺八の演奏と兄弟のうだうだ話にご興味のある方にはぜひとも連絡をいただきたくここにお願いする次第である。
しかしまあ、特別そのような家柄に育ったわけでもない兄弟が箏、尺八の専門家として一緒に人前で演奏しているというのも面白い話である。二人とも大稼ぎは出来ていない(多分)が、好きで始めた楽器で生かしてもらっていることはありがたいかぎりである。
『兄弟は他人の始まり』などというが今のところそのような気配はない。これはひとえに親のおかげである。というのは、両親は見事に財産というものを我々に残してはくれなかった。そのせいで揉め事の種となるものが存在しないのである。また、子供である我々が元気なうちに旅立ってくれたことも、残念ではあるがありがたいことであった。あの世で再会を果たしたら精一杯親孝行したいと思う。
その代わりに両親は我々に健康な身体を残してくれた。我々を産んでくれた母親はわずか37歳でこの世を去ったが、2男1女の3人の子供はいずれもその年齢を越えて生をいただき続けることが出来ている。これ以上にありがたい財産があろうか。
あらためて両親、祖先に感謝し、そして健康と日々の出会いに感謝して前進し続けたい。なあに、金は後からついてくるものである。
(今号のタイトルは「たまには芥川でも読まにゃあ」と買ってみたはいいが、内容は何のこっちゃさっぱりわからなかったのでノーコメントでやんす。ごめんちゃい)
「尺八抗争2009」
2009-6-28
私はストレッチしている。
人間、歳をとると頭も身体も硬くなってくるものである。頭のほうは日々ダジャレを考える ことで柔軟性を保とうと努力(?)しているのであるが、身体はほうっておくと硬くなる一 方である。
少し前に尺八界の先輩、倉橋義雄さん(そうですねぇ、先月感動した人ですねぇ)と話をさ せていただいた折、私が「座っていて立ち上がる時に“ドッコイショ”などと言うようにな ったらもうオジサンですよね」と言ったら、倉橋さんは「いやいや、それはまだマシ、もっ といくと“アイタタタ”て口をつくようになるよ」と話されていたのが妙に心に残っている 。
私もあと20年くらいは何とか現役で尺八を吹いていたいと思い、柔軟体操のようなもの を始めることにした。 そこで、参考書に選んだのが、元・一ノ矢さんの「シコふんじゃおう」(ベースボール・マ ガジン社 2009年)と、貴乃花親方の「貴流 心氣体」(扶桑社 2009年)の2冊である。 “和”には“和”で、ということで、尺八の身体を作るのに相撲のノウハウを取り入れよう と考えた。ちょっとミーハーっぽいがそんなことは気にしない。
あらためて学んでみると、相撲という“神聖なる格闘技”は磨き抜かれた合理的な訓練メソ ッドを有し、また、そのメソッドの上に作られる力士の肉体は“スーパーアスリート”と呼 ぶにふさわしい、ということがわかった。
そのメソッドの中でも特に重要なのが、“シコ”“股割り”などの下半身を中心とした 訓練で、その訓練によって培われる“柔軟性を伴った強靭な下半身”と、“左右にぶれのな い均整のとれた身体”が相撲にとり何よりも欠かせないものらしい。
そう言われて思い起こせば“おすもうさん”というのは左右対称である。シコを踏んでいる 姿でも、“左足は五尺上がるのに右足は4尺しか上がらない”という人はおらず、だいたい 同じ高さまで足が上がっている。よくよく考えてみるとこれはすごいことである。
それにひきかえおよその楽器というものは、構える際にどちらか一方に傾く姿勢をとるもの が多い。尺八においても、一尺八寸管ならまだニュートラルな位置に近いが、長管になると 、かなり身体をねじって構える必要がある。これでは長い年月を経ると身体のバランスを欠 き、支障をきたすことに繋がりかねない。
2冊のテキストに従って体操を進めていくと、やはり自分の身体もかなりゆがんでいること が思い知らされる。しかし、相撲のトレーニングは器具を使うわけではなく、「自己の肉体 の重さ」を使って身体のゆがみをとり、筋を伸ばしていく方法なのでとても心地よい。“こ れなら続くかな”と思いながら“シコもどき”を繰り返している私である。
閑話休題、このホームページ上でもお知らせした、兄弟子菅原久仁義さんとの合同門下生コ ンサート《尺八抗争2009》が6月12日、座・高円寺にて行われた。
当初は集客が懸念されたが、ふたを開けてみると300席弱の会場が超満員に“鳴るほど”の 盛況ぶりで、これはまったく嬉しい誤算であった。特に客席に目立ったのが大学生くらいの “ヤング(!)”と“レディース”で、久々に邦楽の演奏会で若い熱気を感じた。
プログラムは、菅原組長率いる“菅原組”と、不肖私が率いる“石の会”がそれぞれ3曲ず つ、そして終曲に尺八六重奏曲「組曲 美星」を合同演奏、という、計7曲が公表されてあ ったが、それにアンコール曲として「サマータイム」の尺八アレンジ版、および、オープニ ングに“組長と会長の「鹿の遠音」”を含めた、尺八ばっかりで9曲という濃い〜内容であ った。にもかかわらず、客席にはおやすみになる方もおられず、終曲まで緊張感と楽しさが 共生するホットな舞台であった。
