随筆石と竹「安直短縮断固反対生活または活動」
キミらなぁ、何でもかんでも縮めたらアカンで、と河内出身のオッサンは憤っているのである。
世の中には短縮化、簡略化された言の葉で溢れかえっている。特にナントカ活動やナントカ生活を縮めた“○活”という短縮語は耳当たりがよいせいか、大はやりである。“就活”“婚活” のように一読で意味がおよそ推測出来るものはまだ許せるが、“恋活”“金活”“終活”“菌活”などなど、もう訳のわからないものまで出現してしまっている。
ある日、中学一年生の娘が学校から持ち帰ったプリントに大きく“野活”と書かれてあった。私は意味がわからず3秒くらい???となった。訝りながら、そのプリントを読み進めていくとそれは“野外活動”のことだった。「“野外活動”は“野外活動”じゃ、何勝手に縮めとんねん、ボ●!」と河内のオッサンである私は一人鼻息を荒くした。
そのプリントにはさらに“朝集”(“朝の集会”のことらしい)、“朝読”(“朝の読書”、もうこの辺で馴らされてしまっているのがクヤシイ!)とのふざけた短縮語も載っていた。生徒が勝手に短縮するならまだしも、教育者である学校の先生が妙な縮め方をして生徒に与えるとは何事だ。子供達が「あっ、先生が使っているならこんなんも有りなんや」と思ってしまうではないか。
ここまで腹を立てながら書いて、そういえば“婚活”や“終活”などはいわゆるセンセイが唱え出したことに気づいた。センセイが言い出した“○活”は“△△大学××センセイ提唱”などという箔のようなものがつくせいか、マスコミも喜んで取り上げてしまう。しっかし、世の中のセンセイ達がこぞって短縮語を生みだし、受け手である我々が単純にそれに馴らされてしまう、という構図は個人的には恥ずかしさを覚えるし、一抹の危うさをはらんでいるのではないかと感じてしまう。
“怒るで、しかし”と横山やっさん(故横山やすし師匠)となって今度は家の中に目をやると、勉強していた小学一年生の息子が「この問題ムズ~い」と口走った。「ウチの中の人間が誰も“ムズイ”などという言葉は使ってへんのにどこで覚えてきたんじゃ、ワ●!」と私は再び河内のオッサンとなってしまった。
まあ、言葉は世相を映す鏡でもあるから、数十年後の学校の授業で「今私達が使っている“ムズイ”は元々“難しい”といって平成30年頃までは使われていました。漢字も見るからにムズイですねえ。実際に使っていたか君達のおじいさんやおばあさんにたずねてみるのも良いでしょう」などということになっているやもしれない。
娘とそんな話をしていたら「何や中途半端な短縮形もあんねん」と教えてくれた。それは“イミフ”“かねも”などといったふざけた短縮だった。“イミフ”は“意味不明”、“かねも”は“金持ち”なんだと。それを聞いた私は、「なんでそのあとちょっとの“めい”や“ち”が言えんのじゃい、“イミフ”のほうがよっぽど“イミフ”じゃ!“かねも”やと、それをワシの門人の岩本女史がネットで使っとるHN“いわも”と繋ぐと“いわもはかねもだ(らしい)”となってしもうて、そのほうがよっぽど“イミフ”じゃ、ええかげんにせんかい、ドァ●!」とまたまた河内のオッサンと化してしまった。
念のために書いておくが、私は短縮化、省略化に頭から反対している訳ではない。その短縮化、省略化において正当性、合理性を持つものであればそれはそれで必要だと考える。ただ、思想や思慮の微塵も感じられない安直な短縮化、省略化は、言葉がますます中身もなく薄っぺらいものになってしまう、そのことを憂えるのである。私はこのような風潮には断固抵抗してゆきたい。不肖石川利光52歳は安直短縮断固反対生活者または活動人でありたい!
まあ、何とか今回も拙稿を書き終えたので、明日の“尺活”のためにこれより“酒活”を始めることにしよう。あっ、あのね僕の“酒活”はまず“ビー活”でそのあとに“酎活”をするのね〈バゴーン〉
・・・つまみは“ビー活”の時はミックスナッツで“酎活”の時には冷奴になるから“豆活”なのね〈バゴーンバゴーン〉
・・・・それから“麺活”してから“眠活”に入るの〈バゴーンバゴーンバゴーン・・・書いてることと言うてることがちゃうやんけ、ボ●!〉
相変わらず秀逸な文章ですね。(笑)
今年も生ビ大会(生ビール大会)を行う予定です。
予定決まりましたらお知らせいたします。
巴山君、いつもコメントありがとう。生ビ大会は都合が合えばよろこんで参加いたします。お手数をお掛けしますがよろしくお願いいたします。石川