才能とは
昔、師匠が、モーツァルトのことを話していた時だと思いますが、私が軽く「才能があるから」ということばを使うと、たしなめられ「ちがうよ。才能とは『努力する動機がある』ということだよ。」とおっしゃいました。そこまで努力しなければいけないモチベーションがある、そのことが才能であると。
その通りだなと思うことばかりです。
色々な音楽家を見ていて、素晴らしい人は、例外なくものすごい努力をしていますし、歴史に残っている人に至っては、凡人には想像のつかないほどの苦労や努力をしているのではないでしょうか。
J.S.バッハも「私ほどの努力をしたら、誰でも私になれる」と言ったそうです。
ヴァイオリンも、誰も「才能」が初めからあって、上手に弾けるという人はいません。
楽器を弾くというのは積み上げる努力が必要なことです。
多くの人はそのことがわからないのだな、と最近気がついたことです。
運動会などで花形になる、走るのが速い人がいますが、それと同じように思っている人すらいます。「才能のある人」が楽器を持てばいつでも弾ける、と。
しかし、残念ながら走ったり言葉を話したりすることと楽器を弾くことの大きな違いは、「望まれるレベル」というものをクリアしなければいけないということです。
ひどい音で、止まりながら、めちゃめちゃに弾く、これでは「ヴァイオリンが弾ける」ことにならないですから。
発表会などで、普通に聴いていただけるレベルになるために、一般の方の想像以上に生徒たちは努力しています。
泣いたことのない生徒はいないのではないでしょうか。
私を含めて(笑)。
昔は、よく出来ない自分に悔しくて泣きながら弾きました。
今でも、人前で弾かなければならないとなると、シビアに練習します。
もちろん、適性というものはあり、人によって、本人が望むレベルは容易に弾けてしまう人や、一方で練習をたくさんしないと思うように弾けない人、譜読みが得意な人苦手な人、ある技術が得意な人苦手な人、音楽への理解が速い人、理解しにくい人はあり、努力すべき場所も、かかる時間も違います。
しかし、ヴァイオリンを弾くことに強いモチベーションのある人は、厳しい指導も跳ね返してきますし、多くの負荷をかけても、起き上りこぼしのように起き上り、自らで道を模索します。
先日は、その手加減のむずかしさを考えさせられることもありました。
年末に大きな進歩をして、素晴らしいなと思っていた一人の生徒(子ども)が教室を去ったのです。
残念ではありました。そして、これからは、もっと子どもを注意深く見なければと反省もしましたが、これも必然と受け入れています。
全ての子どもがヴァイオリンをしなければならないわけではありません。
しかし、私の門をたたいてくれる生徒がいる限り、私の経験から得たものを、愛情をこめて、これからも教えて行きたいです。