組長、会長をのぞいた11人の若手尺八奏者は手前味噌を省みずにいうと皆見事であった。特 にアンコール曲の「サマータイム」はそれぞれのアドリブ合戦で5人が登場したが、尺八で あることを感じさせない自由闊達な表現ぶりで「尺八の未来も明るいじゃん!」と、自然と 頬がゆるんでくるのを隠せなかった。そして、客席からも心から楽しんでくださっているお 客様の空気が伝わり、忘れられない一夜となった。
尺八でも、停滞する現状を打破することはできるのである。
ただ、これを続け、広めていくことはそうそうたやすいことではないが、知恵を絞り勇気を 持って踏み出せば、まだまだ尺八が世にアピール出来ることはいくらでもあることを実感し た。
横山門下の序列からするとずいぶん後輩の私に声を掛けていただき、その上、会の運営のほ とんどを賄ってくださった菅原久仁義組長にはいくら御礼を言っても足りないぐらいである 。この場を使いあらためて感謝の意を表したい。
と、当日の様子を振り返っていたら、衣装のことが思い出された。
一応、“組”と“会”の“抗争”なので、各々がまったく違った雰囲気にしたいと思った私 は、組長に「そちらの皆さんはどんな衣装ですか」と尋ねたところ、「ウチは黒シャツに黒 のスーツでいきます(おーこわ)」と返信があり、少々思案して我々はオーサカ派手派手ル ックで行こうと決めた。幸い、CD『石川ブロス』のジャケットデザインを担当してくださっ た長谷川さんがアロハシャツの超コレクターであることから、人数分のアロハシャツをお借 りして終曲の舞台に臨むことになった。色違いのカラフルなアロハがハンガー掛けに並んだ 様子はとても尺八吹きの楽屋とは思えない、なかなか壮観なものであった。そして他のメン バーが好きな色を選んだあと私に残されていたのはピンク色のアロハであった。私はアロハ なら、と用意していた舞台用の白のコットンパンツに生成りのコンバースを組み合わせた。 着終えて鏡を見た時は「はげ坊主のおっさんが街中でこんな恰好をしていたら不気味だわい 」と自分でもちょっと引いてしまったが、舞台ならまあいいやと思い、その姿で楽屋裏をう ろうろしていた。すると、弟子の一人には「先生、その恰好はギリギリですね」と笑われる わ、女性スタッフにはそっと苦笑されるわ、挙句の果てに組長には「マージャン屋のおやじ みたい」と言われるわ、と散々であった。
でもコスプレをする人の気持ちがちょっぴりわかり、これも収穫の一つであった(ちがうか ー!)。
世の中には既成概念や固定観念」がたくさんあるが、実際のところ“こうあらねばならぬ” ということは何一つ無いのである。
身体と共に心も柔軟にして吹き進んでいきたいと思う今日この頃である。
「まいど1号」
(2009-5-25)
私は感動している。
世界的な景気不況や新型インフルエンザなど、我々をとりまく情勢は不安が山積しているが、感動の種はそこかしこに転がっているものである。
何を隠そう、私は北島三郎センセイの大ファンである(別に隠さなくてもいいんですけどね)。さして大きくない身体をフルに響かせて発するその歌声はもはや芸術品と言っても過言ではない。日本を代表する大歌手である。
そのサブちゃん(親愛の情と尊敬を込めて)の記事がインターネットの芸能サイトに出ていた。
>演歌界の大御所・北島三郎(72)が、4月1日から東京・日比谷の日生劇場での初公演となる『この道48年 感謝を込めて この唄を!』(同7日まで)を行う。先日、その製作発表を取材した。
《中略》
48年の歌手生活を振り返り「10年でやっとひと皮、20年でやっとふた皮むけた感じ。30年でやっと自然体で歌えるようになり、聞く方も安心して聞ける。40年やっていると、自然体からさらに技を磨いて歌える」と10年ごとに分析。まだまだ若者に負けてはいられない。《少略》50年を振り返った時、サブちゃんが何を語るのか、ぜひ聞いてみたい。(「スポーツ報知」芸能サイトより)
>
48年の歌手生活ということは、ちょうど私が生まれた年にデビューされたことになる。ほとんど半世紀を現役で、それもトップ歌手の一人として活躍されていることに驚嘆と感動を禁じえない。そして年輪を重ねた人の言葉には実に重みと味わいがある。
私が尺八を手にしてから今年でちょうど30年になるが、前号にも書いたようにプロになってからはまだわずか16年である。サブちゃんのコメントに従うと、やっとひと皮むけて、ふた皮めが見えてきたくらいの年数らしい。邦楽の世界でも“50代は洟たれ小僧”などと言う。自分自身確かに実感するに、私はまだまだひよっこである。鍛錬を重ねていつの日にかサブちゃんのような重みのある言葉を発したいものである。
小泉元首相ではないが、私はサブちゃんに“感動したっ!”
