力んで習得してしまった曲の悲劇
今日、たまたまYouTubeで巨匠オイストラフの弾くモーツァルトの変ロ長調のヴァイオリンソナタを聴きました。
昔弾いたことがある曲です。
愕然としたのですが、感動がないんです。
イマジネーションの泉が枯れた砂漠のようです。
それを弾くときの、自分の精神のしんどさが反射的に思い出されるようです。
そう言えばこれに限らず、自分が一度「マスター」した曲は自分から聴いていません・・・。
なぜなのかと考えてみました。
ハヴァス式アプローチに出会う前の私は、ものすごく時間をかけて、筋肉が緊張した状態でさらってさらって曲を弾ける状態にしていました。
そのプロセスで曲の生命までも消耗してしまったのかもしれません。
無理に難しい曲を筋肉的練習で弾くのは、これほどまでに悲しいことなのかと改めて思いました。
しかし、プロになるということは、要求されることを要求される期日で弾かねばならず、こういう辛い状態のまま、時には体が壊れるまで弾き続けなければいけないのです。
しかし、アマチュアの方には希望があります。
もちろんどのぐらいまで行けるかはその人それぞれですが。
昔の師匠K先生が、私が音大に進みたいと言ったら、「音楽をやるにはアマチュアでやるのが一番幸せなんだ!」と反対された意味が今更ながらわかります。
しかし、当時の私は「プロになる程の真剣な練習や研鑽を積む」ことに希望を見いだしていました。それで食べて行きたいと思っていた訳ではなく、ただ、弾きにくさをなんとかして、美しく弾きたかっただけなのです。
皆さんにも、覚えがあるでしょうか。
その最中(さなか)にいるときには、ヴァイオリンを心地よく弾くことなんて不可能だと思っているので、逆に「練習が足りない」と言われると安心したりします。
練習をもっとすれば何かが変わるはず、と希望が出て来るからです。
でも違います。
アプローチを変えないとだめです。
ハヴァス先生は「ヴァイオリン演奏は不可能か簡単かどちらかだ」と言います。
その「簡単」という感覚をハヴァス式に出会って私は初めて味わいました。
もちろん、だからといって、相変わらず下手で、急にうまくなる訳ではありませんが、少なくとも、自分の弾いているときの不満を別のものに転嫁する、例えば先ほどの「もっと練習したらレベルアップするはず」とか、「有名な先生に習ったら(っているから)なんとかなるはず」とか、「あの人よりはレベルが高い」とか、「今こんな良い曲を弾いているのだから」とか「発表会が終わったら別の展開になるはず」とか、「明日ケースを開けたら良い音がでるかもしれない」、「ハイレベルな演奏会に出演すれば」というような不毛な希望にすがったり、焦燥感に駆られたりしなくても、幸せでいられます。
ヴァイオリンを弾けることがこんな幸せだと思ったことはありません。