尺八のネットワーク作りをめざして

 (株)文芸社、日本カルチャーズ(株)「日本の粋 尺八ー五十人の心と至芸の世界」より
 
《目次》


尺八の道を志した理由・経緯

私が尺八を手にしたのは十八歳、大学(立命館大学)に入学した春であった。

それまでは、小学校六年生の時に初めて聴いたビートルズの衝撃が大きく、中学・高校と欧米中心のロック、そして当時流行しだしたフュージョン、クロスオーバーといった種類の音楽にどっぷりと浸っていた。しかし、残念ながら本格的に楽器に振れる機会はなかったので、大学に進んだら何か楽器を始めてみようと強く心に決めていた。

最初は渡辺貞夫の影響もあってサックスに憧れ、ジャズやロック、フュージョンのバンドが集まっている軽音楽部へ入部しようと思い、新入部員勧誘の出店をのぞいた。しかし、私は軽音楽部のムードにあまりなじめず、どうしようかと数日間迷っていた。

そんなとき、先に大学で箏を始めていた兄から「管楽器なら尺八もおもしろいで」と勧められ、邦楽部の部屋を訪ねた。すると、私の訪ねた立命館大学邦楽部は大変雰囲気がよく、また先輩たちが親切にしてくださったので、すぐに足繁く通うようになった。

尺八の方は、長い間音らしい音が出ずにスカスカやっていたが、結果的に長続きした理由は、邦楽部の人のほとんどが大学から楽器を始めたという横並びの状態と、そこからくる安心感であった。経験者が多く、その中で一から楽器に取り組まなければならなかったとしたら、根気のない私はすぐに諦めて、ドロップアウトしていたことだろう。

立命館大学は他の多くの大学の邦楽サークルとは違い、指導の先生を持たない。基本的には、部内で先輩が後輩を指導し、師匠につきたければ自分で習いに行くというシステムである。

私が入部したときの先輩は、奈良の松村蓬盟先生と、大阪の田嶋直士先生のところへ通っていた。

しかし私はどこにも入門せずに、先輩に教えを乞いながら最初の二年間を過ごした。

二回生の秋の定期演奏会が終わり、邦楽部の役員改選の時を迎えた。そのとき、私の回生には私と箏の女性一名の併せて二名しかおらず、私は部長と尺八パートの技術部長という責任の重い役職を兼任することになった。


良き師との出会い

その役員交代の頃から、”下級生を指導するのであれば、きちんと先生に習わなければ”と考えるようになり、現代邦楽に強く惹かれていた私は、当時日本音楽集団団員の田嶋直士先生の門をたたいたのである。

今にして思えば、我流の二年間で私は随分変なクセを身につけていたのであろうが、田嶋先生はそんな私にも懇切丁寧に指導して下さった。 そして一年後の四回生の春には、田嶋先生は、ご自身が代表を務めておられた関西音楽集団へ研究生として入団することを勧めて下さった。 関西音楽集団は、そのころ学生の憧れであった「日本音楽集団」を目指す合奏団で、外部よりトレーナーをお招きし、三カ月毎にミニ・コンサートで合奏曲を仕上げ、また小編成の曲は、全員のオーディションによってふるいにかけて出演を決める、というハードな内容であった。

関西音楽集団はプロを目指す人たちが集まっていたので、実に多くのことを学ぶことができたし、また、このときに一緒にトレーニングを受けた先輩や仲間が現在の私の交友関係のベースになっていることを思うと、短い私の尺八人生の中でも、特に貴重なマイルストーンである。

関西音楽集団に同時に入団した友人に、現在も「風童」で一緒に活動している米村鈴笙くんがいる。彼は入団の時からプロ志望で、優秀な若手尺八奏者が集まっていた集団の中でも卓抜した演奏能力とセンスを備えていた。彼の演奏を聴くたびに、私は”プロというのはなんと遠い存在なんだろう”と思っていた。

そのとき四回生であった私は人並みに就職活動をし、卒業後は製薬会社に入社した。

サラリーマン生活を始めた私は、学生時代のように気軽に合奏する仲間や時間がもてなくなったことも手伝って、次第に独奏曲、なかでも古典本曲に傾倒していった。

いろいろな人の演奏を聴いていくうちに、横山勝也先生の本曲に強く惹かれるようになり、聴くほどにその音の生命力に圧倒されるようになった。

そして、どうしてもその音の秘密を知りたくなり、合宿の講習会へ参加させていただくようになった。そこで得たものは、”演奏の大きさは人間の大きさである”ことと、”音を磨くことは人間を磨くことに他ならない”ことである。