私が生業としている尺八でも感動があった。
その種は、京都在住で現在は世界を股にかけるご活躍の竹兄・倉橋義雄センセイと、私の兄弟子のお一人でいらっしゃる古屋輝夫センセイのお二人である。両センセイとは一年のうちに数回、演奏をご一緒させていただく機会を持つのであるが、お二方ともここ数年で竹韻が劇的と言って良いくらい変化してこられた。聴く者の心により響く音に変わってこられたのである。両センセイとも私の一回りほど上で、今の流行ことばで言えば“アラ還”(数年後には「何のこっちゃ」と思うんでしょうが)世代である。その年齢になっても、気持ちがあればまだまだ高い境地を目指せるというお手本に接し、私は胸が熱くなった。お叱りを覚悟で書くと、お二方とも若い頃は同世代の名手達に比べると傑出した存在ではいらっしゃらなかったように思う。ところが近年いよいよ充実され、素晴らしい存在感を示されている。私は、現在の40代を成長の10年間と捉え、自分なりに日々模索しているが、両師の姿を間近に見て次の50代にも希望が持てるようになった。尺八はほんとうに時間のかかるものであるが、それ故に面白く、また奥が深い。
私は古屋輝夫、倉橋義雄の両師にも“感動したっ!”
そして、この拙稿を書いている最中に作曲家、三木たかしセンセイの訃報が飛び込んできた。私にとって三木たかしさんといえばテレサ・テンである。テレサのビロードのような歌声と三木さんのナイーブなメロディ、それに加え荒木とよひさセンセイの女心を“切なもどかしく”表した歌詞の組み合わせはまさにベストマッチングとしか言いようがない。『愛人』『つぐない』『時の流れに身をまかせ』など優れた作品が多いが、私には『別れの予感』がナンバーワンで、日本の歌謡曲・ポップスの中でも最高に好きな曲の一つである。
調べてみると信じられないほどに幅の広い多くの作品を手がけておられ、あらためてその才能に畏れ入った。ご参考までに私の好きな三木作品を5作(この絞り込みが難しい!)挙げさせていただくと、栄光の第1位『別れの予感』に続き、輝く第2位は『乙女のワルツ』(伊藤咲子の名歌唱とともに忘れられない一曲)、珠玉の第3位から第5位までは順位がつけられないため順不同で、『北の蛍』(すすり泣くような森進一の歌声と見事にマッチ)『想いで迷子』(チョー・ヨンピルが恨を込め切々と歌いかける)『花の時・愛の時』(前川清がしみじみと歌い上げた)である。まさに日本歌謡界に輝く大作曲家であり、昭和の宝であった。
こちらもインターネットをたどっていくと、三木さんに関する記事が多数存在し、その中に次のコメントがあった。
「信念を持って曲を世の中に出して、それが受け入れられるかどうかは二の次で歌を作っていきたい。歌の感動がだんだん薄れつつある。もっと感動をつくりたい。それには作り手が感動しなくちゃだめだ」
才能だけではなかった。その心のうちに熱いマグマのような想いがあってこその名作の数々だった。私は吹き手であるが、三木センセイと同じ想いを胸に抱きつつ吹いて行こうと強く思った。
私は三木たかしさんにやはり“感動したっ!”
さて、今回のタイトルは、もはや知らない人のほうが少ないと思われる人工衛星の名前である。
東大阪市という、中小企業が集まる“モノづくりのまち”の人たちが、長引く不況の中、「苦しい時こそ夢を持たなアカン!」と立ち上がり、東大阪宇宙開発協同組合(Astro Technology SOHLA)を設立。JAXAや大学と提携して、スタートから7年後の今年1月、見事人工衛星の打ち上げに成功した。その衛星につけられた名前が「まいど1号」である。この、人を喰ったようなネーミングで人工衛星を打ち上げるなどとは、私はずっと冗談かシャレかと思っていた。それが、着々と開発が進んでいく様子が報道されるにつれ、“あらら大真面目やったんや”と驚きに変わっていった。実際のところは「JAXAがまいど1号を作るのを、東大阪宇宙開発協同組合が手伝った」と言う方が正確であるらしい。しかし、組合の初代理事長・青木豊彦氏などの発案者がいなければ「まいど1号」は存在しえなかったであろうし、東大阪市もここまで知名度が上ることはなかったであろう。
何を隠そう、東大阪市は私が小・中・高と過ごしたホームタウンである。東大阪人(?)は冗談ばかり言っているように見えて、やるときゃやるのである。私は中小企業ですらなく個人商店であるが、東大阪人のスピリッツを腹に据え、日本を超え、世界を超えて宇宙へ飛び出すつもりで前進したい。
私は「まいど1号」の“夢を打ち上げるんやない。夢で打ち上げるんや”(公式サイトから引用)というメッセージに心から“感動したっ!”
サブちゃんが第一線で過ごされた48年までにはあと32年もある。“そこまで吹き続けていられるだろうかという不安は大いにある”(その時私の年齢は何と80歳!)が、一人でも多くの方に感動を伝えられるよう、自分を磨いていきたい。
感動の種はそこかしこに転がっているものなのである。もちろん自分自身の中にも!
