随筆石と竹「オトダマ」
先ごろ度直木賞を受賞された作家、辻村深月さんの随想に心を動かされた(毎日新聞7月23日夕刊)。
2010年から2011年にかけて(もちろんまだ彼女が直木賞作家ではない頃)、毎日新聞社から彼女に“興味のある新しいカルチャーを取材に行き、それをルポエッセイとして纏めてほしい”という依頼が入った。二つ返事で引き受けた彼女は第一回目の訪問先として、大好きな漫画『ドラえもん』の作者、藤子・F・不二雄さんのプロダクションを選んだ。それを皮切りに彼女の興味の赴く人やものを訪ねていったそうであるが、彼女にとってその連載は、「新(ネオ)カルチャー」を紹介する記事であったと同時に、彼女自身が影響を受け、それを血肉に変え小説を生み出してきたものへの“お礼を言うための旅でもあった”とのことである。そのことについて彼女は
「尊敬している人たちと、時間を共有することができるかどうかは、個人の力ではどうにもならない運やタイミングを要する。束の間、その機会を得る奇跡が叶ったことは、信じられないほどの幸運だ」と記した。
この一文に私は共感した。私の場合は横山勝也先生との出会いがまさしくそれであった。最初は尺八を始めたクラブの部室にあったレコードやカセットテープでその名前を知った。その後、大阪の大きなホールで催された邦楽の大家が集まる演奏会や、学生が企画した邦楽コンサートにおける演奏でその生音を聴いた。その頃はまだ、レコードに録音されたり、大きな会に出演される“すごい先生”で、雲の上の存在でしかなかった。私が26歳の時、その雲の上の横山先生と直にお会いする機会が訪れた。そして、その音と人間の大きさに感銘を受けすぐに師事させていただいた。それからお別れするまでの23年という歳月は私にとって奇跡以外の何ものでもない。私が現在、尺八の音として、音楽として表しているものの大部分は横山勝也という存在無しにはありえない。横山先生との出会い、それはほんとうに信じられないほどの幸運であった。
さて、辻村さんのほうに話を戻すと、この随想をさらに感動的なものにしているエピソードが書かれている。直木賞受賞の発表の日、記者会見を終えたばかりの彼女のもとへお祝いの花が贈られた。それは当日の受け取りが叶わず花屋さんが一度持ち帰ったのであるが、発表当日に一つだけ、真っ先に届けられたその祝い花の贈り主が、なんと藤子・F・不二雄プロダクションであった。これまた奇跡である。花屋さんの留守電メッセージから依頼主の名を聞いて“息ができなくなった”彼女は、その名前を聞いた途端、受賞の喜びが何重にもなって胸に迫り、感謝の意と共に“少しだけ泣いた”。その記事を読んだ私も図らずも“少しだけ泣いた”。私はこれは決して偶然ではないと思う。こういう魂のつながりもあるのだと思う。
5月の終わりから6月にかけて京都で尺八キャンプと国際尺八フェスティバルが催されたことは前に少し記した。
その中で気づいたことがある。
世界中に存在する尺八愛好家にとって横山勝也は今なお不動の人気を誇っている。それは横山勝也という人物が実存するしないの問題ではない。先生が存命時から直に接する機会の叶わなかった多くの外国人達はCDの音源やビデオなどで横山勝也の尺八に魅了され、それに憧れたのである。ということはその人にとっては、横山勝也がこの世にいようがいまいが関係ない。生命力溢れる横山先生の尺八の音は、音のたましい~オトダマ~となってこの世に厳然として存在しているのである。
さすれば、我々に与えられた務めは生きて生きてその痕跡をどこかに遺す(残す)ことではないか。私の場合は私自身のオトダマ(音魂、音霊)を刻み、遺すことである。オトダマがあり続けさえすれば肉体は無くとも私は滅びないのだ。
私はこの気づきを得てから心が軽くなった。死を想うことが少しだけ怖くなくなった。
しかし、遺すからにはそこそこに恰好のついたオトダマでなくてはならない。横山先生の“すごい”尺八とまでいかなくとも、“これもなかなかいいやん”と思っていただける尺八はめざさねばならないのである。
おかげを持ち身体のほうは何とか良好である。生きて生きて、吹いて吹いて石川利光のオトダマを遺したい。やはり一管懸命、一生修行である。