随筆石と竹「神のごほうび」

「神のごほうび」

2013-2-27

 

尺八という楽器はとてーもしんどい楽器である。

 

音を出す練習、曲を吹く練習、その大部分9割くらいはままならず、しんどいことこの上ない。また、上達するには途方もない時間と工夫と努力を必要とするが、下手になるのは簡単至極である。三日ほど吹くのをやめればこれまで積み重ねてきたことが全く出来なくなっていたりする。この苦と労はなはだ多く、楽少ない難物をなぜ続けられているかというと、ふとした瞬間に尺八の神さんがごほうびをくださるからである。

 

今年に入ってあまり間を置くことなく、尺八の神さんから“なかなかようがんばってますなあ、たまにはごほうびでもあげまひょ(尺八の神さんは関西弁!?)”と立て続けにほうびを頂戴した。

一つ目は私の今年の初舞台となった1月26日の「三ツ星会」。三絃・箏の竹山順子さん、細見由枝さんとは4回目の演奏会となり、回を重ねるほどにそれぞれの唄や楽器の音を聴くことが出来るようになってきた。終曲の『四季の眺め』は難しいながらも楽しい曲で、ちょっとひねくれた(いや、凝った)ところが昔から好きな曲である。15分ほどの曲は途中に山あり谷ありで、下合わせでは少々合い難い箇所もあったのであるが、緊張の中で迎えた本番は水の流れるが如く、それぞれの音が溶け合う感覚を得ることが出来た。吹きながら「あぁ、この瞬間が終わって欲しくない」という喜びに浸った。地歌の三曲合奏というのはなかなかに不思議な合奏形態であるが、これらの曲や形態が廃れない理由と面白さが確認出来た気がした。

二つ目は盟友岡田道明君の「第11回リサイタル(2月15日)」での『海渡津鱗宮(わだつみのいろこのみや・福田蘭童作曲)』。去年の国際尺八フェスティバルに続き二年連続で同じホールで吹く機会をいただいた。こちらも私にとっては心地よいことこの上ない舞台になり、「また尺八の神さんが現れてくれはった」と心の中で手を合わせた。

どちらも演奏家冥利に尽きる瞬間であった。感謝の中に、次の「石と竹」はこれをネタに書こうと思っていたら、今度は尺八教師冥利に尽きる日までやってきた。

2月24日、門人達の冬の甲子園「第10回石の会 独奏会」がそれである。

手前味噌の内輪ぼめを省みずに書いてしまうと、この会ほど“熱くて充実した”生徒の発表会はそうそう無いのではないかと思っている。今回は26名の門人と私の計27名の出演。福田蘭童曲が2曲で、その他はすべて古典本曲、琴古流本曲というハードでマニアックな演奏会であった。昨年のこの会のご報告で「一つの高みに達した感がある」と記したが、前回を上回る演奏を聴かせてくれた人がたくさん現れた。私は舞台横でプログラムに講評を書きながら聴いているため、どちらかといえば意地悪な聴き方になってしまい、あまり感動することはない。しかし今回は、安田君の『息観』、大萩君の『山越』、吉良君の『打波』、井関さんの『手向』他(すみませんが書ききれません)、感動を覚える演奏が数多く披露された。会場近くの大阪天満宮のご利益もあったろうか、またまた尺八の神さんが現れてごほうびをくれはったことに心から感謝したい。(もちろん皆のがんばり、精進が感動の源であることは言を俟たない)。

 

こういう嬉しいことがあるからこそ、しんどい尺八も続けて行けるのである。

今年の残りあと10ヶ月、艱難辛苦が待ち受けていても何とか乗り切っていけるような気がする。それくらい嬉しくありがたい三つのごほうびであった。えがった、えがった!(あれっ、どこの人!)

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