「一ノ矢」
(2009-4-25)
私はレッスンしている。
肩書き上は一応“尺八演奏・教授”なのであるが、このご時世に演奏の仕事が年がら年中ある訳ではなく(私だけが不人気なのかも知れないが)、ひと月のうち二十日ほどはお稽古をしている。
嬉しいことに多くの人が習いに来てくださる。“竹縁”とはよく言ったもので、普通なら全く接点を持つことが無いであろう妙齢の女性や、人生の大先輩(そのステイタスも様々である)の方々とも、尺八という楽器を通して交流が出来る。ありがたいかぎりである。
皆様のおかげを持ち、昨年度も門人および私はいくつかの成果を上げることができた。ここからは半分自慢しながらのご報告である。興味の無い方は読み飛ばされたい。
まず5月、熊本・全国邦楽コンクールに於いて谷保範君が尺八部門第一位の“優秀賞”に輝いた。私自身は同コンクールで過去に“優秀賞”の下の“奨励賞”を獲得したのがやっとだったのであるが、これで“最優秀賞”の松本宏平君、“優秀賞(それも二度)”の安田知博君に続き3人目の快挙である。続く6月には吉良和彦君が若手のコンペティション“S−1グランプリ”の予選を見事に突破し、オーストラリアの国際尺八フェスティバルに賞金付きで招待された。世界の俊英に混じっての本選演奏は立派の一言であった。8月にはスーパー高校生、松村湧太君が全国高校生邦楽コンクールに於いて全部門での第一位を獲得した。昨年の無念の第二位を見事にリベンジである。そして松村君は本年3月、第一志望の東京藝術大学音楽学部邦楽科尺八専攻に無事合格し大学生となった。尺八のみならずピアノ、声楽、能管などにも秀で、彼独自のマルチな活動を目指す才能豊かな少年である。大学入学を果たし、もう私の手を離れてしまったが大成に期待したい。
不肖私も思いがけず、昨年10月のリサイタルに対し文化庁芸術祭の優秀賞を戴くことができた。こちらは今なお何かの間違いではないかと疑っているのであるが、現在のところ所轄より訂正の連絡は入っておらず、また「実はドッキリでした!」という人も現れていないので、そのまま貰っている。
このように目に見える形でご褒美を頂戴し、門人と喜びを共有できることは正に教授者冥利に尽きる。しかしながらもっと嬉しいのは、私という人間を媒介として、尺八を吹く楽しみを得る人が増えたり、人と人との繋がりが拡がることである。発表会や忘年会など、年に数回行なっている門人同士が交流する機会に於いて、普段顔を合わすことの無い方々が談笑されている姿を見る時、“あぁ、私も少しは人の役に立てているんだ”と責任を果たせたような安心感と喜びを覚える。
レッスンはとてもくたびれるものである。自分の演奏や練習より数倍は疲れる。しかし、上述のように有形、無形の悦びを得られる“教授”が私にとっては「天職」なのではないかとつくづく思う。
ところで、私はもちろん尺八を毎日吹いているのであるが、近頃は曲を練習するということよりも、“尺八と、自分という人間の関わりを識る”“身体の使い方を探る”という方向に興味がシフトしてきた。そのため、武道やスポーツ、気、といった書籍やサイトを読むことが以前にもまして多くなった(もっと音楽関係も勉強しなさいよ、という声が聞こえないでもないが・・・)。
今回のタイトル「一ノ矢」は、2007年12月のこの項で取り上げたことのある、私と同い年の相撲取りの四股名である(“の”が多すぎ!)。彼の伝記が出ていたので大いに興味を持って読んだ。本の正式なタイトルは『一ノ矢〜土俵に賭けた人生〜』(ヒヤ小林著 ダイヤモンド社 2008年)。徳之島出身で琉球大学理学部物理学科を卒業したものの、決まりかけていた教員への道をなげうって相撲界入りした“一ノ矢”という力士の人生を描いた一冊である。
“相撲”に魅せられた一人の男が、身体が小さいというハンディを克服して見事力士となる。ケガに悩まされながらも知恵と練習と精神力でそれを乗り越え、同期や後輩が引退する中、ついに現役最高齢力士となり、何と46歳11ヶ月まで相撲をとりつづける、という想像を絶するような実話である。
前にも書いたが、私と元・一ノ矢さん(この名前で最近『シコふんじゃおう』というトレーニング書を出版された)とは生年月日が10日ほどしか違わない。よって、文章に登場する世情や話題などが完全に私とリンクする。「22歳の春に大阪に出てきて新弟子志願をしていた」とあれば、“自分はサラリーマンになりたてでいつも緊張していたなぁ”とか、「平成5年初場所に二度目の序二段優勝を果たした」との記述には、“そうそう、この年はちょうど会社を辞めてプロになった年やね”と、自分自身の人生と重ね合わせ、感慨を覚えながら読了した。
この本には一ノ矢へのインタビューも多く載せられている。彼自身の言葉を含め、私の心に残った箇所をいくつか紹介したい。
一ノ矢という力士はその力士時代のほとんどを序二段と三段目で戦った。このポジションは十両以上の“関取”になるための修業期間という身分であるから、扱いも収入もそれなりである。著者がこの点について訊いた時のコメント。
〜私は現役時代の一ノ矢に聞いたことがある。もっとお金が欲しいとは思わなかったかと。
「ないことはない。しかし、それなりにやっていけるさ」
さらに聞いた。もっとも満ち足りているものは何かと。
「好きなことをやっているという満足感だね」
では、一番欲しいものは何か尋ねると、
「相撲の本質を知ることだな」