その後も横山勝也先生には実に多くのことをご教示いただいているが、古典本曲への目を開かせて下さった御恩は到底言葉では言い表せない。

人生の転機となった海外公演

こんな私に転機が訪れたのは、社会人生活も9年目を迎えた1992年であった。

いくつかの合奏団やグループに属し、尺八とサラリーマンの”二足のわらじ”を履いていた私は、田嶋先生より海外公演の話をいただいた。

訪れた国はスイス、オーストリア、ポーランド、ベルギーの四カ国で、同行メンバーは田嶋先生と私の他に、琵琶の半田淳子さん、三絃の藤井泰和さん、箏の木村玲子さんといった、東京で第一線で活躍されている方々であった。

スイスのオフの日に観光でフランスのモンブランへ登ることになり、私は初めて四千メートル級の山を体験した。そこで見た壮大な風景はまさに、息をのむという表現がピッタリの実に感動的なもので、忘れることができない。

そしてその次に眼下の山小屋や、さらにその下の民家にけし粒のような人の姿をみつけたとき、心の中が急に晴れ渡ったようになり、この壮大な自然の中で、たかだか七~八十年で一生を閉じる生命ならば、本当に好きなことをしてその生涯を全うすべきではないか、との思いが強くなった。

そして「これからは尺八のことだけを考えて生きてゆこう」と心に決めた。

それから程なくして私は、専門家として歩き始めた。

私が尺八を手にしてから十七年、専門家の道を歩みだしてから三年(1997年現在)が過ぎた。

私の旅は始まったばかりである。自分自身に期待し、叱咤激励しながら常に前向きに歩んで行きたい。

永遠の若手からの脱却を目指して

私は1961年生まれなので今年(1997年)36歳である。会社組織の中でいえば立派な中堅社員、肉体を扱うスポーツ界では、その多くの種目で引退を迎える年齢である。

それが尺八界では、バリバリとまではいかないまでもじゅうぶん若手の部類である。

尺八という楽器自体が修練に時間を要するものであることに異論を唱える人は少ないであろうが、今日の尺八界を築き上げてこられた横山勝也師、青木鈴慕師、山本邦山師、山口五郎師、宮田耕八朗師などの方々は、30歳そこそこですでに一流の域に達し、第一線で活躍されていたことも事実である。

前出の方々は”別格”の感も強いが、なぜ三十代も半ばを過ぎた私たちの世代がいつまでも若手といわれるのであろうか。

それは、下の世代がいないことに他ならない。もちろん全くいない訳ではなく、大阪の永廣孝山さんのように若いうちから光り輝いている人もいるにはいるが、全国的に見てもほんの数えるほどである。

私は、十代、二十代の若い人たちに尺八のすばらしさを知ってもらい、その中から尺八を手にする人を増やしていくことが、私達に課された大きな使命であると考える。

私は、コンサートやライブを企画するとき、普段尺八になじみがない人々に、いかに接点を持ってもらい、楽しんでもらうかをまず考えているが、これが本当に難しい。いろいろと趣向を凝らし、プログラムを工夫し、一般の方々にも聴いていただきやすい(と考える)コンサートやライブを企画しても、ふたを開けてみれば関係者がほとんど、ということが少なくない。

ここでいつも壁に当たるのが宣伝力の不足である。個人レベルでの宣伝力には限界がある。特別に変わったことを行う場合や、大家が一同に会するような場合以外の、いわゆるオーソドックスな内容のコンサートは、新聞や放送などではまず取り上げられず、一般の人々には情報すら届かない。

このような現状を踏まえ、尺八を広く一般の方、特に若い人にアピールし、愛好者を増やすために何をなすべきかを私なりに考えてみることにする。

まず第一には、やはりマスコミを通じてのアピールが重要であろう。

関西においては、前出の永廣孝山さんがしばしばTV・ラジオなどに出演して尺八をアピールしているが、”孤軍奮闘”といった感が強い。もっともっと多くの人がいろいろな形で出なければ、人々に尺八をイメージ付けることは出来ないと思う。

