随筆石と竹「“聴く”は“効く”」
恩師、故横山勝也先生は「その曲を吹こうと思ったら聴いて聴いて、こう吹きたいというまで聴いて、それから吹きなさい。聴くことが大事なんです」と教えてくださった。
とは言われても、尺八を手にしたらすぐに吹きたくなるのが若輩者の人情で、ろくに聴かぬまま吹いて“なんで思うように吹けんのやろ”と悩むのが常であった。吹かずにまず聴く、ということは辛抱を要することで存外難しいことである。
まだ教えることもせず、一人で吹いて楽しんでいる時分はその繰り返しだったように思う。それが変わり始めた、というか気づき始めたのは、人に尺八を教えだしてからである。何人もの人を教えだすと、人それぞれに教わる際の傾向やクセといったものがあることがわかってきた。その当時は、教え方を人によって変えることはしていなかった(現在は自分の中でその人に最善と思われる教え方を選択している)。それでも半年、一年と経つと、人によって上達の度合いに結構差がついてしまう。これは稽古以外の個人練習の時間の多寡の違いだけではない。この“差がついてしまう理由”をずっと考えていたが、ある時、横山先生のお言葉にもインスパイアされ腑に落ちた。なかなか上達しない人は、“聴くことが上手くない”のである。
最も上達の早い人は“人の話・演奏も、自分の音・演奏も聴くことが出来る”人。その次は“人の話・演奏を聴くことが出来るが、自分の音・演奏はあまり聴けない”人。なかなか上達しない、または何年経っても印象が変わらない人は“人の話・演奏も、自分の音・演奏も聴こえない(聴いていない)”人、である。
これは良い悪いはさておき、その人の性質と大きく関係していると私は考える。
まがりなりにも、その習いに来られる人より私のほうが尺八のキャリアにおいて、またはその曲に関わっている時間は長い。故に、私がその人のために良かれと考えてアドヴァイスしていることを聞くこと、私が見本としてお聴かせする演奏を聴き参考にしていただくこと、が向上への一つの道なのである。ところが、そのアドヴァイスをほとんど受け容れない、あるいはすぐに自分なりにアレンジしてしまう人がしばしばいらっしゃる。そのような方は結果的に上達に時間がかかってしまわれたり、ヘンな癖が染み付いてしまったりすることが少なくない。
私が25年ぐらい教授活動を続けてきた中で、上達が早い人は素直な性向の人が多いように思う。言い換えればまずは他者の声、音を聴くことが出来る人である。
横山先生はまた、常に「本曲のレッスンは暗譜です」とおっしゃられた。
暗譜で吹く、ということは、“その調べ(曲)を自分の歌として表現する”ということが第一義であるが、また同時に“自分の音をよく聴いて吹く”という行為に他ならない。
かく言う私も本曲を吹き始めた頃は譜面で曲を憶え、聴くということはほとんど出来ていなかった。それが変わり出したのは、人前での演奏の機会が増えてからである。人様の前で吹くからには恥かしい演奏、自分自身納得のいかない演奏はしたくない。それで、自ずと練習時の録音をたくさん聴き、チェックする習慣がついた。
現在は古典本曲を稽古する時は譜面を使わず、とにかくたくさん聴いて、それから吹く、ということをひたすら繰り返している。インプットの仕方が変わってくるとアウトプットの仕方も変わってくるから面白い。範とする横山先生の演奏も聴く回数を重ねるほど、聴こえてくるものや感じ方が違ってきて楽しいことこの上ない。
そして、横山先生が口癖のようにおっしゃられた「工夫と努力」を、先生ご自身がいかに忠実に、真摯に実践されておられたかがうかがわれ、頭が下るばかりである。
耳は鍛えるほどに良くなる。座右の銘とする“謙虚に、素直に”を忘れることなく、聴くことを大事にしてさらに成長して行きたい。
ふうっ、やっと今回も駄文を書き終えることが出来たので一人で祝杯を挙げることにする。
遠くから家人の声がきこえる。「酔っぱらってソファーで寝てないで、ちゃんとお布団で寝てくださいよ」・・・・ここは素直にきいておこう「はい、わかりまちた」zzzzz……
先生について習っているときには、暗譜の必要性なんてあるんやろか?
私らプロちゃうのにそんな難行苦行、艱難辛苦 したくない、って思ってましたが、
いざ、人に教えたり、また、コーラスサークルの代表をしたりしていると、
自然に、やっぱりこれ暗譜せなあかんわ、とか、覚えへんかったら、舞台で余裕のある歌歌えへんとか、
ああ、あのとき先生が言ってはったことが初めてわかった、って思いました。
自分のものにするには、暗譜、ほんまこれ、絶対ですね。
石川さんは、おうちでは、赤ちゃん返りされるんですね。
また、お弟子さん、一人なくしたかも・・・。(;_;)
里ちゃん、おおきに。門人は僕がこんなやつだと皆知っているので大丈夫だぴょん。