現役時代の彼にとっては、満ち足りているものも欲しいものも、どちらもお金で買える物ではなかった。〜
文中の“相撲”を“尺八”に置き換えると私の心情と正に同じである。どこかの宣伝の“priceless”というやつである(もちろん尺八には“price”がありますが、えへへ)。
続いては一ノ矢を応援していた識者、楠川先生のコメント。
〜先生に改めて一ノ矢の魅力をうかがってみた。
「彼の魅力は、第一に相撲を心から愛していること。第二に、相撲を単なるスポーツとしてではなく、相撲道という文化としてとらえていることです。彼は『自分は相撲で人間を磨くのだ』と言っていましたからね」〜
これも“相撲”を“尺八”、“スポーツ”を“音楽”と置き換えたいが、私はまだまだその境地には達していない。
そして、一ノ矢が教育係を務めていた同部屋の朝青龍が、横綱に昇進したことに寄せるコメント。
〜「横綱の昇進のしかたを見ていると、強くなるのが簡単なことのような錯覚を思わず起こしてしまうほどだが、強くなることがどれだけ難しいかは。99%以上の力士が、もがき、悩み、苦しみ、ある者はあきらめ、身にしみて感じていることだ」〜
“強くなる”=“上手くなる”であるが、これは私自身も日々ひしひしと実感している。
このくだりを読んで、15年前のことが思い起こされた。
まだ私がプロになって間がない頃の横山先生のレッスン場での光景である(“の”はぎりぎりOK)。
私がレッスンの順番待ちをしていると、当時40代で既にプロとして名が通っている兄弟子に横山先生がこう言っておられた。
「君は音がまだ練れていないんだよ。尺八にとって一番大事なものは音なんです。今からでも遅くないから、あと15年くらいかけるつもりで音を鍛えなさい」
それを傍で聞き、「15年とはまた気の長い話やなぁ。音を鍛えることはそんなに時間がかかるもんやろか」と私は思った。
ところがぎっちょんちょんのあにはからんや。“光陰矢のごとし”か、はたまた“十年、ならぬ十五年一昔”か。その時からちょうど15年経った今でも、私の音は「ハイッ、良くなりましたっ!皆さん私の音を聴いてくださいね」とはとてもじゃないが言えない。「あのぅ、その時よりかはちょっとマシになった気がするんですけどぉ。がんばって吹くので聴いていただけたらうれしいですぅ」くらいである。
その“15年”という数字がどこから出てきたかは知る由もないが、横山先生おそるべしである。個人的に15年を自動延長させていただき、さらに音作りに励む所存である。
さて、一ノ矢は22歳で力士となり、46歳の引退まで24年もの間、闘い続けた。通算成績484勝518敗6休、序二段優勝2回、自己最高位東三段目6枚目。数字以上にその軌跡は光を放っている。
この素晴らしい同級生を範として私も闘い続けようと決意を新たにする。私は10年遅れて32歳で尺八のプロになったので、まだ16年経ったにすぎない。
門人をレッスンしながら自分自身をもレッスンするのである。
プロ16年目の私はなかなかに忙しい。
「尺八楽の魅力」
(2009-3-28)
私はマスクをしている。
今年もこの忌まわしい季節がやってきた。アレルギー体質の私は、当然の如く花粉症キャリアである。今年の花粉飛散は例年より早く、2月下旬からくしゃみ、お鼻ぐずぐず、夜中の鼻づまり、のマイ花粉症基本パターンが始まった。また、その量も例年に比べると多く、3月には、これまで鼻だけだった症状に、お目目かいかい(痒い痒い)がプラスされた。
そのぐずぐず、くっしゅん、かいかいの症状に加え、レッスンのオーバーワークで今度は私の喉が悲鳴を上げた。一時は唾を飲み込んでも激痛が走るほど強烈に腫れてしまい、とてもじゃないが尺八を吹くどころの話ではなくなってしまった。そのため、不本意ながら数日間レッスンをキャンセルし、曲を聴く勉強や読書、確定申告などの諸雑用をして過ごした。結局2週間ほど絶不調の期間が続いた。
“長閑けき春”とはほど遠い、とても憂鬱な季節ではあるがまた、この時期に楽しみにしていることもある。「青山音楽賞」の授賞式がそれである。
「青山音楽賞」とは、京都にあるコンサートホール“バロックザール”を所有する青山財団が、そのホールで年度内に行なわれた演奏会のうち、特に優れた内容のものを表彰する音楽賞である。新人賞、音楽賞、バロックザール賞の3賞からなり、前途有望な新人や油の乗ってきた中堅どころ、そして円熟したアーティストが毎年選考されている。この授賞式では、答礼の意味で受賞者が演奏を披露することから、授賞式自体が、通常では考えられない組み合わせの“旬”のアーティストによる「ガラ・コンサート」になっており、聴き応えがあることこの上ない。
今回(2008年度)の受賞者は、ヴァイオリン、ピアノ、声楽2名、打楽器、のソリスト5名と、トリオが2組であった。どの受賞者も贈賞されるに相応しい見事な演奏を披露してくださったが、その中で私がとりわけ興味を持って拝聴したのが、新人賞・五島真澄さんのバリトンと、バロックザール賞・福田清美さんのテノールという声楽のお二方であった。
お二人の声は心地良い振動と共に私の身体に沁みわたった。そしてクライマックスの箇所では久々に“骨に響く”“骨が振動する”という感覚を味わった。
以前にも何度か、声楽家の歌がビリビリと自分の骨に響いたことがあり、“何とか尺八の音も骨に響かすことは出来ないだろうか”と考えたことを思い出した。
