随筆石と竹「恩送り」
今年の終戦の日は広島で迎えた。
毎夏、普段家族の相手をしてやれないせめてもの罪滅ぼしにと、レジャー中心の小旅行を持つのであるが、今年は私と家族の日程の合う日が8月15日をはさんだ3日間であったため、戦争のことを考えるよい機会であると広島を訪れることにした。
私は公演などで、かれこれ少なくとも5~6回は広島を訪ねているが、毎回とんぼ返りで観光というものをした記憶がない。観光名所となっているところもほとんどが素通りであった。そういう訳でその小旅行の日が近づくにつれ、修学旅行で初めて彼の地に足を踏み入れる中学生よろしく、私は軽い緊張と期待に胸をふくらませていた。
14日朝に自宅のある神戸を出て新幹線で広島へ向かった。新幹線に乗っている時間は1時間と少し。近いものである。まず宿にチェックインし、最初の目的地である原爆資料館を訪れた。
館内へ入るとそこは人であふれかえっていた。少なからず意外であったが、多くの人々が戦争と平和について強い関心を持っているのだと思うと心強く感じた。館内の展示資料はそのどれもが戦争の残酷さ、悲惨さ、むごさ、無慈悲さを訴えていた。また、人間が作った愚かな兵器、原爆の恐ろしさも無言で伝えていた。心ならずも命を奪われてしまった人々の声なき声が聞こえてくるようであった。
資料館を出て原爆ドームを拝観した。一目見て何とモダンで洒落た建物だろうと感じた。それと共に、爆心地とは目と鼻の先であるこの場所のこの建物が、これだけ見事に残されたということにはやはり深い意味があるのだと疑わずにはおれなかった。
翌日終戦(敗戦)の日は資料館に隣接している国立広島原爆死没者追悼平和祈念館を訪れた。ちょうどこの期間、原爆被災者の生の声を聴く催しが行われており、そこに出席させていただいた。話されたのは当時小学生でいらした女性であった。その女性は静かにではあるが、きっぱりとした強さを持って、このような悲劇は二度と繰り返してはならないと訴えておられた。よいタイミングで心すべきお話を聞かせていただいたことをありがたく思った。
そこを出て次に呉へ向かった。軍港として栄えた呉にはその歴史を記す「大和ミュージアム」や「てつのくじら館」「旧海軍兵学校」などの施設があり、今回は時間の都合で「大和ミュージアム」のみを見学したが、こちらも多くの来場者で驚いた。軍艦を作ることの是非は別として、これだけの建造物を作り上げる日本の科学技術は驚嘆に値する。史跡などの観光名所にも恵まれた呉は、また時間をかけて訪れたい町である。
その後はフェリーを二度乗り継いで、今回のもう一つの目的地、厳島神社へ向かった。6月に演奏で訪れたことは前号で記したが、その時に、ぜひ家族にも見せたいと思ったことが今回の広島行の理由の一つであった。その日はフェリーの到着が夕方になったので神社へは参らず、さらにそこからフェリーに乗り宮島口の宿へ向かった。
翌日の小旅行最終日は時間をかけてゆっくり厳島を観光した。6月の奉納で訪れた際には神社の入り口から演奏場の能舞台を移動しただけで終わってしまったが、今回は宝物館も含めじっくりと参拝することが出来た。こちらでも日本人の建築技術の高さや、美術工芸品の見事さに感嘆の念をおぼえた。
宮島からはまたフェリーで広島港へ行き、路面電車で広島駅へ向かった。がんばればもう1、2箇所は訪れることが出来たが、ゆったりとした道行きはそれはそれで楽しかった。
ちょっと疲れたけど面白かったね、また来たいね、などと帰路の路面電車で感想を述べながら新幹線へ乗り換え、また1時間と少しで神戸へ戻り、今年の夏の小旅行は終わった。
それから4日後、我が耳と目を疑う報道が飛び込んできた。8月20日未明に降った集中豪雨が広島市北部に大きな被害をもたらした。その被害は刻一刻と大きくなり、これを書いている9月初旬には大災害となってしまっている。あの美しくのどかだった広島の一部が壊れてしまったことに言葉が出ない。亡くなられた多くの方には心よりご冥福をお祈りし、また被害に遭われた方には一日も早い復旧を願うばかりである。
閑話休題、その8月20日は久しぶりにNHK-FM「邦楽のひととき」で私の演奏が放送される予定の日であった。放送開始時刻の午前11時20分にラジオをつけるとなぜか高校野球の実況中継が流れてきた。「おっかしいなあ、こんな録音をした記憶はないけどなあ」と訝りながらそれでも聴きつづけていると、終了時刻の50分までずっとそのままだった。私の住んでいる地域だけこうなっているのかと思い、他の曲で出演した人に訊いても同様に高校野球が流れてきた、ということだった。夕方になってNHKの人から電話があり、広島の災害で特別報道が入り、その影響で高校野球をFMで流すことになった、とのことであった。
その報告の電話を聞き、すべてのことがらはどこかで繋がっているんだと私は思った。かねがねそう感じていたが、今回の自分の一件でよりその思いを確信した。
広島ではたくさんの人にお世話になった。そのご恩は直接返すことは出来ないが、私が関わる身近な人にその恩を送ることで恩返しとしたい。
やはり、すべてのことがらはどこかで繋がっているのである。
懐かしく拝見いたしました。会社時代に原水協で広島に、両親が西条にいた。妹は今でも宇品に住んでいます。土砂崩れも他人ご