「体験レッスン」という軽い響きへの違和感
いつの頃からか、「体験レッスンできますか」と問い合わせてくる人が多くなりました。
また、自分の名前も名乗らずに、いきなりその一言という方もいます。
音楽教室やカルチェーセンターがヴァイオリン分野にも手を広げ、「無料体験レッスン」を宣伝し始めた影響もあるのでしょう。
もちろん、どの先生につくかはとても重要なことなので、先生のことをよく知って決めたいという気持ちならわかるのですが、それにしても多くの人が使うその言葉の軽さ、その奥に潜むニュアンスに、違和感を覚えてしまいます。
楽器の習得というのは、その楽器一筋に生きてきた先生からマンツーマンで、何年にもわたって教わっていくという、とても時間も労力もかかることです。
それは生徒にとってはもちろん、先生にとっても同じです。
ヴァイオリンの先生になっている人は、例外なく、他のすべてのことを横に置いて、ヴァイオリン一筋に、努力に努力を重ねた人生を送ってきた人です。
そして、その先生の時間もやはり1日24時間。おのずと取れる弟子の数も限られてきます。物を売るように人気が出れば出るほどたくさん売れて儲かる、というのと全く性質がちがいます。
そうなると、まともな先生ほど、なるべく自分の熱意に答えてくれる良い生徒がほしいと思うでしょう。
したがって、個人の先生に入門するというのは、その枠の中に自分も入れてもらえるかどうか、その先生に自分はふさわしいかどうか、ということにもなるのです。
また、別の角度で言うと、わからない者が、わかった者を選ぶというのもおかしな話です。
何もわからないから問い合わせているのに、その先生がいいかどうか、自分に判断させてくれ、というのも傲慢な感じです。
私もかつて、何も分からない状態で、ヴァイオリンの先生の門をたたきました。
一般大学を卒業して就職した年でした。
(そう、私は大人からヴァイオリンを始めました。この話はまた別の機会に。)
もちろん、その時は専門家になるなど思ってもみませんでした。
楽器屋さんに紹介してもらった先生宅にお電話し、緊張しながら色々と伺った記憶があります。
大人から始めるのでもレッスンしていただけるのか、お月謝は自分に払える額か、楽器っていくらぐらいからあるのか、などなど、不安の数々を一つ一つクリアにしていただいた後、会ってくださると聞いた時の喜びを思い出します。
今考えると赤面するような失礼なこともしました。
でも少なくとも、「体験レッスンしてください」というような軽さはありませんでした。
私なりに、そういう軽い傾向を分析してみるに、最近はインターネットであらかじめ自分に都合のよい情報ばかり集めてしまえるので、楽器の習得という現実を甘く見ているのではないかということ。
そして、何事にも「お客さん感覚」であるということではないかと思います。月謝を払うのだから、自分はお客さん、という感覚でしょうか。あっちでもこっちでも選択肢はあるから、少しでも条件の良いところを自分が決める、という感覚でしょうか。
けれど、そのような受け身では残念ながらヴァイオリンが上達しません。
あくまで主役は自分。目標を定め、先生に道案内を請いながら、練習して練習して上達を手にするのです。
ヴァイオリンは素晴らしい楽器だけど、難しいのです。
「簡単です。楽しく弾けます。」などと、私は嘘は言えません。
また、「良い条件」といっても、額面上少々月謝が安いとか、通いやすいなどの「情報」はわかっても、最も大切な部分、すなわち先生の人間性や力というようなことは、まず自分が教えを乞う者として謙虚に胸襟を開いてぶつからないと見えてこないものです。
どんな先生につくかというのは、ヴァイオリン人生のすべてを決める、といっても過言ではない大切なことです。
良い先生に出会いたいと思うなら、あちこちで「体験レッスン」を受けることよりも、まず自分がそのようなご縁を得るにふさわしい生徒たるよう努力する心構えが大切だと思います。
音楽にプライドをかけてきた人です。