己が肉体自体を響かす声楽と、体外の楽器を使って音を出す尺八とは、「発音機序」そのものが違うのだから一緒にできないのは当然ながら、“空気を振動させて音を作り、それを飛ばす”という点では類似していると言えなくもない。実際に横山先生の生音は尺八からではなく、声楽の方と同じように“身体全体が共鳴体となって、そこから出ている”という音であった。そこで、自分の貧弱な尺八の音も骨をうまく使えば、もう少し遠くへ飛ばせるのではないか、と想い、試行錯誤したことがあったのである(その都度挫折していつの間にか忘れ去ってしまったのであるが・・・)。
何という偶然か、ちょうどその「青山音楽賞」の式典への行き帰りに読んでいた本が『尺八楽の魅力』(横山勝也著 講談社 1985年)であった。
我が恩師、横山先生の23年も前の著書であるが、ことある毎に読み返す、言うなれば私のバイブルである。読む度に新たな気づきや発見を与えてくれる、私にとってはありがたーい一冊である。
今回特に印象に残ったのは“自己を音化する”という記述であった。尺八を吹いている自分自身が音そのものと化するのである。これは以前のレッスンの時にも先生から“自分が音になるんだよ”とのアドヴァイスを戴いたことがあって憶えていたのであるが、自己をどうやって音化するのか、手ががりがつかめずにいた。今回はちょうど声楽を聴いたあとだったこともあり、よりリアルなイメージを持つことが出来た(“イメージが持てる”ことと“体現する”ことは次元の違う話ではあるが)。
そしてその後、音と身体の関係について考えていて豁然と気がついたことは、その“自己を音化する”状態を作り出すためには“滅私”でなければならない、ということである。一見矛盾しているようにも思えるが、自分が音となるためには作為や思惟が入りすぎると純粋に音化しきれない。竹管(尺八)と自己が同化して初めて自分が音となりうる。ならば、考えられるすべてのことを行い、身体を“空”“滅私”の状態にして自然に預けることが大事なのではないか、と思うに至った。
ひょっとすると全くの見当はずれかも知れない。しかしそれはこれから、さらに思索と実験を重ねていけば良いことである。そう腹を括って尺八に向かうと、出てくる音や、音に対する感じ方にこれまでとは違う感覚が得られるようである。尺八を吹くことがまた一段と面白くなった。
それともう一点、再読して強く印象に残ったことは、先生の文章における語彙の豊かさであった。とても豊富なボキャブラリーを駆使され、その箇所箇所で最適な表現をされている。同じような状況、心持ちの言い回しでもいくつものヴァリエーションがある。これが先生の豊かな演奏に繋がっているのではないか、と感じた。「尺八古典本曲」は同じ旋律や、似たパターンの繰り返しが少なくない。これに変化をつけるには“音のボキャブラリーを豊かにする”ことが必要なのだと確信した。また、先生は修行時代、様々な音楽のみならず美術鑑賞も相当行なわれたことが記されてある。その多岐にわたる経験が演奏や音により深みと色彩感を与えているのであろう。
今回もこのバイブルは私に多くのことを気づかせ、また、教えてくれた。勉強しなければならないことは山ほどある。そしてもっともっと身体をうまく使えるようにして“竹身一如”になりたい。やはり尺八は“一生修行”である。
幸いにも喉のほうは随分と回復してきた。マスクとはおさらばして練習再開である。
「13階段」
(2009-2-22)
私は“ちまちま”している。
自らは認めたくないが、かなーり“ちまちま”している。尺八界の“チーマー”と言われても仕方のないくらいである(ちがうかー!)。ちなみに“ちまちま”を辞書で引いて見ると「小さいさま。小さくまとまっているさま。ちんまり」とある。どんな風にちまちましているのかというと、例えば『あなたは大好物を、1.断然最初に食べる、2.絶対に残しておいて最後にゆっくり味わう?』という質問があるとする。私の答えは1.でも2.でもなく3.である。3.とは「まず半分を最初に食べ、あとの半分はずーっと取っておいて一番最後に味わう」である。お弁当の中に大好物の玉子焼きを発見した時には、まずこのようにして二度楽しむ。
別に儲かる訳でもないのに、設問にない3.を作ることからして“ちまちま”しているし、だいたいこんな文章を書いていること自体そうとうな“高ちまちま度”である。
でもって、これは性分なのであるからして、生き方や生活全般に通づることであり、ということは尺八にも充分あてはまるものなのである(うーん、文章は“ちまちま”かつ“まどろっこしい”)。
自分ではいつも目一杯吹いているつもりなのである。でも、傍から見れば「急カーブにさしかかるといつのまにか減速して絶対にクラッシュしない」ような演奏らしい(以前、コンサートのアンケートにそのような事を書かれた×→書いた方がおられた○)。
こんな私が、横山先生や故山口五郎先生のような広広とした音に惹かれるのは、無い物ねだりというか、自分には絶対に出せないものに憧れるからだと思う。ほんとうに両師の音は私にとって永遠の憧れである。