そのためには、尺八奏者及びそれを取り囲む人々がネットワークを作り、危機感と連帯感を持って共同作業で臨まなければならない。

以前、ジョン・レノンが尺八に大変興味を持ち、習いかけるところまでいったが、寸前でそれが叶わぬことになった、という話を聞いた。もし、ジョン・レノンが尺八を吹いていれば大変なアピールになり、多くの若者が尺八を手にしていたかもしれない。

また日本においては、俳優の田中健さんがケーナを本格的に演奏し始めてから、ケーナの認知度が飛躍的に上昇した、という話も聞いた。

知名度の高いタレントなどが尺八に興味を持って、実際にTVなどで紹介すると、一般の方々への強力なアピールになることは事実である。尺八に関係する人々のネットワークを生かして実現することは出来ないものだろうか。

また、十年以上も前の沢井忠夫先生の”違いのわかる男”のCMは、今も人々の記憶に残っている。TVのCMに尺八を登場させ、繰り返し流すことも、相当、効果が期待できるのではないだろうか。

そして二番目の方法として、女性の尺八奏者、愛好家を獲得・育成することに力を入れるべきではないか、と考える。

”女性には尺八は似合わないのでは”と考える人もいるかもしれない。しかし、以前より、大学の邦楽サークルにおいては女性の尺八奏者はさほど珍しくない。実際に私の生徒でも、豪快さでは男子に劣るものの、繊細さ、微妙な色合いを表現することにかけては男子以上の人が少なくない。

また、街の音楽教室における女性のフルート人口を考えてみても、女性の尺八奏者がもっと多くてもよいのではないか、と思う。

女性の愛好者を獲得するためには、やはりマスコミなどを使って、これまでの尺八が持っている、「古くさい」「難しい」「おじいちゃんの楽器」といったマイナスのイメージを変えていかなければならない。

若い女性が尺八を吹き始めると、それに伴って若い男性も関心を示すであろうし、逆もまたしかり、であろう。

その来るべき日のために準備しておかなければならないことが、ソフトの充実である。教則本をはじめ、初心者がとっつきやすく、かつ魅力のあるソフトを数多く備えておく必要がある。これは彼らとの感覚が比較的近い我々が中心となって推進していかなければならない。

以上、尺八愛好者を増やすための私なりの考え方を大まかに書いたが、いずれにせよ、一個人、社中のレベルでは、この閉塞的状態は到底打開できない。

様々なネットワークを利用し、総力を結集してこの状況に立ち向かっていくべきである。

その中にあって私達の世代は先頭に立ち、身をもって熱く尺八をアピールしていかなければならない。永遠の若手から脱却するために。

私の稽古方法

私は基本的に”楽器の生命は音にあり”と考えているので、稽古時間のほとんどを”音”を鍛えることに充てている。(この場合の”音”とは、その場面における最適の音程、間合いであることを広義に意味する。)

特に個性的な練習方法があるわけではなく、素吹きの時間を可能な限り多くして、自分のイメージする音に少しでも近づくよう努力している。そして、破格のffから永遠に続くかのようなppまで、一吹きするだけでその場の空気が変わってしまうような存在感のある音を出したいと願っている。

最近は、そのために最も必要なものは”気”のエネルギーだと考えるようになった。呼吸を変え、身体を緩め、”気”を出すことによって無限のエネルギーが得られることを確信した。ポイントは、いかに身体を緩めるかにかかっている。

それ以外では、感動する心を持ち続けること、自分自身(の演奏)に決して妥協を許さない精神力を養うこと、である。

演奏会などの運営に関して


リサイタルやコンサートを企画する際に一番苦労するのは金銭的問題である。

確固たる宣伝ルートやスタッフを持たない私は、チケットは当然手売りとなり、自分の希望する、採算ベースに乗る枚数が売れることはまずない。

そこでしばしば国や自治体、企業などの助成金制度や協賛制度を利用させていただいている。ただ、これらの制度は申請システムが個人レベルでは不可能であったり、申請資格が限定されていたりするものも少なくない。

私はこれら助成制度に関して、次のに点における改正を熱望する。

一、多くの申請制度において、申請に必要な項目を簡素化して、個人でも申請可能にする。

二、民間企業の助成制度は洋楽に限定されたものが多いが、その限定を解除し、邦楽の人間でも申請できるようにする。

出資する側から見れば微々たる金額であったとしても、私達にとっては大変ありがたく、次のステップアップにつなぐことができるのである。関係者各位の英断を期待したい。

座右の銘

「謙虚に、素直に」

文:石川利光

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