随筆石と竹「時の流れに身をまかせ」

2013年8月17日午前、私は近鉄宇治山田駅へ降り立った。第62回式年遷宮の神事、“お白石持ち”に参加するためである。

20年に一度行われる式年遷宮は、(伊勢)神宮のご正殿を現在建っているところからそっくり隣の土地へ移し替える神事であり、その新しいご正殿の御敷地に敷き詰める石を宮川から運び込み、奉献する祭事が“お白石持ち”である。元々は“神領民”と呼ばれる神宮の近辺の住民のみが行っておられた。それが、2回前(40年前)の第60回より“一日神領民”“特別神領民”などと呼ばれる外部からの参加希望者が認められるようになったとのこと。参加者は内宮、外宮の両方に参加が原則であるが、今回特別神領民となった石川ブロスの片割れ(つまり兄)に外宮の日に仕事が入り、私が代わりに参加させていただくことになった次第である。

宇治山田駅からは今回参加するグループのリーダーに従い、待合所となっている伊勢観光文化会館へ入った。控室で白装束と法被、地下足袋という曳航スタイルに着替えるときゅっと身が引き締まる。地元のかたから参加に際しての注意点を教えていただき、出発地点の宇治橋へ向かった。前の橇(そり)がつかえていたためおよそ1時間の待機のあと、私が今回所属させていただいた中之町奉献団の橇がいよいよ出発することになった。橇には二本の綱がつながれ、その外側に曳き子が並ぶ。中之町奉献団の参加予定人数は約450人と、他の団に比べるとさほど多くない人数であるが、それでも揃いの法被を着た人がずらっと並ぶ姿は壮観であった。
まず、二本の綱の間に立つ“木遣り隊”の人達が木遣り唄を歌い始め、「エンヤー」の掛け声がかかるとスタートである。木遣り隊の人と曳き子が交互に「エンヤー」「エンヤー」と声を張り上げながら一気に進む。神事ではあるが楽しいことこの上ない。途中何度かの休憩を取り、無事に外宮の入り口まで到着した。神官のお祓いを受け、曳き子は神域に入る。石の入った樽は町の名前が書かれた位置に運ばれ、曳き子に手渡される。白い布にくるまれた石を手に、粛々と歩を進めると間もなく新しいご正殿に到着である。いよいよご正殿の中に入り、石を置く。真新しいご正殿は神々しく、身も心も洗われるようだった。これまでの暑さや疲れが一気に吹き飛んだ。
静かなる感動を覚え帰路に着く。やはり神宮は聖地であり、日本人のこころのふるさとなのだと再認識させられた。

石の入った桶を積んだ橇を、二本の綱でたくさんの人が曳くさまは、私の住んでいる神戸市東灘区でも行なわれているだんじり祭りと基本的にはそう変わらない。決定的に違う点はだんじりが年中行事として毎年行われるのに対し、お白石持ちは20年に一度、という点である。つまり前回は20年も前に行なわれた、ということになる。
私が今回お白石持ちに参加させていただき、実感し、感服したのは、それが20年ぶりだということを微塵も感じさせないほど円滑に行われていた運営と進行だった。前回に参加したとは到底思えない若い木遣り隊、曳き子、スタッフまで、実にスムーズに、また誇らしげに事にあたっていた。おそらく相当に周到な準備と練習を重ねてこられたのであろう。先輩から後輩へと受け継がれる伝統を目の当たりにし、感動を覚えるとともに、私もぜひ20年後に再び参加したいと思わずにいられなかった。

帰路の電車の中で、私自身の20年前はどうだっただろうかと思い返した。すっかり記憶の外にあったが、20年前の1993年は私がサラリーマンを辞し、デビューリサイタル『一管懸命』を開いた年であった。そのリサイタル自体は鮮明に憶えている。しかし、アッという間だったとか、昨日のことのようだ、とはまったく思えない。
私にとってのこの20年はほんとうにいろいろなことがあった。よく尺八だけで生きてこられたものだと思う。プラスかマイナスか、と訊かれれば、“幸運にもちょいプラス”と答えたい。血圧が高くなったり、禿げたり、目がしょぼしょぼし出したりしているが、ほぼ健康である。ご先祖様と、周りのほんとうに多くの人達に支えられ、生かされてきた。ありがたいことこの上ない。

数ヶ月前にもあと20年と書いたが、次の遷宮にも参加したいので、やはり20年後、2033年まで現役を目標にがんばっていきたい。願えば叶うことを信じ、これからも一歩一歩前進あるのみである。

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