閑話休題、またまた凄い物書きに出会った。その名を高野和明という。ミステリやそのあたりのファンの方には「今ごろ何をいうとんの」という感じであろうが、映画化もされたという氏のデビュー作『13階段』を読んで、私はたまげてしまった。何という凄い構成、何というスピード感、そして何とためになる内容であろうか。死刑囚と裁判制度など、とても重苦しいテーマを扱いながら、爽やかな読後感すら与えてくれる。そして読んで楽しいだけではなく、とても勉強になる一冊である。“チーマー”である私は“これっ!”という一冊に出会うと、一気に読み了えるのがもったいなくて、ちょびっとずつ楽しむのであるが、この本はそれを許してはくれなかった。結構厚めの文庫本であったにもかかわらず2〜3日でラストまで辿りつかされてしまい、この幸福感を更に味わいたく、他に出ている『グレイヴディッガー』『K・Nの悲劇』『幽霊人命救助隊』も、一冊を読了する前に次のタイトルを買う、という私らしからぬ素早さで手に入れ、立て続けに4冊を読破した。
4冊の内容はいずれも「人間の死」に関わるものである。しかし、それを取り上げる視点や構想(プロット、っていうんですかねぇ)、そして作風まで、まったく異なっている。知らなければ別々の作家の作品だといわれても納得するくらいテイストが違う。尺八の曲でいうと、『霊慕』と『産安』と『鶴の巣籠』と『浮雲』ぐらい曲趣の違う大曲を、一人の人が作ったような感じであろうか。
この才気溢れる作家自身に興味が湧き、インターネットでいろいろ探していると本人のインタビューが見つかった。このインタビューも著作に負けず劣らず面白い。
高野和明氏は、“執筆活動で一番大変な事は?”という問いに対し、『この先、続けて行けるかどうか、ですね。小説家を目指している人には夢のない話になってしまいますが、世間のイメージとは違って、あんまり儲かる仕事ではありません。デビュー当時、大手出版社の編集者から聞いた話では、年間500人の新人作家がデビューし、そのうちの99%は食べていけずに廃業に追い込まれます。残る5人は食べては行けますが、人並み以上の生活が出来るのは1人だけという、厳しい生存競争にさらされます。仕事の必要経費は自腹だし、老後の厚生年金などもありませんから、会社員と同じレベルの生活をしようと思ったら、少なくとも彼らの2倍は稼がないと追いつけないという話を先輩作家から聞きました。』と答えられていた。うーん、やはり好きな道で生計を立てるということはどこの世界でもたいへんである。おそらくお笑い芸人もアイドルも演歌歌手も似たような確率であろう。尺八にあっても母数自体は小さいが、やはりその中でやっていける人というのは一握りのようである。
また、氏はこうも述べられている。
『自分が高校生だった頃、映画監督になりたいと言ったら、「生活の苦労」を理由に周りの大人たちが止めたんです。しかし10代の子供には、何を言われているのか分かりませんでした。30歳頃になって、ようやく「生活の苦労」とは何かを身をもって知りました(笑)。
その当時は、所持金がゼロになったら夢を諦めて撤退しようと決めていました。定期収入のない人間が借金をしたら、人生終わりですから。常識的なアドバイスになりますが、夢を追いたい人は、冒険に出る前に守りを固めて下さい。「夢を追う」ことの9割は生活苦との戦いであって、戯作三昧の充実した日々ではありません。それは私自身が経験したことです。』
私のところへも尺八の魅力にとりつかれた学生が、“プロになりたいんですが・・・”とやって来ることがある。私の門人に、プロ活動をしている者が少なからずいることを知った上でのことだと思うが、そのような若者に対して私は、尺八の実力には関係なく“今どき大学を中退して尺八吹きになるというのは流行りまへんで。まず卒業のめどをつけて親を安心させてから好きなことを続けられる道を探しなはれ”というアドヴァイスをしている。若い芽を摘む訳でも、ライバルを減らす訳でもないが、「そこそこに上手いだけでは飯は食えず、また、下手なプロほど惨めなものはない」ということを見てきているからこそ、こういう助言が口をついて出てくるのである。
こういうことを考えさせてくれたことも含め、この作家に出会ったことは今年一番の収穫である(まだ2月だからちょっと気が早いか)。
ふたたび“ちまちま”の話題に戻るが、尺八の巨匠にあっても結構“ちまちま”した部分を持っていらっしゃる方が少なくない。現在、尺八の人間国宝はお二方おられる。そのうちのH山師は若い頃自主コンサートのプログラムを作成するにあたって、原稿を実際の活字の大きさ(小ささ)で書かれたらしい。周りの人は一笑に付したらしいが、ご本人は“こうやって出したほうが印刷屋さんにも出来上がりがイメージしやすいんだ”とおっしゃられたそうである。何と親切な“ちまちま”であろうか。また、もうお一方のR慕師(そうですねぇ、空港で私に“老けたねぇ”とのお言葉を下さった方ですねぇ)は多趣味なセンセイであるが、ある雑誌のコーナーで、「さつき」と「金魚」をご自身の趣味と公開されていた。その時のコメントが“「さつき」が静の趣味なら「金魚」が動の趣味です”とあり、“いくら金魚が動くからといって、それが動の趣味とは違うやろ”と私は一人でツッコミを入れていた。ともあれ、どちらもなかなか手のかかる“ちまちま”趣味であることに違いはない。
お二方とも“豪快”な音と演奏で国宝まで登りつめられた方である。ということは、脱“チーマー”を計る必要はないということだ。“ちまちま”はそれはそれで残しておいて、“豪快”な音と演奏を目指せばいいのだ。私にも希望の光が見えてきた。えっ、「その“豪快”に吹くのが難しいんだよ」って。その通り、それが一番難しいのである。
