「一銭五厘の旗」を読んで箒を買いに
感傷趣味の「昭和」ではなく、鋭い批判精神でみた戦後、昭和。リアルな昭和。
そこには、すでに今の時代の病理が始まっていることが読み取れます。
東海村に原発第一号ができたのが昭和38年というのが、うなずけました。
おかしな方向に時代が動き始めていることを著者の鋭い批判精神で、しかも庶民の生活の視点から書かれています。
この本は昭和33年から45年にかけて「暮らしの手帖」に掲載された編集長の花森安治さんののエッセイから編纂されています。
ちなみに私と夫が生まれた年もすっぽりと含まれています。
「暮らしの手帖」は当時「商品テスト」という暮らしに密着した色々なメーカーの電化製品を徹底的にテストして発表するという試みが評判になったそうです。その検査の苦労や裏話なども大変興味深かったです。このテストの信頼性を守るため、広告を一切取らないという方針を貫かれたそうです。
この頃は、戦争の前の日本、戦争中の日本、戦後から今に繋がる時代の空気をリアルタイムで知っている人たちの時代なんだなあと認識しました。
「あの戦争」という表現からもわかりました。
センセーショナルなことや、ドラマチックなことが書かれているわけではありませんが、エッセイ「見よぼくら一銭五厘の旗」や「戦場」に静かに書かれていたことを、私は一生忘れないと思います。
図書館で読んだら、ここだけで泣いてしまい、これは子ども達にも将来読ませなければと思ったので、その場でネット注文しました。
大判で写真や装丁も美しい、持っているだけで心が温かくなる本でした。
注文した本が届いて、読んでみて、まずしたことは、箒を買うことです。
「もののけじめ」というエッセイより引用します。
「自分の毎日の暮らしをちょっと考えてみても、戦前といまでは、ずいぶんけじめがなくなってきているのに気がつく。
朝おきると、ねまきのまま顔を洗って食卓につく。戦前はこうではなかった。
朝おきるとまずふだん着に着かえ、それから顔を洗ってご飯を食べた。ご飯がおわると出勤の服に着かえて、それから出かけていった。
そのご飯も、戦前は炊きあがると一度おひつに移した。いまはガス釜や電気釜から、じかに食べている。
朝おきたら、とにかく家の内そとを掃除して、それからご飯にするというのが、戦前のひとつのけじめであった。いまは掃除をしない家が多い。
そういえば、このごろは、その朝ごはんも食べないで出勤する人も、すくなくない。
むかしは、というより、終戦の年の、あの連日連夜の空襲で、ろくにたべるものさえなかったときでも、たとえ、炒り豆を水でながしこむ、そんな朝ごはんでも、抜くということはなかった。
家族のものが、朝、顔をあわせると、どちらからということもなく、必ず、おはようとか、おはようございます、という挨拶をかわすのも、このごろは少なくなったのではないか。
もののけじめとは、いわば生きていくための、暮らしのルールのようなものだとおもう。」
(引用以上)
ここを読んで、いてもたってもいられずなくなり、ホームセンターに走ったのでした。
箒といえば、昔祖父(故人)が、毎朝家中を箒で掃いていた姿を思い出します。
座敷の畳を箒がこする音が記憶に残っています。
そして、私たちがおもちゃを出しっぱなしにして寝たりしようものなら、埃と一緒に庭に掃きだされそうになって、あわてて片付けたものです。
今朝は早起きして、早速家中を箒がけしました。
電気も使わないし、重くないし、結構隅々までお掃除できて、とっても気持ちがいいですよ。
スピリチュアル的にも、掃除機でするより箒で掃くほうが、いいそうです。
「家を守るぞ」という気合が目に見えないバリアーとなり、家の隅々にいきわたるのでしょうね。