「だまされた」では済まない
まさかの自民党政権が戻り、公約どおり原発推進に戻ってきましたね。
前に記事にした、孫崎享さんの「戦後史の正体」を読んだり、ツイッターやニコニコ動画で勉強すると、このままいくと、最悪戦争など、日本が非常にやばい状況になると危惧しています。
今、テレビや新聞を見ているだけでは、足りないようです。
勉強するしかありません。
コメントで教えていただき、故・伊丹万作さんの「戦争責任者の問題」という文章を読み、感銘を受けました。
http://center.akarinohon.com/?p=1076
伊丹万作さん(1911-1946)は映画監督で、伊丹十三さんの実父であり、大江健三郎さんの奥さんの父です。
戦争に突き進んだ日本、そして敗戦、皆が「だまされた」と責任回避。
このような国民性では、すでに別の嘘が始まっていてもだまされ続けるのでは、とおっしゃっています。
実直な人柄が文章から伝わり、時流に流されない力強さも素晴らしいと感じました。
息子さんの映画はよく見ていましたが、伊丹万作さんの作品も一度観てみたいです。
下記、「青空文庫」で、無料で縦書きの美しいレイアウトで読めます。
ページ数も25ページと少なく、わかりやすい文章でした。
今の時代の我々にも重要なメッセージに思いました。
ぜひご一読を。
http://center.akarinohon.com/?p=1076
上記より、引用:
・少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、(中略)、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。(中略)
しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。
・もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
・「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような
いかがでしょうか・・・。
「だまされるような
私にも必要だと思います。
上に任せておけばちゃんとしてくれるだろう、皆がやっていることなら間違いないだろう、という性質は日本人の大らかさでもあるけれど、危険で無責任で依存的でもあります。
そんな風だから民主主義とは形ばかり、ということになるのではないでしょうか。
あたりまえの主張もせず、おかしいことをおかしいと言えず、皆がやるからと集団で間違った方向に流され、気がついたときには後戻りできず、「だまされた」と言う、そういう歴史をまた私たちは繰り返すのでしょうか。
伊丹さんの文中では、「奴隷根性」と手厳しく書かれています。
そして、別の本「戦後史の正体」(孫崎享著)より、以下のところを抜粋します。
戦後占領下の日本人について、戦前・戦中・戦後外交間として活躍した重光葵(まもる)さんがに書いた文章だそうです。(「続 重光葵日記」より)
「結局、日本民族とは、自分の信念をもたず、強者に追随して自己保身をはかろうとする三等、四等民族に堕落してしまったのではないか」
「節操もなく、自主性もない日本民族は、過去においても中国文明や欧米文化の洗礼を受け、漂流していた。そうして今日においては敵国からの指導に甘んじるだけでなく、これに追随して歓迎し、マッカーサーをまるで神様のようにあつかっている。その態度は皇室から庶民にいたるまで同じだ」
「はたして日本民族は、自分の信念をもたず、支配的な勢力や風潮に迎合して自己保身をはかろうとする性質をもち、自主独立の気概もなく、強い者にただ追随していくだけの浮草のような民族なのだろうか。いや、そんなことは信じられない。いかに気持ちが変化しても、先が見通せなくても、結局は日本民族三千年の歴史と伝統が物をいうはずだ。かならず日本人本来の自尊心が出てくると思う。」
どうですか?
悔しいですよね。けど、当たってるとも思います。
未だに進歩していないどころか、酷くなっているのかもしれません。
最後の一文の重光さんの一文に、私は思わず握りこぶしを握りしめます・・・しかし今の日本は・・・申し訳なく思います。
この文章が載っている孫崎さんの「戦後史の正体」は、まさに今進行している「嘘」にかかわる重要な視点を教わりました。
日本の外交の立ち位置を考えるに、大国(=米国)の世界戦略を抜きにして語れないということ、そして、これまでの日本の政治は米国追従と自主自立の二つの路線のせめぎ合いから説明できるそうです。
そして、今の自民党は米国追従路線で、米国が日本に望むとおり、原発推進、軍備強化、戦争協力体制へと進むそうです。
日本が中国やソ連と仲良くしないよう、対立を招くようにしむけてきたのも米国という経緯があります。(詳しくは本で読んでみて下さい。北方領土問題なども詳しく書かれています。)
尖閣諸島がわが国固有の領土であるというのは、国際的にはポツダム宣言、カイロ宣言からすると、正しくはないそうで、これまでどおり、その問題は”棚上げ”にしておくのが一番国益に叶うことであったそうです。
せっかく中国側の首相が”棚上げ”でよいと言っていたのに、火に油を注いでしまったのです。
そして、これは全然別の方がおっしゃっていたのですが、尖閣諸島を国有化したときに、野田総理が中国にひとこと、「これは、子どもじみた東京都知事が暴走してご迷惑かけるのを止めるために便宜上国有化するだけであって、中国に対して争う気持ちはありません。尖閣諸島に関しては、おたくの周恩来さんがおっしゃったとおり、棚上げにしておきましょう」と言っておけば、ここまでの緊張は招かなかったと。
なるほど~と思いました。
先の孫崎享さんの書籍は、ぜひ多くの良識ある方に読んでいただきたい本ですので、再々リンクしておきます。
「高校生でも読める」のコンセプトの本なので、私同様政治おんち歴史おんちの人でも読めますよ。
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- ツイッターでも積極的に発言されていますので、フォローしましょう。