ということで、今年の目標は《一生懸命生き、一生懸命“豪快に”吹く》に訂正いたします。
「四十八歳の抵抗」
(2009-1-22)
私は通勤している。
1月は人形浄瑠璃『文楽』初春公演の月である。今回の出し物に尺八が登場する演目があり、縁あって影吹きの仕事を仰せつかった。そこで、大阪・日本橋の国立文楽劇場へ毎日通っている訳である。定期券を携えての劇場入りは4年前の『阿國・わらう』以来である。
通勤電車に揺られている間は、演奏する曲の勉強と読書の時間に充てている。1月3日に初日が開き、しばらくの間は吹く方の勉強でまったく余裕がなかったが、ようやく慣れてきた1月8日、ちょうど48歳の誕生日を迎えたのをきっかけに、かねてより読みたかった本の頁を開いた。
そのタイトルは『四十八歳の抵抗』(石川達三著)。実は数年前からこの年の誕生日が来たら読んでやろうと狙って(?)いた一冊である。
巻末に載っている「解説」によると、この小説が書かれたのは今から50年以上も前。昭和30年11月から31年4月まで新聞小説として発表され、その題名は流行語にもなったらしい。
48歳になるサラリーマンの身辺に起こる出来事や心情などを、ゲーテの『ファウスト』をスパイスとして使いながら綴られた佳作である。しかしながら、やはり2009年の現在とは少々そぐわない部分があるのは否めない。
「サラリーマンは終身雇用制が大前提で、定年が55歳」の時代の48歳を描いているのであるが、その年齢の人間が“中老人”と扱われていることに驚きを禁じ得なかった。主人公のつぶやきにも“もう定年まであと7年、このまま朽ち果てていくのか”といったような表現が登場する。現在の年齢感覚とは15〜20年くらいかけ離れているように感じる。常にダジャレを考えているどこかの尺八吹きとはえらい違いである。
閑話休題、大阪出身で何十年も大阪に住んでいながら、私は文楽を観たことがなかった。48歳になって初めて知ったことで恥ずかしいかぎりであるが、『文楽』は面白い。そして実によく出来ている。
『文楽』をよく知らない“文楽出演以前の私”のような方に簡単にご説明すると、人形浄瑠璃『文楽』とは、ストーリーをある時は語り、またある時は歌う「大夫」がいて、そこに「三味線」が絶妙に絡み、舞台上で「人形」が芝居をする、という贅沢な“分業”によって一つの物語を完成させるエンターテインメントである。楽屋に出入りするようになり、私がまず驚いたのは関わっている人の多さであった。一回約4時間が2部制になっている今回の初春公演の出演者が、「大夫」さん24名、「三味線」さん18名、「人形遣い」さんが何と37名、それに加え囃し方が6名もいらっしゃる(パンフレットより)。それに裏方、スタッフの方も数十名はおられる。国立文楽劇場のたくさんある楽屋(三曲関係で使う時は広々としている)はどこもかしこも人だらけである。
それが雑然とした印象にならないのは、一つの芝居を作るにあたってのそれぞれの仕事が完全に“分業化”され、また見事に“専門化”されているからであろう。各人がそれぞれの“エキスパート”であるから、舞台上も舞台裏も和やかな中にもピリッとした空気が漂い、とても心地よい。
「大夫」さんはすべての登場人物のセリフと情景描写を、声色を巧みに使い分け、まさに全身全霊を持って語り上げる。重厚な義太夫「三味線」はその大夫の語りに絶妙に色を添えドラマを演出する。名人の大夫さんがインタビューで“大夫がピッチャーなら三味線がキャッチャー、そして人形が野手”と例えておられたが、まさに言いえて妙である。雄弁なバッテリーに対し、野手である舞台上の人形および人形遣いは一言も声を発しない。とてもストイックで、ある意味滑稽ですらある。そのバッテリーと野手の対比、そして緊張感と一体感が見事な芸術的世界を築き上げている。
毎日、出番まで舞台袖で観ていて、一言も言葉を発しない人形が、身振り手振りと、わずかの表情の動きだけでどうしてあれだけ豊かで深い表現が出来うるのか考えていた。ある時ハッと気がついたことは、制約や制限が多いほど、それを乗り越えた時には訴える力が強くなる、ということである。これはまさしく尺八の古典本曲に通ずる。五つしかない手孔、比較的簡単に出せる音の数よりも出しにくい音の数のほうが多い、開放でスカッと出せる音程をわざわざ出しにくいメリや大メリを駆使して出す、など、尺八古典本曲は制約や困難だらけである。先人達の、それに打ち克とうとする工夫や努力がそれらを乗り越え、強さや美しさを湛える世界を作り上げてきたのである。困難ばかりならば、現在の感覚では“無駄の塊り”としか思えない文楽の形態や尺八古典本曲などは、とうに廃れていたことであろう。このことに気づき、私は一層メリや大メリが好きになった。
今回の文楽出演は私に様々なことを教え、また、気づかせてくれた。
何よりも学びになったのは、皆それぞれが一生懸命に“仕事”している、ということである。
私の今年の目標が決まった。
《一生懸命生き、一生懸命吹く》
何だか小学生みたいだがノープロブレムである。
ブーブー吹いて、吹きまくって四十八歳という年齢に精一杯“抵抗”するのだ。
という訳で、今年も一年よろしくお願いいたします。
文楽公演も1月25日まで演っています。ご都合のつく方はぜひお運びください。
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